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〇 2021年、明けましたが・・・(1月12日記) 
新年はもうお正月も過ぎ去り、坦々と冬の日々が通り過ぎていっております。いつもと同じようでいて違うのは、依然と
して私たちが等しくコロナ渦という得体のしれない呪縛に取り憑かれたままという事実です。それどころか、その底がな
かなか見えない苛立ちと不安。もう1年近くになるでしょうか、私たちは皆、ありふれた日常が如何に大事なものだった
か、今は忌み嫌われている三密が、如何に温もりと暖かな生活の潤滑油であったことか・・・この二つのことを、ど噛み
締めてきたと言えるでしょう。私のように八ヶ岳南麓という平和で過疎な場所に住む者にとっても、同じような感覚を覚え
つつ日々を過ごしていることころです。
・ 海の向こうの異常事態
そんな新年の初めに、耳を疑うようなニュースが海の向こうから入ってきました。アメリカのトランプ支持者による国会
議事堂乱入という事態です。アメリカの分断はここまで来たのかという想いとともに、あのアメリカのリーダーの狂乱振り
が、我々の想像を超えてなお測りがたいものであったかと、呆れて言葉もないほどでした。同時に、この言葉による扇動
とは、ヒトラーのそれと重なって、どこか嘘寒い想いを禁じ得ないところもありました。特に私は、このFノートでアメリカの
国歌について書いたばかりだったので、この一事は余計印象深かったのかも知れません。
・ 二つの側面
こうした事態の中で、私は理念を欠いた政治と言葉という二つの側面を想起しました。
この前代未聞の事態が起こった同じ日だったか(その翌日のことだったか)、全米でのコロナ感染による死者数が、一
日で3998人に及んだとの報道がありました。この数字、日本のコロナによる累計犠牲者数である3930人(9日現在)
とほぼ同じなのです! これ自体、異常な事態です。アメリカのコロナ対応の間違いは、そもそもこの大統領のいわれの
ない無神経さに始まっていると言われています。改めてこんな大統領を選んだアメリカという国を考えざるを得ませんで
した。アメリカは広い国です。面積が日本の26倍、人口は2.6倍、人種も宗教も多様、内陸と沿海部では風土のみならず
住む人の気質の面でも大きな違いがあります。人種差別や銃規制問題などの病根も同居しているこのアメリカ合衆国
で、”アメリカを再び偉大な国に”を謳い文句にするトランプ支持者が多数いることは肯けます。しかし、問題なのは、そ
のかけ声から繰り出されてきた政策は、悉くビジネス的損得勘定と、周囲を顧みない独善と保身から来ているもので、そ
の根底に政治理念、ひいては民主主義の理念の欠片もなかったことが、何より問題だったのです。それがアメリカの分
断を深め、今回の事態を誘発した根源であったと言えるでしょう。
こうした中で、アメリカ国内ではいよいよ自浄作用が働き出したようですが 私が印象深く思ったのは、今回の民主主
義を冒涜するような事態にいち早く非難の声を上げたのが、イギリスでありフランス、ドイツという欧州各国であったこと
です。これは内政干渉といったレベルの話を越え、民主主義という彼らに共通する理念と価値観に対する危機意識を反
映するものでした。しかも、そうした声を上げた国々は、現在コロナ下で我が国以上に非常事態下にある国々です、この
緊急事態下にあってもなお、民主主義への尊厳はいささかも傷つけれられるものではなかったという証明を見せられた
と言い換えても良く、そこに私は、何か救われる想いを感じたのでした。その点、日本政府は何か声を発したのでしょう
か? 何かを憚って無言を通したか、或は欧州諸国が持つ価値観まではわが国が共有していなかったのか、少なくとも
そのどちらか、或はおそらくその両方があって、実質的には無言で通したのではないかと、思わざるを得ません。
・ 政治と言葉
政治家の言葉という点では、昨今日本の政治を見ていて、その貧困さを情けなく思うのは私だけではないでしょう。ドイ
ツのメルケル首相のような、イギリスのジョンソン首相のような、言葉の裏側にある理念とか良心という個人の資質が、
日本の政治家からは感じられないのです。声明文も答弁も、官僚が用意した原稿をなぞるだけでは、言葉は届きませ
ん。言葉に重みがない、切迫感が伝わってこない・・・こういうもどかしさは、このコロナ禍の一年で、なおさら強く感じ続
けてきたことでした。例えばニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相のような民衆との距離感を感じさせない言
葉、メルケル首相のような心底から発する嘘偽りのない言葉には説得力があります。そういう言葉が我が国の政治家た
ちから聞こえてこないのは、何故なのでしょうか。政治と言葉、ひいては政治と人間性という相関関係の中に横たわる溝
というか無味乾燥の距離感、これは一体いつになったら縮まっていくのでしょうか。
このFノートでは、本来政治向きのことは極力避けているのですが、今回はその趣旨を違えて書いてしまいました。私
にとって、アメリカはかつて仕事上の相手国であり、私自身がそこに半年暮らした経験もあることから、この国への親近
感は人並み以上のものがあるのです。特に、多民族国家ならではの大事にしていたフェアネスという概念は、私がこの
国を評価する一つの要素でもありました。フェアではない・・という責めを恥じるのは、アメリカ人の美質であったかと思う
のです。しかしこれも、いつの間にかトランプ支持者達に代表される、独善主義の台頭によって、消えかかっているかに
見えるのも気になっています。
再び日本の政治シーンに戻って、これもコロナ渦という異常事態の下にあって、せめてもそのリーダーシップをとるべ
き政治家の言葉が、我々の得心のゆくものであって欲しい・・・そんな願いは尽きないものがあります。ご一読多謝です。
〇 音楽の話(12月16日記) 
師走も半ば、今年を振り返る頃合いですが、あれをやった、これをやったという前に、誰もがコロナ禍の重いヴェール
を拭い去ることのできない年であったことは間違いありません。八ケ岳山麓という過疎の高原に住む身にして然り。都会
で暮らす人たちにとっては、いかほどこのヴェールの厚さを感じていたことでしょう。そんな中で、自然発生的に昔の仲間
とのメール交換が盛んになり、会話の中で私にとって嬉しかったのは、音楽談義に花が咲いたことでした。それも、普段
当地の交遊仲間の中では触れる機会が殆どないクラシック音楽の話で、これは今でいうハッシュタグ付きの想い出とな
るものでした(このコトバ、実はごく最近までちゃんと理解していなかったのですが・・)。
★ メールでの音楽談義
さて、かつての仲間とは会社時代の同好の士で、現在は後期高齢者とその前くらいになった男性3人と、約ひと回り以
上若い年齢の女性2人です。現役時代に一緒に山に行ったりしていました。このうち音楽的なバックグランドを持ってい
るのは先輩格の男性一人、他に私は単に趣味として、女性二人はほどほどの親密感を、男性一人はこれまで門外漢で
あった・・といったほどの面々です。それが30ウン年前のある光景の中で流れていた曲が、あの「ゴルドベルグ変奏曲」
の一節だったというところに端を発し、話が展開していったのです。因みにグレン・グールドとこの「ゴルドベルグ」は、私
が想像していた以上にポピュラーであったらしく、先の女性陣二人ともこのCDを親しく聴いていたことが判明したことも、
談義となる一つのモチベーションとなったと言えるでしょう。門外漢だった男性も、これを機にクラシック音楽という彼にと
っては未知の領域に踏み入らんと、たまたまピアノをたしなんでいる息子さんのアドバイスを得て、「至高の音楽」という
百田尚樹の本を紐どいたりもしたのでした。そして何よりも、残る私を含む二人が、バッハは神様、グールドは麻薬・・と
いって憚らない二人であったことが、この談義の推進役となったのは当然の成り行きでありました。と言うよりも、したり
顔で蘊蓄を傾けられる機会を楽しんだ、と言うべきでしょうか。他の3人はどうだったのか、そこはいまひとつ確信は持て
ません。大体他人の蘊蓄なるものは、聞く側はどこかでリミッターを働かせるのが常なのですから。話題の断片を拾って
みると・・・グールドの「ゴルドベルグ」にはセンセーショナルなデビュー版となった1955年の録音がまたいい。この歳で
聴くと今さらながら、こちらの演奏の歯切れの良さや弾力性が胸を打つ・・・他にも魅力的な演奏が目白押し・・・NHK日
曜夜のクラシック音楽館でこんな演奏に接した・・・これからどんなCDを聴くといいか(これは3人目の初心者男性からの
質問)などなど。特に最後の話題では、自分ならどんな曲を推薦するか?そこに想いを巡らせる時間を持てたのでした。
★ 音楽体験と言えるほどのものはなく・・・
私は絵を描きますが、一般的に美術への関心が深いかというと、関心はむしろ音楽の方が深いという処があります。こ
こで書き出すほどの音楽体験はないに等しいのですが、少年の頃から音大に行っていた姉のピアノを耳にしていたこと
や、自らはちょっとバイエルとかじったことくらいでしょうか(因みに、ピアノへの関心は、高校に入ると他のことに向いてし
まいました)。昔からクラシックに限らずいい音楽はいい・・ という主義で、クラシックの地位を貶めたようなクラシック至上
主義にはむしろ反感を持っていたくらいです。ジャズやポピュラーも割合身近にしていたのですが、ジャズに芽生えたの
はここ20年来のこと。それから、いっときオーディオに凝っていた時期もありました。こちらはしかし、LP全盛の時代にあ
る御仁から、結局録音していないレコードの溝に針を落として音が出ないほどいい装置ではないか、と言われていたく納
得し、次第にオーディオから音楽への復帰へと道を辿った経緯もあります。最近は専らカーオーディオで流れてくる音楽
を楽しむ時間が多くなっています。何せクルマ社会、ちょっと買い物とか病院へという際は、往復60キロとか70キロのドラ
イブはざらなのですから。なので、私のSDチップにはCD70枚分くらいの曲が入っていて、そこから好きなものを選択す
るとか、元々気に入っている曲ばかりなので流れ出るに任せて聴くというのが現行の主たるスタイルです。このSDチップ
には、大まかに言ってクラシックとジャズがほぼ同じ枚数で全体の8〜9割、残る1〜2割がポップスとかサンバとか日本
の歌謡などです。聴く時間が長くなるのは、やはりバッハのピアノ演奏が一番、他にはモーツアルトのコンチェルトやロマ
ン派以降のピアノ小品集、ジャズではピアノ中心のモダンジャズが大半で、ビル・エヴァンスやジョン・ルイスが大のお好
みです。
★ 推薦したいCDは?・・・
先に入門者の立場から、どんなCDを推薦するかと尋ねられたと書きましたが、このついでに私の答えの中身をちょっと
だけ披露させてください。星の数ほどある推薦版を絞るのに苦労したのですが、これまた幸せなひとときでした。余計な
お世話などと言わずに我慢してお読みくだされまし。
・・・まず自然の光景が思い浮かぶ曲として、グリーグの管弦楽小品集、スイトナーとシュターツカペレ・ベルリンが絶品。
・・・美しい曲想で初心者にも聴きやすい曲として、ドヴォハチことドヴォルザークの交響曲第8番(いろんな指揮とオケの
録音あり)
・・・モーツアルトのピアノ協奏曲は数多くの録音があるが、私の推薦は第20番・21番のカップリングで、名盤として定評
あるグルダ(p)・アバド指揮・ウイーンフィル。
そして第23番と19番のカップリングで、ポリーニ(p)・ベーム指揮・ウイーンフィル。何と言っても名手ポリーニがベーム
おじさんの懐でゆったり目のテンポで演奏している23番がチャーミング。
・・・グールド/バッハでは、ゴルドベルグ以外にも推薦版が目白押し! 私が好きなのは「インベンションとシンフォニ
ア」、シンプルな楽曲で構成される元々は練習曲集をグールドが結構歌っているところがいい。
・・・長い目で見ると、やはり1枚手元に置いておきたいのが、「平均律クラヴィア曲集」(第一巻の方だけでも)、こちらは
選択あまただが、グルダ、グールド、ロマンティックな演奏のリヒテルなどがいいかも・・。
・・・といったところでした。読んでいただいて多謝です。そしてやっぱり、と言うべきか、このアドバイスがどれほど聞き
入れられたかは別として、一番楽しんだのは書いた本人であったのは言うまでもありません。
来年こそポストコロナの日常復活を、皆様とともに祈りたい年の瀬です。
どうかよいお年を迎えられますように。
〇アメリカ国歌のこと(12月7日記)
どういう風の吹き回しだったか、アメリカの国歌の歌詞を調べてみようという気になりました。国際競技や他のセレモニ
ーなどの場でよく流れている曲、そしておそらくは他のどの国の国歌よりも耳に馴染んでいるこの曲は何を歌っていのだ
ろうかと日頃気にはなっていたのです。いくつかのエピソードもありました。
ひとつはずっと時代を遡って1964年の東京オリンピックでのこと。当時大学4年生だった私は、親が手に入れてくれた
チケットで国立競技場の席からトラックを見下ろしていました。アメリカ選手の金メダルを称えた表彰式では、吹奏楽によ
る国歌が流れるのですが、それは曲の前半部分で打ち切りとなり、後半の曲想が変わって盛り上がる部分が常に割愛
されていたのです。この日もそうでした。それで、私から10メートルといない場所にいたアメリカ人(とおぼしき)が、国歌
演奏が打ち切られるたびに、やおら立ち上がっては手にしたトランペットで続きを高らかに吹き鳴らすのでした。周りの
観衆もおそらく同じ気持ちだったと思いますが、私も国家のいいところが割愛されることに同情を禁じ得ず、このアメリカ
人に拍手を送っていたものでした。
もうひとつは、私の教室の生徒さんにアメリカ人の夫に先立たれた方がいて、ある時この方にアメリカ国歌を歌える
か?(歌詞を歌えるか?・・の意味) と訊いたことがありました。答えは "歌えない"、その理由は、"私は星条旗に誓い
を立てたわけではないから" というものでした。なるほど、アメリカ国歌は星条旗に誓いを立てた国民が歌う歌であった
かと、改めて国家の意味を思い知ったのですが、国家への誓いなどという概念、日本では考えてもみなかったことでこと
でした。そして同時に、アメリカの大統領選をめぐっての事情や、国民の分断といった昨今の社会問題が、ダブって頭を
過りました。
そんなことも重なって、元々何を歌っているのか、皆目分からないままであったこともあり、せめて調べてみようという
気になったわけであります。正式には「星条旗」で、"The Star-Spangled Banner"が歌の題であることが分かりました。
一口で言うと、星条旗を讃える歌で、つまりは国旗と国歌は一体となってアメリカという国を象徴しているのです。それで
歌詞をなぞって歌ってみると、音節と言葉がよく合わす、これがなかなか難しいいのです。何度かYou Tube で聴いて歌
えるようになってから、今度は歌詞の中身そのもの辿っていって見ました。かいつまんで言うと、闘いの中でもどんな荒
天の中でも、自由と勇者のこの地に翻る星条旗を讃えん・・といった星条旗を讃える情景描写ばかりが沢山盛り込まれ
ていて、特に起承転結のある内容ではないのですが、これが実に4番まであるのです。これを全部そらんじて歌える国
民はいるのだろうか? とさえ勘ぐってしまいます。乱暴な言い方ですが、我が国の大学校歌に例えると、雄々しくこの
旗をたてんと情況描写を歌い上げる慶応校歌的で、都の西北から心意気までに触れる起承転結を伴った早稲田の校
歌的ではない、といったところでしょうか。それはいいとして、本来アメリカという多民族国家は、それほどに求心力と愛
国心の共有を必要としなければならない国であっかと、改めて思い知らされるのでした。
翻って再び日本の国歌のことです。「君が代」はなんとも対照的でシンプル、中身も単純明快というか、殆どメッセージ
性のないものであることでしょうか。日本の置かれている島国で単一民族という状況からすれば、特に国歌を以て求心
力を高めるといったニーズは本来あまりないことでしょうし、これが過剰となって陥った苦い過去がトラウマとなっている
国でもあります。ならばこれでいい、とも言えそうですが、私はかねてより「君が代」の物足りなさとか、盛り上がりを欠い
て、これを高らかに歌い上がる場にはなんとも相応しくないと、常々思い続けている一人です。大体君の代ではなくて、
私の代、私たちの代"を歌うべきです。国歌「君が代」はそのままにしておいて、別にニッポン応援歌のような歌があって
いいのではないか。そんなことまでも考えさせたアメリカ国歌でした。
○ 田舎暮らし〜改めて田舎とは(10月7日記)
* クマが出ました!
9月下旬のある夕刻、防災北杜の有線放送(電柱の上に設置されたスピーカ
ーからの声)でこんなアナウンスがありました。
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身近にあるクリの実
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ピンポンパーン・・"小淵沢支所地域振興課からのお知らせです。今日、宮久保付近でツキノワグマの目撃情報があ
りました。クマは早朝と夕刻に活動が活発になるので、遭遇にはくれぐれもご用心ください"
害虫駆除の情報とか、罠(シカなどの頭数制限で)を仕掛けたのでご用心とか、そういったアナウンスはよくあるのです
が、クマの出没情報は珍しいことです。元々八ヶ岳の山腹には、クマの餌となるドングリの実のなる木は少ないので、八
ヶ岳にはクマは生息していないとされてはいたのです。しかし、中腹辺りでの目撃情報もかつてあったりで、クマはいな
いとは断言できない・・・という認識に変わったようには思われます。しかし、クマが里に出没するという事態は、八ヶ岳か
らではなく、南に対峙する南アルプスの裾野から釜無川を渡り、川沿いの七里岩の森にしばし忍んでから、八ケ岳山麓
を上がってきたのではないかと推測されます。いずれにしても、クマが出たとなると穏やかではありません。その場所は
我が家からはざっと5,6`下った田園地帯です。途中には中央本線の線路があり、中央高速も走っているので、そう簡
単にはこれらを横切って上の方に移動するとは考えられないのですが、それでも夕刻の外出はちょっと躊躇されます。
さて、こんなことを書く気になったのは、都会の仲間とのメール交信中に、私のいる地区での行事のことを書いたら、
結構興味を持たれたのがきっかけです。このFノートの読者諸氏の中にも、改めて当地の生活環境については、それな
りに関心をひくのかもしれないと、このとき思ったのでした。特に昨今はコロナ禍における田舎でのリモートワークが現実
味を増してきいますし、不動産物件の引き合いもかなり増えているという状況です。改めて田舎論について書くのも一興
かと・・・。
撮影中にキツネが!・・・ 我が家もロングショットだとこんなに自然の中
* 獣の出没と田舎度のモノサシ
思い返せば、私らが当地に暮らし始めて驚いたことの中に、獣の存在を身近にしたことがありました。うちの庭をキジ
の親子が歩いている! 直ぐそばの牧草地にシカの群れがいる! そしてあるときは、踏切を渡ると線路上をキツネの
歩き去る姿が! こういう体験は少なからず驚きとともに、自然の近さを思い知るもので、ここは山の中なのだ、という実
感を強くした一幕でした。いまはそうした光景には慣れっこなっていて、取り立てて話すことでもないのですが、都会から
来た人達が示す驚きに接すると、私らの暮らす田舎の現在地を改めて知らされるものです。例えば訪れていた姉を乗せ
て、夜に家のすぐ下の道路を通ると、目の前を立派な雄ジカが横切ったことがありました。助手席にいた姉が "何々あ
れは"、と尋常ならぬ驚きの声を発したことがありました。そしてやはり訪問客を夜駅まで送って行ったとき、直ぐ道路脇
にあった白い馬の姿にのけぞって驚いたことがありました。こちらは、乗馬クラブの入り口にあった馬の木像で、これに
は大笑い。しかしそれが生きた馬に見える夜の暗さ、というところが田舎度を表わすモノサシだったと言えるでしょうか。
近所で飼っているニワトリがハクビシンに殺られたこともありました。少し下った田園や畑の広がる地帯では、サルが野
菜畑を荒らす常習犯です。こうした獣類の出現は、この辺りがかつては山であり、森や草原があり、彼らの棲み処であっ
たわけですから、彼らを一方的に怨むのも筋違いではあるのですが、それにしても・・・です。気候変動が山や森の生態
系に影響を及ぼし、こうした動物にとっては我々の想像以上に死活問題となっているのでしょう。それが我々人間村に巡
り巡って影響をもたらすという因果応報の世界が、いま改めて目の前に展開されているという次第です。
こうした攻めぎ合いの形跡があちこちに見られます。私どもが移住して15年間で目につく変わった光景に、張り巡らさ
れた電柵の長さというのがあります。現在、畑の多くはこの電柵に囲まれています。かつては気軽に足を踏み入れるこ
とができた森や林の多くも、いまは電柵のために我々人間も侵入が出来ません。以前書いたことがありますが、釜無川
の川辺に行こうとすると、いくら川沿いを走っても、電柵の途切れるところが見つかりません。これは些末なことながら、
私らが絵を描いたり写真を撮る活動領域はかなり限定されてきたことも否めません。釣り人や山菜とかキノコ採り然り
で、残念ですが、"仕方ない"、と受け止めているのが現状でしょうか。
1月のどんど焼きは地方ならではの行事 長坂ICを下りると”一流の田舎町”の文字が!?
*"一流の田舎町"(?)
これは笑い話ではなく、現実にこういう書き物が堂々と存在しているのです。それは、中央道長坂ICの料金所を出て直
ぐの左手、道路柵を白抜きして大きくこのように書かれているのです。これを目にして恥ずかしい気持ちになったのは私
だけではないでしょう。しかしこのように公共の場所でのことですから、誰かが勝手に書いたわけではなく、市のしかるべ
き部署が、宣伝文句として表したものです(恥ずべきことながら、証拠写真を掲載します)。確かに、前市長時代だった
か、北杜市を以て一流の田舎町にする(或は、である)という謳い文句があったかに記憶しています。そもそも、"一流の
田舎町"とは何なのでしょう。田舎度が並外れて一流ということ? 或は、田舎なのに一流の都会的環境を有していると
いうこと? この場合の一流とは何なのか、はっきりはしません。仮に一流として威張れるところがあったとして、一流の
人が自らを一流と称することは先ずないでしょう。そのように自称する人に限って、二流三流と目されても仕方ないと言
えます。であるので、この浮き文字は恥ずかしい限り、即刻消し去るべきです。消し去るとは、看板文字だけでく、行政の
姿勢の中からも消し去るという意味でもあります。
野辺山に行くとこんなに広い空間の中! 人家と木々と畑が隣り合わせに。
* 価値観の相違ということ
さて、この問題は別として、田舎という言葉のイメージさせるところとは、どんなところなのか・・・改めて考えて見ると、
否定的な意味合いでは、さしずめ"田舎者"という蔑称があげられるでしょう。肯定的には、昨今ますます注目度が上が
っている"田舎暮らし"の憧れの的としての響きがあるでしょう。両者を仕分けする要素とは、人や情報の密度、買い物
や娯楽といった生活の便利さ、雑踏や騒音の大きさ、人と人の距離感・・・そうした要素の多寡によって、都会的か田舎
的かを表す指標たり得るのでしょう。しかしもっと大事なことは、夫々の環境の下で育った人間の持つ価値観の違いとい
う要素ではないでしょうか。都会暮らしで育った私が、当地に移住して感じた大きな違いは、先ほど書いた自然との距離
感に加えて、この価値観の相違ということでした。ごく平たく言えば、何を欲しているのか、何をもって心地よいと感じる
のか(これを文化と言い換えてもいいのですが)、といった面での相違として括れるでしょう。
例えば、環境問題といった場合の"環境"、これを自然環境と絞って言うと、この言葉に対する田舎の人のセンサーは、
我々が想像する以上に鈍感と言わざるを得ません。それかいいとか悪いではなく、そもそも都会人が問題視する自然
環境というものは、彼らが生まれてからずっと暮らしと同化してしまっているので、ことさら切り離して問題視するところで
はないのです。中部横断道の建設を巡って県下で大論争となったときも、移住組の私らは先ず環境破壊を問題視してこ
れに反対し、地元組の人たちの多くは、海や他県とのパイプを太くすることを重視して賛成するといった図式が対立軸と
なりました。田舎の人たちには、外の世界への憧憬というものが刷り込まれているらしく、そもそもは、若者たちが都会
に将来をかけることや、更にはその背景として、子や孫の世代までが暮らしてゆくに足る仕事や雇用環境が田舎にはな
いといった問題があるでしょう。ここのところ論議の絶えなかったソラー発電施設の建設にしても、争点となるところは同
じでした。結局のところ、両者の主張は、皮肉を込めて言えば、それぞれのないものねだりであり、その源となるこの価
値観の違いを埋めるとなると、落としどころはなかなか難しいのが実状です。
ちょっと難しい話になった来てしまいましたが、よく希求されている地方の時代とか、一極集中の緩和とか、あるいは近
い将来の消失集落や消失町村といった問題への対応には、必ずこうした価値観の違いを克服する手立てが必要となっ
てきます。さらには、近年見直されつつある子供の教育環境とか、ますます高まっているシニア世代の田舎暮らしとか、
昨今はポストコロナの仕事や生活環境の転換なども加えて、いろいろな要素を上手く絡めとったソリューションが見出さ
れないものか・・・この先となると、私の頭脳は追いかけてゆけないので、話はここらで打ち止めにしておきます。
○いまは、もう秋・・・(9月15日)
・・・誰もいない海♪ と続けて口にする世代は、随分少なくなっているかも知れません。ススキの穂が密に出揃い、畑
や人家の一角にコスモスが咲き乱れ、そして稲穂が垂れて収穫間近になると、もう本格的な秋の幕は切って落とされた
感のある今日この頃です。林縁では栗の実も落ち始めています。暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったもので、今週の空
気はひところの暑気が抜けて、初秋のそれと入れ替わった感があります。今年は大型台風の襲来が相次ぐようで油断
なりませんが、季節の移ろいに伴って、何の脈絡もいのですが、コロナの影も薄まるような気がするのは、頃希望的観
測ならぬ切なる希望というものでしょうか。しかしやっぱり・・・抜けるような秋の空にコロナは似合わない、できるならい
つもの秋を味わいたい・・それが万人の思うところでしょう。
さて、誰もいない海ではなく、上空に展開される空のドラマの話です。
「行き合いの空」 という言葉があるそうで、これは、夏から秋へと移り変わる頃の空、夏と秋の暑気と冷気が行合う
空・・の意味だそうです。古今集から来た季語となているようで、季節に敏感な日本人ならではの美しい響きを持ってい
ると思います。それは例えば、積乱雲とその上空の巻雲や層雲が同居しているような空でしょうか。こういうものが「行き
合いの空」だろうか?と思われる空を撮影したので、ここに掲載してみます。ついでに・・と言っては何ですが、ここのとこ
ろずっと雲への興味から空を見上げては撮っている写真の中から、8月から9月上旬にかけて撮った何点かを並べて
みました。夏から秋へ。空はいつもドラマティック。雲は表現力豊かな名優です。
写真は、いずれも我が家周辺で撮影したもの。空の高さ、空気の透明感は千メートルの高原ならではのもの。当地に
移り住んで良かったことの一つが、こうした空のドラマと対面できることです。
○ 猛暑とコロナの夏(8月21日記)
雨ばかりと嘆いていたのは3週間前の話、その後はずっと日本列島は連日の猛暑に襲われっ放しで8月も早や下旬に
さしかかろうとしています。お盆も終わり、球児たちの夏も終わり、そして考えてみれば、本来東京オリンピックもとっくに
その日程を終えて、これからパラリンピックが始まろうという時期なのではあります。
・ イベント中止相次ぐ中で
この、どこか拠り所を見失ったような月日の時間的感覚は、全て新型コロナのなせる技と言えるでしょう。コロナ禍は、
人々の日常に否応なしに入り込んで、普段なら覚えるであろう生活感や季節感、そして人との距離感とか、イベントなど
がつくりだす一体感など、そうしたすべての感覚をどこか狂わせてしまっています。コロナ禍を警戒するあまり、日常なら
目を向けるであろう様々なことへの視線や聴覚を、人知れず奪ってしまっているわけです。
イベントの中止に関しては当地区においても例外ではありません。秋の文化祭とか運動会、開拓祭や敬老の集いな
ど、軒並みに中止か規模の縮小が相次いでいます。私自身も6月の個展が中止となり、それだけならまだしも、次なる
機会をなるべく早くとは思っているものの、先行きの見通しが得られない中で会場の予約にも踏み切れずにいるままで
す。
全国的に見ても、夏を彩る花火大会や、夏本番の地域を盛り上げる日本の祭の数々も、中止を余儀なくされていま
す。私は,こうしたイベントにあしげく通うタイプではないのですが、それでも一日本人として残念に思います。何故なら、
ねぶたや竿灯まつり、七夕や大文字焼、阿波踊りなど、数々の日本のお祭りに注がれるエネルギーは、人々の血の中
に受け継がれてきたアイデンティティーの起爆装置であり、それはつまりは生命維持装置のようなものだからです。これ
らのイベントはまた、長らく標榜されている地方の時代を象徴する存在として、地方を活性化させる起爆装置でもあると
言えるでしょう。東京への一極集中は、その弊害が指摘されて久しいものの、ダイナミックな都心の変貌ぶりを見ている
と、今後一極集中はますます高まるばかりに見えます。私は、直下型大地震などのカタストロフィーに備えるべき最も重
要な選択肢は、一極集中からの解放、人や機能の分散であると考えています。経済合理性ばかりを追求してきた今の
状況を変える手掛かりは、政治に求めるしかありません。なのに・・・・と、話がどんどんスライスしそうなので、この辺で
元に戻さねばなりません。
せめて私たちはそれらイベントの中止がもたらす空白に改めて心を寄せ、そこにポストコロナの文化の継承と地域の
創成を促す思いとエネルギーを蓄積しておきたいものです。お祭りばかりではありません。芸術・文化を披瀝する舞台
の復活も、人と人の密なる距離感の復活も然り…ポストコロナが人々の心のルネッサンスとして大きなうねりとならんこ
とを祈るばかりです。
・ おわら風の盆・・に寄せて
私が先のようなことを書く気になったたのは、今年のおわら風の盆もまた例外なく中止となったことを知ったからでし
た。私は数年前までは、ほとんど毎年おわら通いを続けていました。9月の声を聞く頃になると、あのおわら節がどこか
らともなく聞こえてくるようで、それは事実頭の中に流れてはいるのですが、私の心はあの八尾の町並みの中に飛んで
いました。やっぱり行ってみよう!そうやって私は一人八尾への道をひた走っているのが常でした。しかしそのエネルギ
ーもさすがに薄れて、いつの間にか私はあの暑い中を歩き回り、人の群れをかき分ける体力が失せている自分を自覚
し、おわらは記憶の中に留めるだけのものとして折り合いをつけてきたのでした。その後も8月も終盤になると、もう前夜
祭が始まっている頃だな〜と思います。おわら節が遠くで鳴っているのが聞えます。その場に行かないまでも、想いを
馳せるだけにしても、おわらはやはりやっていて欲しい。踊り手の中には茶髪も交じった若者たちが、あの若さを網笠
の下に隠し、伝統的な情緒の中に秘めて踊る姿は、何時までも続いて欲しい。来年はもっといいおわらを、そう願うの
は私だけではないでしょう。
立春から数えて二百十日の風を治め、今年も大過なく豊作をもたらしてくれますように・・・そんな祈りを込めたおわら
風の盆。或は中止となったこんな年にこそ、八尾の人々は内々に静かにおわらを謳い、踊るのかも知れません。そして
そんな姿こそ、おわら本来のあり様と言えるものであるなら、我々部外者はこの際遠くからおわらを慕い思い浮かべて
みる・・・そんな年もまたあっていいような気もします。そんなおわらなら、この際ゆっくりとやっていて欲しいとも思うので
す。
○ 本当によく降り、どこまでも続く今年の梅雨(7月27日記) 
もう北海道民以外の日本人が、皆そのように思って溜息をついているのではないでしょうか。ルール違反じゃない
か!などとボヤいてみても始まらない。これも異常気象、地球がこんな風になってしまったという範疇の問題だとすると
それこそ気象のパラダイム転換を物語っているのかもしれません。この鬱陶しさは、特に今年はコロナ禍の中で倍加さ
れています。TVを付けると、どのチャンネルを回しても、これまた鬱陶しい話題ばかり。ですから、たまさかの梅雨の晴
れ間では、空がこんなに青いものだったかと、うっとり見上げてしまいます。そこに浮かぶ雲にしても愛おしく、姿かたち
を変えつつ演舞を繰り広げているかのようで、天空は実にドラマチックなものだと気付かされます。
今日もまた雨の一日でした。元気旺盛なのは、樹と草たちです。当家の庭木も、今年はかなり剪定をしたのですが、
そんなことはなかったかのように葉が生い茂っています。草も伸び放題。我が世の春ならぬ我が世の梅雨時を謳歌して
いるようで、確かに例年よりもその伸び方は大きいと言えます。それでもこの夏草、当HP上にアップした夏の作品(「夏
草の賦U」)のように、いま人間社会で大敬遠されている"密"の象徴のようなものですが、しかし逞しく、躍動感に満ち、
夏を歌い上げているようです。凄い!と思う気持ちを込めて描いたのが、この作品です。Uとしたのは、昨年も同じよう
なモチーフで描いて同じタイトルを付けたものがあったからです。
・梅雨明け間近?
さて、そんなことを書いていた最中、居間のTVから"いよいよ今年の梅雨明けが・・"と報じている気象情報が聞えてき
ました。画面に見入ると、今週は西日本から暫時梅雨明けとなってくると伝えているではありませんか。我が甲信越は
来週初めが梅雨明けとなるか? ともかくも、太平洋高気圧・・・イヤイヤ待ってました、このコトバ!・・・がようやく張り出
して(この"張り出す"という響きもイイ!)、梅雨前線を押し上げ始めているのです。ともかくも、この長かったこの梅
雨も、漸く明けようとしているわけで、安堵感を覚えます。蛇足ながら、このニュースを報じているのはテレ朝で、関東圏
の都市毎の天気予報では、春日部のところにクレヨンしんちゃんの顔マークがあるのです? 何かの間違いかと思った
ら、その顔マークは間もなくしんちゃんの母の顔に変わっているではありませんか。他の都市には何のマークも付いて
いないので、普通のお天気情報の画面に細工したご愛敬なのでしょうか。思わず笑みがこぼれたのでしたが、これって
誰のアイデアなのか? ・・余談でした。
梅雨が明ければ俄かにあの夏の暑さが来襲するのでしょうが、雨天の鬱陶しさよりはまだマシでしょう。遅まきながら
の本格的な夏到来、豪雨の被災者の方々にはまた台風の心配もあるでしょうが、ともかくも季節は一歩前に進むわけ
です。とはいえ、コロナ禍の問題は停滞したままで夏を迎え、そして遠からず夏も去り・・・コロナの終息については確答
を得られないまま、当分はそんな季節の移ろいと付き合って行かねばならないのでしょう。
「夏草の賦U」→ 
・そして再び絵を・・・
そんな中で私ができることは、絵を描き続けることしかありません。それで思い起こすのは、文化・芸術は生命の維持
装置と言ったかの国ドイツの政治家のことです。それが文化相だったか他の誰かだったか、ともかくもこの国の文化相
は、コロナ禍の下で国家的な諸規制が始まるのに際して、活動休止を余儀なくされる芸術家やイベント関係者たちに向
けて、文化・芸術は良き時代にあってのみ享受される贅沢品などではない・・今回の事態が小規模の文化施設とフリー
ランスのアーティストの方たちに深刻な逼迫をもたらすことは重々理解している・・皆さんを見殺しにするようなことはしな
い! とスピーチして直ちに救済策を講じたのでした。何という国でしょう。このスピーチは、他人が用意した原稿を読ん
だものではなく、文化相自身のうちなる資質、心情から発せられたものに違いないのです。そういう言葉を持っている政
治家がいて、そこから勇気を得る国民がいて・・・・日本との大きなギャップに改めて衝撃を受けぬわけにはゆきません。
何を言いたかったかと言えば、私もこの言葉に感動し、勇気づけられた一人だった、ということです。絵を描く、描き続け
るということは、私にしてはごく自然に、かつ充足感を覚えつつできることなのですが、そうした私の行為が観る人たちに
とってささやかながらも心の栄養となるようなら、それがどんなに創作のモチベーションを高めるものか。一人俄ドイツ人
になったような気分で、そんなことを考えるのでした。
我が家のジューンベリー
〇 梅雨の晴れ間(6月25日記)
・"日々旅にして旅を住処とす"
雨空の一角がちょっと明るくなり、雲の層の上空に太陽の存在が窺えると、気分は少し晴れやかになります。束の間で
も人は光を欲しているということを、梅雨空は改めて教えてくれます。一筋の光明、そのありがたさを人々は追い求めて
いる、特に今はそういうときなのでしょう。事実、何を書いていても、話はそこに向かってしまうのは、我ながら情けな
い処ではあります。そんな中でしかし、都道府県をまたがる移動の自粛が緩和されると、気持ちは自ずと旅の空に開放
されるようで、「奥の細道」ではありませんが、それは元来、人間には"日々旅にして旅を住処とする"習性があるからな
のでしょうか。そうではなくて、閉じこめられていた日々から解放されると、自ずと飛び出したくなるのは、単なる反動の
力学に過ぎないのかも知れません。いずれにしても人間というもの、旅に出たくなるのが人情ならば、終の棲家を求める
のもまた変わらぬ心情と言えるでしょう。その二つ間を行ったり来たり・・・それをごく自然に繰り返していたのが日常とい
うものであったかと、改めて思ったりもします。
・わが漂泊の想い
ふらっと旅に出たい・・いずれにしても、こんな気分は今どき大なり小なり誰もが共有しているのではないでしょうか。
私もまた、八ヶ岳山麓でこの上なくいい空気を吸いながらも、違う空気も吸って見たくなったりしています。その場所なら
ではの何か美味しいものも食べたいし、見慣れた風景とは違う景色にも出会いたい。さらに言えば、久しく会っていない
人たちの顔が見たい、話をしたいなるのですが、そうなると、旨い酒、尽きない会話・・・となって、それはつまり夜の一
席に繋がるわけで、そうなるとやはり、もう少し先送りすべきなのか。何にしても、アクリルだのビニールの仕切り越しと
か、空間を置いた会話だとか、こういうのは懐かしい人たちとの再会には似合いません。嬉しい再開のシーンには、"蜜"
が付き物というものです。
そんなことを考えつつ、とりあえずは近場でもどこでも出かけてみるかということになります。実は山梨県内でも、移住し
て16年経つのに行ったことのない場所がたくさんあります。お隣の長野県にしても、私はまだ、いわゆる信州の味わい
を十二分に汲み取ってはいません。そうか、中部横断道の南側は殆ど繋がっているので、ここから近い駿河湾のど
こかに行ってみるのも手です。そうです、海を見る・・ただそれだけでも直ぐしてみたいという気は、何時だってあるので
す。そう考えてみると、最近海を見たのは昨年11月の初め、そこからまだいくらも経ってはいないのですが、海という響
きには格別なものがあります。もちろん、美味しい海鮮は、何時だって大歓迎。その海も、もっと言えば、我が郷里と言っ
ていい房総の海ならなおいいのですが、これを言い出すとキリがなくなります。何と言っても、年齢とともに里心も増すこ
の頃、この先は語り出すと止まらなくなりそうなので、一応この辺でストップです。続きはまた、別の機会に譲りたいと思
います。
絶えることなく打ち寄せる波・・・
〇 お隣の県という意識(6月10日記)
・ 県境を越えると
何故こんなことを書く気になったかと言うと、お察しの通り新型コロナ感染防止のための、県をまたがっての移動制限
や自粛という社会的制約下故のことです。
私の住んでいるのは山梨県北杜市、その西端に位置する小淵沢町です。うちから西に2`と行かないうちに県境が
あって、そこは小さなクリークが境目となっているのですが、走っていると何の目印もないので、いつの間にかお隣の長
野県に入っています。そこは富士見町です。最初に葛窪と言われる良くスケッチをするス地区を横切り、さらに西進す
ると八ヶ岳南西麓の広い裾野を突っ切る県道を辿って富士見町の中心市街地に出ます。私たちはそこにあるスーパー
を中心にした商業ゾーンとその周辺によく出かけます。そこで買い物や食事をしたり、富士見高原病院で診察を受けたり
と、この辺はだから、私たち北杜市民にとっては生活圏の一部と言えます。そこに山梨県ナンバーで駐車していても、こ
とさら目を引くことはありません。同様に、北杜市側ではよく諏訪ナンバーのクルマを見かけますが、これまた我々に
とっては、ごく日常的な光景です。因みに、私たちはそこからさらに西進して、茅野や諏訪方面にも足を伸ばします。諏訪
は甲州街道のバイパス沿いに続く商業施設で、買い物や食事と、こちらでは少し非日常を楽しんだりもします。
北杜市の北側は、国道141号線を北上すると県境の標識がありますが、普段は見慣れていて気にかけることはなく長
野県の南牧村に入り、やがて広やかな野辺山高原の中央を走っています。視界が開けて草原とレタス畑の広がる
先に西側には八ケ岳がかなり迫り、東側は川上村の空間を隔てて秩父の山並みが連なっています。確かに、北杜市
の景観とはかなり趣を異にして、一層広やかで、一層空が近づいた感があります。私などはよく絵を描いたり写真を撮っ
たりで、野辺山高原には日頃から親しんでいるのですが、ここは冬ともなると一変。寒さと厳しさは、北杜市とは別物
で近付きがたいものがあります。こうした自然風土の違いは、隣の県に入ったという感覚をもたらすもので、それは日
頃染みついている皮膚感覚と言えるものです。
小淵沢を出ると直ぐの葛窪 野辺山高原はレタス畑の向こうに八ヶ岳
・ 先日体験したこと
コロナ緊急事態宣言以後はしかし、この野辺山高原では県外からの移動は自粛して欲しいと書かれた横断幕を目にし
ます。尤もこの横断幕は、都会からの観光客を敬遠する意味合いがあってのことなのでしょうが、これを見ると改めて自
分らは他県民であり、自分のクルマは山梨ナンバーだったったと自覚させられます。改めて県境というところに意識
を呼び覚ますのも、昨今の風潮と言えそうです。
さて、そんな中で先日、お隣の富士見町に行って、オヤッと思ったことがありました。それは、例の商業ゾーンで買い
物をした折に思ったことで、コロナへの警戒感という点で、ここは山梨県とは明らかに違って、それが薄いというか大らか
と言うか、そんなところがいくつも見受けられたのです。例えば、店舗の出入り口に置かれた消毒液、これが薬局で
は見当たらなかったし、スーパーでもどこに置いてあったものか、私の眼には入りませんでした。少なくとも消毒液を手に
かけている光景を見受けなかったように思います。レジの順番待ちの位置を示したテープも、わが北杜市のスーパ
ーのそれよりはずっと間隔が狭いものでした。マスクをしている人も北杜市よりは少なそうに見えます。そうした環境の中
で人々がごく自然に振る舞っている様子を目の当たりにして、初めて自分は他県に来ているのだという、かつてなかった
感覚を覚えるのでした。先ほど書いたほとんど同じ生活圏と言っても、この警戒感の薄さは、山梨県人である私には明ら
かに違和感があるのです。この差は長野県における感染者数の少なさ(人口比で)によるものなのでしょうか。
そんな経験をして改めて気付かされたのは、日頃接している長野県の友人・知人達もまた、我々北杜市民よりはコロ
ナへの警戒感という点で、ずっと大らかであったかということです。おそらくその違いは、県民性ということよりも、一つ
は大密集地である東京との距離感の違いによものではないかと考えたりするのですが、或は、自己責任という観念の
濃淡があって、そこに起因するのかもしれません。
こんな具合に普段はさほど意識していないことに思考が及んだりするのも、コロナ禍去りやらぬ社会事情下であって
のことではあります。
〇もう6月・・・で思うこと(6月2日記)
・今年も早や6月に・・・
改めてそう自覚してみると、今年はこの月日の流れに対する感じ方が常とは大分変ってきていることに気付かされま
す。新型コロナという、戦争以外では経験したことがないと言われる事態の中で過ごす緊張感とか切迫感といったもの
が、いつもの時間感覚を変えてしまった、と言うべきでしょうか。そのことに改めて気付かされます。もうこんなに月日が
流れたんだ・・・といった感慨は、紛れもなく平常時において覚えるもののようです。普段、人はそれぞれの日常を送る
中で、その人なりのルーティンとか物事への対応や、その緩急といったいわば人それぞれのリズム感というものがあっ
て、そうした生活のリズムをベースにして、ときの経過を認知しているのだと言えるでしょうか。それで、ある時ふと気付け
ば、もうこんなにときが流れたのだという感慨を覚えたりするのですが、今年は先ず、そうしたリズム感を欠いて、ふ
と振り返る余裕などないまま、大方の人は過ごしてきたのだと思います。人々はまだ、新型コロナへの警戒と闘いを余儀
なくされていて、そこからいつになったら解放されるのか、誰もまだ分からない状態です。ときの経過への知覚とか感慨、
つまりは心のゆとりあっての感情は、まだ暫くは封印されたままと言えるでしょうか。
・非常時が続いて
年月を振り返って覚える感興はまた、"何もない日常が如何に貴重なものだったか"と気付かされるのと、同じ精神的
土壌にあってのことでしょう。こんなゆとりが、生活のどこかに潜んでいた日々が、如何に貴重であったかを改めて知らさ
れるのです。そして更には、"心のゆとり"・・それこそが、人の優しさとか、感謝とか、寛容な社会の原動力であった
のだと、こうした機会に思い知ることは、せめてもの救いではないかと、私は考えます。
こうした感想は、つい先ごろアメリカで勃発して現在も進行中の、人種差別への深刻な抗議デモの状況をTVで見てな
おさら強く抱くことです。アメリカでは、新型頃の感染者やそれによる死亡者の数は、黒人において顕著にその比率が
高いと報じられています。貧困と三密は比例する関係にあって、それはニュースを見ている限りブラジルでも同様です。
貧困とか差別が人々を逃げ場のない瀬に追いやっている状況、それはコロナという緊急時代の中ではより人々を追い
詰めて、人々の日常を、そして何よりも精神的ゆとりを奪い去っているのです。そこを顧みずに、強権発動をするのみ
のかの大統領とは、一体何者なのでしょうか?
・日本人と新型コロナ
外国の例はともかくも、再び日本に戻って現在の状況を顧みると、感染による死亡者数が、欧米と比べてかなり低いレ
ベルにとどまっていて、いまやこれは世界から不思議がられていることです。その背景に、山中教授は遺伝でも免疫記
憶でもない日本人の持つ未知のXファクターがあるのだと言いますが、このXには一体何が含まれているのでしょうか?
BCG接種に伴い、自然免疫が活性化されたとする説はひとつの有力な手掛かりのようです。これには、公衆衛
生への取り組みという歴史的な経緯が関係しているようですが、詳しい説明は私には出来ません。 このファクターの
解明は今後の課題となっているようですが、私はこの"X"の中に、日本人特有の生真面目さや衛生観念、勤勉さといっ
たファクターが入って然るべきと思っています。ある意味、没個人への耐性と言いますか、褒められたことではないので
すが、ときとして個人が大勢の中に埋没してしまう事態への耐性とか我慢と言えばいいのでしょうか、そういう特性もま
た、今回のコロナ対策に生かされているとも言えるかもしれません。
・新型コロナと私
私が暮らしているのは、八ヶ岳の南麓、標高千mちょっとの所です。今は夏の陽光を浴びた木々や草が蒼々と茂って
家の周りはグリーンに囲まれているような状況です。日々カッコウの鳴き声が聞こえてきて、世間の三密とはおよそ縁
遠い環境の中にいると言えるでしょうか。それでも買い物や病院に出かけたり、人と話したり、時に私の場合は休講中の
水彩教室の代わりに、何人かで連れ立って戸外でスケッチをしたりで、そういうときはコロナへの警戒は怠りません。
因みに、わが北杜市は東京23区とほぼ同じ面積ですが、そこに住んでいるのは東京23区の960万人に対して4万
6千人。1q平米当たりの人口密度でいうと東京の1万5千人に対してわずか78人! 東京とは較ぶべくもない低密度
なのですが、それでもこのウイルスは神出鬼没、そんな田舎町にして、確か感染者が3人は出ているはずなのです。油
断も隙もあったものではありません。それでも普段とはあまり変わらない生活を送ることができているのは、こんな田舎
に移住したメリットだとありがたく受け止めています。その一方で、三密にさらされた都市部の人たちを気の毒に思いま
すし、やはりみんなが幸せであってこそ自分もまた安心して幸せでいられる、そうした心境に越したことはありません。
先日国立博物館が久しぶりにリオープンし、訪れた一人が取材に答えて "この日を待ちかねていました。ここは精神の
ビタミンになるような所ですから"とコメントしていたのが印象的でした。同じ日だったか、山梨県では県立美術館が再開
となり、待ちかねて訪れる人達には、同じような安堵感というか、束の間の心のゆとりが表情がうかがえました。文化とか
芸術が、人々の心のビタミンとなっていることを、改めて思い起こさせてくれるシーンでした。私も及ばずながら、自分の
描く絵が人の心へのビタミンとなってくれればいいと、これまた改めて思うのでした。
○ 5月点描(5月12日記)
5月の陽光を浴びたショットを何点か。
それから印象的だった空のページェントも。
5月の空はこんなに高かった?ちょっと秋のような空と雲ですが、これが高原の空、とも言えるのでしょうか。

朝陽に透けるシラカバの新緑
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この新芽は何? →
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→ コシアブラでした。
山菜では最高に美味!
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朝、東の空は、ひつじ雲が棚引いてました。
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同じ日の昼近く、八ヶ岳上空の
ひつじ雲(高積雲)
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これは別の日の空に現れた巻雲
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その巻雲、西よりの一角ではこんな感じに。毛状巻雲というやつか。
〇 今年のGW徒然に・・その2(5月1日記)
・薄っぺらい新聞
今朝朝刊を手にして驚きました。こんなに薄い新聞は初めて・・なんと! 20ページしかありません。折り込み広告も申
し訳程度に2点だけ。新型コロナ緊急事態下のGW、世の中が活動を自粛して息を潜めている様子が、この新聞の
紙面からも伝わってきます。
・オキシトシン
ハグやボディータッチすると幸せな気分になるのは、オキシド心という幸せホルモンが体内で作られるからです。これは
医療にも生かされていて、特にスエーデンが先駆者です。・・・以上はTVから仕入れた情報です。この幸せホルモン、三
密を避けねばならない今は出にくい状況なのですが、電話で相手の声を聞くだけでも、オキシドシンが出ることも分
かっているのだそうです。このご時世、オンライン飲み会なるものも流行っているそうで、これなら十分なオキシドシンガ
期待できるのでしょうが、我々SNS後進国世代にとっては、何か落ち着かない飲み会となりそうです。電話なら簡単、
こういう機会ですから、久しぶりの友の声を聞くのも良し、友以外でも然るべき人の声であれば・・・ということでしょう。どう
いう人かって? まあそこは、人それぞれでいろいろあるかと思いますよ。異性でなくてももちろんいいわけで、ハイ。
・人の動きが見えない
通りも観光スポットも、今年は閑散としたGWが始まっています。と書きましたが、本当にそれが始まったのかどうかさ
え定かではない、というほど静かな毎日です。ここ小淵沢で一番賑わう一帯で、開いているレストランは三軒に一軒くらい
か。店内はclosedでも、"お弁当あります""テイクアウトできます"の看板はたくさん目につきます。それでも店頭のクルマ
の数は少なく、人影もまばらです。ちょっと走って観光スポットで目につくのは"臨時休業中"とか"立ち入り禁止"の看板
ばかり。GWとお盆という二大かき入れシーズンのひとつがこれですから、観光で食べている人たちは大変だ!
・田起こしが始まった!
人の姿が見えないと書きましたが、ちょっと田園地帯を走ってみると、そこで目にするのは、野良で立ち働いている農
家の人たちです。暫く来ていなかったスポットに行ってみると、もう田には水が張られていたりして新鮮です。トラクター
が田起こしで動き回っていたり、田起こしのあとが水面に残っていたりで、それだけ見ているとコロナ騒ぎが嘘のような、
いつもと同じ山麓の光景です。いつもと同じように、春はいつの間にか終わって、初夏がすぐそばまで来るのでしょう
か・・・そんな感じもするここのところの暖かさです。
たった20ページの朝刊! ”臨時休業中””立ち入り禁止”は今年のGWのシンボル? 野良には立ち働く人影が。
田に引かれる水音が。 水田と八ヶ岳 新緑とヤマザクラ、一番美しい潤いの季節なのに・。
〇 今年のGW、stay home点描(4月26日記)
一昨日から長い人だと11連休という春の大行楽シーズンが始まりました。しかし今年は緊急事態下、都知事はStay
Hpme 週間といい、ある局アナはGaman Weekこそ今年のGWに相応しいと言い、ともかくも、どこにも出かけないで家の
中に留まって、との呼びかけが日本列島全体に蔓延しているのが今年のGWです。そう言えば、11連休などという言葉、
今年は余り口にされていないようだし、余り聞こえても来ないのも、この異常事態を物語るものでしょうか。
・ソーシアル・ディスタンス
ここ八ヶ岳山麓は、遅い春がいつものように輝き始めています。私の住む標高千m一帯は、そろそろサクラの散りど
き、木々の芽吹きが始まり、梢がうっすらと柔らかい色を帯び始めました。いつもの春、ただ違うのは、めっきり人影が絶
えて静かなことこの上ない春です。"家にとどまって"と言っても、私の場合は、何時も大体家の中にいて絵を描いて
いることが多いので、さほど違和感のある事態とも受け止めてはいません。加えて家の周りにしても、ちょっと出かけて
も、元々人口密度が低い山麓のことですので、買い物でもしない限りは、人との接触は極めて稀なことです。まあ2mの
social distanceというのも、よほどのことがない限りは意識しなくても守れているのです。買い物ついでに言えば、マスクを
除けばモノ不足といった事態はなし、田舎のいい処が改めて実感されるこの頃です。
サクラが咲いている我が家近くの別荘地 これも我が家近く、良く散歩で通る小径はユキヤナギが咲き誇っていました。
ですので、当地から甲府の中心部に行くとなると、なかなか抵抗感があります。しかし先日は、眼鏡を紛失してしまっ
たので、これを新調するために出かけざるを得ませんでした。昭和町という県下では地価も人口も毎年上昇し続けてい
る商業地帯です。いつもは渋滞に遭ったりする幹線道も、この日はガラガラ。クルマですから、眼鏡屋さんの店員を除
けば人との接触もないのですが、人間とは恐ろしいもので、一旦そういう地域に入り込んでしまうと、いつの間にかそこの
空気に慣れるというか、気が緩むようで、その日は眼鏡屋の前にあった床屋チェーンの店が目に入り、伸び放題だ
ったこともあって、せっかくここまで来たのだからと、立ち寄って散髪をしてもらったりもしました。ちょっと反省も。お客は
普段の2〜3割だそうで、こういう時節柄なので顔の髭剃りはしていません、とのことでした。ランチは帰りしなにマックの
ドライヴスルーでtakeout。こちらの方はいつにないクルマの列でした。
・山麓は静か
さて、八ヶ岳山麓のことです。例年だとこの一帯は、GWに入ると人とクルマで俄かに沸き返るのですが、今年はさすが
に静か、ただ静かです。別荘地にしても、例年の俄か人口増と較べると、いつもよりは多少人の気配が増している程度
です。小淵沢の道の駅も写真の通り。週末でこんなに空いているのは初めて。数少ないクルマはどれも県ナンバー
ばかりでした。週末にはまた、野辺山方面の季節の進行具合をチェックしに出かけたのですが、このときも途中通り過ぎ
た清里は閑散として、まさにゴーストタウンといった案配。ホテルやレストランなどの観光施設は既に休業入り、観光
スポットの売店も29日を以てclosedとなるそうです。この静かさは、地元民としてはある種快適でもあるのですが、観光地
にとってのドル箱シーズンに何の営業もできないという現実が、まさに目の前に展開されている様には、同情を禁じ
得ません。ざっと垣間見た限りは、stay homeはよく守られているという感じを受けました。かく言う私自身、そんなに出歩
いてどうなのか、とお叱りを受けそうですが、外出は決まってクルマ、出向く先は、女房を伴っての買い物以外は、自然
の中のスケッチポイントですから、人間どうしのsocial distannceも何もあったものではありません。Very close distannce
to nature なのであります。
小淵沢の道の駅 週末でこんなに空いているのは初めて。クルマは全て県ナンバー。 私がよく出かける先は、こんな感じの所
・家の中で思うこと
さて、家の中となると、何時も絵を描いてばかりではいられないので、TVも良く見ています。しかし何と言うか、どのチ
ャンネルを回しても新型コロナ。これにはいささか辟易状態であるのは誰しも同じでしょう。こういう状況になって思うの
は、やっぱりスポーツ番組というのは貴重だった、ということです。自分ではやらずとも、人が身体を動かし、アスリートと
してのスキルを目いっぱい駆使して競い合う・・・そういう様を見るのは面白いし、心躍らされるものがあるのだと改めて
知らされます。逆に言えば、彼らはその演じ手として生き生きと人の心を捉えるのであって、例えば今のような特殊な事
態の中で画面に登場し、視聴者へのエールを送ったりするのは歓迎すべきこととして、じっとしている状態での露出に
は限度があるでしょう。餅屋は餅屋、こういう折にこそ、文化・芸能とか芸術に携わる人たちは、その力を発揮して欲しい
ものですが、こういう時節の中で、画面に登場したところで、いささかの賞味も感じられないタレントとか芸人と称する輩
が如何に多いことか。TV業界全体が経営的に苦しいとはいえ、こうした安上がりの雛壇芸人がTVの多くの時間を埋め
ている現状もまた、改めてあぶり出されている現実と言えるでしょう。放送側に限らず、私たち視聴者もまた、価値のある
芸とか技、心を豊かにしてくれる表現にかかるコストを、ともに負担していく文化をもっと醸成していくべきでないのか・・・
これもまた、こんな折に思うことの一つです。
再びドイツの話ですが、この国では芸術文化に携わる個人や小規模業者に、50億ユーロ(およそ6千億円)の財政
支援を講じたといいます。担当大臣は、芸術文化は、生きていくのに欠かせない、いわば生命維持装置だとさえ言ってい
ます。一体何という国なのでしょう、今回の事態の中で、ドイツ国民は幸せだと、私は度々思わされるのは、こんな現実を
知るからです。心を豊かにすること、豊かにしておくこと、それがどんな場合でも大事だというこの価値観は、かの
国やその周辺の欧州各国においても共通したところがあるのだと思います。そこにいくと、わが国はどうなのか・・・現実
は気落ちするのを禁じ得ません。
TVから始まった話でしたが、この際みんな読書に勤しんでみては如何でしょうか。TVもSNSも、どこか限界が見えてい
るようなこの事態の中で、本を読むという行為は改めて見直されていいことだと思います。こういう空気もあってか、最
近激減している新聞広告の中にあっても、本関係は比較的堅調のように見受けます。読むという行為は、TVやSNSでは
得られない想像力を刺激するものです。別に教養本である必要などさらさらなく、小説でも絵本でもいいのだと思います。
漫画はどうなのかとなると、私的にはいささか疑問符が拭えませんが。こんなことを感じたこともあって、私はかつて熱中
して読んだ藤沢周平の小説に目を向けています。文庫本の目録を手に、自分の本棚と睨めっこをしてまだ読んでいない
本を探し出すのですが、現物が本棚に見当たらなかったり、大体読んだ本の筋書きを殆ど忘れてしまっている
状態なので、この作業は案外と難しいのです。それでも現在、3冊の本を仕入れました。今読んでいるのは「風の果て」
(上・下)。やっぱり読ませます!久しぶりのこの藤沢節。この人のきれいな文章に接しているだけでも、結構ハッピーな
気分になれるというものです。
○春続く(4月17日記)
それでも春・・の続き、コロナ絡みで家にいることが多い中での雑感、といったところです。
・ 絵心は移り気ではない?
4月半ばとなって、我が山麓にも桜前線が上がってきました。現在は、800〜900bあたりが満開となっています。
この桜前線、実は私の住む小淵沢からお隣の長野県、富士見町になると、開花のスピードは少しずつずれて遅くなって
います。昨日スケッチに行った甲州街道沿いの蔦木宿は標高723bとあり、今が満開のピークといった感じでした。そ
れにしても、ここのサクラは古い家並みに美しく映えます。サクラは、都市のビルなどの近代建築よりも、古い建物や由
緒ある構築物とのマッチングが際立つようで、それはやはり日本の花という既成概念が、広く日本人の心に染みこんで
いるからでしょうか。余談ですが、このときのスケッチ(→春のスケッチ)、当日行って"描くポイントは、ここにしよう"と陣
取って描いたのですが、そのときは、どうもこの構図は以前描いたことがある絵の構図と似ていそうだという気はしてい
たのです。それで帰ってからチェックすると、なんと9年前に、殆ど同じ場所から殆ど同じ場所で同じように風景を切り取
っていたことが分かったのです(→2011年9月の個展)。作品のコメントでも書きましたが、どうも絵心というものは、同
じような場所やシーンに出会うと、それが何年ぶりの出会いといえども、自ずと同じように湧き出るものらしく、それを立
証したのが今回のスケッチという次第でした。
・ 逆境平然
友人からのメールに、近所のお寺に掲げてあった一文が紹介されていました。
「逆境にあって 平然、順境にあって 淡々、これ人生達人の極意」
詰めて書くと、"逆光平然、順境淡々" ・・・なかなか染みる言葉として、私のメモに加えました。今は、人々おしなべて
逆境の中にあるわけですが、ここは平然と自重し、平然と臨むべし、ということでしょうか。同時にいまが、淡々と臨んで
いた平素が如何に大切なものであったかを噛みしめる時、という意味合いをもあるように思えます。
TVで見ていたある動物園の動画配信で、関係者が話していたコメントも印象的でした。動物を観るという行為は、好奇
心から発するもので、こうした事態の中にあって、せめて動画だけでも観てもらって、その好奇心を満たしてもらいたい。
好奇心はまた、生きていく力ともなるものだから・・・というのです。素晴らしいコメントだと思いました。私はこのHP
やfacebookで、さらには個展の会場で、私の作品に接した多くの方から "癒される"といった言葉をいただきます。私自
身は人を癒そうという意図で描いているのではないのですが、これも褒め言葉と受け取ることにしています。癒しがまた
生きる力となるなら、絵描きとして嬉しいことです。
・ 人が減った、インバウンドが激減した・・・それがどうなのか!
最近の報道で良く目にする見出しです。特に経済効果という観点から、3月は外国人の入国者数が15万人と、前年同
期比で90%減ったと、報道されています。それは、日本経済にとっての大きな問題だと言わんばかりですが、私はこうい
う報道にいつも違和感を禁じ得ません。何事に付けて経済効果を最優先しているような現政権下、例えばIRと称する賭
博施設の開設問題も然り、また延期されましたがオリンピック問題然り、余りにもインバウンド効果を金科玉条の
課題とし過ぎているように見えるのです。経済効果の前に、人命と健全な生活の保証があるべきで、それあってこその経
済ではないのか。今回の緊急事態宣言の発動にしても、最後まで足を引っ張っていたのは、与党の経済優先の一派だ
と言います。関連して思い出すのが、あの羽田空港への進入路の問題。あんなに危険な都心上空を進入路として認め
てしまうのも経済優先、人命軽視という価値観が政策に反映されている査証と言えるでしょう。
そこにいくと、メルケル首相率いるドイツは立派ですし、羨ましくもある。首相自らは、政府の強権発動は自分の民主主
義の信条に反する、と前置きをしながらも、今回の重大局面で命を守るための緊急手段としてその強権をいち早く宣言
し、同時に手厚い補償を約束したのです。経済への影響は次善の策として考えるべきこと・・・こういう価値観というか民
度というか、それを国民が支持し実行するのは、双方が同じ哲学を共有しているからなのでしょうか。環境問題への対応
も然り、原発ゼロへのソフトランディングを、他に先んじて実践に移したのもドイツでした。残念ながら日本では期待でき
そうもない羨ましいことだと感じ入った次第です。
・ 少し癒される写真などを
お口直しに山麓の春を映したホッコリ写真を少々。
サクラの梢越し、上空には巻雲が。 庭のタンポポ一輪 せせらぎの傍にカラシナが咲いてます。
シジュウカラ・・背景の黄色はダンコウバイ ヤマガラ・・手前の芽吹きはジューンベリー
○それでも春到来(4月5日記)
見出し通り、新型コロナがもたらした不安の中、それでも春が来た! という感覚をどなたもお持ちではないでしょう
か。私はこんな心境を忘れさせてくれる時間は、絵を描いているときです。だから、このところ、随分と描き上げていて、
少しずつお目見えさせたいと思っています。それでもやはり、絵を描いてばかりはいられません。どのチャンネルを見て
も憂鬱になるだけでもTVは習慣化しているのでやはり見てはいます。それから、外出を控えていると言っても、たまに
は散歩もします。絵の取材やスケッチにも出かけます。そんな折に春を体感し、新しいモチーフをゲットしてきます。そう
言えば、外出するといつも以上に戸外で作業をしている人を見かけます。"Stay home と言っても家の中にばかり閉じこ
もってはいられるか" という御仁が相当多いのでしょう。そして、コロナ騒ぎをよそに、サクラはこの山麓でも徐々に綻び
始め、春は刻一刻とその様相を色濃くしています。それで私は今、こんな風に文章を綴ったりもしているというわけです
ここ1週間ばかりで目にした春の絵柄を、かいつまんで載せてみました。
我が家の北側にもフキノトウが。 ダンコウバイはもうすぐ満開に。 庭に植えたアサツキは毎年芽を出しては摘まれて食卓に。
クリスマスローズはずっと以前からきれいに咲きそろっています。
○ "昔見た映画"の後日談
たまに、このFノートを読んだと言って、なにがしかの声を寄せてもらえるのは嬉しい限りです。以下は"昔見た映
画"の後日談です。これを読んだ流れで、差出人を吉永小百合としてメールをよこした人もいました。私は返信に"高倉
健"と記しました。もう一人は石原裕二郎としてメールをよこしたそうです。吉永小百合は、学生当時、他の学部でしたが
新入生として入ってきました。一度こっそりと見分に行ったのですが、殆ど当人とは気付かせないほど目立たないい
でたちでした。私もサユリストの端っくれではあるのですが、俳優としての彼女にはさほど魅力を感じていなかったので
映画自体はそんなに観ていません。 裕二郎はデビュー後のまだ初々しかった頃、主役を演じた「陽のあたる坂道」、
これは光ってました!今までになかったような俳優というか青年を見たという新鮮さも覚えました。尤も私は、助演の芦川
いずみがそれ以前からタイプだったので、こちらの方も熱視線を向けていたのですが・・・。

「陽の当たる坂道」の芦川いずみ
スミマセン、裕二郎じゃなくて・・。
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ご存じ用心棒の三船敏郎
右は「椿 三十郎」の一シーン
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ジョン・フォードの西部劇や黒澤 明の用心棒シリーズが好きだったと言ってきた御仁もいました。これは同感・・・と言
っても、J・フォードの方は、"昔観た映画"の昔より遡って殆ど少年の頃観た映画、黒澤明の方は、時代的に少し下った
辺りの作品だったでしょうか。用心棒三部作の中では、「椿 三十郎」が一番好きな作品です。黒澤作品のカメラワーク
もいいですよね! 先にウイリアム・ワイラーのカメラワークが絶品と書きましたが、これに匹敵するほど。特に「赤ひ
げ」のカメラは印象的! 私は映画を観ていた当時は、ずっと絵から遠ざかっていた時代でしたが、それでも無意識の
うちに映像を一幅の絵のように捉える傾向が、人よりは強かったのかもしれません。
また、この御仁があげてきた西部劇は、その殆どを少年時代に熱心に観てました。ジョン・ウエイン主役の作品は、
見終えるとみんながJ・ウエインになって肩を張り、眉間に皺を寄せて映画館から出てきたものです。そうでした、当時
はTVなどなかった時代、映画と言えば、地元の映画館に足を運ぶしかなかったのでした。「シェーン」も良かったな、"
Shane, Shane,. Come back" ・・・スミマセン、またまた勝手な映画評論でした。
西部劇の顔 J・ウエインと西部劇の金字塔 「駅馬車」 シェーン Come back!
(3月17日記)
新型ウイルスで世間が閉塞状態の中、私もせっせと家で絵を描いています。それでも集中力には限界があり、とみに
最近はこれが顕著です。そうなると、TVを見たり、本を読んだり、一応スマホを覗いてみたり、こうして文章を書いたりと、
家の中ではいろいろやっています。当家のTVは録画機能内蔵型なので、これまで撮りためた番組一覧から、観た
いものを引っ張り出して観るということもしばしばです。一覧の中一番古い方に、「ローマの休日」がありました。そこを
手がかりに、映画の話をひとくさり・・・・。もしも、私同様、時間を十分持ち合わせている方には、ご一読下さい。
〇 昔見た映画の話を少々(3月17日記)
説明するまでもなく、「ローマの休日」は、若くてチャーミングなオードリー・ヘップバーン演じるアン王女が、グレゴリー・
ペック演ずるジョー・ブラッドレー駐在記者と繰り広げる大人のフェアリーテールといった映画です。ヘップバーンの初々し
さ、チャーミングな存在が、この映画の全てとも言えそうですが、記者会見の最終シーンにも、この映画が集約されてい
たかと思います。ここでアン王女はローマの一日を共にした相手が新聞記者であったことを初めて知るのですが、どの
都市が一番印象的でしたか? という記者団の質問に対し、アン王女は"Each in its own way was unforgettable ・・・と
外交辞令を言いかけてから、記者団の中にいるジョーと目が合い、前言を翻すように放ちます。
"Rome! by all means Rome.
I will cherish my visit here in memory as long as I live"
二人にしか分からないやり取り。そしてアン王女はステージから降りて記者団と接見。束の間の再会が終わり、振り向く
ことなくステージを去る王妃。最後の一人になるまで見送ってから会見場をあとにするジョーの姿をズームアウトしなが
ら映画は終わります。
なぜこんなセリフまで覚えているかというと、この映画の台本を買って持っていたからです。もうひとつ私が持っている
台本には「カサブランカ」があります。これも何回観たことか、そして要所要所の台詞を私は覚えています。シャンパング
ラスを差し上げ、ボギーことハンフリー・ボガードがイングリッド・バーグマンの眼を見ながら発するちょっと分かったようで
分からない一言。
"Here's looking at you, kid"
これを翻訳家の高瀬 鎮夫が、 "君の瞳に乾杯" と訳してスーパーに入れた話は有名です。
何を一人で悦に入っているのかと言われそうですが、同年代の諸氏には、こうした名画のいくつかに抱く懐かしさを
共有しているのではないでしょうか。私は語るに足るほど映画通ではなかったのですが、高校時代から、期末試験が
終わると、さてこれはと決めていた映画を観に映画館に行くのが唯一の楽しみでした。今と違って、娯楽と言ってもさほど
選択肢がなかった時代です。大勢の若者が同じような経験をしているでしょう。私にはそうした時代が大学まで続い
て
いたと思います。映画で言うと50〜60年代の作品が中心となるでしょうか。「カサブランカ」だけは、なんと私の生まれた
年に作られたもので、私がこの映画を初めて見たのが40台になってからだったか。時代的にはちょっと例外的なも
のです。今にして振り返ると、当時は感動的な映画、文句なく面白い映画、人間味あふれる映画がたくさんあったように
思えます。大画面の迫力とかCGや特撮などのヴァーチャルな技術が確率されていなかった時代です。それに、現代の
人間社会のように複層化して陰鬱な面は少なかったように思えます。いい監督が撮る映画は決まって面白かった。時
にオシャレで時に涙を誘い、時にくすりとさせる・・・こういう感覚を一言で言い当てるのは難しいのですが、"粋であっ
た"というのはかなり近い感覚のように思えます。映画を観ることが、美味しいお酒を飲んでいる時間と似たような、そ
んな"粋"な映画など、最近お目にかかることはなくなったように思えるのは私だけでしょうか。
記者会見のラストシーン 西部の荒野を眼下に主演の2人(ジーン・シモンズとG・ペック)
さて、上に書いた「ローマの休日」は、名匠ウイリアム・ワイラー監督によるものです。この監督作品で他に私の好きな
ものは「大いなる西部」があります。これまたG・ペック主演でしたが、ワイラー監督はこの俳優がお気に入りのようで
す。それまでの西部劇にはなかった状況の設定や登場人物、ストーリーの展開があって、そこが新鮮で観る者を引き
込ませました。特にあのカメラワークは絶品! 当時主流となりつつあった横長画面の利点をこれほど引き出した映画は
なかったのでは・・とおもえるくらい、文字通り大いなる西部を感じさせるものでした。新人として登場したチャールトン
・ヘストンも好印象。
W・ワイラーとちょっと紛らわしい名前の監督がビリー・ワイルダー。この人の映画ほど粋という言葉が似合う映画はな
いかもしれません。「昼下がりの情事」はその代表格。これまたヘップバーン演じる音大生とゲイリー・クーパー演じる渋
さ満載のプレイボーイのラヴコメディーで、解説やコメント抜きでただ観て楽しめばいい、そんな類の映画でした。
"ファッシネーション" の甘いメロディーも印象的。ビリー・ワイルダーは他にも名作がたくさんありますが、「翼よ あれ
がパリの灯だ」も文句なく傑作。映画の大半が狭い単発機"The Spirit of St.Louis"号の操縦席という設定で、そこで
演技するジェームス・スチュアートも絶品。 観客は主人公のリンドバーグと2時間余りをともに過ごした気分となるので
した。渋くていい男優が大勢いたのですね、当時は。「アパートの鍵貸します」や「お熱いのがお好き」なんていうのもあ
り
ました。
発車直前のホームでのラストシーン J.スチュアート演じるリンドバーグとSt..ルイス号の操縦席
両監督ともモノクロで普通サイズの画面がまだ主流だった時代に、絶品とも言える作品を残している一方、シネマスコ
ープに代表される大型画面が幅を利かせる時代に入ってからも、その味を引き出した名作を残しているという点で、名
手としての力量には共通したものがあったと思います。
監督で言うと、この二人に次いで私があげたいのがジョージ・ロイ・ヒル。時代は少し下ってからの「スティング」とか
「明日に向かって撃て」(後者の原作名は、"Butch Cassidy and Sandance Kid" )が逸品でした。両作品とも面白い、
の一語に尽きると言っていい娯楽映画なのですが、映画全体にまた旨い出汁が効いている上等な演出を指摘しておき
たいところです。その味気を分析すると、やっぱり滲み出る人間臭さというところでしょうか、いやだからこそ面白いと言
い換えていいかもしれません。両作品で主演しているポール・ニューマン、さすがですね〜。
Butch と Sandance 回転する宇宙ステーションとそこに接近する宇宙船
番外編として、ハワード・ホークスの「リオ・ブラボー」、スタンリー・キュービックの「2001年宇宙の旅」をあげておき
たいと思います。前者は全編に隙間なく西部劇の面白さを盛り込んだ映画。後者は一種のショックを感じさせる近未来
のSF映画でしたが、もうSFというジャンルを越えた名作と言えるでしょう。アーサー・C・クラークの原作も十二分に面白い
ものでしたが、それを超える魅力を映像化して見せた点が特筆ものです。あの人類の祖先が戦いに勝って空高く放
り上げた武器、そこから画面が一瞬宇宙に転じ、武器の回転が宇宙ステーショの回転に変わるあのシーン! これぞ
映画映像としての白眉と言えるもの。背後に流れ出した"美しき青きドナウ"も、人類史の大きな転換点に詩情を添える
心憎い音響効果でした。
結局のところ私があげた映画はすべてハリウッド映画です。ヨーロッパの映画にはある種ほの暗い雰囲気があって、
私はそこに浸るまで大人ではなかったのかもしれません。日本映画となると、こうした作品以前の小・中学校の頃
に観た木下作品などを思い出します。むろん時代がぐっと下がっての黒澤作品は言うまでもありません。
アメリカ映画は、かつて海の向こうの世界への憧れもあってか、そこに観ていたものは現在とはまた違ったものであっ
たした。今よりもずっと大らかというか,アメリカ人特有のフェアネスとかフランクな精神が描かれていたと思えるし、つ
まりはそこに、古き良きアメリカを若い自分は観ていたと言っても過言ではないでしょう。あれやこれやと、勝手に書き
連ねてくると、"ああ、映画って本当にいいものですね" と言ったかの評論家の言葉を思い出します。繰り返しますが、
私は決して映画通を自認するほどたくさんの映画を観てきたわけではありません。それに、社会人となって以降は、殆
ど映画館に通うこともなくなりました。たまに映画を観るといっても、それはTVでという調子できています。にも拘らず、
当時の映画を振り返っていると、やっぱり映画はいいもの、いやいいものだった、輝いていた・・・と同じセリフを持ち出
さないわけにはいかないのでした。
〇 "春よ来い"の続き(3月6日記)
上のように書いていた矢先、わが身辺にも影響が出始めました。先ごろの学校全面休校に続き、北杜市は総合会館
や資料館、図書館なの施設を一斉に臨時休業としたのです。20日までの措置、その後はどうなるか誰も知る由がありま
せん。私が教室に使っていた場所がクローズということなので、冬期の水彩教室も自動的に暫時休止となりました。
さてその先、まだ時間はあるのですが、個展の期間である5月末からの状況がどうなっているか、気になるところです。こ
れまた不透明ですので、当面模様眺めしかないのですが、個展となるとその準備に踏み切るタイミングもあるので、
4月の中頃までには趨勢が見えていないと困ることになります。場合によっては見切り発車で準備を勧めざるを得なく
なるのかも・・・。ま、仕方ないか、せめて作品だけは描き続けねば、と思っているところです。
こんな社会情勢なのに、サクラの開花は今年もまたやってきます。9年前の大震災後のことを思い出します。あのとき
も自然は酷極まりない面を見せる一方で、希望の光も見せてくれます。今年の開花、東京では早ければ15日頃とか。寒
冷地たる当地の開花となると、そこから2週間ほど遅れますから、4月に入って直ぐという感じでしょうか。その前に
冬枯れの森に白いコブシが・・・例年だと、ああ春だ〜という嬉しい気持ちが膨らむのですが今年は複雑。こんな事態
の最中で、暖冬による記録的に早い開花とは皮肉としか言えません。"春よ来い"は、新型ウイルス終息のサインこそ
"早く来い" となるのが、全国民に共通した願いだと思います。サクラやコブシの開花が、そんな希望をつ告げてくれる
ものだといいのですが・・・。
"春よ来い早く来い" の季節なのに(3月1日記)
一つ前のノートに書きましたが、このウイルスの切迫感は、以後10日間を経て、こんな山の中でも他人事にしていて
はいけないのか、などと思い始めています。いろいろ言われていることに対して、私は定見を持ち合わせているわけでは
ないのですが、一体世の中、何が正しくて何が見当違いなのか、一向に見極められないままです。しかし、それなり
の視点というものは持っている積りです。
例えば;
・政府の危機管理能力というものがこの国ではこんなレベルだったのか・・・
・未だに省庁横断型の危機管理体制が引かれていないのは何故なのか・・・
・どんな情報も悉く取り立てて囃し立てるようなマスコミ報道は冷静に接するべきでは・・・
・この危機的状況下で、議会は何をしていたのだろうか、これは与野党ともに大いに責めを負うべき問題では・・・
などなどで、わが身に振り替えれば、自己管理をちゃんとしていたかという反省を戒めとして、手洗いとマスク着用は
心して実行せねばと言い聞かせているところです。
わが山梨県においては目下のところ感染者ゼロなのですが、これは検査能力に限界があるためかもしれません。大体
において医療も先進レベルのはずのこの国で、検査能力が低いレベルにあるという実態とは何を意味しているので
しょう? あるいはまた、保守的な厚生行政が壁となって、海外や民間からの技術活用を十分になし得ていないという
指摘がありますが、この通りなのか、疑念と同時に落胆を禁じ得ません。
再び我が身を振り返って書きますと、幸いこの北杜市には満員電車はなく、長時間の混雑に身を晒すといった状況
は、何かのイベント以外は通常あまり存在しません。何しろ、東京都の23区といくらも変わらない面積に、住んでいるの
が5万人といった極めて希薄な人口密度です。スーパーに行ってもマスクをしている人の方がはるかに少ないといった
状態で、だからいいのだという訳ではありませんが、どうも切迫感には欠けます。唐突な号令で公立の学校は春休み
突入となりましたが、他には本件に関する市からの伝達は特になく、世の中これからどうなっていくのか、まだ様子見とい
うのが実態でしょう。ただ、甲府の県立図書館は3月20日までの臨時休業をすることになりました。わが北杜市でも市立
図書館はクローズしていると聞きますが、これが市のHPでは何の告知もない(何故なのか?)ので確かめようがありませ
ん。私としては、まだ先の話ですが県立図書館の休業がずっと続くようだと、5月末からの個展開催も危ぶまれ
てきます。もひとつ、現在進行形の冬期水彩教室について、現状では会場たる市営の総合会館には使用を制限するよう
な動きは皆無ですし、そもそも7人という少人数で、使用する会議室は広くて常時換気しているし、あと二回で終わる
し・・・ということで、目下のところこのまま続けていく積りではいます。
そんなこんなで、そろそろ春の兆しが漂い始める時節なのですが、どうも"春よ来い、早く来い♪"と言ってもいられな
い、というのが山麓住民に共通した心情でしょうか。
〇 2月はなかなか気が晴れません(2月19日記)
2月、今年は閏年なので 29日まで。この2月というのは毎年どこか鬱陶しく晴れ晴れした気分でいられないのは、私だ
けでしょうか。それは冬最中といった理由ではないのです。ごく個人的には、結婚記念日とか妻の誕生日とか、微妙
な記念日がこの2月に集中しているし・・・。それに何と言っても、確定申告をしなければならないという煩わしさ、これが
結構プレッシャーとなるのです。ここ数年はネット申告にしているのですが、じれは便利な反面、ネット上でのトラブルは
私に遭遇すると私などには手に負えなくなり、これだけでストレスが溜まります。もうかれこれ20年以上、私は青色の
事業申告をしていて、それは私が絵に係る仕事をしてきたからで、昨今はこの仕事も事業と言うにはほど遠くなってき
ました。節税を期すだけの事業所得があるわけではなくなったのですから、こんな手間とも今年を以てもうオサラバした
いと考えているところです。
私は去る2年間、どういう風の吹き回しか、2月には結構長期の手術入院をしていました。入院の原因となった疾患
は概ね取り除かれたので、その意味では今年は解放されて晴れ晴れと過ごせたわけではあったのですが、今度は世
の中、あの新型コロナウイルス騒ぎです。これがどうにも人々の不安を煽り立てています。それは山梨の片田舎と言って
いい当地にしても然りで、このパンデミックは大きな壁となって、人々の安んじたいという気分の前で立ち塞がってい
ます。一刻も早いウイルスの終焉を期待するしかありません。
こんな事態が進行中の2月、当家ではエコキュートの調子がおかしくなるという、ちょっと厄介な問題も生じました。ど
ういう理由か幸いまた動き出したので、事なきを得たのですが、チェックしに来てもらった業者曰く、この設備は2004
年製で、もう部品もないとのこと。故障したら設備を入れ替えるしかなく、取り換えるまでの期間、お湯は出ない、お風
呂もダメという、寒冷地にとっては一大事になりかねないというわけです。ここ小淵沢に移住して15年、この間私ら夫婦
はもう喜寿を迎えていろいろ思うに任せない年齢となりました、しかし疲れてきたのは人間だけではなかったのです。つ
い先日は、合併浄化槽のポンプがダメになって、これまた部品がないのでまるごと新品に取り換えたばかり。建物の外
装を手直ししたのが2年ほど前だったか、ウッドデッキも何枚かの板を張り替えねばならなくなっています。15年ね〜、
そういう歳月ではあるわけです。
まだまだ続く2月ですが、今秋は絵の方では冬期教室が始まります。絵に関連しては、ある会報への記載とか、初めて
の新しい引き合いをもらったりで、新しい動きもあったりしています。そしてまた、5月末からの個展を控えて、新作への
取り組みにも熱を入れねばなりません。そんなこんなで何だか結構忙しい・・・。だったらこんなこと書くな、と言われそうで
すが、これもまた気分転換。お付き合い下さり、ありがとうございました。
ps. @ 結局は、エコキュートの設備をまるごと新品に入れ替えることにしました。トホホ、金かかる〜〜。
A 確定申告はある数字待ちで、それが出次第、即手を付けねばなりません。
〇温暖化の話題をちょっと(2020年1月19日記)
暖冬と言われていますが、その傾向は顕著で、もう大寒だというのに、今冬は身の切れるような寒さはやってきてい
ません。雪は降るものの、これまでのところはさほど積もらないまま。こんな冬なので、スケッチは結構ドライな感じの絵
が多くなっています。雪景色の絵ということになると、どうしてもこれまで撮りためた画像の中から選んで絵に描き起こす
ことになります。例えば、昨日アップした「八ヶ岳日和」、これは2012年に撮影したものがベースです。過去の写真をあさ
っていると、雪景色を結構ふんだんに目にして、これが冬の姿だと改めて思わされます。県下に限らず、各地のスキー場
でも雪不足が顕著のようで、関係者は大変だ。しかし、本当に懸念されるのは春以降の水不足という問題です。大
陸の高気圧の押し出しが、日本海を渡って対馬暖流に温められ、日本海側に大量の雪を降らせる・・・とこれは日本の
水がめを潤してきたメカニズムなのです(受け売りですが)。このメカニズムを狂わせている原因は、昨年から観測されて
いるインド洋西域での海水温上昇という異常現象にあるといいます。これが偏西風の流れを押し上げ、日本への寒
気の押し出しを弱めるとともに暖気の押し上げをもたらし、日本に暖冬をもたらす一方で、この地球規模での大気の対
流の変化が豪州での異常乾燥を招いていると言うのです。このまま往くと、日本では雪解け水もまた乏しい事態となる
と、美味しいお米もお酒ももちろんのこと、日本人の生活全体を脅かす事態ともなりかねません。
異常乾燥に見舞われているオーストラリアはどうなっているのか。TVを観ていると、これはもう信じ難い光景と言えま
す。私は4年ほどシドニーに駐在した経験があり、仕事上小型飛行機を利用することが間々ありました。夏だとシドニー
から内陸に向かう機上からは、見渡した風景のどこかで必ず煙が上がっていたものです。ユーカリは油分を多く含む樹
で、夏場は樹がこすれて摩擦熱が山火事を誘発するのは日常茶飯事です。焼け跡からは新しい草木の芽吹きが促され
ますので、山火事自体は森の更新を図る自然現象なのです。しかし、たまに都会の近郊とか生活圏に火の手が及
んだりするとTVの映像などでその恐ろしさをまざまざと見せつけられたリもしました。それが豪州全域に及び、日本の
半分に当たる面積を焼き尽くしたとなると、これは尋常ではありません。消化活動も限界を超えていることでしょうし、気
象衛星で煙が太平洋を越えて南米にまで流れる映像を見ると、まさしく想像を絶するものがあります。そんな最中、豪
州の首相は海外で遊んでいたとか。どこかの県知事を思い出させるような失態は、よその国ながら失笑を通り越して
憤慨を禁じ得ません。コアラやワラビーなど小動物の大量死も悲惨です。どうにかならないものか、他人事とは思えな
い
異常気象です。
〇いろいろな高原の朝です。
暖冬とは言え、冬は冬。この辺で冬の日の朝の表情を何点かご紹介させてもらいます。冷え込んだり、朝焼けがあった
り、降雪明けだったり、どピーカンだったり・・・・高原の朝はバラエティーに富んでいます。むろん、どんより雲のたれ込め
た朝もありますが、そういうのは写真に撮らないので、ここには載っていません。それと、毎日早起きとはほど遠い生活
習慣上、朝の写真と言っても、かなり遅い朝のものが多いことをお断りしておきます。

↑→
12月23日、今期初めて行きらしい雪が
積もった朝、餌台や梢にヤマガラが
やってき ました。
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↑
1月8日は一面の霧が徐々に消えて雪
いつもの光景が浮かび上がってきました。
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←
左2点は1月11日。早くから快晴の空に薄く
刷毛で掃いたような巻雲が。右の写真は
我が家上空の空。
この雲は天気が下り坂になる前兆とかで、案の
定、昼過ぎには暗い空に一転しました。
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左右2点は1月12日
←
東の空はきれいな朝焼け。
→
南西の甲斐駒ヶ岳は、朝陽
を受けて徐々に白く変化して
ゆきます。
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← 1月19日
山は雪だった朝、八ヶ岳が
一段と白く輝いています。
→ 1月22日の朝
上空にうっすらと高積雲が。
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〇 振り返る‥というほどの2019年でもありませんが(12月31日記)
振り返る? と言っても一々振り返っては反省し来るべき年に期す・・・かつてずっと以前までは、そんな趣旨で年末が
来ると一年を振り替えたりもしましたが、ここに記すことは決してそんな調子のものではありません。まあ何とはなし、何
歳になっても大晦日は年の区切りではありますので、強いて言えば、書いておかないと忘れてしまいそうだから書く、とい
った程度のことでしょうか。
前置きはこれくらいにして、我ながら笑ってしまう話からです。つい昨日のこと、このHP冒頭で"来年(2020年)は喜寿
を迎える年なので、久しぶりに個展を開催する予定です"といった趣旨のことを書き入れました。それで今ふと思い返す
と、いや待てよ、今年(2019年のことです)喜寿になったのではなかったか? という疑問が過ったのです。そう言えば、
11月の高校時代のクラス会の案内に、"喜寿を記念して集まりましょう! と書いてあったぞ! 念のため一歳年下の
妻に確認すると、これまた一瞬考えて、私はいま76才よと言います。そうでした、私は去る5月に77才になったのでし
た。だから来年は喜寿でも何でもない78才・・・う〜んそうか。何だか損をしたような気分で、慌てて冒頭の一文を書き換
えた次第です。
最近はこの1年と言っても、そこに何があったのか、"あのこと"は今年のことだったか? と確信が持てなくことも多い
のですが、やはり手術をしたことは忘れがたいエポックであります。一昨年のペースメーカー挿入に続き、今年の2月に
は白内障と緑内障の手術を両眼とも受けました。2週間の入院というのは、さすがに記憶が薄れることのない経験で
す。他人から画家は眼が大事だからね〜、とよく言われますが、いま振り返ると、目の手術をしたから絵が描き易くな
ったかというと、どうもそんな調子ではないのです。先天的な問題と年齢という問題もあったので、私の場合は手術をした
からと言って、劇的な見え方の変化があったわけではありません。術後も依然として眼鏡は欠かせませんし、まあ、
遠くを見るときに、手術前はメガネでもすでに度が出得ないところまで来ていたこからすれば、術後はメガネで一応人
並みに近い視力を得たということはあります。だから絵が描き易くなったかというと、それはある程度そうだとしても、だか
らもっといい絵が描けるようになったかというと、それは素直には肯定しねるところです。それよりも・・・とここからの
方が大事なのですが、手術を挟んでひと月余りは、術後に絵がちゃんと描けるようになるか?といた不安があった分、そ
れが取り除かれると自然とエンジンがかかったという部分は大いにあります。見え方が変わったと言うよりも、とにか
くエンジンがかかったのです。ですので、結構意欲的に制作を続けられました。来年の個展(5月30日から6日間)は、
主としてそんな期間に手掛けた作品が多数入ってくる予定です。何が言いたかったかというと、目が良く見えることといい
絵が描けることとの相関よりも、やはり気分というか気力のあり方と、絵心を触発しそれを掬い取る神経回路との相関の
方が大きいということでした。
先述の手術とも関連して何かと医者に通うことが多かったというのも、この1年のことだったでしょうか。眼に続いて歯
とか鼻とか、服用している薬の数とか、Pメーカーの方はい未だに定期検診もあって、年寄の集まりというと、診察券の数
を競い合うといった半分冗談のような話が、まさしく現状でありました。同年輩でも私よりははるかに少ない診察券しか持
っていない人を見ていると、私ももうちょっとましになりたいと思うものの、妙案はないままです。身辺に限らず、TVなどを
みていると世の中健康ずくしといった感があり、健康ケアー総覧といった風潮がますます強まっています。日本
ほどこの健康問題に神経をとがらす国はないようで、健康増進・改善のための秘策はTVでは引きも切らさず放映され
ます。こういう番組を担当している関係者たちが、放映する通りを実践しているなら、彼らには健康問題など存在しないと
いうことになるし、視聴者もTVを神のようにあがめて健康法を実践したら、最早この世から消えてなくなるのではないか。
そのようにも思われるのですがしかし、世の中どうもそのようになっている風でもでもありません。海外で先端の西洋医
学を学び、のちに漢方を研究してきた偉い医師が、"病は気から"に言及していた文芸春秋の下りが印象的でした。英語
ではこの"気"に当たる言葉がないそうで、しかし結局、この"気"の大事さというところに帰着する問題がいか
に多いか、そのことを改めて強調していたのでした。そう言えば、周りを見ていても、健康などどこ吹く風、とやりたいこ
とに熱中している人ほど健康だ、という傾向は確かに指摘できそうです。
確かに、身体のことにあれこれ気を遣っている分を、やりたいことに嬉々として注入している方が、心身相俟って健全
であることは確かでしょうす。先に触れた絵心、これに気を注ぎ続けていられる年を送りたい・・・どうもそこに、言いたい
ことは帰結するようです。
もっといいことを書きたかったのですが、どうも内容の伴わない愚痴っぽい話ばかりでした。
これをご覧の皆様には、どうか2020年が健やかでよい年でありますように。
〇 二つの遠出(12月13日記)
12月に入って県外への遠出の機会が二度ありました。一度はかねてより計画されていた伊豆への一泊旅行。もう一
つは先月も立ち寄った伊那、そこで他界した地元友人の奥様のお参りをするためでした。旅の目的は別にして、以下は
遠出の際の印象記です。
・伊豆
伊豆と言っても一拍だったので、伊東から修善寺辺りにかけての地域限定旅行。河口湖経由で伊豆半島に入ったので
すが、途中フロントガラス越しに広がった富士山は圧巻でした。考えてみると、いつも富士山を見るのは山梨県北西部
の隅、千メートル前後の高い標高の所からです。直線距離にして80`くらい。それでも御坂山塊の上からかなり立ち上
がった姿で、人間で言うと膝から上が見えるといったところでしょうか。だからかなり裾野をひいてゆったりとは見えるの
ですが、河口湖畔に出るとこの大きな富士山! もう裾野である足元から全体が眼前に広がっています。積雪の境目も
はっきりとしたコントラストで、やっぱり富士山は日本一の山という、もう否応なしの感慨を新たにします。
そこから強羅、御殿場経由で伊豆半島の東岸に出て、実に久しぶりに海を目にしました。ちょうど1年前の12月に福
井県で海を見て以来。ここが山梨県人たる所以で、以降ずっと内陸を行ったり来たりしていたわけです。この日の海は
凪いでいて、駿河湾の向こうに三浦半島、さらにそれに重なるようにしてうっすらと房総半島の山並みが水平線状に浮か
んでいました。12月の海と言っても、これといった装いは認められるわけではないのですが、伊豆の海岸線を覆う森や
山間には幾分秋が宿っています。幾分というのは、常緑樹が多いせいもあって紅葉というには憚れるくすんだ茶や緑の
色相という程度の秋で、それが伊豆の海岸線を縁取って続きます。心配された風も穏やかで、伊東のヨットハーバー外
周を散策したときなどは、12月を忘れるほどの穏やかな陽射しでした。

河口湖を過ぎた辺り、車窓一杯に富士山が。
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駿河湾は凪いでいました。
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伊東で一泊の後、修善寺へ立ち寄りました。南国伊豆とは言え修善寺は半島の内陸、ここまで来ると周りの山肌も幾
分色づいているようでした。と言ってもやはりくすんだ黄茶系。私は幼少の頃房総半島に住んでいて、そこで何回かの秋
を過ごしてきたのですが、どうも黄葉とか黄葉という印象は残っておらず、海沿いの秋とはこんなものだったのかも知れ
ません。それでも修善寺の中心部を縫う流れ沿いや修善寺境内はモミジが彩を添えて、初めて秋の最中にいるという感
じを抱きました。

修善寺の川沿いの遊歩道は紅葉が見事
修善寺の鐘楼は背後に竹林、手前に紅葉 →
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昨今どこに行っても観光地は外国人だらけと言いますが、ここ伊豆の代表的観光地と言っていい修善寺では、外国人
は多いもののさほど気になるほどではありません。しかしここでも、あの竹林の中の遊歩道では、中国人一行が平気で
竹の柵をまたいで中に入り込み、写真を撮っている光景をみかけました。京都はこんなものではないようで、つい先ごろ
京都に行っていた同行した夫妻によると、京都の観光客は7割が外国人、その7割を中国人といった感じだそうで、彼ら
の目に余るマナーには気分を害するそうです。文化の違いもあるでしょうし、観光会社もそれなりの対策を払ってはいる
のでしょうが、こうした光景を目にするにつけ、政府の観光政策(2020年4千万人、8兆円のインバウンド効果)はこの
ままでいいのだろうか? という疑念を禁じ得ません。経済面のみを念頭に、おもてなし云々を囃し立てるイケイケどんど
んは、成熟した文化国家のやることなのか? 想いはそちらの方にも飛んでいくのでした。
・伊那
♪風か柳か貫太郎さんが・・・。伊那と聞いてこの歌が思い浮かぶ世代とは、私などの世代が最後くらいでしょうか。そ
の伊那に山菜やキノコ採りに通い詰めたのは、もう30年ほど前から二十数年ほど続いたでしょうか、そこで知り合った
地元のKさんは、後に山菜の師となり、私の仲間ともども毎年春には伊那の山野を楽しんだものでした。先月他界された
Kさんの奥様のご霊前にお参りをするため、妻と伊那を訪れました。いつも中央高速で岡谷のジャンクションを過ぎ、南
下するにつれて左右に広がってくる伊那谷と、その両サイドにせり上がった二つのアルプスの峰々は、ああ伊那にやっ
てきた、という感慨をもたらしてくれるものでした。その同じような感慨に浸りながら伊那のICに近づくと、左手天空には甲
斐駒から千丈にかけての南アルプスの秀峰が近づいてきます。所々雪の沢筋を伴って、それらは右側に見えてくる中央
アルプスのこれまた雪を頂いた峰々とゆったりと対峙して伊那谷の広がりを形作っています。こうした地形は山国長野県
ならではのもので、信州人の暮らしと風土を築いてきた要素と言えるでしょう。長野県に足を踏み入れると、いつもこうい
うことを感じずにはいられません。
束の間の旧交を温め、故人を偲んでから、私たちは足早に伊那を後にしたのですが、帰りしなに農産物直売所で新装
なったグリーンファームに。ここは高台にあって伊那谷を見下ろし、対岸の南アルプルの山々を見渡せる場所で、伊那と
言えばこの風景ともうすっかり私の中で定着している所です。この日も秋晴れの空の下に名だたる山々が鎮座していま
した。これを読まれている方の中には、もう辟易とされている向きもあるでしょうが、性懲りもなくそれらの秀峰を左手から
連呼すると、甲斐駒ヶ岳(信州では東駒ケ岳)、仙丈ケ岳、その右斜面にチラッと北岳、それに連なる間ノ岳、農鳥岳、右
手方向にやや距離を置いて塩見岳、さらに南にうっすらと、これは東岳とか荒川岳、そして赤石岳・・・。それらの雪を頂
いたピークが居並んでいる様を一望できるのです。それが伊那! いいですね〜。私は山登りとはもう縁がないものの、
こうして山を同定して名前を言うのが大好きで、それは昔のアルバムをめくって友の名を言い挙げるのと似た感覚です。
今名前をあげた山々は甲斐駒を除いてすべて3千メートル超の高峰。日本の屋根とはこちら南アルプスの方がそれに
相応しい気がします。

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伊那谷を挟んだ対岸に横たわる南アルプス。左手
一群のピークの中に甲斐駒、中央に堂々と千丈岳、
右手に北岳、間の岳、農鳥岳と続く白根三山が。
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"天空に 雪の峰あり 伊那路かな"
先輩である友人がずいぶん前に詠んだ句で、伊那と言えば思い浮かぶことのひとつです。故人を偲んだこの日に重ね
て、何だかいろいろ思うことの多い伊那行でした。
〇 往く秋点描(11月23日記)
11月も下旬にかかり、庭の樹々には枯葉が僅かに残るだけとなりました。ここにきて氷点下の朝も増えてきて、もう冬
タイヤ装着のタイミングを計る頃合いです。鮮やかだった紅葉が残像化していくにつれ、長い冬の足音が増してきます。
師走という言葉を聞くのが嫌だという友人もいて、確かに往く秋と老人の心は、どこかもの哀しくシンクロするようで、同じ
年齢として私もよく分かります。そこにいくと、若いもんは師走と言えばクリスマスのときめきなんかとシンクロしたりする
のだろうか。そう言えば、もう死語となったかもしれない"女心と秋の空"、その女心は師走になるとやっぱりクリスマスの
華やぎに心惹かれるのでしょうか。何を今さら老人がほざいているのやら、と言われそうですが、最近は若くてこもりがち
な人も増えているようだし、みんながみんな同じように浮かれた心持とは言えない世相というものもまたあるのでしょう。
まあどうでもいいことではありますが・・・。
以下、何点か高原の往く秋点描です。全てスマホでの撮影です。
八ヶ岳が茜色に染まる日暮れ時。 11月15日
○今年の紅葉は冴えず、それでも秋点描(11月2日記)
一言で言うと、今年は冴えない秋でした。毎年同じようなことを言っている気がしたので、このFノートを遡って読み返し
てみると、紅葉が鮮やかだったのは2015年の秋で、それ以降は秋口の長雨とか、10月に入っての台風や日照不足な
どの天候不順で紅葉が遅れたり、やってきても冴えないといった記述ばかりでした。それでも昨年は少し好転したよう
で、10月末に行った瑞牆山周辺の鮮やかな紅葉は印象的でした。それで今年は、と言うと、複数の台風襲来による記
録的な降雨量をはじめとした異常気象の影響で、かなりのところ壊滅的と言っていいほどの状況です。色付く前に枯れ
たり、色付いても冴えない色調だったりで、紅葉を愛でるといった日本古来の風習が、この分だと相当程度薄まっていく
のではないか・・・そんな危機感さえ覚えるこの秋です。さはさりながら、例年のごとく写真を撮ったり絵にしたりと、私は執
拗に秋を追い求めている昨今です。ここだけ見れば秋・・といったスナップを何点か載せてみました。

施設内で見かけたガマズミの実、よく
手入れされているらしく深い赤味です。
(10月22日)
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当家の庭にあるジューンベリー。
(10月23日)
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当家西側の畑地にあるシラカバ。茶がかった
黄葉でスガ、空だけは秋晴れ!(10月25日)
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ツタウルシはいつもの様な色づき具合。
(10月28日)
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野辺山高原の空。空だけはいつもの
秋のうろこ雲(10月30日)
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野辺山のふれあい公園。一番綺麗な所を撮影
(11月1日)
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**上の写真は全てスマホで撮ったものです。スマホ独特の絵ハガキ的な彩度と目鼻立ちのはっきりした写真となっています。
〇 秋の伊那路へ(10月25日記)
21〜22日、秋の伊那路を訪れました。友人夫妻と南アルプスや中央アルプスの雄大な展望を大いに期待してのドラ
イブ企画でしたが、二日間とも天候思わしくなく、また10月下旬になっても秋の深まりはまだ先のことで、台風19号の爪
痕も残る伊那路でした。ですので、食や買い物主体のドライブとなってしまいましたが、今回はそれなりに発見も多く、伊
那地方の奥深さを垣間見たドライブ旅でもありました。
一日目は杖突峠を越えて高遠から長谷村へ。その先は国道152号線を南下して大鹿村へ。そして中川村経由天竜川
を渡って、この日の宿のある駒ケ根へというルート。二日目は駒ヶ根〜伊那市一帯をうろついて、郷土の土産物を物色
するといった旅の粗筋です。
その一日目、大鹿村への国道自体が狭い山道ですが、途中いくつかの林道に入ってみることが目的の一つでした。そ
れで鹿嶺高原への林道、南アルプススーパー林道方面への林道と、二カ所を試みたのですが、どちらもが台風19号に
よる土砂崩れや林道自体の崩壊のために途中で行き止まり。いずれも入口にあった通行止めのたて看板が道路わき
に置いてあったので、入れると思っての試みでしたが、車窓から見かけたダム湖や国道沿いの川には流木があちこちに
散らばっていた様子から、この日の林道ドライブは諦めざるを得ませんでした。周囲の森はちょっとだけ色づき始めた程
度、紅葉には早かったようですし、この先は事前にチェックしておいたスポットを含めての行きあたりばったりのドライブと
なりました。以下、順番にちょっとだけ触れます。
・分杭峠
ここはゼロ磁場として有名なパワースポット。狭い道を辿った山中なのに、中には団体客もいたようで結構大勢の人が
訪れていました。ゼロ磁場による気場?・・・なぜこれがパワーとなるのかは分かりませんが、熱心にパワーを浴びたが
って人がなんと多いことでしょうか。私たちは感心しつつただ走り抜けるだけでした。
・中央構造線の露頭
国道沿いに北川露頭という表示があったので、地質好きの私としては是非とも一見と立ち寄ることに。駐車場から3分
ほど下った川べりの土手にその露頭が見えました。写真の赤茶けた所から左手が内帯、右側の黒い所が外帯。日本列
島が未だ大陸の一部であった頃、南からせり上がってきたプレートが大陸に衝突したその断面が中央構造線と称する
断層で、その境目から大陸側にあった部分が内帯、あとで引っ付いた部分が外帯というわけです。日本海ができるはる
か以前、1億年前という地質スケールの変動を刻んでいる場所ということで、こういうところに地質のロマンがあるのでし
ょうか(とか言って、私は本でかじっただけのファンに過ぎないのですが)。
国道沿いの河川には流木が一杯 中央構造線の北川路頭 赤茶けた色の部分右側に沿って中央構造線が。
・大鹿村のお蕎麦屋さん
かねてより行きたかっ農村歌舞伎で有名な村。ここから鳥倉林道という道を上って紅葉と赤石岳などの雄姿を堪能す
ることが初期の目的でしたが、天候と道路状況からして今回はこれを断念。村のどこかで昼食ということに。道の駅で知
った村の鹿塩地区の山中にある"するぎ農園"という名前の蕎麦屋に行ってみると、これが大当たり!天井まで吹き抜け
の民家で供する豆腐や山菜、キノコなどを調理した小鉢のどれもが美味!お蕎麦は訊けばまだ新蕎麦ではないとのこと
なのにこの旨さと来たら・・・! この店は国道から幾く曲がりも上がった山中にあるのですが、辿り甲斐があること請け
合いです。この地区は昔から塩の産地として、また鹿塩温泉としてもファンが多い所のようで、私らも時間があればゆっく
りと留まりたかった場所でした。ここでインスタ映えのするお蕎麦の料理の写真が載るところでしょうが、スミマセン、その
用意はありません。
大鹿村のお蕎麦やさん「するぎ農園」 中川村の片桐農園 台風で倒れたリンゴの木も。
・中川村にある果樹園
大鹿村から天竜川に下る途中、中川村の片桐農園という事前にチェックしておいたリンゴ園に立ち寄ることに。辿り着
くのに苦労したこの農園、それらしき場所にはリンゴの樹々が茂っていたのでここと断定。電話をして家から出て来てくれ
た農園の方の案内で食べ放題のリンゴ狩りをしました。食べ放題と言っても先ほどの旨いお蕎麦で満腹、夜はバイキン
グで好評価を得ている宿の夕食が待っているので、もいだリンゴ(赤い宝玉)を一個だけ四等分して食しただけでした
が、その美味さに感動。信濃ゴールドや信濃スイーツも織り交ぜて結構な量の土産を買い込む羽目となりました。
そんなこんなで駒ケ根の宿に辿り着いたのですが、途中山中では何箇所もの治水工事の現場脇を通り、何台ものダン
プカーとすれ違いました。台風のあとということもあったのでしょうが、治山治水にかけるエネルギーは膨大なものがある
と実感、TVで目にしていた災害の状況も重なって、これが山国日本の宿命かと思い知ったのでした。
そして二日目、予報では終日雨だったので、この日はどこか屋内で楽しめる施設巡りしかないと思っていたのです
が・・・。ちょっと箇条書き風な旅の印象記です。
"駒ケ根リゾートリンクス"での食事
ここのバイキング形式の夕食と朝食がまた絶品!これがこの宿を選んだ理由でしたが、料理だけでなくスタッフの対応
も印象的でした。エピソードを一つ。夕食時の最後に私はお茶漬けを食べたかったのですがそのオプションが用意され
ていません。ご飯とお新香だけの茶碗を片手に、もの欲しそうにして立ち止まっている私を厨房から見かけたらしい一人
のスタッフがやってきました。私の存念を伝えると、「お茶ですか、それともだしで?」との問い。私が「だしで」と応じると、
それでは作ってきますのでお席でお待ちくださいというではありませんか。この対応に私はすっかり喜んで、持ってきてく
れただしをかけた茶漬けが旨かったのは言うまでもありません。食事を終えた私は、厨房に"ゴチソウサマデシタ"と声を
かけ、親指を突き上げたガッツポーズをしてその場を去ったのですが、明くる朝のこと。朝食を終えてから昨夜お酒をつ
いでくれたフロアマネジャーらしき人を見かけたので、「昨日はお酒、美味しかった」と声をかけると、嬉しそうにして「今朝
は、お茶漬けは?」と返ってきたのです。スタッフ内で話が伝わっていたのでしょう、この一言にまたまた感心して、「この
ホテルは食事に関しては満点」と褒めると、彼も大いに喜んでくれたようでした。ただし、私は「食事以外は若干問題もあ
りますが・・」と付け加えるのを忘れませんでした。不満な点はあるものの、しかしそれは彼の守備範囲外のこと。そんな
指摘をする私は、なんだか自分が三星なんとかの隠れ調査員のように思えたりもするのでした。ここでも料理の写真掲
載は用意していないので悪しからず、スミマセン。
・初冠雪の峰々
この日は終日雨の予報だったのに、朝窓を開けて垣間見えた宝剣岳が雪を被っていた光景は印象的でした。出発後
は幸い雨も止んで空が明るくなっているようです。昨夜来の雨が山上では雪だったようで、この日は南アルプスも雲の切
れ目から白い秀峰が覗草間を見られたのはラッキーでした。赤石岳も光岳も白い姿で、どのピークも初冠雪だったので
しょうか、その神々しさにすっかり魅せられてしまいました。帰ってからこの22日が富士山も甲斐駒ヶ岳も初冠雪であった
ことを知りました。こちらの方は何点か写真を載せます。
ホテルの窓から雪の宝剣岳が 雲間から赤石岳の勇姿が。大きな山です。 お昼頃には宝剣岳もくっきりと
・駒ヶ根から伊那へ
この日訪れたのは、駒ケ根の養命酒工場とシルクミュージアム。そのあとは、伊那の市内へとへと農道を北上し、かつ
て遊んだ小黒川の上流域やよく買い物をした野菜などの直売所であるグリーンファームに立ち寄りました。小黒川では、
暴れ川の本領を発揮するような激しい水量を横目に上流を目指すと、ここもまた土砂崩れによる通行止め。諦めて引き
返し、向かったグリーンファームは、その変貌ぶりにビックリ! 聞けば今年1月からの新装オープンだったそうで、店の
面積は倍増、小動物に触れあえる一角も設けられ、相変わらず大勢の人が訪れる賑わい振りでした。
伊那は北杜市からさほどの距離もない所ですが、訪れるのは何年ぶりのことだったか。かつて横浜にいた時代は毎春
欠かさず伊那に行っていて知人もできたほどの土地なのですが、近くになってなかなか行く機会を逸していただけに、久
しぶりの光景が懐かしく目に映るのでした。
新装なって大きくなった伊那のグリーンファーム
〇秋らしくない秋、進行中(10月18日)
ここ2,3日、山麓では気温が下がって、当家でも今季初の電気ストーブを持ち出して使っています。10月半ばはこん
なものだったか、冷え込むのはちょっと早いような気もしますが、その割に秋が深まりつつある気配がとても薄いのです。
富士山の冠雪も、今年はいまだに観測されていません。例年今頃になると朱赤の実をたわわに付けた柿の木が目につ
くのですが、今年はどうも実は小ぶりで色もくすんだ感じのまま、柿は不作のようです。10月に入ってからはまた、大きな
台風が続きました。19号は市全域で一時避難勧告は出たものの、さほどのこともなく過ぎ去ってくれました。昨年同じ頃
に来た24号のような倒木や停電には至らなかったのは幸いでしたが、全国広範囲に河川の氾濫や決壊が続出して、改
めて自然の猛威を痛いほど感じます。それとともに、これまでとは次元の異なる自然災害が常態化しつつあるという感は
ますます現実味を増したと言えるでしょう。
そんな中、一昨日は所用で甲府界隈まで出かけた折に、車窓から南アルプスや八ヶ岳の山腹を垣間見みると、おそら
くは千数百メートル辺りから上がやや黄ばんだ感じとなっている様子がうかがえました。何のかのと言っても、秋はすぐそ
こまで下りてきているわけで、もう十日もたてば私たちの生活域周辺も秋の色味を増すようになるのでしょうか。こ
ういう時節は、外に出ても風景は中途半端なので、ついつい敬遠しがちとなってしまいます。良く見ればしかし、秋はそこ
ここにやってきているわけで、我が家周辺でも、栗の実は既に落ち切った感がありますし、サクラの梢もわずかに色づい
ています。我が家の庭でも、ヤマボウシの実が赤くなり、一番黄葉が早い部類の我が家のカツラの木は、既に黄
色く染まって、最近の台風で随分と葉っぱが落ちてしまいました。季節は早かれ遅かれ巡り巡ってくるという、ごくありふ
れた結句となってしまうわけですが、その季節の巡り合わせをあと何回経験することやら・・・そんなことも頭を過るこの頃
であります。
○ 八ヶ岳高原の空(10月7日記)
この夏から秋口にかけて撮影した雲の写真を抜粋して載せます。
どれも、八ヶ岳高原の空に展開された雲のページェントです。
(写真に期した雲の名前はどうも自信がないのですが・・・。
○ 見上げてごらん、空の雲を(9月12日記)
ここのところ、空が気になります。そこに浮かんでいる雲が気になるのです。秋の到来を告げてくれ留雲の表情、まだ
まだ夏が終わった分けじゃないと言った雲の表情、そのどちらもが季節の移り変わりを雄弁に物語っていて、これも面白
いのです。
昨年の夏に友人らと、「最近は子供の頃に良く見たあの入道雲を見ていない気がする」と会話したことがきっかけで、こ
とあるごとにそれらしき雲の出現にはカメラを向けるのが殆ど習慣化してしまいました。そうやって良く雲を眺めている
と、いろいろな雲の名前を知りたくなり、ネットで調べたりもしました。雲の名前と種類を記したサイトはたくさんあって、そ
のどれもが"小学校の時に教わった…云々"と記しているのですが、どうも私にはそんなことを教わった記憶はなく、しか
しそこにある雲の名前は、結構耳にしているものが多くあります。例えば、レンズ雲とか鱗雲、羊雲とか、鰯雲、確かにそ
うした呼称は耳にしている一方で、それらを系統立てて、どんな高さでどんな時にできる雲か、山にたなびいているのは
何雲なのか、まあ積乱雲以外には、それらをちゃんと説明できる知識を持ち合わせていなかったことに改めて気付かさ
れるのでした。名前など知らなくても・・・と思うのですが、そこが人間、花や樹の名前然り、山の名前だって同じことで、知
りたくなるのは人情というものです。千差万別の雲は、その気になって調べると面白そうではあるのですが、そこまでの
意欲もないので、知り得た雲についての概略を書いてみます。自分の頭を整理する意味があってのことです。
まず、雲の形状には基本的に積雲と層雲の二種類がある。積雲は雲が重なってもくもくとなっている雲でいわゆるわ
た雲。層雲は箒で横にサーっと払ったような層をなしている雲。
雲の名前は、基本的にはその形状と出る高さによって次のように決められています。
・一番高い所(上層 5〜13千m)に出る雲が3つ。
〜最も高い所に出るのが「巻雲」(すじ雲)。秋の空が澄んでいるときに見られる。
〜形状と高さの組み合わせで命名される雲は、「卷」が頭に付いて「巻積雲」(うろこ雲とかいわし雲)と「巻層雲」(う
す雲とかかすみ雲)。後者はどこか白っぽいヴェールで覆うように出来る雲。
〜ここまではどれもが小さな氷の粒が集まって出来ている。
〜これ以下の高さに出る次の雲は、全部小さな水の粒で出来ている。
・中くらいの高さ(中層 2〜7千m)に出る雲は、「高」が頭について「高積雲」(ひつじ雲)とか「高層雲」(おぼろ雲)。
後者は空一面を乳白色に覆う雲。これ以外に;
〜「乱層雲」(いわゆる雨雲とか雪雲)は雨を降らせる雲。
・低い所(低層 地上〜2千 m)に出る雲は、頭に何もつかない「積雲」(わた雲)と「層雲」。後者は曇り空を覆おう雲。
山の端にかかる雲もこれ。
〜両方が合わさった「層積雲」(くもり雲とかうす雲)は別名「うね雲」、言葉通り細いうね状に並んだ雲。
〜積雲が発達するとご存じ「積乱雲」となって10千メートル以上にまで達することもある。
〜これらの他に、特殊な雲として「レンズ雲」(傘雲、つるし雲)とか波状雲、ひこうき雲などもある。etc. etc・・.。
こういう整理となるのですが、では実物を見てこれは何雲?となると、そう簡単には判定できないことが多いのです。幸
い当地は山があるので、それが高さを知る助けとはなるのですが、中天に浮かんだ雲だと高さは簡単には分かりませ
ん。大体においてその形となると、積雲とも層雲とも判断しかねる場合も多かったりします。さすが雲だけに、ときに雲を
掴むような話となるのです。しかしいずれにしても、空に浮かんだ雲とは千差万別でときにダイナミックな天空のドラマを
演じてくれます。あらゆる人の上空で分け隔てなく展開される空のドラマ、雲はその演じ手ですから、その名前やストーリ
ーを知ると、また違って見えて面白いこと請け合いです。
後日まとめて写真を載せたいと思います。
○ 雲の葬列(8月12日記)
暑い最中に上京してきました。友人の葬儀に出るためで、上京はもとより、クルマで行って帰ってのトンボ返りと言うの
も、随分と久しくやっていないことでした。それで、今回久しぶりに味わった都会のストレスについて書きます。
・ 高密度社会
行きがけは朝の時間帯のラッシュというのを甘く見ていて、中央高速の国立IC辺りから高井戸の出口までの最後の区
間で渋滞につかまってしまいました。この渋滞を抜けるのに60分!そんな表示を見て、あ〜もう間に合わないという絶望
感に駆られたあのとき、前方見渡す限りの車列がピタッと動かなくなったあの逃げ場のないイライラ感をいやというほど
味わったのでした。こういう事態は、わが山麓では起こり得ないことです。長い間忘れていたかつての記憶(と言うか悪
夢)が蘇るようなひとときでした。幸い時間が経過するにつれて渋滞は緩和の方向にあったようで、一時は葬儀に間に合
わなくなった言い訳まで考えたほどでしたが、高井戸のICを出たときは、このまま無事にゆけば葬儀の途中で辿り着ける
見通しとなりました。ところが一般道では環八を離れて小田急線の経堂駅近くの目的地付近で、またひと汗かく羽目にな
りました。駅近くの商店街を通過するのですが、この道の狭さと来たら一体何なのでしょう。途切れることのない通行人と
の接触を避けながら徐行するこの感覚、これまた逃げ場のない窮屈感が蘇る想いでした。さらにもうひとつ、道を間違え
て逆方向に迷い込み、這う這うの体で引き返して商店の人に会場(ある寺のセレモニーホール)の場所を訊ねたときのこ
とです。これまた信じ難い反応で、お寺の名前は知らないらしく、暫く地図を睨んでから、そう言えばそこの角を右折する
とお寺があったからそこかも知れない、と言うのです。結果的にはその言に従って、直ぐ先に見えていた細い道へと右折
し、目的地に着くことができたのですが、先ほどの商店とこの場所は、多分200mと離れていないはずです。そんな近くの
お寺について、その名前と場所が認識されていないという状況とは、これまたどう解釈したらいいのでしょうか。どれもこ
れも、わが山麓では絶対にありえないことです。
・ ボーっと生きてんじゃねーよ!
この日の体験は、クルマと人と建物の密集、つまり都会ならではの超高密度社会というものを改めて想起させるもので
した。生活と仕事、人と社会、それらを繋ぐインフラも、全てを支える情報もまた自ずと膨大で高密度なものとならざるを
得ない・・そこが都会を象徴するところなのでしょうが、その極度に密集して詰め込まれた世界であるが故に、お互いの
関わり合ってなどいられない、という自然の摂理なのでしょうか。これは田舎の低密度社会を考えてみるとよく分かること
で、例えば、田舎では200bの範囲内に何があるか、にどういう人が住んでいるのか、そうした自ずと密にならざるを得
ない関連性の上に人々は暮らしているということです。都会とは全く逆の摂理と言えるでしょう。
とまあ、少し堅苦しくなってしまいましたが、これは八ケ岳山麓という片田舎に十数年暮らしてきた者の実感です。
"ボーっと生きてんじゃねーよ!"とチコちゃんに叱られそうですが、確かにボーと暮らしてきたからこそ覚える違和感に
違いありません。都会人はこんな状況下で生きているんだな、と決してオーバーではなく感じたこの日の体験でしたが、
それはまた、私自身がすっかり田舎の人となっていた証であるとも言えるでしょう。
帰りしなには甲州街道を走ったのですが、ここでもまた昔の感覚を呼び覚まされたのは、この街道特有の狭いレーンで
す。そこをかなりのスピードでクルマ同士肩を寄せ合うようにして走るのも、田舎では決して経験することのないストレスと
いうか、スリリングなことでもありました。都会人にしては当たり前の状況を、この日何度目だか昔の記憶からたぐり寄せ
るようにして経験した次第です。ただ、この甲州街道、走っているうちに段々昔の感覚が蘇り、一端の都会っ子のように
スイスイと走っている自分がいました。結構捨てたもんじゃない、高齢者の免許証返還などどの世界の話だ!・・・この日
珍しく前向きな気分を味わったのですが、その反面、いやいや油断大敵、何せ77歳なのだから、とたがを締め直す自分
もまたいるのでした。
・ 雲の葬列
葬儀のこと自体は割愛しますが、距離を隔てて暫くは顔も見ていなかったものの、親しい友人の死は、やはり寂しさを
禁じ得ません。お別れの場がまた旧交を温める場ともなるのは、こうした葬儀の常なのでしょうが、この日の告別式もま
たそのような機会でもありました。懐かしさと哀しさに包まれ、かけがえのない友である遺族に心を寄せ、最後は葬儀場
を出る車中の遺影に手を振ってお別れをしてきた次第です。
葬儀の後に多摩墓地に寄って、忘れかけていたほどに久しぶりだった墓参りをして帰路につきました。この日は一日
中猛暑で、東京は勿論、中央高速で笹子トンネルを抜けると、甲府盆地もまた猛暑の大気に覆われていました。激しい
上昇気流がつくる積乱雲があちこちに立ち上がって、盆地を取り囲む山塊の上空はすべて積乱雲の壁でした。ことある
ごとに雲の写真を撮っているので、このときも双葉SAに立ち寄り、何枚か写真を撮りました。茅ヶ岳から秩父の山塊にか
けての上空に、西から次々と生まれる積乱雲を見ていると、この日の出来事が重なって、それがまるで雲の葬列のよう
でした。写真を何点か載せます。

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甲府盆地の北側、山沿いの上空に西(左)
から次々と生まれ発達する積乱雲の群
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盆地南側の上空には巨大な
積乱雲が立ち上がっています。
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甲府から笛吹市上空にも巨大な雲の塊
が。真下に雨柱のような影も。夕方、この
一帯には短時間大雨警報が出されました。
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○「子どものように描けるまで一生かかった」(7月30日記)
改めて言葉とは人の気持ちを動かし、心を響かせ心に残るもの。そういうことを実感したのは、妻が「これ読んだ?」と
指さした7月27日付の朝日新聞のコラム「折々のことば」でした。この日は、彫刻家である飯田善國が著した「ピカソ」の
中で語っている言葉が引用されていました。 次の二行です。
十歳で どんな大人より上手に 描けた
子供の ように描けるまで一生 かかった
コラム全体の趣旨は、「ピカソが生涯求めたものは、文明の外に出ることで、本来の野生的な生命力を描き出すことで
あった」という下りに言及し、コラムの筆者は、安住を嫌ったピカソの休みない追及、そのじっとしていられないという子供
の真骨頂に通じる特性こそ、ピカソを動かしてきた原動力ではなかったかと結んでいます。
・改めて自分の画歴
"がれき"で変換したら"瓦礫"と出てしまいましたが、まあ私の画歴はそのようなものかもしれません。それはさておき、
私の心を先ずズシンと捉えたのは、最初の二行でした。思わず私自身のことをフラッシュバックしていました。私は物心
がついたときには絵を描いていました。そして小学生の頃になると、周囲の皆が同じようには描けないことを知り、その
周囲には大人たちもまた含まれているという認識を強く持つに至りました。その後いっとき・・・と言ってもものすごく長い
いっときでしたが、私は絵に対する興味を失い、絵筆も遠ざける中で大人になっていました。また描いてみたいと
思い出したのが、もう五十才を回る辺りのことで、私自身がかつての自分が居たような場所を見つけ出すまで、かくも
長き不在は〜小説のタイトルみたいですが、実に40年ほどに及んだことになります。
・子供のように描くということ
絵を再開して四半世紀、私はずっと描き続けています。と言っても、求道者のようなひたむきさには欠けるのですが、
描くことについての自己開発欲とでも言いましょうか、もっといい絵が描きたいという想いだけは、この間ずっと持ち続
けています。ただ・・とここからが今回のテーマとなってくるのですが、私のもっといい絵を"という想いの中には、もっ
と上手い絵を" という想いがいまだに大きいのです。そこが表現者として、特に私の年代にしてどうなのか、そんな自問
も繰り返しつつ描き続けているのが現状と言えるでしょうか。今日このコラムを読んでハッと思ったのは、この"子供のよ
うに描く"という一事についてでした。
子供のように描くとは一体どういうことなのか。確かに子供のイマジネーションは面白いものだし、とても大人が真似
のできない純粋さが下地としてあります。子供に戻ってものを見、思うがままに表現すること。つまりは作為というもの
から開放され、感じたままを描き出すという自然体の表現こそ、本来求めていくべき姿なのかもしれません。ピカソはそこ
を目指し、そこに辿り着いて独自の境地に至るのに一生を要したと、かの著書は語っているのです。
そう言えば・・とここで思い出すのは、105歳で他界した日本画の小倉遊亀の絵です。歳を経るに従い、彼女の絵は一
切の作為から抜け出して、シンプルな色彩と造形で描かれていて、そこがまた観る者を惹きつけます。歳を経て子供帰り
するのが世の常であるなら、絵の世界もまた子供への回帰が一つのキーワードとなるものなのでしょうか。
・どこに向かう?
ならばここで、"いい絵"から"子供のような絵"に、方針転換をしてみてはどうか、そういう声も聞こえてきそうです。つま
りは、作為を取り払って純粋無垢の境地を追求してみてはどうか、ということになるのですが、ピカソにして一生を要
したこの道は、そう簡単に求めて開いて行けるものではありません。邪念を取り払うには修行僧だって相当な年月を要し
ます。大体において、絵の道を修行と置き換えるほど、私は切羽詰まった状況ではないのです。先ほど触れた上手く描
きたいの裏返しとして、上手くいかなかった、その原因はどこにあったのか、といった分析を未だに繰り返しているのが
現状です。ピカソの言に心打たれる一方で、そもそも子供のように描きたいという素直な心境は、まだ私のものとはなっ
ていないのだと改めて気付かされます。あるとき、ある年齢になって、自然とそんな境地が芽生えるということはあるので
しょう。いずれそういう方向に転換するものなのか、いやそうではなくて、表現の根源とか描く動機とかは人それぞれ、私
には私の動機づけがあって、目指す処は違って当然と考えるのか。そしてどこかで二つの方向が交わるのか、ずっと平
行線のままなのか、それは今は定かではないと言うしかありません。
・日常、そして言葉について
以下は自己分析の続きとして繰り返しになりますが、安住を嫌った休む間もない追及とか、一刻もじっとしてはいられな
い子供の好奇心は、私自身の目下の日常的な意識からは随分と遠いものと言わざるを得ません。休息はいつも甘
い囁きですし、安住もまたどこかに潜んで消えることのない願望です。つまりは凡人の域を出てはいない私が、何もピ
カソみたいにならねばならないということはないじゃないか・・・これだけ書いてきて結論はそこか、と叱られそうですが、こ
れもひとつの結句たり得るものです。ただしかし、この短いコラムに接して、私にはピカソを見直し、ピカソが私自身を眺
め直す鏡ともなったのでした。
それとは別にしてもうひとつ、言葉というものの持つ力、それが人の心を動かすというごく当たり前の事実に、はたと
膝を打ったのもこのコラムだったのです。
言葉・・・それは人間が人間たりうる証です。人の想いや感情、考えを映し出す道具です。故に言葉は文化や芸術を醸
成し、政治や社会構造をつくり出す根っこともなってきたと言えるでしょう。その言葉が、どうも昨今は浅薄でおざなりな傾
向に陥ってはいないか。そんなことに思いを馳せたりもしました。殺伐とした世相、無毛な政治のシーン・・・そこで耳にす
る言葉とは、ネット社会の"イイね"に集約される安易さや、無人称の発言者が発する無責任さにどこかで繋が
っているように思えてなりません。私自身がそんな状況に慣れっこになってはいないか。改めて襟を正してくれた今朝の
コラムでもありました。
○気が付けば夏たけなわ(7月23日記)
日照不足が続き野菜が高騰。日照時間は何でも平年比で2割とかなんとか、くる日も来る日も曇りか雨模様、まこと
に鬱陶しい気候が続いてきました。それが、今朝は窓の外に青空が! そんなに広がりを見せてはいませんが、それで
も外で直射日光を浴びると一端の暑さです。それで今日は物置からパラソルを取り出してデッキに立てました。日影が気
持ちいいという感覚もまた久しぶり。空を見上げれば、あの青色というのは実に透き通っていて、積乱雲のなりかけのよ
うな白い雲が湧いています。あ〜夏はこういうのだった、という感覚が何やら懐かしくもあります。でも考えてみれば7月も
すでに最終週。梅雨明けも間近でしょうし、来週はもう8月という頃合いなのです。それが今頃になってパラソルはじめ、
簾もよしずもそろそろと夏備えを始める有様なのですが、遅まきながら夏を体感する日々の到来を、今年はこうして懐か
しみを覚えながら迎えている状況です。ここは高原なので余計そう言う感覚なのかもしれませんが、大なり小なり各地で
同じような感覚を覚えている人々が大勢おられることでしょう。これで野菜の高騰も終わってくれれば、と期待しますし、
今いちだったモモの甘さも戻ってきてくれるだろうと、生産者ならずともホッと安堵する次第です。
さて、絵の方は、先日アップした「ひと雨」に続き、少し季節を先取りして「野辺山高原 夏日」というのを載せました
(→「野辺山高原 夏日」)。この絵のように夏の太陽が降り注ぐ光景自体は、むろん過去のある夏日のことですが、今年
も遅まきながらその季節がやってきました。
<追記>
・積乱雲〜災害警報
こんなことを書いた日の夕方、南西方面の空を見渡すと絵に描いたような積乱雲が立ち上がっています。これは真夏
でもあまり見られないモクモク度と言いましょうか、うちにエネルギーを秘めた立派な積乱雲です。ちょうど雷警報も出て
いた日ですから、あの雲の下はさぞかし荒れ模様では? などと思いながら何枚か写真を撮りました。ちょうどそんな雲
を見た前後のこと、スマホが聞いたことのない警報音(のような)を出しました。何せスマホにしたばかりで、一瞬何事か
と思ったのですが、スマホを開けると県からの臨時警報で、北杜市に土砂災害警報がでたとのこと! 北杜市と言っても
何せ東京都なら23区にせまるほど広いし、私らの住む場所はどう考えても土砂災害など起こりそうもない土地柄なの
で、一体どこのことかと思っていました。その後の速報やTV報道によると、土砂災害警報のレベル4ということで避難勧
告が出ているとのこと。場所は須玉町の西小尾ということで、これに私はピンと来たのでした。あの積乱雲をもう少し左に
辿ると、まさにその地域に当たります。須玉町は塩川沿いにずっと上流に遡った増富方面で、あのみずがき湖がある場
所。それに、西小尾とは御門とか神戸とか私も何度も絵にして親しみを覚えている山間の集落がある所です。その日の
気象情報では、確かに県の北部、秩父山系に接する一帯に集中豪雨をもたらす雨雲が停滞する様子がレーダーに映っ
ていました。警報の地域はこの一帯の西の外れ辺りです。164戸に避難勧告が出ているとのことでしたが、あの辺りは
空き家も多くお年寄りばかりの山間集落です。何事もなければと念じていたのですが、その後の報道ではこれと言った
災害を起こすことはなかったようで、私の胸騒ぎも収まったのでした。
その積乱雲、撮影したうちから下記2点掲載します。
夕方になって南西方向の空に姿を現したエネルギッシュな積乱雲。久しぶりに見たモクモク感です。
○ 緑深まる八ヶ岳(6月26日記)
そろそろ本格的な梅雨入りとなりそうだったので、晴れたこの日(6月25日)久しぶりに八ケ岳を一周してきました。む
ろんいつもの取材を兼ねたドライブで、あわよくばスケッチの一つや二つはものにしたいと思ってのこと。茅野方面から
奥蓼科を経て麦草峠へ。その先は八千穂高原に寄り道し、今回は稲子湯温泉経由で松原湖へ下り、あとは国道141号
線を野辺山経由で帰ってくるという、およそ100kmの八ヶ岳一周のルートです。数年前の秋に同じルートを走りましたが、
夏の季節ではどうだったか? ともかくも、これは遅ればせながらもその時の印象記です。
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本文記述にはありませんが、これが最初に様子を見に
行った茅野の竜神池。縄文の尖石遺跡や三井の森別
荘地の近くにあります。近所の散歩人以外には殆ど会
う人がいません。
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・「緑響く」
これは東山魁夷が一連の作品に付けたタイトルで、その一連の作というのが青緑の色調の森と池を舞台に、白い馬を
モチーフに配した作品群です。この作画を着想したのが、奥蓼科の山中にある御射鹿池です。池と言っても、下方の田
畑に水を引くための溜池で、ほぼ四角い形状をしたその一辺が人工の土手となっていて、その端の切れ目から溜まった
水が下に続く水路に流れ出ています。土手の部分を見る限りは風情も何もないのですが、道路から池越しに見る対岸の
静けさと緑の潤いに満ちた佇まいが、何とも言えぬ風情を湛えていて観る者を惹きつけるのです。「緑響く」というタイトル
が如何にも‥という感じなのですが、私はかつてここの夏の風景を描いていて、そのとき絵に付けた題名は「緑滴る」で
した。
現在御射鹿池はすっかり観光スポットとしてこの辺を巡るバスツアーには欠かせない立ち寄り場所となっているようで
す。賑わいは覚悟の上でしたが、この日の人出はマアマアと言ったところ。道路を挟んできれいに整備された二面の駐
車場は空いていましたし、出会った観光バスは二台だけ。そんなことはともかく、池は相変わらずの緑滴る佇まいでそ
こに待ってくれていました。やっぱりここの風景は夏が似合うようで、夏と言えば平地だと独特の重ったるい緑に覆われ
るのに対し、ここの緑はやや浅く瑞々しいので、やっぱり私には緑が滴るように映ります。何せ1520メートルの高地です
し、池の底には苔の仲間の植物が繁茂しているとかで、それがまた独特の湖面の色調をもたらしているそうです。東山
魁夷がこの池に巡り合ったのは、もっと手つかずの自然の中だったでしょうから、初めて接したときの印象がどれだけ鮮
烈だったことか、想像に難くありません。私は以前、この御射鹿池の夏の景色に加えて紅葉の秋の池も描いています。
また、昨年の夏にもスケッチに来ましたが、今度はもう一度御射鹿池の夏を描こうと思っていて、以前もそうだったよう
に、この緑の風情をどう画面に掬い取るか、そのことをずっと頭の中で巡らせながら、池を見つめ撮影もしてきました。
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御射鹿池、駐車場から出てほどなく出会う最初の池の景色。
この日は風がなく、水面は鏡のように緑を映し込んでいました。
対岸中央左手のこんもりした樹形の木は、風景のモチーフと
してよく写真に登場。
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・峠を越えて
御射鹿池のあとは麦草峠を越えて松原湖方面へ。麦草峠は標高2127mとあり、国内の国道では二番目に高い場所と
のこと。因みに一番高いのは志賀と草津を結ぶ渋峠、若かりし頃、GW近くになるとここで良くスキーをしたものです。こち
ら八ヶ岳の峠道を辿る国道299号は、地図や標識にはメルヘン街道としてありますが、これは麦草峠という風情のある名
前には相応しくないミーハーの権現のような名称は、かねてより残念に思っています。それはいいとして(よくはな
いのですが)、高度を上げるにつれてカラマツ林の足元をレンゲツツジの朱色が彩っています。植層はカラマツからコメ
ツガなどの針葉樹ばかりとなってきて、その中をつたう峠道はワインディングの連続です。やがて白駒池の駐車場を過ぎ
て下りにかかると、時折陽射しが雲に隠れるようになってきました。すれ違うクルマの数も減ってきましたが、レンゲツツ
ジだけは相変わらず森の袂を所々朱に染めています。
松原湖に向かう途中で八千穂レイクをちょっと覗いてみることに。こちらは釣り人の数も少なく、湖畔をわたる風のみが
肌に心地よく、広々感が倍増された感じでした。ここは絵にするにば殺風景に過ぎる所ですが、周辺のレンゲツツジが彩
った白樺林は印象的でした。分岐点に戻って最終目的地である松原湖へ。今度はいつもの国道から逸れて稲子湯温泉
方面に下り、温泉を右手に見て通過、そのまま山間の展望の利かない山道を左手の大月川沿いに走り続けました。や
がて小さな集落に出てきて、ここは地図で見ると新開という地名。その名の通り、比較的新しく開かれた山間
の集落と見受けます。ここまで下りてくると、それまで隠れ家くれ見えていた赤茶色の崖が切り立つ山が、はっきりとその
姿を現してきます。地図で調べると天狗岳の北東斜面のようで、かつての噴火による山体崩落の跡をおどろおどろ
しく晒しています。やがて道が平たんになると、人家も増えて間もなく松原湖周辺に差し掛かりました。この間すれ違った
クルマはゼロ、小海リエックスのスキー場があったり、八ヶ岳ビューロードと銘打った国道とは打って違って、静かで
鄙びた道のりでした。

八千穂レイクは釣り人のメッカ。その釣り人
も少なかったこの日、出迎えてくれたのは
湖面をつたう風だけでした。
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白樺林と林床のレンゲツツジ
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稲子湯温泉方面に下ると、正面に山体
崩壊の爪痕を残した天狗岳が。
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深まる緑に囲まれ静かに水を湛えた松原湖。
背後のピークは、左から赤岳、横岳、硫黄岳。
この日巡ってきた中では唯一の自然湖です。
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・松原湖はいま・・
松原湖はいつもの通り、深い緑に囲まれてゆるやかに湖面を揺らせていました。もう時計も正午を大分回った頃だっ
たので、一旦141号に下りてコンビニで弁当を買い、すでに蒸し暑くなっていた陽射しを避けて再び松原湖の湖畔に引き
返し、木陰で遅い昼食をとりました。
松原湖は古くから有名な割には訪れる観光客が少なく、私らにとってはいつ行っても静かなのが美質と言えるのです
が、地元の人にとっては、それでは困るというのが本音でしょうか。先の御射鹿池がある時から突然脚光を浴びて訪れ
る人の多い観光スポットとなったのと対照的です。湖畔には樹々が茂っていて木陰が多く、涼を取れるのも、落ち着いて
スケッチできるのも、訪れる人にとっては利点と言えるものです。その松原湖、今日見て回った湖の中では唯一自然湖
で、そもそもは887年の仁和地震により、先の天狗岳が崩壊、そのときの岩屑雪崩が、これも先ほど出てきた大月川を
せき止めて造られた湖であるとのことです。
湖畔で見た魅力的な樹形をした2本の大きな樹が何の木だったのか。気にはなっていたものの近くに行って確かめ
ずに帰ってきてしまったのですが、それと似たような近くの木の写真を目いっぱい拡大してみると、どうも葉っぱがハー
ト形をしているように見えます。帰ってからこの辺りの植生を検索してみると、ブナとかシナノキという記述があったので、
問題の樹はシナノキの公算大・・・でも、ブナも生えている!というのは予想外でした。今度訪れたら忘れずに調べてこよ
うと思っています。それで関連してもう一点、実は御射鹿池でも対岸の樹々の中で一番目を引く樹形の木立がありまし
た。これが中心のモチーフとなる構図が多くなるのですが、以前からこれも何の木なのか気になっていました。どうもこれ
またシナノキではないのか?? 知っている人がいたら教えて欲しいものです。
○ いろいろとあって喜寿を歩む(6月14日記)
もうひと月余りが過ぎてしまいました。何がって、元号が変わってからですが、私の場合はちょうど喜寿を迎えてから、と
いう意味があります。それとは関係なくても、今年ももう半分近くが過ぎ去ったことになります。そして春が殆ど不用意のう
ちに夏となっているという、年々常態化しつつあるような束の間の春という感覚は、世に言う五月病とか、六月病と関係
があるのかも知れません。私は別に不安を覚えたり、落ち込んでいるわけではないのですが、何だか疲れる・・という心
身の状況がこのところ顕著です。それがたまたまこの時期だからなのか、個人的な体験を重ねてつらつら考えてみると、
改めて自分の置かれている年代というか年頃感覚を新たにしたりするわけです。
・ 何だか疲れるこの頃
かねてから予定されていたことですが、妻が一昨年の左膝に続き今年は右膝の方も4月中旬に人工関節を入れる手
術を受け、一月ほどの入院を経て目下家でリハビリ中です。この間、私はひと月のチョンガ―生活を送り、その後のひと
月ほど、半人前の妻の杖がわりをしているところです。そしてこの間私は喜寿を迎えました。古希を迎えてから77と
いう7並びの年齢に達するまでは、何やら滑るようにして月日が経ったという実感です。それはまた、それなりの身体的
劣化もいろいろ顕在化してきた年月でもあります。かつて聞いていた七十代とはこんなものだという話を、いまは身につ
まされて感じているわけで、先の疲れも基本的にはこの年齢と無縁ではありません。
あるTV番組で、俳優の妻夫木某がCM出演の話をしていて、共演者との問答で、"大人とは?"と問うたら、そのとき
の相手方リリー・フランキーから、それは"子供の時に抱いていたイルージョンだ" という答が返ってきたそうで、いたく感
じ入ったという話をしていました。実際自分が大人と言われる年代になってみると、子供のころ抱いていた大人は随分違
うというわけです。同じ問答を"七十代とは"と置き換えてみると、かつて聞いたいた話以上のものだ、という答えとなるの
でしょうか。周りを見ても大同小異、みんなそうした実感を共有していそうです。多少疲れを感じても仕方ないとも言えそう
です。とまあ、何だか一般論地味てきましたが、中には同じ年代とは信じられないほど元気でエネルギッシュな御仁もい
ます。そういう輩はまるで世界遺産だと、私などはつい例外扱いをして、さもこちらの方が自然なのだと自らを納得させた
りするわけですが、人生百歳時代が迫っているとなると、世界遺産などと括って納得してはいられなくなるのかも知れま
せん。いや確かに、そういう時代の足音が近づいていそうな気配であるのも事実です。
・ 高齢化社会
もうか十数年ほど以前のことだったと思いますが、ある地方の山間部の人口構成を取り上げて、65歳以上の高齢
者が全体の25%を占めるという現実から、高齢化社会への警鐘を鳴らした記事がありました。1/4が高齢者とは!
と思ったものですが、直近の統計では、日本全体に占める高齢者の比率ですら、27.7%になっているそうです。周りを
見ていても、それはそうでしょうと頷ける一方で、この比率の変わりようの早さは何だ!と改めて驚きもします。まあ、退
職年齢とか年金支給年齢などが随分と後退している世の中ですから、さもありなん。でも65歳以上を以て高齢者とする
基準も、既に現実離れをしているでしょう。個人的体験ですが、私が八ヶ岳山麓に移住した当初、地区の敬老の日に呼
ばれて簡単なふるまいを受ける年齢が、まさにこの65歳以上でした。それが、確か数年後には70歳以上に引き上げら
れたと記憶しており、それまで見栄を張ってご招待には応じていなかった私は、古希を機に一度だけ会に参加したことが
ありました。その後私が喜寿に至る現在まで、相変わらず私は見栄の張りっぱなしで、いわゆる老人会なるものに背を
向けたままです。
高齢者の年齢が社会的にはどこに置かれているのか、調べてみると、公的年金の受給資格を有するようになる「高齢
者」ば「65歳」、道路交通法の「高齢運転者」の定義は「70歳以上」、また「高齢者の医療の確保に関する法律」では、
「前期高齢者」が「65歳から74歳」、「後期高齢者」が「75歳以上」としてあります。会社の定年制についても、か
つての60才という時代は、いまは夢のようですらあります。何歳を以て老人となるのかは、或は自分でその歳になったと
感じたのはいくつの頃なのか、これは誠に以て個人的な感覚による処大と言えるでしょう。一律に何歳とは言い難いの
が現状であり、多くの人の実感でもあるかと思います。そしてこの個人差は、人生百歳時代の予感からすれば、さらに広
がっていくのではないでしょうか。こういう喜寿もいれば、全然そうでない喜寿もいる。その振れ幅がかなり広がっ
てくるのがこれからの時代なのでしょう。
・ 私という老人
年齢に関係なく自分がどのように映っているかは、自分には一番分からないことの一つではないでしょうか。いわゆる
老人度に関して、例えば外見については一応のイメージは持っているものの、たまに鏡をのぞき込んではイメージとは違
う!と慌てたり(慌ててもしょうがないのですが)、しかし世間の同年代の顔からすれば、さして愕然とすることもないか・・・
と安堵したり。外見からしてこうなのですから、老人度を内面からうかがい知るのは並大抵のことではないと思われま
す。いずれにしても、自分自身で感じている老人度と、他人が観てとる老人度との間には、常にかなりの格差があると心
得るべきでしょう。
もう十数年前(年齢は還暦になりたてぐらい)の小田急線で、子供たちから席を譲られたことがありました。そのとき
は、同情を寄せられたことに違和感を覚え、丁重にお断りしたことを覚えています。それが数年前に上京して電車に乗っ
たときは、席を譲られて少し気恥しい思いをしたものの、ご好意を甘んじて受けました。私は元来白髪頭のために歳以上
の老人と見えていたきらいがあったので、車内ではなるべく座席の前には立たないようにしていたくらいですが、最近は
こうしたご好意には素直に応じようとおもう心境になりました。心境というよりも、席に座るのを自然に欲しているフィジカ
ルな状況になっているからであります。
同じような経験は、最近市役所に行ってよくすることです。後期高齢者となった時から、諸々の申請だとか手続きをする
際に、窓口の人たちの親切心が増しているのを感じるのです。まあよくもここまで足を運んでいただいて・・・と言った塩梅
で、これなどは、見かけ云々に拘わらず、実際の年齢からくる社会通念がまかり通っているわけで、それはそれで素直
にありがたいと思う反面、どこかに自分はまだそんな扱いを受けるほどではないのに・・・といった強がりというか
面はゆい想いもまた禁じ得ません。こんな体験をしながら、当事者としてはいつの間にかそうした行為を自然なものと
受け止めるようになっていくのでしょう。
もう一つ、これは誰しも感じるエピソードだと思いますが、毎日飲んでいる薬の種類とか、分厚くなったお薬手帳から、
わが身が年相応というか、これを以て人並みというか、そのように感じられることは確かです。私自身は、ここ数年で急
にその人並みとなってきた感が否めません。それまでは、他人と較べて自分はまだそこまでは・・といったちょっとだけ優
越感を覚えていた節もあったのですが、ここ数年来、軽度の肺疾患だとか、心臓疾患、Drヘリ騒ぎからペースメーカー装
着、さらには白内障や緑内障と言った眼の障害などなど、身体的修繕が重なるに連れて、いつの間にかどっぷりと人並
みにまみれてきたように思えます。また、周囲の知人、友人や同年輩の著名人の死に接したりしつつ、こうした歳相応感
はそれなりの説得力を増しているのも事実なのでしょう。
歳相応の老人と言ってしまえばその通りと言えるのでしょうが、最後の砦となるところにはやはり気持ちの問題がある
はずです。年齢とか老人度というのは、その半分以上は気持ちの持ちようによる処が大きいでしょう。その点からする
と、実年齢と老人度という関係は、人それぞれで簡単な相関関数では表せないのだと思います。さらに言えば、老人度と
はむしろ人間の味を計る目安であるというポジティヴな見方だってあるはずです。ましてや人生百年時代、実年齢という
モノサシだけでは計り知れない個々人の老人度があって、その多様さこそが自然な時代が来ているのだと言えそうで
す。
さて、ここまで書いてきて、“私ごとき年齢で何をほざいているか” という声もたくさん聞こえてきそうです。
自分自身を図り知る・・・そんな時がくるとすれば、それはもっと先のことになるのでしょう。先の気持ちのもちようについ
て自問してみるに、今現在唯一出てくる確かな答えは、"もっといい絵が描きたい" という欲望だけは変わらずにある、
ということでしょうか。実際この欲望は、私の暮らしのメインエンジンとなっていますし、当HP上でもそのことを証明してゆ
きたいものとだと改めて思う次第です。
○令和の春(5月14日記)
令和の春とはややこじつけの感もありますが、今年は元号が変わってからまだ続いた長い連休の中、たけなわの春は
あっという間に通り越していった面持ちでありました。この山麓にも人々がどっと押し寄せ、何時にないクルマの数に恐れ
をなして、我々住民は観光スポットを避けてひっそりと時を送ったのでありました。それでも春たけなわ、じっとしているだ
けでは気がすまず、静かさを保っている場所に出かけては、今年の春を感じ取らんともしました。我が家の庭もあっとい
う間に春が通過しつつあるようで、もうこれはここ十年来くらいの体感なのですが、この春という季節が年々短くなってい
るように思えて仕方ありません。そんな中で撮った写真を何点か載せます。

5月3日 我が家の餌台を求め
て飛来したシジュウカラ。背景の
ピンクは満開のミツバツツジ。
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5月7日 清里の丘の公園近くにて。
新緑が輝くばかり!
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5月7日 こちらは300bほど高い
標高の川上村。季節は半月ほど
遅れて今頃でもコブシが満開!
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5月8日 小淵沢の田園地帯。
残雪の南アルプスを背景に
もう代掻きが。
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5月8日 長坂町の酪農学校の土手
ケヤキやサワグルミの新緑が滴るよう。
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5月13日 我が家の餌台の大常連
シジュウカラ。最初の写真から10日
たって、背景は緑一色です。
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ところでこの「令和」という元号、「平成」に引き続き、と言うよりももっと古くは「昭和」以来ずっと、私の名前との縁が続
いているのです。私の名前は「成和」(・・・これを「マサカズ」と読むのですが)で、三代にわたって名前のどちらかの漢字
が元号に入っています。この分で行くと、仮に私が生きている間に再び新元号が登場するとしたら(・・などと書くと大変不
謹慎なのは承知の上で)、今度はまさに「成和」と書いて「せいわ」となるのではないか。な〜んてギャグを言いたくもなり
ます。
ところで(・・その2です)、私の誕生日は5月2日ですが、年齢が決まるのは誕生日の前日だそうで、ですから私の場合
は、5月1日を以て満一歳として社会的に登録されるというわけです。年金支給の計算などの年齢もこの数え方に寄るの
だそうです。それでもって(・・さらに続きます)、私は今年で喜寿をむかえますから、令和元年の初日に喜寿となるとい
う、大変めでたい巡り合わせという次第です。だからなに? と問われると、なんでもないのですが、これだけ目出度いこ
とが重なるのだから、金一封が出てもよさそうなものだと、独り思うわけです。まあそういう因縁で迎えた今年の5月でし
た。長々とどうでもいいことにお付き合いいただいてありがとうございました。
○ 毎年のことながら・・春です!(4月22日記)
本当に毎年のことながら、こうして絵以外にも春の素描を掲載させてもらう次第です。雪国のそれほど劇的ではありま
せんが、八ケ岳山麓でも春の表情は様々で、そのどれもが輝いて見えます。今年はしかし、季節の進行が早いものと思
っていたのですが、花の開花を見ていると、どうもそうでもないのです。いっときの寒さのぶり返しとか、4月に入ってから
の降雪などがあったせいでしょうか、当地の状況を見ると、昨年と較べてサクラの開花が1週間ほど遅く、コブシに至って
は、もう今年は全滅かと思っていたら、2週間も遅く咲き出しました。ですから、現在はサクラもコブシもほぼ同時期に満
開という様相を呈しているのです。同じように寒暖の中に身を晒しながら、開花の遅れるタイミングがこれほど違うという
わけで、不思議といえば不思議です。でも人間も人それぞれ違うわけわけなので、植物もまた然りと言えば然り・・・という
話ではあります。足元ではユキヤナギうあレンギョウが咲きそろって、所々濃いピンクのカンヒザクラ系の花も交じって、
春爛漫の彩が山麓のあちこちで見られます。尤もコブシはやはり不作の年のようで、同じ株で昨年と較べても花付きが
劣るし、あの白い清々しさも乏しいという感じであります。
・ 富士川町の病院通いもまた・・・
さて、今春は我が家にとって夫婦とも手術と縁が切れない巡り合わせとなっておりまして、私は眼の手術から二か月が
経過して、ほぼ通常の状態となってはいるのですが、妻の方は16日に右膝の人工関節手術を受けて目下入院中であり
ます。術後の経過は順調のようなのですが、入院している病院が富士川町にある富士川病院です。前身は鰍沢病院と
称してあの有名な落語の鰍沢にあった病院で、現在はこの鰍沢町が平成の合併の一環で増穂町と合併し、富士川町と
なったという背景があります。小淵沢からだと約50キロで、高速を使って45分ほど。通うのは結構大変ですが、中部横断
道を南下すると季節は一段と進んでいて、甲府盆地の際から立ち上がる山々は新緑で盛り上がるかのようです。そこで
はヤマザクラがちらほらと混じっていて、河原も土手もすっかり春の装いです。一帯に広がる果樹園ではサクランボが白
い花がこぼれるように咲かせている一方、モモはあのピンクの花が殆ど散ってしまって、桃源郷はすっかり影を潜めてし
まいました。それにしても、高速道の高架の上から眺めるこの果樹園の広がりは、それを取り囲む山並みとともにまさに
山梨ならではの光景! 加えて御坂山塊の上から顔を出している残雪の富士山や、南アルプスの青い山並みの切れ目
から南下に伴って一つひとつその姿を覗かせる真っ白な白根三山、更に振り返ればこれまた残雪の八ヶ岳と、この病院
通いは贅沢な山梨の風景を楽しめるドライブでもあります。
例によって写真を何点か載せます。

畑中のサクラ満開!(小淵沢)
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サクラ、コブシ、ヒカンザクラ そして菜の花も
一つ風景の中に同居してます(長坂)。
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サクラのトンネルは帝京高校の境内(小淵沢)
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道を挟んで左コブシと右サクラ(小淵沢)
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富士川流域と山々は新緑の季節。ヤマザクラも点々と
見られます(富士川町)
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富士川の土手から姿を見せる残雪の八ヶ岳(富士川町)
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○サクラなのに雪(4月10日記)
桜前線いよいよわが山麓にもせり上がってきたというのに今日は朝から雪が積もっています! "なんてこった" とう
そぶいてみたところで、こういう事態は珍しいことではなく、これまで何度も経験してきたことではあります。しかしまあ、こ
の時期で今冬一番の積雪、しかも4月も半ばにかかるという時期とは、花ならずともちょいと戸惑いを禁じ得ません。大
体クルマもノーマルタイヤに履き替えてしまっているし、もう雪かきはないだろうと、それ用のシャベルは物置にしまってし
まったし・・・。明日は今季初の水彩教室だというのに、外でスケッチができるのか、室内の教室に切り替えて教材を準備
しておくべきか、これまた悩ましいところです。いずれにしても、これで開花が少し遅れるとか、咲いた株は花の寿命が少
し伸びるということになるでしょう。よせばいいのに、雪降る中を外出して写真を撮ってきました。一応ご披露しておきま
す。
我が家の窓からは今年一番の雪景色。 ちょっと外出して、小淵沢の道の駅に。観光客の人影もなく、
これが4月10日、もうサクラ咲く季節なのに。 開花寸前のサクラも雪の枝を重そうに広げています。
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○春の兆し 素描(4月4日記) 収穫したフキノトウ
山麓の遅い春、 ここ2、3日の冷え込みで少し足踏みしたものの、あちこちにそのサインを刻み始めています。言葉よ
りも画像の方が手っ取り早いので、何点かここ数日に撮った写真を載せます。サクラに関しては、大雑把に言えば中央
線から上ではまだ開花に至っていないようです。ずっと下って釜無川の辺りでは既に開花しているようで、有名な実相寺
(武川)の神代桜はもう満開の様子をニュースで見ました。あそこはエドヒガンが主だと思うので、ソメイヨシノとはまた違
うペースなのかと思われます。 いずれにしても、今が一番待ちわびて開花への日数を数える頃ですが、今年はサクラ
の前に森を彩るコブシの白が余り見当たりません。コブシは1年おきに花付が良かったり悪かったりを繰り返すようで、
昨年はこの白い姿が見事だったので、今年は春を告げる役割を他に譲った様です。

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ここは標高700bほどの釜無川河岸丘の斜面。
サクラの蕾がほころび始め、背景には残雪の
南アルプスが。当地ならではの春の光景です。
(白州町花水)
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釜無川の岸辺に下りるとヤナギが黄緑色の
新緑をまとい、まだ冬色の周囲の森に先んじて
一足早い春到来を歌い上げているかのようです。
(小淵沢と白州町の境)
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谷戸野道を伝うと、残雪の鳳凰三山が快晴
の空を背景にくっきりと横たわっています。
木々の梢と畦の斜面にはかすかな春が宿り
始め、あ2週間もするとすっかり新緑が一帯
を覆うようになるでしょう。 (長坂町渋沢)
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我が家の野鳥の餌台には、真冬には姿を
見せなかったアトリやスズメまでがやってきて、
賑々しく場所の奪い合いを演じています。
(小淵沢町上笹尾)
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〇 入院記〜眼の手術(3月3日記)
・ 2月は入院月?
三日前に山梨医大から退院し、我が家で落ち着いたところでこれを書いています。入院は白内障と緑内障の手術を受
けるためで,両目ともいっときに済ませたかったので、2月13日から27日までの2週間を要しました。手術と言えば、ペ
ースメイカーの移植手術を受けたのがちょうど1年前のことでしたから、何と2年連続しての手術ということで、まあそれだ
け後期高齢者のガタが身体のあちこちに溜まっていたということです。我が家では、妻が昨年の左膝に続いて今年も右
膝の人工関節手術を受ける予定ですので、夫婦揃ってかわりばんこ大々的な修復を施しているわけで、これらが一件落
着して漸く人心地という、そんな年頃と言えるのでしょうか。
それで眼の方ですが、この手術日程は半年前から決まっていたので、元々は遠くも近くもとみに見えにくくなって眼鏡で
はこれ以上度が出ないところまできていたのです。白内障の手術は時間の問題だったのですが、実は私、それ以前の
数年前から緑内障の点眼をずっと続けてきましたので、紹介された眼科の先生からは、白内障の手術はいい機会なの
で一緒に緑内障の手術も受けてはどうかと勧められたのでした。正確に言うと緑内障の進行防止のための手術で、眼球
内を一定の圧力に保つ役割をしている房水の流れを良くするべく、その排水溝に当たる部分を広げて、眼圧を低いレベ
ルに保つというのが手術の骨子となるものです。細かな話は割愛させてもらうとして、どんな手術にしてもそれを受けるの
はかなりのストレスとなるものなので、どうせならそういうストレスは一度で終わらせたいと、今回の入院となった次第で
す。
・ 同室の県人達
この2週間、横になって看護を受ける病人というわけでもないので、2度の手術ではそれなりの緊張と忍耐を強いられ
たものの、術後は次の日から歩行ができますし、眼帯着用でもモノも見られるので、時間を費やすのがなかなか大変で
した。幸いというか、同室の人たちは陽気で人懐っこい地元民ばかりだったので、多少うるさかった節があったとは言
え、かなり退屈凌ぎにもなりました。昨年の入院の時も感じましたが、山梨県人同士となると、それは看護師も含めて自
ずと仲間意識が芽生え、四六時中話が弾むようです。県人は案外お喋りなのでしょうか? 4人部屋の中で私は、今は
県人とは言え、彼らからするといわゆる"来たり者"、彼らの話にはすんなりとは入れないし、第一それなりにプライバシ
ーも保っていたい部分もあったので、ある時はカーテンを閉め、時々は顔を出して会話う交わしつつ一定の距離感を保
って過ごしてきました。隣の人は、私が入室してすぐに言葉遣いから他県からやってきた人だと分かったそうで、それは
ほんの一言二言だけ(おそらくは"よろしくお願いします"といった程度のこと)でピンときたらしく、そんなものかと、その後
は意識的に彼らの口調を聴いていました。すると、結構頻繁に山梨なまりというものがあることに改めて気付かされまし
た。例えばこんな具合です。
・・・「雨は降らんよ」「○○しちゃいれんな〜」「夜寝れん」・・・これらは否定の言葉がしばしば「ん」を伴う省略形になるケ
ース。「俺のはねえだか」「ものはかんげえよう(考えよう)」「けえる(帰る)」「へえる(入る)」といったえ行変換を多用するこ
と。
「行ってみろし」「寝てろし」といった命令形。他にも「怖いだよ」とか「○○になっちもう」「それはいいんだけんど・・・」など
など。
・・・暇に任せてメモしてみると、なかなか馴染み易く愛嬌たっぷりとも思えてきます。
そういう同室の人たちといつの間にか垣根も外せて、いつも出歩いてばかりいる隣の御仁に誘われて、ある時は4人
連れ立って院内の散歩もし、時間外出入り口から外に出てシャバの空気も吸ったりと、この部屋は病棟には似つかわし
くないほど賑やかで陽気な部屋という様相を呈してきしました。考えてみると、こういう体験は私が暮らす地区では、数か
らすれば移入者の方がずっと多くなっているし、集会では自ずと言葉遣いが標準化される方向となるので、日頃は滅多
に感じられないことなのです。だから山梨弁は貴重な体験だったし、少なからず次の手術への緊張を和らげてくれるもの
でした。
・ 暇つぶしのTV
時間を弄ぶとついついイヤホーンを耳にしてTVをつけてしまうのは人情というもので、あのかしましい人達にしても、静
かだなと思ったら、TVがついているのが常でした。他にやることもないとなると、またまたTVのあら探しが始まるのもま
た人情というものです。その一つが、これはいつも思うことなのですが、どの局もまるで金太郎飴のごとく(この比喩は若
い人には分からないかも?)、同じ話題、同じ切り口、同じようなコメントで氾濫しているということです。話題の良し悪しは
別として、一つの例が池江選手の白血病、続いて堀ちえみの舌癌・・・この種の話題は近年SNSでの告白に端を発して
TVが飛びつき、世に広がっていくという図式が常です。それが例えば脊髄ドナーの増加といった好ましい社会的現象に
結びつくならいいのです。しかしながら、最近殆ど毎日目にするイタズラ動画とか目を覆うばかりの忌まわしい動画となる
と、報じる局の方はあれだけ繰り返し露出するひつようがあるのか、もっと自制してはどうなのかと、いつも疑問に思いま
す。あれでは類は友を呼ぶといった社会の悪循環を創り出すのではないのか、だとすると野放図な報道姿勢にも罪があ
るのではないのか。・・・とまあ、あの金太郎飴の如き報道の現状からすると、いくつもの局が存在すること自体、日本社
会の無駄と矛盾の現れではないか、などなど・・・。
尤も、悪い話ばかりではありません。あの「はやぶさ2」は喝采ものでした。あれは、今や少なくなった世界に誇れる日
本の技術の査証でもあり、現代社会における一つのロマンとも言える快挙でしょう。この件で一つ付け加えると、「はやぶ
さ2」に喝采のメッセージを発信したあのQUEENのメンバー、ブライアン・メイは、なんと天文学者というではありません
か! イイデスネ〜こういう話。私は"この人が!"と驚くような意外性が大好きで、例えばアメリカのNFLとかNBAといっ
たプロの選手の中には、弁護士だとかピアニストだとか、実に意外な顔をもつ選手も大勢いるようで、これは西欧と日本
の文化の違いと関係があるのか、日本人も画一から脱してもっと個性的であるべき、だなんて思ってしまうわけでありま
す。TVの報道の姿勢然りです。
さて、手術を終えて、視力の方はそれなりに改善したのですが、元来強度の近眼で長い年月を送ってきたことや、自身
の老齢化という関係上、私の眼に適ったレンズはある程度限定的なものだったので、多くの方が経験するような遠くまで
スッキリと明るく見えるところまでは行かないものでした。しかし、退院後すぐにあつらえた眼鏡は視力1.0まで見えて、
私としてはかつてこれほど見えたときはなかったのではないか、と思われるほどです。通常は安定した視力になるまで
2,3か月はメガネはつくらないものだそうですが、私の場合は何しろゴミを捨てに行くのもクルマというクルマ社会ですか
ら、一時しのぎを承知の上でメガネをつくったのです。 そのメガネで見て一番印象的だったのは、皮肉なことに家に帰っ
て観たTVでした。あの画面がここまでクリアーなものだったのかと、これは小さな驚きでした。この上4Kだ8Kだなんて
無用なことと思えてきます。
という次第で、今後の外来での診察を経て、目の見え方や眼圧が定まった時点で、日常的なケアーや、メガネの作り
直しをやらねばなりません。しかし、懸案だった目の問題で取りあえずは関門を突破でき、今は安堵して春を迎えられる
のは嬉しいことです。しばらく途絶えていた絵の制作もま始めねば、と思っているところです。
〇 何を描いてきたか?(2月5日記)
このように切り出すと、何か意味深な内容に聞こえますが、決してそのようななものではありません。
来週半ばに、私は手術入院をする予定です。白内障の手術と同時に緑内障の進行防止手術を受けるためで、これが
両目で2週間の入院が必要です。現在は従って、インフルエンザなどにかからぬよう自重が必要ですし、落ち着いて作
品制作にかかれる雰囲気でもありません。それで、時間つぶしも兼ねて、自分がこれまでどんな絵を描いてきたのか、ち
ょっと調べてみることにしました。元々は、最近描いている途中、モチーフがどうも甲斐駒の絵に偏っていないか、気にな
ったことに端を発しています。それで、同じモチーフでも八ヶ岳とどちらが多いのか、山の風景にばかり偏っていないか、
それは絵のフィールドが八ヶ岳山麓周辺なのだから自然なことなのか? などなど、日頃は気になっても振り返ってチェ
ックしてみる機会もなかったので、この際併せて確かめてみた次第でもあります。
対象となる絵は、2005年当地へ移住後の14年間にわたって描いたもので、私のHPに載せている作品に限定すること
にしました。私が描いているのは水彩による風景画ですが、ごく最近までは個人的な嗜好によって"おわら風の盆"の絵
も描いてきました。それらのうちから、代表的なものを折々の個展で披露してきたのですが、出展の機会がなかった絵と
か、ごく日常的に描いているスケッチもJPには相当入っています。数えあげてみると、その数は466点ほどで、これにお
わらの絵(28点)を加えると、この14年間でおよそ500点の絵を描いてきたことになります。この数自体は、年間にすると
35、6点くらいなので、30号、50号と言った大きなサイズの制作は手がけてこなかった私とすれば、大した数字とは言えな
いでしょう。この際数が問題ではないので、取り上げてきたモチーフについてはどうだったのか、以下はそれを探った結
果です。
先ず、最初に気になっていた甲斐駒の絵への偏重に関しては、必ずしもそんなことはなく、むしろ八ヶ岳の絵の方が点
数としてはかなり上回っていました。八ヶ岳に関しては、特に移住当初、漸く八ヶ岳山麓、それも南麓と称する地にやって
きたという感慨が大きかったせいか、スケッチでこれを描く機会が多かったので、この点を考慮すれば両者の差はさほど
はないという結果です。
次に、八ケ岳山麓という環境下とは言え、山の風景が多すぎはしないか?といった懸念についてです。これには本人も
意外と思うほどの結果が出ました。山を主体とする風景画は、当地で描いた風景画全体の40%と、半分にも届かない
数字だったのです。それでは、過半の60%を占めていた風景画は何かというと、このうち森や木々、中でも花木、そして
水など、自然に宿る四季の風景を描いたもの約6割を占め、集落などの人気が感じられる風景が約4割を占めるといっ
た結果でした。特に後者については、移住当初は余り目が行かなかったモチーフだったのですが、山麓生活の後半部分
に至って、そこに注目の度が高まってきたという感じです。
以上を数字で示すと次の通りです。
○山を主とする風景画 ・・・ 163点
うち、・八ヶ岳主体 72点
・甲斐駒主体 57点
・鳳凰山など 17点
・その他の山が主体 17点 (うち富士山 8.秩父方面 9)
○それ以外の風景画 ・・・・ 236点
うち@、樹々や水、花などをモチーフとした風景画 ・・・ 150点
その内訳は、・川や湖など水が主体 48点
・森や林、樹木主体 43点
・サクラなどの花木や花主体 53点
・その他雑草など 6点
うちA、集落など人の気配のある風景画 ・・・ 86点
○その他(野鳥など) ・・・7点
もちろん、こうした風景画は複数のモチーフから成り立っているケースが多いので、必ずしも以上のような単純な仕分
けに収まるわけではありません。例えば、山を背景にしたサクラの絵とか、流れを縁取る樹々の表情とか、或いは集落と
背後の山といった当地に特有の自然風土を描いたものなど、夫々のモチーフの組み合わせで風景を捉えるのはごくごく
日常的なことです。従って、今回の仕分けは、夫々の作品について描いた本人の主観で、中でも一番のモチーフであっ
たか、というスタンスで振り分けをした結果といえるものですが、一つの傾を示す数値とは言えるでしょう。
いずれにしても、人の数値的な記憶とか感覚とは随分と曖昧なもので、こうして調べ直してみると、我ながら興味深い
結果となりました。特に、決して山の風景ばかりではなく、それ以上に木々や水の織り成す風景や、自然と人の織り成す
風土といったものを描いていた点数が多かったことが数字として表れたのは、小さな驚きと同時に、ちょっとした喜びが
ないまぜになった気持ちでした。これを以て自然なバランス感覚で風景と接していると言えるのか、或は視点があちこち
に分散されて浮気気味と言うべきなのか・・・なかなか判定のし難いところです。画家の中には例えば富士山を生涯のモ
チーフとしたり、かつて東北で観た画家のように、最上川を終生追い求めて描いたり、或は一つの心象的なイメージを追
求して描き続けるような画家もいます。しかし、自分はそのようなタイプではないし、そのような真似のできる絵描きでもな
いことはよく分かっています。その意味からは、今回の調べ事は、至極く自分らしいところを再確認できたという結果では
ありました。
"So what?" (だから何なの?)と訊かれると答えに窮します。確かに"だからこうだ"という殊更伝えたい中身もなかった
次第で、ここまでお付き合いいただき、ただただ感謝、恐縮するのみです。ありがとうございました。
○ 野鳥のスナップです(1月24日記)
久しぶりに小雪がぱらついた日曜日(20日)、こういう日は山で餌にありつくのが大変と見えて、我が家の餌台と水飲
み場は大繁盛! 群がる野鳥たちを部屋の中から撮りまくりました。
余りにも可愛く、また餌場や水飲み場で展開するいろいろな仕草やそこから伝わってくる必至さは、観ていると野鳥たち
の世界に引きずり込まれる想いで、時間が経つのを忘れるくらい。連写して撮ったうちから何点かをご紹介します。
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シジュウカラが一人気持ちよさげに
水浴びを。
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そこにやってきたヤマガラ、「早く場所を譲れよ」
と言わんばかりに待機。
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しばし動きを止めて「さてどうするか」と
シジュウカラ
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やがて水飲み場を独占したヤマガラの
この「気持ちい〜〜〜」という仕草!
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これがカワラヒワとなると、近寄ってくる者
には「出て行け〜」との激しい威嚇に。
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こちらは餌台に群がるイカル。餌場争いは休まる
ことなく、常に何羽かが飛来しては何羽かが
はじき出されます。
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〇 冬の徒然に(1月19日記)
・乾燥
ずっと雨が降っていないので、大地はカラカラ状態の冬です。クルマも埃がこびりついてちょっとやそっとでは取れない
し、外で作業すると砂ぼこりが舞います。お湿りが欲しいところですが、そんなことを言っていて大雪に見舞われたのは5
年前の2月のことでした。あの時は二週連続で南岸低気圧に襲われて都度雪が降り、特に二度目の降雪がドカ雪となっ
て当家周辺で1.2メートル位の積雪になったでしょうか。普段ほとんど雪の積もらない甲府でも1メートルを超える積雪で、
こうした経験の少ない山梨県では、他県からの応援を得て何日もかけて除雪取り組んだのでした。不足している除雪器
具を手当てしようにも、店まで出られない、店に行っても商品は入らないで、大混乱を来したのですから油断は大敵。願
わくば、穏やかな冬が続いて欲しいものです。
・フラストレーション解消!
先日このFノートでも書いた当HPの移転問題・・暫くはこれが私のフラストレーションの元でした。とにかく、こうしてHPを
更新してはいるものの、HPの骨格だとかデータ処理のやり方といった基礎知識には皆目音痴状態の私のことです。そも
そもサーバーとかドメインとかURLとかデータの転送等々を正しく理解できていないので、何をどうやればいいの暗闇状
態でした。ジオシティーズからのサービス停止通告には、サーバーの移転に関する手引きが添えられていたのですが、
これが何度読んでもピンとこない。新しいサーバーへの申し込みの段階からして、判断できないことが続出、何を選択す
ればいいのか、間違うと修復のつかない事態にならないか、などなど、戸惑いは拭えません。それで、こうした苦境をこ
のFノートに記したのですが、それが期せずして幸運を呼んでくれました。これを読んだ絵の関係の知り合いの方が、親
切にも助け舟を出してくれたのです。山麓に出向く機会があるのでお宅に行ってヘルプしてもいいという申し出! 大袈
裟に言えば地獄に仏、二つ返事で協力を要請したのでした。その結果、漸く当HPの移転が相成りました。そのお方には
感謝、感謝! HP地獄を救う手がかりとなったのもこのHPだったという思わぬ展開でした。
新しいURLは http://kuri-watercolor.staba.jp/ このFノートをお読みいただいているということは、既に新しい居所
にアクセスいだいているということなのでしょうが、ブックマークをしていただいている方には、念のためこちらのURLに切
り替えておいてください。かくしてフラストレーションを拭い去ることができ、冬の青い空が心から青く映るこの頃。新作も
間もなく登場の予定です。
・ 我が家周辺は目下こんな具合
百聞は一見に如かず・・・で、写真を何点か載せます。
我が家の西側、広い畑地を挟んだ対岸の中央が我が家 当家北側の小径から。妻と散歩中に撮影
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八ヶ岳を背景に燃え上がるどんど焼き
〇 今年のどんど焼き(1月14日記)
私の住む小淵沢町の篠原区では、新年を迎えて第2日曜日(のあたり)にどんど焼きを行います。因みに、これは本来
小正月の行事だそうで、小正月とは1月15日ということです。元々は道祖神を祭る行事に端を発したらしいのですが、現
在は神事としての側面は薄れ、お正月飾りなどを燃やして残り火で"まゆ玉"と称する団子を焼いて食べ、迎えた年の無
病息災を祈願する祭事というのが一般的になっています。日本の各地で同様の行事があると思いますが、私はこのどん
ど焼き、当地に移住して初めて体験しました。
このどんど焼きについては、以前このFノートでも写真を交えて書きましたが、前の週にやぐらを組み、カヤとか竹を集
めて組み込み、当日はそこに点火するだけで高く燃え上がるという段取りを済ませておきます。すべては当該年度の担
当役員の手でお膳立てされるのですが、私も3年前にはその一員として立ち働いたことがありました。
今年の特徴は、何と言っても連日のカラカラ天気のせいで、点火するとすぐに勢いよく炎が立ち上がり、晴れ渡った青
空に向かってメラメラと突き上がっていったことでした。そしてこれまた乾燥した大気に煽られるようにして火勢は強かっ
たものの、長持ちせずに例年よりはずっと早く燃え尽きてしまった感もありました。集まった人々は炎を仰ぎ、談笑し、用
意された甘酒とおでんを食し、残り火子供たちが中心にまゆ玉を焼いて頬張り、どんど焼きの時間はどんどんと過ぎ去っ
てゆくのでした。ダジャレなどは別にして、そう言えば…と感じたことは、しめ縄とか松飾といったお正月飾りを燃やす光
景はついぞ目にしなかったことです。何年か前には多少そんな光景もあったと思うのですが、今年は皆無状態、どんど
焼きも年とともにその姿を変えていくようですが、この火を囲んでのひとときは、ずっと残って続けられて欲しいものです。
火を見る、火を囲むという行為は、人間どうしの垣根を
低くするようで、これからの時代にこそ乞われる祭事ではないかと、この日もまた思ったのでありました。

集まった区民達の前で点火
直後に燃え上がった炎はあっという間に勢いを
増し、消防団員が人の輪を遠ざけるほどに、→
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からから天気のお陰で火勢強く、人々は遠巻きに
燃えさかる炎を見つめます。
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〇 2019年、年が明けての雑感(1月6日記)
・平成
世の中、平成最後の年が暮れて、平成最後の年が明けたことで、何時にない年末年始であったかのように言われてい
ます。平成最後・・・確かにそういうことなのですが、私個人の記憶はどちらかと言うと西暦を以てあの年はこうだったとか
記憶にとどめている口であります。それで、昭和の頃は昭和の年数に25を加えれば西暦となっていたので、この両者は
よく結びついていました。それが平成に入ると、そのような換算式が私の頭の中ではついに確立されないままでした。そ
れで今年はどうなるかと言うと、新年号の元年が2019年と、これまたちょいと区切りの悪いことになりそうではあります。
それにしても、なぜ新元号がぎりぎりまで公表されないのでしょうか?昭和からの元号入れ替わりの折は昭和天皇の崩
御という節目で(これが普通の節目なのですが)、崩御を見越して新元号を発表するなど、あってはならないことでした。
しかし今度は、事態は全く違っていて、誰もが承知した上で年号の切り替わる日がやってくるわけです。ですから、そうそ
う伏せておく理由があるのか、そこのところがよく分かりません。私は天皇制とか元号の問題にはごくごく無頓着な口な
ので、実はこの種のことを書くのは珍しいケースと言えます。しかし、無意識のうちにも平成といういわば万人が共有して
きた括りの中で過ごしてきた年月とは、それなりの個人の記憶として括られるようなところもあり、私は何の総括もしては
いませんが、筆のおもむくままに書き出してしまいました。
・旗日
お正月に関連して思ったことの一つに、旗日ということがありました。それは、お正月の市内を走っていて、ついぞ旗を
掲げている家を見かけないことから、ふと思い及んだことです。旗日・・・こういう単語を今の人たちは知っているのだろう
か? それ以前に、かつては各所帯にあった日の丸を、今はどれほどの所帯が保有しているのだろうか。そう言えば当
家にも日の丸はないし、旗日と言っても国旗を掲揚することなど、かつて親元を離れて結婚して以降は一度もありません
でした。結婚したのが50年前のことなので、この間実家に帰る時を除いて日の丸の掲揚は身近にしていないことになる
のです。私のごとき後期高齢者にしてそうなのですから、今の若い者は・・・となると、言うまでもない問題でしょう。国旗に
対する尊厳とか誇りといった感情となると、日本のそれはおそらく世界でもかなり低いレベルであるのが現状でしょう。ア
メリカでは何かというと星条旗が誇らしげに掲揚されるのが常です。合衆国法で星条旗の取り扱いについて決められて
いるといいますし、現実にこれを見かける機会は日本とは比べものにならないほど多いし、別に特定の日ではなくてもそ
の光景はよく見かけるものです。日本では‥となると、来年はオリンピックの年なので通常よりは日の丸の露出が多くな
るのでしょうが、そういう折に日の丸=愛国心=戦争の記憶連鎖は、どのようにして健全なものに改められるものか、こ
ういう機会に一度考えてみてもいい問題かもしれません。これまた、普段私の頭の中にあるテーマとはいえない一件であ
りました。
・50年
さて、ずっと私個人に立ち返っての新年のことであります。いまこれを書いてきて、実は大変なことを再認識することにな
りました。それは先に書いた「結婚したのが50年前のことなので・・・」という下りです。そうなのでした!今年は我々夫婦
にとっては金婚式という節目に当たる歳なのでした。世間的に言えば、還暦とか古希とか、○○式という節目には祝い事
が欠かせない・・・のだと思います。しかしどうも、これまた我が家の習慣としては定着していないので、金婚式と言われて
もピンとこない所はあるのです。ピントは来ないのですが、50年という年月は凄い、放置していてはいけないと、そのよう
に一方では思います。お互い子の年月を経て今があるわけですし、たまにはこうして永らえて来られた事実に対して、素
直に喜び合ってもいいのだと思います。私は1年前には心臓発作からの再起という道を辿ったわけですし、妻はこれまた
1年前に意を決して受けた左膝の人工関節手術からの復帰という道を辿ってきました。そういう節目が最後にあった訳で
すから、50年はめでたい、何かしなくては・・となるのは自然の成り行きと言えるのでしょう。それでは何をしようかとなる
のですが、実はその何かをする前に、これまたやっておかなくてはならない問題が横たわっているのです。その一つが私
の眼の問題で、この2月に白内障の手術を受けるのを機に、医師の勧めもあって長年治療してきた緑内障の方も手術に
よってその進行を止めることになり、これは両眼共ですので、2週間ほどの入院を余儀なくされます。そしてもう一件が妻
の方で、手術を受けていなかった右足の方も膝が限界にきているので、こちらの方もまた人工関節の手術を受けること
となっていて、それが暖かくなるタイミングでのこととなる予定なのです。つまりは、祝い事の前にやっておかなくてはなら
ない身体の大修理がまだ残っているという次第です。医療技術の進歩している昨今のこととはいえ、手術を受けるという
一事はそれなりに精神的にも一つの関門となるものです。それらが終わって、漸く50年、半世紀か〜と、改めてその年月
を振り返ることになるのでしょう。
〇最後に当HPのこと
急に次元が変わりますが、このHPにつき、これまでのいわば寝倉であったgeosities が急にサービスを廃止するとい
う、当方にしてみれば理不尽な通告を受けて、3月末までに新たな寝倉と新たな住所を設定しなければなりません。この
サーバーとドメインの変更(こういう表現でいいのだろうか?)という、私には暗闇状態にある手続きをやらねばならず、そ
れに取り掛かって直ぐにトラブルに見舞われて、現在とてもナーヴァスになっているところです。しかしそうも言っておられ
ないので、何とか入院前の近日中に、これだけはしておきたい、とそのように思っています。そんなこんなで、新作の制
作は複数手に付けてはいるのですが、これをアップするまでには多少のお時間をいただきたく、これを読まれた皆様に
はなにとぞご理解のほど、よろしくお願いします。
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<↑ここから上が2019年の記述です>
2018年以前は以下からどうぞ ↓
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