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栗原成和の水彩画画廊
ノート〜文章のページ

 このページを開いていただき、ありがとうございます。


 
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 ○ お知らせ(これまでのお知らせを含みます)

11月7日をもちまして、無事終了しました。


▼2022年 11月の個展では皆様のお引き立てをありがとうございました。




「元麻布ギャラリー甲府」での水彩画展、
お陰様で、盛況のうちに無事終了しました。
         お越しいただいた大勢の皆様に、
         心よりお礼申し上げます。

山梨日々新聞 21日文化欄です。





 ★ 以下の水彩画展、終了しました。
   

水彩画展

〜栗原成和( と 山麓スケッチ会〜



2022年10月1日(金)〜11日(月)

おいでやギャラリー
〒408-0021 北杜市長坂町長坂上条2340 ? 0551-32-1161

<出展者>
小原勝男 久保田和彦 城田昭夫 角野ますみ
中村和男 平松鈴美 三星喜代子 渡辺二郎
 栗原成和(代表)

 

  ★ 画集第2弾は(下記)はお陰様で完売となりました。

「栗原成和の水彩画集〜八ヶ岳山麓から」

2013年9月発刊、108ページ、86点掲載、他に文章と挿絵、定価 ¥2500+税
当HP上でご注文の場合は、¥2500(税、送料込み)にてお送りします。

主な内容は;
・ 八ヶ岳山麓の四季・・・・   p4〜63、
                              季節毎に技法についてのコラムあり。
・ 八ヶ岳山麓をスケッチする・・p64〜73
・ 信州を描く ・・・・・      p74〜83
・ 海を描く・・・           84〜91
・ おわら風の盆を描く・・・   p92〜99
 ・ フィールドノートなど・・・  p100〜108

ご注文はこちらからどうぞ → 氏名、住所、部数をご記入の上発信願います

画面が出ない場合は下記アドレス宛お願いします。
kuri_plan@ybb.ne.jp   (kuri_plan@ybb.ne.jp )
        

別掲のメイキングのコーナーもチェックしてみて下さい。


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   ★ 日貿出版社からの新刊ご案内(2012年)月)

日貿出版社から「水彩で描く美しい日本〜輝ける中部」が9月に発刊となりました。
好評を博した初刊に続き中部編として発行されたもので、中部にゆかりのある30名の作家
が寄稿、私の作品も3点掲載されています。 9月15日過ぎから書店にてお求めいただけます



なお、掲載作3点は、11月の個展で展示の予定で、
当HP上にも機会を改めて、掲載させていただきます。


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   ★ 日貿出版社の「水彩で描く美しい日本」に寄稿〜出版なる。(2011年8月)  
日貿出版社の創業45周年記念出版である
「水彩で描く美しい日本」
サブタイトル「人気画家31人が贈る」
が、この8月に出版されました。
私の絵も3点掲載。
既に書店、ネット上で販売されています。


なお、掲載された3点は、全て今回の個展
(9月、ギャラリー近江)に展示されます。



詳細は上の表紙写真をクリックすると
ご覧いただけます。


  
  ★ 水彩画集(2010年秋(に増刷)は、現在僅かな部数を残すのみとなっています。

「栗原成和の水彩画集」
発行のお知らせです。
 2009年 10月
<内容>
    ○ A4変形、58ページ建ハードカバー
     ○ 自選による下記58点を掲載
      ・ 横浜時代+α 6点
      ・ 東北を描く 10点
      ・ 八ヶ岳山麓から 26点
      ・ 信州を描く 6点
      ・ おわら風の盆を描く 6点
      ・ その他 4点
     ○ 定価 ¥2800



    




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○プロフィール

  栗原成和(クリハラマサカズ)、1942年東京生。
  現 山梨県北杜市小淵沢町 在住。
  会社を1995年に早期退職、以降絵を再開。
  2005年横浜より現小淵沢町に移住。
   連絡先eメール  kuri_plan@ybb.ne.jp 
  ・・・栗原連絡先(住所、電話番号など)をお知りになりたい方は、お手数ですがメールにてお問い合わせ願います。

  私は、3才になるかならない頃から絵を描き始め(・・たらしい)、小学校4年の頃までは誰に教えられるわけでもなく、ただ
ひたすら絵を描き続ける少年でした。その後中断して、それが学生時代、会社生活の長きに及び、再び絵心が甦ったのが会
社を退職するとき。辞めてから一番やりたかったことが、絵を描くことでした。そんなわけで、これといったキャリアーもなく、何
処かの一門に属しているわけでもありません。一匹狼と言えば格好がいいのですが、ただ「私流」を貫いているだけ。東京や
地元北杜市で個展を重ねていますが、お陰様で大勢の皆さまから共感をいただき、大変嬉しく思っています。
  季節の訪れ、特に春と秋の訪れには何時も心を急かされます。世界にも希なこの多彩で美しい日本の四季を絵に移し取ろ
うと、遠出をしては山野を駆けめぐり、スケッチをし撮影をしたりで、水彩画の制作に余念がありません。それに、富山県八尾
町の「おわら風の盆」。これに魅せられた方も多いと思いますが、この哀調溢れる雰囲気を何とか絵に掬いとろうと、ここ数年
は八尾町に通って取材を続けています。
   何時までも日本に残っていて欲しいと思うもの・・・私の絵のモチーフは、自ずとそこに向くようです。

    個展等履歴
    2002年2月  東京 日比谷にて初の個展
    2004年9月  東京 銀座にて2回目の個展 
          10月  富山県八尾町の「坂のまちアートinやつお」に出展
    2005年12月 水彩画技術書「いきいき水彩画 7」に掲載
    2006年9月  京橋「くぼた画廊」
    2007年3月  北杜市長坂町「おいでやギャラリー」にて地元初の個展
    2007年6月  銀座「ギャラリー近江」
     2007年9月  北杜市高根町「花のワルツ」
    2008年12月 京橋「くぼた画廊」
    2009年3月  北杜市長坂町「おいでやギャラリー」
     2009年10月  「栗原成和の水彩画集」発刊
    2010年4月  北杜市長坂町「おいでやギャラリー」
    2010年9月  銀座「ギャラリー ナミキ」
    2011年9月  銀座「ギャラリー近江」
    2011年8月  「水彩で描く美しい日本」(日貿出版社)に作品掲載
    2012年3〜5月 クラブツーリズム主催の水彩講座講師、八ヶ岳へのスケッチツアー指導
    2012年9月  「水彩で描く美しい日本〜輝ける中部〜」に作品掲載
    2012年11月 北杜市長坂町「おいでやギャラリー」
    2013年9月  画集第2弾「栗原成和の水彩画集〜八ヶ岳山麓から」発刊
     2013年11月 京橋「ギャラリーび〜た」
    2014年9月  北杜市長坂町「Gallery & Shop 亜絲花(あしはな)」
    2015年 5−6月 北杜市長坂町「おいでやギャラリー」
    2017年4月  八ヶ岳高原ロッジ(長野県南牧村)にてミニ個展
    2017年11月 甲府市「県立図書館」イベントスペース
    2018年11月 小淵沢駅交流スペースにて水彩教室展(第3回)
    2021年10月 北杜市長坂町「おいでやギャラリー」にて、「栗原成和と山麓スケッチ会」水彩画展
    2022年11月 甲府市「元麻布ギャラリー甲府」にて5年ぶりの個展

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○ メール

                                      (kuri_plan@ybb.ne.jp です)

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○フィールドノート

  このフィールドノート、当HP開設以来まる十数年に及び、大分嵩が増してきましたので、以下のように年代順に分
類して整理しました。

Fノート
2019〜2022
Fノート
2015〜2018
Fノート
2011〜2014
Fノート
2007〜2010年
Fノート
2003〜2006年
別掲エッセイ
                                                 *別掲エッセイは、Fノートの趣旨なく折に触れての思う処を綴ったものです。      
                          
  <2024年>


〇繰り言、他人事、自分事(3月25〜27日記)

★ ポリーニが亡くなった
 25日の朝刊で、マウリツィオ・ポリーニの死が報じられていました。この世界的ピアニストの演奏は、私も 長きにわたってLPやCDを通して接してきました。あの正確無比の打鍵が生み出す音の粒立ちは、それま で聴いたことのないほど揺るぎのない明確さと美しさに満ち満ちていました。特に切れ味抜群で美しく駆け 上がるパッセージが素敵でした。その最後の右手小指による打鍵は、ポリーニをおいて他のピアニストか らはなかなか聴き取れなかったもので、ポリーにの代名詞とも言えるところだと私は思っています。もちろ ん、だからと言ってポリーニの演奏が機械的で無機質では決してなく、その鮮やかな打鍵の強弱やニュア ンスの上に、彼ならではの音楽性が紡ぎ出される・・そういった演奏でした。享年82歳、私と同じ年である が故に、どこか他のピアニストにはない親近感もあったでしょう。訃報の記事に接し、私の頭の中には、彼 の奏でるショパンのエチュードや前奏曲集、それにチャーミングはモーツアルトが、鮮やかに駆け巡ってい ます。







  
  ★ フキノトウ
 山麓に暮らしていて一番楽しい季節は? と問われれば、春という一言よりも、春の入り口と言います か、もう直ぐそこに春が来ているといった感じの頃だと答えるでしょう。そんな頃合いの始まりは、フキノトウ の芽吹きの頃と言えるでしょうか。他の山菜は冬ごもりがこれから明けようとしている頃で、野に山に芽吹 きの兆しがあちこちに見られる頃になると、人はもうその先のことしか眼中になくなるようです。この先への 膨らみ・・これこそ心躍るものです。ただ八十路を歩き出した私などは、そんな膨らみとは縁がない歳では あります。それでもしかし、私を迎えてくれる環境が膨らんで見えれば、それで幸せだと言えるでしょう。

★ "オオタニ劇場"は・・・
 TVをつければ、どこかのチャンネルで"オオタニ"の名前を聞かない日はありません。この加熱した感の ある報道ぶりには、いささか辟易とさせられる面も否めないのですが、彼の実績や優れた資質について は、私も世間同様に大いに認めているところです。特に、ここ何年来の腹立たしく憤懣やるかたない世界の ニュースに接してばかりいると、"オオタニ"は一種の清涼剤のように我々を癒し、ポジティブにさせてくれる 存在でもありました。まさしく"大谷劇場"をみんなが楽しんでいたと言えるでしょう。そこに不意に舞い降り てきた、通訳、水原一平氏の事件です。事の経緯とか今後の推移など、これまた憶測が乱れ飛んでいて、 それは世界のヒーローを覆う疑惑と不安の暗雲となって広がっています。個人的には、ファンだった一平さ んの裏切りは残念でなりませんが、大谷はこの暗雲から解き放されて、野球に専念できるのか気になると ころです。あまり報じられることのない新婦も含めた私生活の面も然り、水原夫妻の喪失を埋める手立て はあるのだろうか、マスコミならずとも邪推を禁じ得ず、大谷劇場の行方が気になります。

★ ライトアップ
 いまや観光地や名所は、どこに行ってもライトアップが珍しくなくなってきました。桜の季節は特にこのライ トアップが常套手段で、これをやれば夜でも観光客がやってくるし、お金も落としていくというわけです。私 は、かねてよりこのライトアップには批判的で、特にお城とか神社仏閣など、これ見よがしにライトを当てて 浮き上がらせるのは如何なものかと思っています。日本古来の美や伝統は、昼は陽を浴び、夜は月明かり の下でひっそりと息づいてきたその時間の積み重ねの上に残っているものです。夜、その伝統に触れたけ れば、暗がりの中での佇まいを味わいそこに流れてきた時間を思うべきでしょう。歓楽街や賭博施設では ないのです。何でもかんでもライトアップというのは商業主義の最たるもので、第一安っぽく品性にも欠けま す。また、これこそエネルギーの無駄使いとも言えるものです。
 世界ではいま、"Earth Hour"なるいっときを設定し、その日の夜は、都会でも名所旧跡でも電気を消し、 暗がりの中で地球温暖化に思いを馳せるという消灯リレーが実施されています。WWFがこれを発足させ、 現在は170を超えるの国や地域にこの運動が広がっているといいます。何でもかんでもライトアップの流 れは、この際向転換をする方向で関係者全員が考えていくべきではないでしょうか。




〇春近し! (3月17日記)

 3月に入ってから雪が結構降り、寒さがぶり返したりしてきましたが、ここ二三日はすっかり春めいた陽気 となりました。昨日は所用で韮崎まで行ったのですが、道中クルマの運転席の窓は開けっぱなし。韮崎で は昼前にすでに19度。帰路、我が家に辿り着くまでは600mほどの高低差を上がってくるので、気温も最 後は15度まで下がりましたが、それでも暖かな陽射しの下、八ヶ岳や南アルプスは、どこか陽炎のかかっ たような大気の中にその白い姿を輝かせていました。週明けとともにまた寒さが戻るようですが、気温は一 応三寒四温のサイクルに入っているようです。
       我が家の庭の残雪もさすがにその領地を狭め、デッキ下ではクリス
マスローズの脇にフキノトウが姿を現しています。予報では花粉が最も
多く飛んでいりうらしく、昨日来どうもくしゃみが出て、鼻もズルズルす
るのはそのせいのようです。花粉症は、ここ何年かは治まったいたと
思っていたのですが、ウ〜ン、どうもこの歳にして復活? そんなことも
あるのでしょうか。

 それでも、サクラの開花予報を聞くにつけ、気持ちが華やいでくるの
は日本人の証しなのかもしれません。当地では、甲府で開花してから
十日ほど遅れての開花となるので、今年も4月の頭には白い梢が風に
なびいている姿を見ることができるでしょう。昨年はどうだったか、写真
ファイルを遡ってみたりするのも、この季節ならではのことです。
 

〇今年の降雪(2月10日記)

 もう毎度のことながら、雪の便りをちょっと。暖冬だ、雪が少ない、などと言いつつ、降れば降ったで、写真 を撮ったりで余年がありません。降雪は2月5〜6日にかけてで、雪明けの朝に計ったら28cmほどの積雪 でした。大雪警報が出ていた二日間でしたので、中央線や中央道では、閉鎖が相ついでいて、それなりの 魂胆をもたらした南岸低気圧の通過でした。
    ←我が家の東側

 我が家は市道から入った枝道の更に上の方に上がった突き当りなので、通常除雪車はここまでは入って きません。"赤道"と地元では呼んでいて、かつて工事や伐採などのために造られた道で、市町村道のいず れにも属さないという道なのです。ですので、例えば市や町に工事の要請をしても、管理下ではないので相 手にされません。結局、居住区の自発的組織たる区や組の中で適宜処理される問題となるのですが、そ れはさておき、降雪があると、我が家へのアクセスは、最後まで雪が残るのが常です。こういう環境下なの で、積雪があると先ずすることは、デッキと玄関周りの除雪に続き、アクセル部分をクルマで走って轍を付 けることです。轍を付けておくと、後に陽が当たってから溶け出すのが、轍の部分だけ周囲よりも早いという 理由です。むろんそういうことのできるクルマでないといけないわけで、スバルの四駆(現在はフォレスター) はこういう折に実力を発揮してくれます。そうしてできた轍部分を使って、後によたよたながら配送や郵便配 達のバイクなどがやってくるという寸法です。ならば、自分でスコップなどを使用して除雪すればいいではな いか、とい話になるでしょうが、実は最後に曲がって家までの距離が50mほどはあるし、肺活量が極端に 低下している我が身では、とても除雪作業などおぼつきません。
       ← 轍を付ける

 降雪後今日で4日目、轍部分とその周辺は徐々に地面が現われつつあります。生活に不自由することは 殆どありませんが、時折北側の屋根からドスンという音が聞えてきます。凍った雪の塊が滑り落ちているの です。周辺の家の屋根を見ると、別荘の家は最後まで雪に覆われたままです。人がいない=暖房未使用 なので、屋根もいつまでも暖まらないというわけです。暖かみというのは、こうした降雪後の光景からも伝わ ってくるものです。


〇 百貨店の思い出(2月4日記)  

 百貨店の売り上げは、コロナのステージ移行やインバウンド増加、高級志向などなどによってここのとこ ろ伸びているらしく、一頃の衰退傾向とは違った局面にあるようです。それはさておき、百貨店でいくつか思 い出すことを書いてみました。と言っても、ここ何十年か、私は百貨店とは殆ど無縁の生活でしたので、か なり昔話に属することばかりではありますが。

★新宿に行くと伊勢丹 
  デパートの記憶が一番多いのは、かつて私が中央沿線に住んでいた20〜30歳代の頃です。この頃 は、ちょっとした買い物と言えば新宿へ出て、何はさておいて伊勢丹(現在は三越伊勢丹)に行ってみたも のです。伊勢丹に限らず、当時のデパートは地下の食品から地上の雑貨、洋服、電気製品から食器、家 具類まで、売り場はフロアごとに分かれていて、まさに百貨店という名に相応しい存在でした。結婚とか引っ 越しとか家の模様替えとか、折に触れて買物をした中には、新婚旅行用にあつらえたジャケットがありまし た。女房も同じ時に上下のスーツをあつらえましたが、それ以前もその後も、こ衣服にれほど気張っ支出し たケースはなかったと思うほど、オシャレなカジュアル・ウエア―でした。しかし残念なことに、新婚旅行以降 は二人ともなかなか着る機会がなく、年月を経て持ち主のサイズが変わってとても着られなくなり、以後長 い間どこかにしまったままになっています。気に入った家具とか食器も、多くは伊勢丹で調達しました。その 後どれほどたってからか、伊勢丹は専門店ばかりが居並ぶ店舗と化し、それに伴って私も足が遠のいたま ま今日にいたっています。

★百貨店と友人たちのこと

◆伊勢丹で思い出すもうひとつのこと
 それは、小学校以来の友人のS君のことです。ある時相談があると言って不意に私の仕事場を訪れたS 君は、"クリは結婚するときの決め手は何だった?"と訊くのです。ウ〜ン、何だったか・・・と曖昧な言葉を 返しつつ事情を問い質すと、付き合っていたS嬢に促されて伊勢丹の家具売り場に行ったときの話をし始 めました。何でもS嬢がロッキングチェアーの前で立ち止まり、"これを私に買って欲しい"と言ったそうで す。"何故?"とS君。すると、"私、結婚することになったので、そのお祝いに"とS嬢が・・。内心慌てふため いた彼は、"そんなまだ早いのでは"とか何とか言ってその場を凌ぎ、次の日に私の職場に現れたのでし た。
 私がどんなコメントをしたか定かに覚えてはいませんが、ひとつ言ったことは、"要は、君がS嬢を他人に 取られてすむのかどうか・・それだけの問題じゃないのか"。なかなか気の利いたセリフを言ったもんで す・・・と勝手に自負していますが。その後の経緯は、S君はプロポーズをし、目出度く結婚が決まり、ついで に私に仲人になって欲しい、という展開となった次第です。こうして同い年の新郎の媒酌人として式に参列 した記念撮影で"はい、新郎さんはこちらに"と間違われたりするシーンもありました。伊勢丹に因んだ懐か しい想い出です。
京王百貨店では  
 もう一つ、新宿〜百貨店がらみでは、京王デパートを取り上げねばなりません。京王電鉄の新宿口にあ ったこの店舗は、現在西口再開発で新しいビルになるとかで、百貨店自体の今後はよくは分かりません。 このデパートには、私の高校時代の友人I君が勤めていて、私もよく顔を見がてらでアパートに出かけて は、彼の社員優遇の恩恵にあずかったりで、ビジネススーツもお決まりの京王オリジナルの売り場で何着 か仕入れたりもしました。彼とは会えば屈託のない冗談ばかり飛ばし合っては楽しんでいた中で、例えば雑 貨売り場では、私が、"このタワシを一個下さい"と言うと、真面目面をしてI君は、"当店では百個単位でな いとお売りできません"と平然と返してきたりするシーンが・・・まあ、こんなエピソードは数多くありました。そ のI君、頑張って役員になって間もなくの頃に癌が発覚。悪化したり好転したりを繰り返しただ五十歳代半 ばにして帰らぬ人となってしまいました。喉頭癌でした。私の近しい人の中では一番早く他界したI君、今で も彼の屈託ない笑顔を懐かしく思い起こします。もう四半世紀前のことでした。

 百貨店にまつわる悲喜こもごもの話でしたが、私は横浜に転居後は、百貨店と言えば、たまに十合や駅 中の高島屋に買い物に行ったくらいでしょうか。そしてその後、当地八ケ岳山麓に移住してからは、たまに 甲府のオカジマに行っていましたが、そのオカジマノも閉店後、隣のビルのわずかなスペースを借りて細々 と営業を続け、既に百貨店とは言えない業態となっています。かつてのビルは現在大規模な改修工事の最 中で、山梨県も百貨店なるものは存在しない県となってしまったことを、女房が寂しがっています。




〇幻の大雪警報(1月22日記)

 今季初の大雪警報が出た20日(土)は、我が居住区である篠原区のゴミステーション清掃の日でした。 前日からの気象情報では、南岸低気圧接近に伴う大雪警報が、関東〜甲信地区の山沿いに出ていて、こ の日は午後から本降り、ひょっとすると朝から雪が舞うといった予報でした。それ相応の格好をして臨んだ のですが、結局清掃中は雪が舞うことはなく、終えて帰ったからの日中も降雪は大したこともないまま日が 暮れました。添付は、夕方に撮った庭の写真です。 これが翌朝はこんなに真っ白に!・・として写真を?点 並べる算段だったのですが、翌21日の朝が開けて窓の外を見ると、”な〜んもだ”・・・。 結局夜中の降雪 は雨に変わり、申し訳程度に積もっていた雪をすっかり融け流してしまったという次第でした。警報まで出て いたのでホッとする反面、期待外れの拍子抜けが相待った朝でした。  
    ← この翌朝はすっかり雪も解けて・・・  

◆それでちょっと振り返ると・・・   
 移住して間もなくの頃は、積雪のあった朝は一番にクルマを駆って出かけたものでした。お目当てのスポ ットに急行し、雪山の風景に心躍らせ、クルマの轍を刻み、撮影をし、後に絵に描き起こしたりするのが常 でした。これは60才代中盤くらいまでの話で、20年という年月を振り返ると、あの頃は若かったものだと今 にして思います。それに、あの頃は今よりもずっと降雪の多かった冬でした。

        ←こちらは2006年2月の写真 

 それでもう一つ思い出したのが、20数cmは積もったある朝、標高1600メートルほどの平沢峠を目指し たときのことです。通行止めの看板もあったのですが、何本かの轍が横をすり抜けていたので、私もそれ にならって峠越えを試みたのです。途中、深雪の中でスリップしたり、蛇行運転を余儀なくされたりで悪戦苦 闘。何とか峠のピークに達して真っ白な八ケ岳を目の当たりにしたときは、達成感と危機を乗り越えた安堵 感で深く息をついだものです。それが2015年の冬。つまり9年前の話で、いやいや72歳のその頃もまた 若かったのだ! と思い直したりもします。今はそういう無謀なことは絶対しないし、積雪の朝が来ても、家 の周りをうろつく程度のことしかしない・・・多分、というのが81歳現在の心境であります。

〇 「松のうち」あれこれ(1月5日記)

  "明けまして"と言うのも、大分憚れる気分となった5日の日にこれを書いています。今年は新年早々の 能登半島地震の報道に接し、あの東日本大震災の衝撃が蘇るような感覚を覚えました。さはさりながら、 私は私の正月を送っていて、同情とわずかばかりの支援の志を表す以外に、この日常の変え様がありま せん。支援の手が広がり被災者の方々が少しでも安んじて過ごせる日が、一刻も早く来ることを祈るばか りです。

 さて世間は昨日から仕事始め。この周辺の別荘地では、年末年始に見かけたクルマの数も一気に減っ て、いつもと変わりない日常が戻ってきました。幸い、割と暖かなお正月で、八ヶ岳や甲斐駒ケ岳の姿もほ とんど毎日見ながら、松のうちが明けようとしています。この"松のうち"という概念、私などはかつて家族 揃って七草粥を食べた7日の日までという、漠然とした認識を持っていましたが、最近の若者たちにはそん な感覚もなくなっているのでしょう。また、関東と関西ではその期間が大きく異なっているようでもあり、つま りは、年々この言葉も死語となりつつあるのでしょうか。

 世間は仕事始めと言っても、仕事をしていない私などは、朝から飲む気分もなくなったとか、年賀状の配 達を気にしないようになるとか、和風出汁を利かせた料理はちょっと遠ざけよう・・とまあ、そんな気分になっ ているのがこの時節です。この和風出汁敬遠の気分に関しては、3日に早くも高じてきて、お昼には近くの コンビニでパンを買ってきたほどでした。

 年賀状の配達事情については、付言しておきたいことがあります。当地での賀状配達は午後も大分陽 が回ってからとなるのが普通で、気軽に歩いて行けるポストはなく、そこに投函しても集配は午前中の一回 だけ、一日でも早く相手先にと思ったら、6,7キロ先にある市内で唯一正月も開いている郵便局までクル マで行って投函しなければならない・・・といった事情があるのです。ですので、朝のおとそ気分はその分量 とか切り上げる時間とか、厳密な自己管理を強いられ、それは賀状のもたらすお正月気分を大分殺ぐもの です。本来なら、1月2日などは一杯やりながら「箱根駅伝」を楽しみたいのですが、そうも行かない事情が あるのです。

 2024年問題は郵便配達の人手不足の面も然りで、それは当地では早くから始まっていると言えます。 人口の少ない田舎では仕方ないとはいえ、人口の高密集地である都会ではどうなのか、はるかに高効率 の配達態勢を享受できているのではないでしょうか。この効率という問題は、都会と田舎の格差をますます 広げる要因となっていますが、効率だけを優先する社会、それを司る政治の在り方、更には日本人の幸福 度という概念そのものも、そろそろ方向修正すべき時代が来ているのではないか・・そんな想いもふと湧い てくるお正月のひとときです。

 年賀状自体に話を戻すと、歳とともに書くのが段々億劫になり、何人かには"今後賀状は割愛させてい ただきます"とお断り付きで出している人も大分増えてきたように思えます。実情はしかし、そう書いて出し ておきながら、自己管理と記憶が行き届かないまま、翌年にはまた出してしまっている・・・こういう事態もま た私だけではないでしょう。たかが賀状、されど賀状。年々同じ感想を持つ松のうちです。


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<2023年>
〇 印象的だった「最後の授業」(12月30日記)  

 今年もあと2日を残すだけとなりました。今年を振り返ってどうこうというのではないのですが、ひとつだ け、印象に残ったTV番組について書きます。またTV絡みの話かとお思いの向にはひとつご容赦願います。
 番組は、NHKで11月25日に放映された、建築家 伊東豊雄の「最後の講義」です。
伊東氏は1941年生まれ、建築の世界的な賞をいくつもを受賞している日本を代表する建築家の一人で す。「最後の講義」には、建築家を目指す学生(おそらくは選抜された何人か)が受講しており、氏の話に耳 を傾け、質疑応答を交わして濃密な時間をともにしていました。
以下、書き記したい一部だけ。

 伊東氏は、数多くの国際的コンペや大規模な施設などの建築に係わってきた中で、東日本大震災後の 復興に携わって、建築家としての大きな示唆を受けたと言います。その一つ、復興集合住宅の設計では効 率よくコンパクトな住まいの設計を意図していた中で、利用者たちの声に耳を傾ける機会があり、そこで彼 らが望んでいたのが入居者同士が寄り集まって過ごす空間であったことを知ります。プライベイトな居住空 間よりも、住民同士が交流し、地域性を培ってきたまさにその環境を繋ぎ停めてゆきたかったというわけで す。 関連して、元々は、それぞれの特性を持った市や街が、復興後は何処も同じような顔となってしまっ たことが、氏には残念でどうにも理解しかねることであったといいます。どうしてなのか? ここで伊東氏は 建築と文化について触れます。故岡本太郎氏は文化(culture)とはcultivate(耕す)からきているという話を 引用して、文化とは長い歴史の中で育てられてきたものであり、建築とは本来そこに寄り添っていくべきも のではなかったかと述懐します。最近の東京における開発のいくつかを引き合いに出し、近代建築は文化 を捨てて、文明だけで全てを片付けようとしているのではないか" という指摘もまた強く印象に残るところで した。そもそもこの話の一部は一学生の"建築において大事にすべきことは何か?"との質問に答えての 話に出てきたもので、質問をしたその学生も、何度か深く頷き、 "ありがとうございました"と、心から振り絞 るような声でお礼を口にしていました。
 この学生も含め、全体的に印象深かったのは、聴講していた学生たちの目の輝きと、真剣な表情でし た。彼らのこうした姿を目にして、これが若さというもの、それも未来を感じさせる若さではないか・・・こんな 風に大いに共感を覚え、清々しい気持ちとなったのは久しぶりのことでした。何だか豊かな気持ちにもさせ られた「最後の授業」でした。



〇今年もあとわずか(12月23日記)

 年の瀬とは何時頃からのことなのか、12月も20日を過ぎるとその感が強くなります。今年はどんな年だ ったか、来年への抱負は・・などと構える気などさらさらない私ども八十路夫婦は、大掃除も諦めて最小限 の御節だけを揃えようとか、薬は年始まで大丈夫かとか、そんな算段だけを考える年の瀬です。私個人 は、年末とお正月を過ごすお酒だけは、早くから買い貯めてあります。
 例によって、思いつくままの繰り言です。

◆ 先生

 思い返すと、私は当地に移住して間もなく、人に請われるまま水彩画の教室を始め、ずっと今日まで15 年間、それを続けてきました。一番大勢いたときは生徒さんが20人を数えました。よくもまあ、そんな大勢 の人たちに教えていたものだ、と思う傍ら、生徒さんともども楽しんでいた頃を、懐かしく思い出します。
 そんなことで、私は"先生"と呼ばれて久しく、そう声をかけられても何の違和感も覚えないようになってい ます。そういう我が身に照らすと、先生という呼称はかなり軽いもので、呼びやすいものでもあろうとの認識 を新たにしています。私が先生であった場面は絵以外に何かあったかと振り返ると、一つだけ思い出すの がスキーの先生をしていたときくらいでしょうか。ゲレンデの斜面に居並ぶ何人かの生徒さんを前に、説明 をしたりデモンストレーションをしたりと、若い頃は結構もて囃されていい気になっていたものです。
 一方で私は、誰かを面と向かって先生と呼ぶような日常があっただろうか、直ぐには思い起こす人がいそ うもない・・・考えてみると少し不思議な気がしてきます。学校の先生や研修などの場は別です。師と仰ぐ人 物がどうもあまりいなかった、と言うかそのような関係性を自分から避けてきた、とも思えてきます。一匹狼 と言えば格好つけ過ぎですが、私にはどうも独り歩きをしたがる性癖があるのでしょう。先生と呼んだ例外 的なケースは、スキーやスキンダイビングを習ったときくらいなのです。
 とまあ、なんと言うこともないのですが、冒頭の水彩教室は、その後生徒さんの数が年齢的問題や健康 上の理由などなどによって漸減し、私の方は自然減を受け入れて特に補充もしないまま今日に至っていま す。それで今は5人だけで続けているのですが、だからといって手間も意欲も減じたわけではなく、ともに楽 しみながらという基本姿勢もまた変わってはいません。上手くなりたい、教えて欲しいというニーズに答えて いくことは、八十路となった自分にとってもひとつのインセンティヴであります。一緒に楽しみながら・・もま た、教室のおいてのみならず、日常を送る上でますます欠かせない要素となっています。
 


◆ 人間の可愛さ

 元Jリーグのチェアマンであった川渕三郎氏が23年度の文化勲章を受けましたが、その授賞式の映像を TVで観た方は多いと思います。川渕氏は授賞式の挨拶をしたとき、妻への感謝の念を表すために壇上に 妻を呼び、"これまでずっと支えてくれて・・・"と声を詰まらせながら言葉を継ぎ、最後にはハグまでしたので す。ぎこちないハグではありましたが、観ていて私もこみ上げるものがありました。川渕氏は今年87歳、私 よりも6歳年長ですが、欧米人ならごくありきたりのこんなシーンを、日本人の年長者が公の場でとることは 殆どなかったのではないでしょうか。私はそんな氏を見ていて、人間の可愛さとか男の優しさを感じ、大い に共感を覚えたのでした。男女を問わず、人はいくつになってもどこかに可愛さを宿していたいものです。 それは、自制心とか羞恥心といった日本人に特有の価値観を補完し、素直で魅力的な日本人像ともなり得 るのではないか、などと思ったりもします。

◆関連して”言葉の素直さ”について

 上の話題と少し関連して思い出したのが、これまた司馬遼太郎の「風塵抄」に書かれていた一節です。そ こでは、NYでの歌舞伎公演に先立って行われた日本人のある著名人のスピーチについて書かれていまし た。この御仁は長い間そつなく言葉を継ぎ、スピーチを終えましたのですが、会場でアメリカ人と一緒にそ れを聞いていた一人の日本人が、いたたまれない気分を禁じ得なかったというのです。この項で司馬遼太 郎は次のようなことを書いています。
 ”話し手の正直さこそが、言語における魅力をつくりだすのである。それが唯一の条件ではないにせよ、 正直さの欠けた言語はただの音響に過ぎない”
そして、決して日本人が不正直と言うことではなく、正直さを表す練度が不足しているのではないか・・と続く のですが、この先は割愛させていただくこととし、つまりは、このスピーチに欲しかったのは、この本音とか 素直さをさりげない表現ではなかったか、と書いているのです。日常的に政治家とかどこかのお偉いさんの 建前論的な言葉ばかりを耳にしている我々としては、まさに肯ける指摘でした。

◆ 翔平のことば

 日本人のみならず、MLBファン全員が注目したであろう大谷選手の去就、それは12月17日のドジャー ス入団記者会見の場で、一つの締めくくりを見ることになりました。私もTVでその場面を観ていた一人です が、契約自体のことはさておき、入団のスピーチを聞き、またその後の記者との質疑応答の下りを見るに つけ、彼の発する言葉が実に的確で関係先への配慮を欠かさず、その上でいつも自分の言葉で話してい た、という点が大変印象深いものでした。そしてここでもまた、日本の政治家の体裁と責任回避のみに徹し た言質を引き合いに考えざるを得なくなるのでした。大谷翔平29才は、そのプレイのみならず、言質に置 いても誇るべき日本人であると言えそうです。
 ちょっと話は離脱しますが、最近いろいろ言われている大阪万博に要する大阪府負担分の費用負担は1 116億円とも言われています。府民一人当たりの負担が2百万円以上云々・・・。これを聞いた妻の一言 が、「大谷なら一人で賄える額じゃない」 ・・・でした。然り、でもそんな比較をするのはゲスというものでしょ う。



〇 今年の紅葉はどうだったのか(11月18日) 

 当地八ケ岳山麓では、標高によって晩秋〜そろそろ初冬へと、紅葉の表情は様々です。我が居住帯であ る千メートル前後では、大分樹々の梢も透けてきて、見えなかった山の稜線が見えるようになり、地面は落 ち葉に敷き詰められてしまいました。側溝のある道路では所により落葉が堆積して清掃が必要にもなって きています。11月の半ばには、季節が平年並を通り過ぎ、13日には八ケ岳南面に冠雪を見ました。同日 はまた、甲斐駒ヶ岳の初冠雪が報道されました。平年より14日遅れだそうです。我が家でも一昨日の早朝 でマイナス2度、寝室の室温も13度と今季最低、もちろん日中でも暖房なしでは過ごせない日が続いてい ます。ただ、来週になると気温の戻りがあるようで、平年並みを上回ったり下回ったりを繰り返しながら、師 走へと流れ込んでいくのでしょう。  
            八ヶ岳南面(権現岳)の初冠雪

 それで、今年の紅葉はどうだったのか‥少し振り返ってみますと、確かに9月は暑さが残り、例年の秋雨 は殆ど見られない乾燥状態で10月に突入。さすがに暑さも和らぎ、空も高くなってきたものの、雨は相変 わらず少ないままで、全体として秋の進行具合は大分遅れていたと言えるでしょう。そして11月、例年なら 秋たけなわと言っていい日和が続くのですが、これが長続きせず、半ばになって寒さが急に訪れたのは先 に触れた通りです。
       
      イチョウは鮮やか          一方で紅葉の前に枯れてしまったケヤキ(風景の中の茶色の部分)

 紅葉の具合は一言で言うと、こんな気象状況の受け止め方が樹木によってまちまちで、全体的には歩調 が合わずすっきりとしない感が否めません。その進捗具合が時期や色付きの度合いという点で不揃いで、 季節ならではの鮮やかさに欠けるということです。そんな異変などどこ吹く風と鮮やかに色づいたのはイチ ョウくらいでしょうか。逆にこれは大変だと慌てふためいたのがケヤキでしょう。ケヤキはかなり早くから紅 葉の前に枯葉となっている姿がほとんどで、これは毎年欠かさずに目にし、絵にもしている風景から見て取 れることです。森の紅葉が精彩を欠く最大の要因が、このケヤキにあると私は思っています。それで気にな ってネットでチェックしてみると、ケヤキは今年の夏の猛暑を子孫繁栄上の危機と受け止めたらしく、例年 より早く実を付けたため、早くから葉が枯れ落ち始めたといいます。通常ケヤキは結実が落葉を促すのだ そうで、秋に入っての結実とこれに伴う葉っぱへの栄養補給遮断、そして紅葉という、このいつもの工程が 狂ってしまったらしいのです。

 以上はこの界隈を見ていての印象で、全国的にはどうだったのでしょうか。いずれにしても、 気候変動 の影響は植物の世界でも多種多様、樹々はその姿も性格も多様なので、紅葉の具合もまた文字通り、色 とりどりと言ったところでしょうか。
                以下は、それでも綺麗だった瑞がき湖畔の紅葉
         
                



〇 繰り言づくし(11月6〜15日記)

 自分事はさておき、ここのところ"ケシカラン"と思うことの数々を書きなぐりました。
口さがない年寄りの戯言シリーズです。

◆クマの出没、無責任な声
 今年は里へのクマの出没が異常に多い年で被害件数が記録的となっています。この背景にはクマの餌と なるブナをはじめとするドングリの不作があるようですが、特に東北の秋田や岩手の皆さんは、さぞかし 戦々恐々で大変だろうと察します。人里に出て来て餌にありつき人を恐れなくなる習性は、放置すると遺伝 子に受け継がれ、遭遇事故が日常的にエスカレートしていくとも言われています。従来の山〜里山〜居住 区の棲み分けがあやしくなっているこんな状況下、人命に及ぶ事態ですから時に駆除をするケースも増え ているようです。
 この種のニュースを観ていてケシカランと思ったのは、TVへの登場機会が増えているある若手教授(?) の言でした。この事態に対するコメントを求められると、"元々はクマの住んでいる領域を侵してきたのは人 間の方ですから"と、臆面もなく言うではありませんか。何と無責任かつ短慮に過ぎるコメントか! そんな ことは言わずもがなで、今後その棲み分けをどうしていったらいいのか、ポイントはそこにあるわけです。大 体この御仁、自分の住んでいる家や庭の中にクマが出没し、家族が危険な目に遭っているとしたら、ぬけ ぬけとそんなコメントをしてはいられないはずです。駆除をするたびに非難の声をあげるネット上の無責任 な連中の顔が見えるようなコメントでもありました。


◆首相の不人気
 岸田内閣の支持率が下がる一方です。政策の問題もさることながら、内閣の枢要を占める議員の不祥 事やお粗末さが目に余ります。このお粗末さを報じる側も、不支持の背景にある本質に触れていない点を 歯がゆく思っている方もまた大勢いるのではないでしょうか。朝日新聞で一度だけ「旗を掲げない首相」とい った趣旨の見出しの記事を目にしたことがありました。私も、本質はここにあるとかねがね思っていました。 大体一国の首相たる人は、この国のあるべき国家像を示すべきで、そこに向けていま何が問題で、どう取 り組んでいったらいいのか・・・そこを明らかにすべきでしょう。これがポリシーというもので政治の基本にあ るべきものです。政策や人事はこれに沿ってやっていくべきです。政治家がpolitician、statesman と言わ れる所以で、その旗を掲げることなく、その場その場を凌ぐ政策を打ち出すという、いわば対症療法に終始 しているところに、不人気の最大の要因があると私は思っています。まあそれでも総理になれるわけで、派 閥の論理、調整能力だけで物事が進められる政治は、一体いつになったら風向きが変わるのでしょうか。



◆関連して、議員の資質とは?
 上記の中で触れましたが、資質を問われるのは首相や大臣たちだけではありません。国の行く末を左右 する立法をという大事な任に当たる国会議員のそのものの資質が、今ほど問われている時代はないでしょ う。男女の議員比率云々以前に、議員そのもののクリアーすべき資格や資質とは何なのか、選挙以外に 篩のかけようがないのか? 一度原点回帰で考えるとべきではないでしょうか。 その任に当たるに相応し い人として、選挙以前に立候補をできる資格試験を考えていいのではないか、と思うのです。例えば司法に 携わる人には司法試験があり、あらゆる種類の公務員にも公務員試験があり、入社試験、入学試験は言 うに及ばず、建築家も乗物の運転も、皆試験を通過してその資格を与えられます。試験という篩を通過して 初めてその任に着くわけです。政治の世界ではこれがありません。人脈と金さえあれば立候補できるという 今のやり方が、二世、三世議員の増加や、議員としての資質低下をもたらしている現状は見ての通りでしょ う。議員定数の問題、二院制の問題などなど・・・しかしそれ以前に、国会議員のこの資質の方が根本問題 であろうと、私はかねがね考えています。


◆日本各地のナントカ村〜今更ながら・・
 日本人の未だ根強い外国、特に西洋への憧れ? 各地に林立する西洋を模したナントカ村・・・スペイ ン、ドイツ、オランダなどなどは、やはり島国ニッポン、鎖国の歴史を持つニッポンの哀しい性を物語るもの なのでしょうか? 先日TVで宮崎の海岸沿いに、あのモアイ像が立ち並んでいる光景を見て驚きました。あ れは実寸大なのか、あの風光明媚で私がかつて新婚旅行にも行ったあの海岸線で一体何が?? と思っ たのですが、ちょっと調べてみると、サンメッセ日南という施設がオープンした1996年に、その目玉として モアイ像が建設されたそうです。何でも本場のモアイ像復元に日本チームが貢献したことがきっかけで、イ ースター島からの許可も得てつくられたとか。27年も前からモアイのいわばコピー版が居並んでいたわけ で、私などはTVを見て愕然とし、何故何もなくても美しく他に代えがたい日南の海岸に? との疑問を新た にするのでした。例えば私が外国で、日本の陽明門のコピー建造物を見たとしてどう思うか、何とも幼稚で 文化度の低い仕業だと思うに違いありません。 今や、インバウンドの増加の背景にはホンモノのニッポン に接したいという風潮が強まっていると聞きます。AIが時空を超えるような疑似体験を可能にしている時代 であるからこそ、我々日本人はホンモノを見直し、他に代えがたいニッポンを再認識すべきでしょう。
 ああそれなのに・・・と、つい先日はまたTV番組で、黒部渓谷の入り口にある宇名月でアルプスのツエル マットを摸した街づくりをしているといった報道に接し、まさか宇名月までが? と訝しく思いました。黒部峡 谷もその入り口である宇名月も、世界に冠たる魅力を秘めた観光資産です。その良さを肝心の地元が汚さ ぬように願うばかりです。


◆富士山麓で何が・・
 これもTV山梨版で目にしたことでした。 富士山麓の森に生えた樹齢何百年と言われるミズナラの大木 を、倒木の恐れありとして伐採することになったという話です。画像を見ると、周囲の森を圧するような威厳 に満ち、幹回りは一体どれほどあるのかと、見当もつきかねるような大木です。その大木の上の方から枝 を払い、幹を少しずつ切り、最後はその太い幹の根元まで伐採してゆきます。観ていて違和感を禁じ得な かったのは、現場で立ち会った林業関係者でしょうか、その多くの人達が、これは思ったほど損傷が進ん でおらず、いい材として使えそうだと手放しで喜んでいる様子を観たときでした。画像からはしかとは分から なかったものの、倒木の怖れがあるとすれば、主幹を蝕んだ証の大きな洞があるはずなのに、それほどの ものは見当たりません。関係者を喜ばした理由の一つはこの点にもあるのでしょうがしかし、そうであるな ら、そもそも伐採の必要などなかったのではないか? 下の部分だけ残して伐採すれば別に倒木の恐れも なかったのではないか、一体どんな理由で皆伐採に踏み切ったのか、少なくとも私には、自然遺産をしっか りケアーして保存するといった視点が著しく欠けていたように思えて仕方ありません。

 これは山梨県の県風に関係してのことか、関連して思い起こすのが、富士登山鉄道構想の話です。山梨 県では富士山への登山客増加と環境破壊への対応策として、現在のスバルライン沿いに登山鉄道を建設 し、乗り入れ規制と併せて新たな観光資源創出を図るという構想です。初めてこれを耳にしたときから、そ んな大工事以前にやるべきことは山ほどあるだろうに、という一事でした。登山客増加、中でも装備不足や 富士山という山への尊厳を欠いた外人客の増加は、このまま放置すると世界文化遺産たる資格と品位を 損ないかねません。まず事前の十分なPRに取り組むべきでしょう。ことさら大規模な整備などせずとも、一 日の入園数を規制している自然遺産は世界にはたくさんあります。登山鉄道の建設構想には論理の飛 躍、自然保護という衣の下に観光収益を優先しようとする意図が見え見えです。中部横断道やリニア新幹 線の建設への前がかりな姿勢も然り、どうも当地の県政には、この種の風潮が強いようで、かねがね気に くわない処です。
 この富士登山鉄道、地元の富士吉田市は、真っ向から県の構想に反対していて、これには共感を覚えま す。今回は一般市民、県民の声を聞こうとアンケートを実施しているので、私も反対の意見を認めたところ です。


・・・・・そして以下は、"ケシカラン"という話ではありません。むしろ好意的に書き添えたいことのいくつかで す。

◆ 大谷翔平〜日本人の野球好き
 MLBの歴史を塗り替えている選手の活躍に酔いしれ、それを讃えているのは、我々日本人だけではない ようです。それにしても、日本人の野球好きは今に始まったわけではなく、MLBの主要な試合をすべて放映 するという句には、米国以外にあるのだろうか?と思ってしまうほどです。少なくとも大谷の存在が、この流 れに拍車をかけているのは確かでしょう。かく言う私は、特に野球好きというほどではないのですが、あの WBCで優勝した喜びは他の人と等しく(多分同じように)味わいました。その一方で私は、加熱する報道を よそに、大谷の野球に注ぐストイックな情熱が、年齢的にみても墓穴を掘ることになりはしないかと早くから 懸念してきた一人です。その危惧は皆さま存じの通りの顛末となりましたが、今はストーブリーグでの加熱 した報道が連日繰り広げられております。日本の小学校への6万個のグローブ寄贈も話題となっていま す。一帯全部でいくらくらいか?などとゲスな計算をしてはいけません。同じようなお金持ちでも、こんな行 為をしている人は少ないのではないでしょうか。今や一番多いスポーツ人口はサッカーだそうです。野球人 口は減少の一途であったようで、おそらく大谷の願い通り、グローブ寄贈もまた、野球をやりたい少年少女 を増やすことは間違いないでしょう。

◆谷村新司の死
 いろんな著名人の死が報じられ、いちいち縁遠いことではないと思うのは、もちろん年齢のせいがあるで しょう。今年も"あ〜こんな人が"と思わせる訃報にいくつか接しましたが、歌手の谷村新司他界のニュース は、一段と惜しまれるものでした。享年74歳、若すぎます。 その死が身近に感じられたのは、彼の歌をた くさん歌ってきた思い出があるからです。ときにマイクを片手に歌った曲は、「昴」、「忘れていいの」、「サラ イ」、「いい日旅立ち」、そしてこれは作詞だけのようですが「終止符」もいっときは十八番としていました。" 歌は世につれ、世は歌につれ"と言っても、もうピントこない世代が大半となっているのでしょうが、私の場 合は谷村新司の歌が、私の過ごしてきた時間のどこかに重なっているのです。あの歌声と人柄もまた、惜 しい人を亡くしたと思わせるところで、そんなこんなが、死を惜しむ所以であろうと思います。むろん、歌とい うか音楽そのものも、大なり小なり人の人生を彩っているもので、歌い手の死とは、そんな気持ちを思い起 こさせるものです。





  

〇 スキーの話 〜雪よ岩よ我らが宿り・・・(10月2日記)

 これは、ありし日のスキーの話です。こんな思い出を振り返ることになったきっかけは、ある捜し物があっ て古いアルバムをひっくり返し、そこで何枚かのかつてのスキーの写真に再開したことでした。 そこには、 半世紀以上前のスキーをしている溌剌とした自分の姿がありました。

★車中の歌声
 話は中学3年の冬、亡兄と姉との三人で行った初めてのスキー体験から始まります。石打からの帰り、列 車に乗ったときのこと。列車がホームを後に動き出した夕暮れ時、車窓には茜色に染まった雪山が流れて います。初めて体験したスキーの興奮や、その雪の舞台から別れる名残惜しさで胸一杯となっていたそん なとき、車内のどこからか男性数人の歌声が聴こえてきました。 "雪よ岩よ我らが宿り♪・・・" 当時は山男 の間でしか歌われていなかったこの曲が「雪山賛歌」であることは、後になって知りました。聴こえてくる歌 声・・"俺たちゃ町には住めないからに♪ ・・・"この瞬間、電撃に打たれたように、私はスキーの虜になっ ていたのでした。

★スキーに入り浸った学生時代
 高校受験が待っていたので、二度目は高校生になって初めての冬休みで、その後はスキーが毎冬の行 事になり、やがて大学進学も果たすと、毎冬、毎春先、そして時には夏まで雪を求め、雪の上でエネルギー を燃やし続けてきた学生時代でした。多い年は、年間40日前後はスキー場にいたでしょうか。ときに指導 員のアルバイトで旅費を稼いだりもしていました。冬・春休みはもちろんスキー場で送り、その後社会人とな ってからも年末年始は欠かさずスキー場で過ごしてきました。こんな具合でしたので、青春はスキーに捧げ 尽した・・・というとちょっと言い過ぎすが、そんな学生時代を送ったものです。当時はまだ宅急便もなかった し、高速道もそれほど発達していなかった時代です。スキー行きは常に長いスキーと大荷物を抱え、夜行 列車に乗ると先ずスキーを網棚に吊るし、床にスペースがあれば床に横になったりもしたものです。クルマ もいつも暗い一般道走っていた記憶ばかりです。それでも何の苦も感じずに雪を求めていたのですから、 これぞ若さ、青春時代の馬力というものでしょう。

★当時のスキーなど
 社会人となってか結婚もして中年を迎え、社内ではそれなりの地位に近づいて部下もできる頃になると、 さすがに馬力も失せ、そうは休暇を取ってもいられないようにはなりましたが、年末年始や連休のとき、や りたいことの最前列にいつもスキーがありました。
因みに、一般スキーにおける技術の変遷は、使用するスキーやスキー靴の作りとも相まって、毎年少しず つみられてきました。特にスキー板はその長さが年々短くなっていく傾向が続き、素材的にはグラスファイ バーが主流となってきました。一頃は、上級者ほど長めのスキーを履くのが自負心となっていて、私の場 合、20代の中頃には166pなのに205pの板(フィッシャー製のメタルスキー)を履いてブンブン飛ばして いたときもありました。顧みると、馬力は衰えたとはいえ、技術的には中年期の方が充実していたかと思う ほどです。

★曲がり角〜現在へ
 しかし、さしもの私も、スキーへの熱が徐々に冷め始めたのは、カ―ヴィング・スキーへの移行に伴って 極端に短いスキーが主流となり、誰もが比較的楽にターンできるようになった頃からでした。その頃はま た、スノー・ボーダーが増え始め、その影響もあってか、だぼだぼなスキーパンツに代表されるように、スキ ーのルックスも一変して、かつてのスキーの面影は随分と変わってしまいました。年齢的には、これが60 才台前後からのことでした。
 私が八ヶ岳に移住してからは、それこそ手の届く距離にスキー場がある環境にもかかわらず、私のスキ ー用具は物置の中で埃をかぶったままとなりました。体力的な問題や、身体的な問題もこれあり(こちらの 方がトホホで、スキーパンツなどいくら頑張っても履けない体型となり果てていて・・)、スキーは遠い彼方の ものとなってしまいました。実は、一度近所の仲間に誘われて、往年の姿を見せんとスキーに出かけたこと があったのですが、それが7年前のこと。私の足腰は既に別人となり果てていて、みっともない姿を晒してし まったかもしれません。

 ここに載せた何枚かの写真は、スマホで撮り直し改めてデジタルファイルに入れた、かつての自分の雄 姿です。先のおわら風の盆の話といい、昔を振り返り懐かしむのも、歳のせいと言えるのでしょうか。こんな 機会も、もう二度とはないかもしれませんので、手前味噌を大目に見てもらえれば、と思う次第です。
 
   
          1967年 蔵王 大平コース                        1969年 5月の山田峠
 1968年 苗場 筍山




〇高原の秋たけなわに(10月19日記)

 いよいよ秋めいてきました。ここ、八ヶ岳山麓の標高千メートルより上の辺りでのことです。我が家では庭 のカツラが、黄葉した葉をもう半分以上落としています。秋晴れの意も多くなり、いつもの散歩道も密集した ススキの白い穂が道を防ぐほどです。標高1020mの当家でこんな感じ。昨日スケッチ教室では、もっと高 い所は紅葉が見ごろになっているはず、と踏んで訪れた美鈴湖(1633m.)は、まさにそのピークでした。そ のときの写真とスケッチを載せます。八ヶ岳の山腹も、日に日に黄葉の色を濃くまといつつあります。あとひ と月ほどは、高い所から低い所まで順番に下ってく紅葉を楽しめことでしょう。そしてその紅葉の下りてくる に伴って、冬の足音があとを追うように大きくなってくるでしょう。でも、今はその先をあまり考えず、日々紅 葉を追っかけて過ごしたいところです。
    

我が家の東隣から。シラカバはまだ青味が。  ススキで覆われる散歩道       標高1633mの美鈴池は紅葉の最中



〇 10月、遅れを挽回する秋(10月6日)
 
 10月に入り、あれほど残暑の厳しかった9月はあっという間に遠ざかり、今年はついに過ぎゆく夏への感 傷などはどこかに吹っ飛んでしまった感じです。そして秋は急いでその遅れを取り戻すかのような毎日が続 いています。例年秋一番のように報じられている北海道旭岳の紅葉と冠雪は、例年より9日も遅かったそう です。これを書いている5日の朝は、富士山の初冠雪が報じられました。こちらは昨年よりも5日遅く、平年 比では3日遅れだとか。
    我が家のカツラ、黄葉はまだこの程度なのに、風は冷たい初冬のよう。

 ここ八ヶ岳山麓の当家付近では、今朝の気温が7度、寝室の室内温度は17度台で、ちょっと暖房を入れ たくなるくらいでした。今日も日中の最高気温も16度くらいだそうで、ここのところ、札幌の最高気温をも下 回る日々です。季節は一挙にひと月ほど先行、ウールのベストを取り出して寒さをしのぎ、風邪気味の体調 が鬱陶しい昨日、今日、ゆっくりと秋の訪れを味わいたかったのに、最近の季節の進行はそんなことなどお 構いなしにで、薄情なものです。
 10月3日の天高い秋空の写真です。
   
  大泉の田園地帯。上空は掃いたような巻雲が    清里では茅ヶ岳の向こうに富士山が重なって・・。


〇 山麓は急激に秋へ(9月25日記)

 今日は日曜日、今朝の気温は12度まで下がりました。日中で22度、ここ何日かの平均からすると、朝 は7度前後、日中で5〜6度は下がって、漸く秋の大気に包まれたような一日でした。それはそうでしょう、 もう9月も24日なのですから。日没前に少し散歩をすると、実に久しぶりに陽射しが心地よく感じられまし た。大分ススキの穂も白っぽくなり、コスモスは満開、紅葉し始めた木の葉も見られます。今週の後半には また、気温が上がる日もあるようですが、遅まきながら夏の気配が消え、秋の舞台が広がりつつある山麓 です。写真を少しだけ。
ps これをアップした日の朝は9度、ついに10度を下回りました!
   


〇高原は秋へ(9月6日記)

 9月に入っても、相変わらず厳しい残が全国的に続いているようです。加えて、一頃は日照り続きで東京 の水瓶も危うい状態だったようですが、こちらは台風のハイシーズン到来で、何とか見通しが立ったのでし ょうか。多分親せきや友人が多くいるせいからか、東京のことは、他人事として静観して済ますわけにはゆ かないところがあります。
 さて、こちら八ケ岳高原は、秋のサインがあちこちで見受けられるようになっています。空は既に秋模様 で、巻雲が尾を引いていたり、羊雲が広がっていたり、山の端ではさしもの積乱雲も、その勢いを日に日に 弱めつつあるようです。日に日に高くなりつつある空を背景に、アキアカネも飛び交うようになりました。スス キの穂も白くたち始め、コスモスもあちこちで咲き始めています。
 

田圃は黄金色に(8月31日)

散歩中に出会ったコスモス(8月31日)

高い空に飛行機雲(9月1日)

夏の終わりを告げるような茜色の日暮れ(9月2日)

ススキとひつじ雲(9月4日)

クリの実も一人前に(9月5日)
 当家では、この夏エアコンを入れたのは計4日ほど。現在夜は結構冷えるので、窓は締め切って寝るよう になっています。先日は、南隣の住人で6月に埼玉県に引っ越したIさんが、週末の避暑のために戻ってき ていて、立ち話をする機会を得ました。Iさん曰く、"いや〜向こうではエアコンを切るときがありませんよ。こ こ(小淵沢)の良さは、ホント、離れてみて分かります" ・・・とまあ、千メートルの高原ですから、これくらい は自慢させてください。尤もその分、冬は厳しいこと言うまでもありません。その冬の到来まで、短い秋をせ いぜい楽しみたいものと思っています。


○久しぶりに「おわら風の盆」のこと(8月27日記) 
 
 ・・・と言っても、久しぶりに現地に行ったという話ではなく、以下は久しぶりのおわら思い出話です。
 今年もおわらの季節がやってきました。コロナ禍の制約が解けて、今年は何の制約もないおわらが盛り 上がることでしょう。私は2016年を最後に、おわらとはずっとご無沙汰状態が続いています。あの暑い中 での夜を徹しての行事は、私の体力ではもう付いていけないのが現実。おまけに八尾の旧市街は全て坂 の町、肺疾患のある私の行動域からは外れてしまっているのです。

 それでも・・・ここからが、今日書きたかったことの肝となってきます。八尾に行けなくても、私にはあのお わら節が聞え、踊り子たちの所作が目に浮かび、あのおわら独特の静かな喧騒が、私を包みます。今年 は友人と行った近所の食事処で、そこのオーナーが富山出身でおわらの話で盛り上がったかことがきっか けとなって、余計その想いが強まりました。記憶を辿って踊りの所作などもなぞってみたり、改めてYtubeで 確認したりで、もう6年にもなる空白を埋めようと試みたりもしました。山麓絵画館に展示した「おわら風の 盆」も、そうした思いが高じてこれまた久しぶりに描いてみたものです。この流れに乗って、これまでのおわ ら行きのことを手帳などから紐どいてみたりもしました。もう随分前の話で、一部は記憶の彼方に消えかけ ていたのですが、記憶を呼び起こすと概略以下のような備忘録となるものでした。
    
  ・TVで風の盆のことを知り、初めて八尾に行ったのが2000年のこと。
  ・2003年までの4回は連続で、遠路横浜より通った。
  ・2005年以降は移住先の現小淵沢より通う。
  ・その後は途中何度かの中断をはさみながらも、2016年までの16年間で計12回に及ぶ。
  ・最後のおわらは2016年、74歳の年、体力的な限界を覚えてこれが最後となる。
  ・大体は単独行であったが、人を連れて行ったり現地で会って案内したりが半数近く。
  ・最盛期(私自身の)には、"かどや"という鏡町の飲み屋を拠点に、飲んでは町に繰り出すという
  おわらを楽しむのマイペースが定着(残念ながらこの店は2010年頃店仕舞い)。
  ・おわらとは別に、八尾の町には二度訪れている(2004年には「坂の町アート展」参加で数日間
   八尾に滞在)
  ・おわらの絵を描いたのは初回の2000年以降のことで、以後12年間は毎年制作を続ける。
  (当HP「おわら風の盆」 参照)。

 ・・・こんなところが振り返って整理できたことで、まあ人さまにはどうでもいいことながら、私の短くも思い 出深いおわら史でした。私自身、何かに感動して追っかけ的な行動をとった例はこのおわら以外はな、通 えなくなって久しい今になっても、おわらの季節が近づくとその想いが蘇ったりします。私の年齢故のことで しょうか、おわらそのものも、おわらと縁のあった人たちのことも、今更ながら懐かしく思い出します。
 

 ・・・以下は後日談としての追記です。
 9月2日の夜、NHKがおわら風の盆の中継番組を放映しました。BS4Kを記念した3時間に及ぶ番組で したが、嬉しかったのは、この放映のこと、今やっているよ、といった声掛けを何人かの友人たちからもらっ たことでもありました。おわら全体の中継となると、とても無理な話ですが、この日は諏訪町と鏡町という人 気の町内を中心に、それも正式な時間帯内でのおわらを垣間見るといった作り方でした。私は、録画をし ておきながら、結局全部観終えることになってしまいました。我が家で酒を飲みながら、三味線や胡弓の音 色に浸れた幸せな時間でした。



〇繰り言、他人事、自分事

◆ 関東大震災百周年(9月1日記)
 9月1日は朝からTV各局は災害への備えを訴えかける記念番組を放映していました。十万人という犠牲 者の数に目を奪われますが、元々は相模湾を震源としたM7.9の地震で、倒壊家屋や土砂崩れなどの被 害は、神奈川県が最も多かった事実は、あまり認識されていなことでした。犠牲者の多くは東京下町に集 中していて、大半が火災旋風に襲われたものでした。当時の木造家屋の密集が、火災旋風を煽った一因 でもありますが、千度の熱風とは想像し難いことです。まだ記憶に新しいマウイ島の災害も、この火災旋風 の威力で、海に逃げ込んだ人の生命を奪った恐ろしい現象だったようです。

◆ 再び東京への一極集中の危うさが
こうした番組を見るにつけ、東京への一極集中という事実は、改めて危険と隣り合わせであるという認識を 新たにさせます。私がいっとき注目していたコロナ下での東京からの転出数が転入数を上回るという傾向 も、コロナが下火になるにつれ、また元の転入増にもどってしまったようです。先々月の上京で目にした東 京の変わり様、際限のない開発ラッシュは、全て経済原理優先のスパイラルに沿ったもので、そこには安 全優先、人命優先といったテーゼは埋もれて浮上し得ないまま、一極集中が止めることのなできない勢い となっている ・・・それが今の東京の姿と言えるのではないでしょうか・・一個人の大言と取られようと、私の 抱く危機感は変えようもありません。方向転換をもたらすのは政治であり、それを動かす民意でもあるでし ょう。ときのリーダーたちは、この問題をどう捉えているのか、報道はその点をどう見据えているのか、私に は伝わってこないままの記念日でした。

◆ 火葬場が足りない(8月某日記)
 大分次元の異なる話かも知れませんが、これも一極集中の矛盾を示す一事として、最近目に留まったニ ュースがありました。最近、首都圏では火葬待ちが顕著で、平均4〜5日、場所によっては1週間以上、火 葬の順番を待たねばならないというのです。死亡者数の増加は、この40年で2.2倍以上となり、高齢化に 伴って今後更に増えていく傾向がある一方、火葬場の数は首都圏で58ヵ所と変わらず、いろいろな理由で 増設もままならないという現状を報じたものでした。上記の大震災でも起こったら一体どうなることか、考え るに恐ろしい事態ではありなすが、これまた憂慮すべき一つに違いありません。



◆ 音信不通(9月3日記)
 音信不通というのは、どこか気になってほっておけない事態であります。現在のネット世代では、例えばラ インでは既読、即変が通常時とすれば、音信不通という事態は、よほど特別な事態ということにはなるので しょう。しかし、我々の如く、手紙から固定電話、その後にメールという音信の手段を経験した者からする と、メールのやりとりで音信不通とは、およそ半月からひと月くらいの無言状態という認識でしょうか。それ は、相手との交流の濃さも関係するでしょうが、我々のような年齢ともなると、音信不通は何か良からぬこ とがおこっているのでは、とついつい憶測しがちです。さもなければ、こちらからのメールを無視する何らか の理由があるはずだと、とこれまた余計な憶測をしがちです。こんなことを書くのは、最近、何故音信不 通? と思わせるケースが続いたからです。そして、その答えは既に出ていて、ともに拍子抜けするもので した。ひとつは海外旅行で不在だったことが理由、もう一つは、返事をしなければと思いつつ出し渋ってい ただけということでした。後者のケースは、先方からの詫びの電話でそれが分かりました。ともに拍子抜け する結末でしたが、やはり、一言でも返信しておいた方がよろしかろう・・・と、なんということもない結論に帰 する話でした。実はもう一件、音信不通が長く続いているケースがあるのですが、これは相手が私よりもず っと年下だし、現役の働き手でもあるので、取り越し苦労はしないに越したことはなさそうです。




〇 眠れぬ夜の司馬遼太郎(8月15日記)
 私はかなりの不眠症だと自認していて、昼間や晩酌後のいっときには眠りに落ちる(しかも、居眠りの度 を越して)のに、さて床に就くと眼が冴えてしまうのです。そして夜な夜なトイレに立っては寝床に戻りを繰り 返して、朝を迎えるのですが、どうも真夜中に当たる3時前後には、自分でもどうかしたのかと思うくらい眼 が(多分頭も)冴えて、ここで抗うのは無駄とばかりに眠りは諦めてしばし本を読んだりスマホを覗いたりし ています。本は枕元に数冊の文庫本が置いてあって、気分次第でどれかを手に取って適当にページをめく ります。
 本の一つが、司馬遼太郎の「風塵抄・・二巻」。氏が産経新聞に連載していたエッセイをまとめたもので す。題材はその辺の日常とか世相とか史実などからとったもので、大体が4〜5ページの章建てになってい て、どこを選んで読んでも肩は凝らないし、読書を切り上げるのも後を引かないで済みます。もう何度同じと ころを読んだか知れませんが、それでも読ませる処が司馬遼たる所以でしょうか。ここでは、私ごときが氏 の論評をするのはおこがましいので、いくつか改めて気付くことを抜き書きしてみます。


◆司馬”私観”
 司馬史観とよく言われ、その史観なるものの位置づけがが歴史上のどの辺にあるのか・・などと論議され たりしています。しかし私は、史観もさることながら、より広い意味での司馬私観とも言うべきものを感じ取 っています。私観となると誰でも(ことにモノ書きは)一つの視点として持ってはいるはずですが、司馬私観 は、知性の大きさと感受性の豊かさに加え、常に物事の本質に迫る氏特有の探求心とか好奇心から醸成 されているところに魅力を感じます。既成の価値観とは一線を画した氏独特の手作りた感とでも言いましょ か、そこが説得力やある種の温度感を伴って読者の譜に落ちていく、そういう司馬私観に私は惹かれま す。

◆いくつかの心に刺さる個所を
 こんな調子で、私自身の論証を進めてもに何の説得力もなさそうなので、読んで心に刺さるいくつかの個 所を取り挙げてみます。文章の断片ながら、こちらの方が司馬私観の一端が沁み出ているかも知れませ ん。
<「言語の魅力」より>
〜NYでの日本人のあるスピーチに触れて
 ・・・話し手の正直さこそが、言語における魅力をつくりだすということである。それが唯一の条件ではない にせよ、正直さの欠けた言語は、ただの音響にすぎない。・・・政界のやりとりをみると、ついそう思ってしま う。 
<「高貴なコドモ」より>
 ・・・人間はいくつになっても、精神の中にゆたかなコドモを胎蔵していなければならない。でなければ、精 神のなんの楽しみもうまれないはずである。
 ・・・人は終生、その精神の中にコドモを持ちつづけている。ただし、よほど大切に育てないと、年配になっ て消えてしまう。
<「悲しみ」より>
〜この項には印象に残る言葉がたくさんある〜
・・・さらにえらい凡夫は、百万遍もの人の世の無常を感じつつ、そのつど自分流の哲学をもって人生を再 構築する。
 ・・・ユーモアを一枚の紙にたとえると、上質のむなしさと、気品のある楽天主義とが表裏をなしている。そ のはざまで弾けるのがユーモアで、洒落や冗談とはちがう。
 〜この流れで漱石に触れ、漱石の俳句"菫ほど小さき人に生まれたし"に触れる。
 ・・・私自身の思い入れのせいか、漱石の人と生涯と作品が、この一句でわかるような気がする。
 ・・・文学の基本が、人間本然の悲しみの表出であることは、いうまでもない。

 まだまだ枚挙に暇ありませんが、最後の一節などは、司馬氏の透徹した視線が感じられ、何度も読み返 してしまいます。

 「風塵抄」の各エッセイが書かれたのは、86〜96年の間ですが、何処を読んでもでも古さは感じられま せん。時代が変わっても変わらぬ本質に触れているためです。その一方でしかし、もし司馬氏がSNSやAIと の密な結びつきの上にある現代社会に戻ってきたら、一体どんな感想を抱くのでしょうか。是非呼び戻して 訊いてみたいのは私だけではないでしょう。



〇食い物の恨みは・・(7月25日記)

 食べ物、それもレストランで供された食べ物についての不平についてです。TVではしばしば美味いものが 紹介され、リポーターやゲストがそれらしい食レポを目にする度に、一度はそこに行って食べてみたいと思 っていたのはもう何年か前までのこと。私はそもそも並ぶのはイヤだし、何よりも八ケ岳の麓に生活してい る身で、そんな旨いもの屋が周辺にあって気軽に行けるわけではありません。そんなシーンは別世界のこ とと受け流すだけとなりました。それはさておき、普通グルメレポートと言えば、写真入りの美味しいものの 食体験ですが、以下は実体験で、それも不味かったケースの体験記です。かなり不愉快な想いをそれも二 度連続して味わったので、これを書く気になりました。ちょっと買い出しに出た折に入った市外のレストラン でのことです。

 ひとつは、ある大型商業施設内にある中華レストランでのこと。何軒か並んだ店の大半はすでに何度 か入ったことがあって、これといった決め手を欠いたまま消去法のようにして選んだこの中華の店で、私は 冷たい系の中華そばを、妻は酢豚定食を注文。出てきたメニューの品を食した途端、どちらもこれが中華 料理を商う店の味かと疑念を沸かせるものでした。プロのやっているはずの店なのに、代金に見合うだけ の味が一切感じられないばかりか、これでは自分で作った方がよほど美味いと思わせる代物だったので す。以前来た時はこれほどじゃなかったと思う一方で、よくもここまでこんな料理を客に出し続けてきたもの かと、呆れるばかりでした。後日、この話をした友人もまた同じ店で炒飯をテイクアウトした経験があり、世 にも不味い代物だったと酷評してので、誰の目にも明らかな評価であろうと思えました。

 もうひとつは甲府市内のある和食のチェーン店での話です。これまた積極的に選んだ店では一切なく、 夏休み入りしてどこも子供ずれも多く落ち着けそうもなかった中で、あそこなら結構静かかもしれない・・と いった程度の思い付きで入った店でした。それで、先ずは派手な料理の写真をたくさん配したメニュー、一 品に詰め込んだ品数の多さ・・・などを見て、早くも選択を誤ったかと思いつつも注文を。やってきた料理を 目にして既に食欲が失せました。何とも安物の天ぷらの色と触感、柚の風味と書いてあったはずなのに得 体のしれない香りを放つ麺、見ただけで味は知れています。じつはその前から、従業員の接客態度や客層 を見て、こういう店だったかとわが記憶力に自信喪失を覚えつつ、結果的には料理の多くを残し、逃げるよ うにして店を退散したのでした。先の中華といい、この和食といい、そう言えばどちらも店内は混んではいな かったなどと思いつつ、SNSの声など消費者の目が厳しくなる環境下で、よくもこんな店が存続するものだ と、ちょっと不思議な感覚さえ覚えたものです。

 さて、このように我が身の不運を呪う経験をした一方で、対照的とも言えるあるシーンを最近目にして、こ れまた世相なのかと思ったりもしています。それは高速インター近くのコンビニでのことですが、暑かった のでちょっとアイスでも買いにそこに立ち寄って驚きました。駐車場は満杯、店内は長いレジを待つ人の 列。そしてレジ待ちの誰もが手にした買い物かごの中にかなりの量の食べ物が詰め込まれていました。こ れを滞在先の宿で食べるのか、或は帰路クルマの中で渋滞への備えとするのか、いずれにしこの光景 は、隣接した老舗土産屋と食事処の空いている駐車場とは対照的な光景でした。
 最近・・と言ってもすでにかなり以前からと言うべきでしょうか、インスタントやレトルト食品には当たり外れ がなくて美味しいものが多く、コンビニなどは特にこれらを厳選して並べているので、私なども時に今夜のお かずにと買いに行くくらいです。これでは、その辺のレストランも安閑とはしていられないと思うのです。つま りこういう状況であるのに、先の二店舗は一体何だったのかと、不運に見舞われた一犠牲者としては、そ のはけ口としてこれを書いた次第です。いつの世も"食い物の恨みは怖い"ものです。



〇繰り言、他人事、自分事

◆いまさら問われるITとの親和性

 ITとの親和性・・IT literacy、一頃こういう慣用句があって、IT文化への馴染み具合を表す言葉としてよく使 われていました。今更こんな言葉を持ち出すのも時代にそぐわない感もありますが、世間の実態は依然と してIT literacyが問題視されるような組織や業界などがあるものです。それはITがAIにその主役を奪われ、 chatGPTに代表されるように、人間vs人工知能のせめぎ合いが現実的に問題視される時代になっている のに今更ながら・・・と言うべきでしょうか。まあ、こんなことを書きながら、私自身のIT文化への馴染見具合 は棚に上げてこれを綴ります。

 先ごろ、裁判所の文書保管の問題を取り上げたニュースに接して驚いたことがありました。それは、最高 裁主催の裁判所長間の会議で、歴史的、社会的意義を有する多くの裁判記録が破棄されている現状に触 れ、文書保管の改革の必要性を認識しようという趣旨の会議でした。そのニュースでは、かつて少年法の 下で裁かれた裁判記録が破棄されている事実を引き合いに出して報道していました。その中で、犠牲とな った幼い子供の父親が、裁判記録の破棄は大事な社会的記録の喪失であり、父親としては、子供にとって の生きた証の喪失をも意味するものだと語っていました。裁判所ではこれまでの重要な判決に係る裁判記 録につき、一部を除いてその大半を判決後何年もしないうちに破棄してきたのが現状という事実が最初の 驚きでした。さらに驚いたのは、その破棄の理由として保存の場所が足りないという事由があげられていた ことでした。保存場所がない?? このITの時代、このAIの時代にあって、日本の司法府は旧態依然たる 原本主義や判子捺印の紙媒体に拘り、保存場所がないという事由で大事な社会的記録を破棄してきたと いうのです。ICチップにすればわずかな枚数で収まる文書の電子化という問題に手をつかないまま今日に 至っている・・・それが司法界の現実なのです。

 関連して、マイナカードを巡る混乱した事態の続発は眼を疑うばかりです。これは個人情報の担保という システムの根本が危機に晒されている事案で、不測の事態というよりも、起こるべくして起こった現実という 点が問題なのです。言うまでもなく、マイカ制度はデジタル社会実現に向けた国家レベルでの取り組みであ り、国民への浸透を図った鳴り物入りのプロジェクトでした。本来デジタル化とは、システムの標準化を通し て全体の効率化を目指すところにその意義と目的があるはずで、このマイカ制度もこれによって従来関係 省庁間で分断されていた個人識別を横断的に統一して効率化を図ろうという趣旨であったはずでした。そ れがどうでしょう。トラブルの元たるシステム上の問題も、行き着くところ省庁間の旧態依然たる縦割組織 の弊害に起因し、その弊害はトラブルへの対応面でも色濃く出ているという始末なのです。一体デジタル庁 の設立とは何だったのでしょうか? 裁判記録の問題も同根で、どうもこれは、IT literacy後発性だけに留 まらず、日本の中枢における組織体の器量が問われていると言われても仕方ないでしょう。
・・と、以上は未だアナログ系に安堵感を覚える一老人の嘆き節でした。

◆通り抜けていくだけのAI音声  
 
 最近TVではAI音声によるニュースを聞く機会が増えています。ニュースを男女のアナウンサー(実は男女 の音声)が交互に読み上げるのですが、一聴して何の支障もなく普通のニュース番組を視聴している感じ ではあります。しかしどこかメリハリに欠けると言いますか、聴き手を掴まえるところがないまま聞き終えて しまう、という印象は免れません。発音やアクセントは正確なのですが、聴き手の心に刺さるような、メリハ リとか強弱とも言うべきか、そういうものがないのです。そしてその印象は、画面隅に表示されている"AI音 声でお送りしています"という小さなテロップを目にして、ハハ〜なるほど、と初めて納得させられるのでし た。

 もう一つ、同じような印象を受けたのは、ある唱歌が録音されている音源を耳にしたときでした。「あすな ろ」と題する童謡で、私はあるドラマで登場人物が口ずさんでいたこの歌を久しぶりに耳にして懐かしく、改 めてどんな歌だったかを知りたくなって検索すると、見つかった音源がAIの音声で歌われたものでした。こ れまた抑揚というものがなく、音符の全てが一定の正確な音程と音質でなぞられ、それが繋がって音声に なっているといった印象です。揺らぎがない音源とでも言いますか、人間の歌う息遣いとか間というものが ないのです。そして聴いているうちに、歌というものは逆にそうした揺らぎのが聴き手に届き、聴き手の心に 共鳴する・・それこそが歌というものであったかと、改めて思ったりしました。

 二つの経験から、私たちが喋ったり、語ったりするとき時に発する音声には、この音律とか間とか強弱と いった揺らぎというべきものが自ずとあって、それは私たち誰もが、意識せずとも自然と発しているという事 実に改めて気付かされます。話すときも歌うときも決してフラット一辺倒ではない、そして、その揺らぎこそ 人間の感情の発露であり、人と人のコミュニケーションを促す要素であったかと、改めて気付くのです。これ が自然体というものでしょう。AIはその自然体を備えるまで至ってはいないということなのかもしれません。
 関連してもう一つ、例のchatGPTの作る文章からも似たような印象を覚えます。押しなべてフラットでスム ースな文章なのですが、ある種のとっかかりを欠いたままスラッと読み終えてしまう、そういう印象が拭えま せん。音声同様に欠けているのは抑揚とか一種の揺らぎであり、或はこれこそ個性と言うべきでしょうか。 AIは人の心を掴まえたり響かせたりする個性を手にしてはいないのが現状ということかもしれません。


◆日本の空は世界一    

 日本の空は世界一だと思う・・気象予報士でもある石原良純氏がどこかの講演会で発した言葉です。私  はその言葉をTVで耳にして、思わず我が意を得たり! と膝を叩きました。空が世界一ということは、そこ  に漂う雲が世界一面白く、変化に富んでいるということでしょう。そもそも雲は地上の水蒸気が蒸発し、上  空で冷やされて水滴や氷となったものです。その出来方は、地上の地形や気象条件によっ て異なり、様々 な表情を見せてくれるものです。

・空が世界一なら地上も世界一
 日本の雲は世界一変化に富んでいて面白い、ということはつまり、日本の地形や、気象的要件もまた世 界一変化に富んでいて面白いということになるのです。実はこちらの方が、私が常々実感してきたことで、 ここで言いたかったことでもあります。日本列島は、大陸を背に太平洋を前にした島国であり、四つのプレ ートがせめぎ合ってつくられた複雑で変化に富んだ地形の上に成り立っています。これに温帯で多湿、明 確な四季の存在など、日本の置かれた地理的要因が加わり、これらの奇跡的出会いの上で、世界にも希 な変化に富んだ列島の営みを続けています。この奇跡的出会いは一方で、地震や噴火に代表される自然 災害のリスクをも内在するもので、私たちはその代償としての美しさを私たちは享受していると言えなくも  ないでしょう。しかもその美しさ、多様さは海と山の両方に及び、多様な植生も手伝って醸成されるもので す。
 私は風景画を描いていて、この日本の風景のかけがえのない美しさをごく日常的に感じ、そこに暮らして いることはありがたいことだと思 っています。それは例えば、セザンヌやゴッホなどが目にしていたであろう 風景を想像してみるとよく分かり ます。自然の風景という点につての話ですが、彼らが描いていたのは概し て平板な台地と荒涼とした岩 山、植生も単調な自然風土ばかりです。そこに人々の生活の気配がなけれ ば、およそ風景としての単調 さは拭えない、といった感じではなかったでしょうか。あくまで風景を創り出す 自然要因に限った話で、イギ リスの或はオランダの風景にしても大同小異と言えるのでしょう。

・日本の若者も・・・
  さて、繰り返しますが、こうした風景の多彩さを作る地形と気象要件は、そのまま空のそして雲の多才な 表情をつくり出すものです。そんな環境の中で育ち日々を送っていることは、改めて顧みられることがごく稀 なことと言えるでしょう。さらに言えば、こうした類稀な自然の中で育まれた文 化もまた、世界に類い希なも のとして改めて想起されるべきでしょう。インバウンド増加の最中にあって、世界が日本に向ける視線は、 この我々の寄って立つ自然と文化の美質に注がれていると言えるのではないでしょうか。我々自身もまた、 この美質を見つめ直す必要があると思います。特に、日本の若者には、日本と いう国の持つ世界に稀な 資質につき、ときに目を向け改めて誇らしく感じて欲しいものです。時代が如何様に「変わろうとも、自らの 寄って立つ足元を再認識し誇りに感じてこそ、世界に対峙できる足元もまた盤石なものになるというもので す。
         

 
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〇変な5月〜そしてもう6月(6月5日記)

 今年も早や6月。私は先月81歳となり、今年2月に八十路入りを果たした妻ともども80歳の壁登攀にか かっています。かつて他人から80才になるとまた一段といろいろあると言われてきたその年代になり、いよ いよ・・と言うか、後戻りできないというか、いやいや後戻りする道筋も思い起こせないというか、そういう老 境になった次第です、ハイ。もう6月か、という感慨を覚えつつ、自然と私の誕生月であった先月のことに想 いが及んで書きだした次第です。

 さてその5月、風薫る爽快な季節であるはずなのに、何だかへんてこな五月でした。これは今に始まった わけではなく、"春"という期間が昨今極めて短縮されているという既に何年も前から経験している、地球規 模での気候変動の一環なのでしょうか。今年はその春の訪れも早く、サクラの開花は全国的に例年より2 週間ほど早く、それが全国的に同じ前倒しの傾向となりました。そしてこの早い季節の展開は、新緑然り、 高原に咲く花々の開花然りで、4月から5月へと諸事諸々前倒しの季節展開となり、ついには夏の到来も その分早くやってきたように思えます。
少し歳時記風に書くと、毎年虎視眈々と収穫を狙っているフキノトウも、採りに行ったときはすでに時遅し で、毎年楽しみにしている庭のコシアブラの芽を採取したのは4月23日前後で、一頃よりも十日前後早い 収穫時期でした。スミマセン、歳時記風と言いながら山菜の話ばかりでした。そして中旬になって17日は3 1度という5月としては過去最高の真夏日となり、風薫る季節は一足飛びに熱中症に要注意の季節に突 入。ところがその後再び3月の気候へと極端な後戻りをしたりで、この寒暖の激しい日々は、老体には堪え るものでした。

 この間、いくつかの検診が重なって、いつもの内科検診、歯医者、眼科医・・・と、あちこちの病院に行きま した。老人同士の会話に欠かせないこの話題、私はこのFノートでもできるだけ避けてきたのですが、つい に登場です。かいつまんで言うと、歯医者は歯周ポケットに黴菌が入ったようで、久しぶりのあの大嫌いな 痛みを発症、そして久しぶりの歯科の治療台に乗り、久しぶりの痛み止めのお世話になったりもしました。 眼科の方は、実はコロナ下でもう2年以上敬遠していた術後(緑内障)の定期検診の再開で、こちらは施術 を受けた大学病院からかつてお世話になっていた近くの眼科に引き継いでもらう手筈とし、診断書(引継ぎ のための)持参でその眼科を訪れたのでした。先生お久しぶりで・・と馴染みの女医先生に挨拶するや否 や "どうしてもっと早く来なかったの" と一喝されました。検診の結果、叱った余勢のように思えないでもな い目薬点眼の再開を命じられ、目下先生の怖い顔を思い出しつつ、点眼を続ける毎日です。内科のホー ムドクターの所では、最近とみに激しい息切れのことを相談するや、次回は血液検査と心電図チェックとあ いなりました。「80歳の壁」で推奨されていた健康診断回避、医者からの独立独歩は、そんなに上手くは行 かないという現実と目下向き合っている最中です。

  6月、山麓では至る所水田に早苗の光景が広がっています。

 そんなこんなでもう6月。夏のシーズンインとなって水彩教室の方もお休みに入り、郊外での活動も減りつ つあります。そんな人間活動の小休止など意に介さないように、自然は刻一刻と変わりつつあります。緑は ますます濃く単調なトーンに変わり、大地では草が伸び放題。一昨日は家の周辺で刈払機を回しました。 私は老体を理由に肉体駆使の活動は免除させてもらっているのですが、ちょうどこの日が地区の環境デイ で、朝から聞こえてくる刈払機の音を耳にして、せめて我が家周辺だけでも・・・と、意を決しての労働となっ たわけです。1時間もしないうちにくたばってしまい、この疲れは結局終日消えないままでした。しかし庭を 見れば、以前から気になっていた庭木が驚くほどの逞しさで伸びているので、こちらの伐採もやらねばなり ません。八十路の身では屋外のこうした労働も限界を感じますので、そろそろ我が山麓生活も見直さねば ならないのかと、昨今はそんなことも頭を過ります。となるとこのFノートもまた・・という想いもまた湧湧いてく るという、そんな具合で過ごしている初夏ではあります。



〇繰り言、他人事、自分事 (5月1日記)
◆ 本屋が消えていく  
  日本中の街のあちこちで、本屋がその姿を消しつつあるようです。身近な例として、隣の富士見町では、 良く買い物に行くショッピングモールにあったI書店が3月末を以て閉店しました。自然や風土に関連した本 を多数揃えたいい本屋で、私などはこのモールに行く目的は、スーパーとこのI書店がセットになっていたく らいですから、この閉店を惜しむ人は大勢いたはずです。もうかなり前のことでしたが、これも隣の韮崎市 では、R堂という大きな書店の閉店もありました。広い駐車場と広い店内が魅力で、韮崎市に行くときは必 ずといていいほど、先ずはこのR堂にクルマを停め、中を覗いていっときを過ごしたものです。この書店の 閉店後の大きな敷地はコンビニにとって代わったのは、世間の潮流を見る思いでした。
 
 同じような流れは大都市でも見られました。甲府では老舗百貨店オカジマの閉店と規模を縮小しての移 転に伴い、店内にあったこれも大きな規模のJ書店も姿を消しましたし、東京駅のあの「八重洲ブックセンタ ー」が姿を消すというニュースに接したのもつい最近のことです。ブックセンターは再開発で建つ総合ビル のテナントとして復活するのだそうですが、オープン当日に5万人が押し寄せたというあの地下一階、地上 八階という本屋ビルが姿を消すのも、時代の流れを象徴するものと言えるでしょう。
本屋というのはいわば本のある広場的存在でした。それは、新聞の優れた資質である一覧性の魅力と通 じるところがあり、世間を見渡すようにして書棚を物色したり、気になる本を手にしては中身を覗いてみたり と、この立ち読みの良さとは、通販では味わえない魅力であったといえるでしょう。本が目当てか、本屋が 目当てか・・・ 一種のウキウキ感を共有する世代にとって、時勢とはいえ寂しさを禁じ得ない本屋さんの消 失であります。

◆ ETCはあのミナミちゃんの声!  
 日のり子という声優を知っている人は、そんなに多くはいないかも知れません。かくいう私も、その声優 の名前は知らなかったのですが、あのコミック「タッチ」のヒロイン、浅倉南のことは、アニメ化されてのちは レンタルビデオ屋から借りて来ては何度も見ていたのでよく知っていました。もう30年ほど前の話ですが、 あのちょっと甘ったるい声、双子の主人公をときにたしなめるお姉さんぶった声は、男性ファンのみならず 多くの視聴者の心をくすぐる"おんなのこ"の声だったと言えるでしょう。
 その日のり子が出演したあるTV番組で、ちょっと意外な事実を知ったのはつい最近のことでした。誰も が耳にしているあのETCの声・・・"ETCカードが挿入されています。有効期限は〇〇年の○月です"・・・これ が彼女の吹きこんだ声だったのです。多分に大人びた番人向きの声とはなっていたものの、我々ドライバ ーはクルマを動かすたびにあのミナミちゃんの声を耳にしていたわけです! 
以上は、だからどうという話ではないのですが・・・。


◆ アナログ〜デジタル〜そしてAI
 私も齢80歳ながら、一応外出にはスマホが欠かせない身ではあります。PCは使い始めてもう30年近く になります。今さら言うまでもないのですが、ネット環境というものは、若者のように身に付いたものではな いのです。いわばアナログ時代から脱し切っていないデジタルの漂流者とでも言えるのが私らの世代の特 徴でしょうから、際限なく続くシステムの更新とか刷新というたぐいのことは、もうそっとしておいて欲しい、も う構わないで欲しいと思うばかりです。
 それで、気にくわないことを縷々書きだすとキリがないし、大体辻褄のあった文章にはできそうもないの で、以下私の憤懣をブチまけてみる次第です。

・ Windows11 など勝手に導入しおってケシカラン! 何時からそうなったのか知らないが、私は今の
W10導入のときさえ怒っていたし、それに馴れてきた頃になってまたヴァージョンアップとは何事か。リスク 管理上のニーズもあるらしいだが、どうもマイクロソフトの身勝手な振る舞いに思えて仕方ない。私はW10を 変える積もりはないし、もっと言えば、私はかつてのお気に入りであったXPで十分だったのだ!

・ ウエブブラウザーもまた勝手にMicrosoft Edgeなるものに切り替えられてしまった。いろんなアプリの仕 様を再設定させられたり、使い勝手が悪かったりで、未だに馴染んでいないのだが、Internet Explorerで何 の不自由もなかったし、こっちの方が使い易かったのだ。ったくもう・・・。

SNSプレイヤーの端くれとして自分も参画にしているfacebook・・・考えてみると、あんな単純な仕掛けを 提供しただけで億万長者をつくりだすSNSの現実! そしてその舞台で踊らされているのが自分?・・・こん な哀れな関係から抜け出せない現実が頭にちらつくことしばしば。 fbookついでに、あの繋がりの元たるト モダチとは何と軽い存在であることか! 出会い系サイトを思わせるようなトモダチリクエストには何度も遭 遇したので要注意! (私は大系サイトを利用したことはありませんが・・) 

・ 最近話題のChatGPT、留まるところを知らないAIの進化をどう受け止めていけばいいのか。傍観者の つもりが当事者の一人となっていたりで油断がならない。
 尤も、ChatGPTは、パンフレットの類の一通りの説明とか、テストの答えとか、一定の条件検索とか、もの は使いようといった面は多々ありそう。 一つ格好の使い道を思いつきました。皮肉を込めて言うなら、国 会の質疑の原稿・・・無難で没個性の応答原稿などにChatGPTは最適かも知れません。いずれにしても、 間違っても個性が問われる書き物などに使ってはなりません。

◆ また、やらかした!
 言葉通り、またやらかした!・・・反省しきりな事態に最近陥りました。旅先で財布を無くした一大事に直面 したときんことです。お先真っ暗、女房に一生言われる・・・そんな暗澹として気持ちになったのは、実は初 めてではなく、これまで何度か経験してはいます。財布とかハンドバッグとか、大事なものほど、置き忘れた り落としたりとこれは自分の抗いきれない性分とさえ思ってしまいます。今回の一件は、あの菜の花の旅で の出来事で、二日目の帰り道の途中でした。小布施を後に上信越道に乗り、中愚横断道に入って一休み のために佐久南インターを下り、近くの道の駅に着いた時のことでした。財布を出そうとベストの内ポケット に手をやると、そこには何の厚みも感じられず、待てよっと車内を探してもどこにも見当たらない! 落とし たのかどこかに置き忘れたのか・・次に襲われたのは、またやらかしたかという自分への不信と不安な気 持ちでした。その不安の中で懸命に自分の取った行動を遡り、最後に財布を使った小布施の店に思い当 たりました。すぐさま電話をと、土産物の包装紙にあった電話番号にダイヤルを。あってくれという願いを込 めて、出てきた人に訊ねます。"財布の届け物はありませんでしたか?"相手から返ってきたのは、"黒っぽ い結束バンドで止める財布でしょうか?""そうです、そうです、それです、中には現金○○円ほどと、障害 者手帳とクレジットカードが入ってます"と私。ややあってから、"お電話をいただいて良かったです"と相手 が。なんと幸いなことか、それは土産物を買ったレジの傍にそれはおちていたのでした。後日送ってもらう ことにして、やっと生き返った気分を取り戻し、この話は一件落着となるのですが、これはしかし、日本なら ではの顛末で海外では考えられないことです。先方もまた老舗の菓子屋であったことも幸いしたものか、相 手のS堂には感謝の念が絶えません。



〇菜の花を行く(5月1日記)
 北信濃の飯山市に「菜の花公園」なるものがあり、そこは「朧月夜」のモチーフとなった千曲川沿いの丘 陵地帯です。かねてから一度行ってみたいと思いつつ、毎春見送ってきたこの場所に今年は友人夫妻と一 緒に行ってきました。菜の花と言えば、この冬に外房を旅行した際、かの菜の花鉄道たる「いすみ鉄道」の 脇をドライブしてきたばかりです。2月だったので、菜の花は探せば咲いている所が見つかるといった程度 でしたが、そもそもそんな寄り道をしたのは、例の「プレバト」でこの鉄道のポスターに添える一句というお題 があり、そこで一等賞に選ばれた立川志らくの句に誘われたからでした。
「忘れ物をさがしに菜の花を行く」
・・・今回の菜の花公園もまた、その流れを汲んでの旅でした。
       

 今の季節、菜の花は日本中どこに行っても目にできるのですが、飯山市の「菜の花公園」は、一面の黄 色い絨毯の中に身を置くと、そんな名前を付けた理由が十二分に頷けます。高台から見下ろす前面には、 千曲川のゆったりした流れがあり、そこからせり上がる段丘のあちこちを菜の花畑が埋めています。そして 対岸の山並みの向こうには残雪の妙高のピークが覗き、後ろを振り返れば山間の斜面にまるで時が止ま ったような集落の佇まいが眼を和ませます。まさに私が接してみたかった光景が広がっているのです。この 「菜の花公園」から千曲川流域を下ると、流れの蛇行する先々にもそんな懐かしい光景が出現するようで、 私一人なら一日中でも場所を変えては撮影とスケッチに明け暮れたに違いありません。尤も、現代人が抱 くであろう"なくしもの探し"といった感傷にまで浸ったわけではなく、それは歳のせいで仕方のないことでし た。なにせ、なくしもの、忘れ物だらけで一杯なのが我が身というわけですから・・・。 




○春・・その2(4月11日記)

 4月に入って山麓は俄かに春めいてきました。ときに5月並みの気温という日も珍しくなく、ここのところ毎 年感じることですが、今年もまた順調とは言えない季節の移ろい具合です。サクラの開花が全国的に1〜2 週間も早いと言われる中、わが北杜市でも大分早い開花から満開という経過をたどりました。でも2週間も 早いとは言えず、昨年の写真を参考に今年の開花〜満開の程度を比較してみると、どうも昨年比だと1週 間ほど早かったと言えそうです。サクラに較べると、コブシの開花がさほど早かったわけではなく、感覚的に はサクラなどの早い開花に、これはおちおちとしてはいられない・・と後押しされて開花を早めたようにみえ ます。自然界に"世間"はないのでしょうが、どうも世間の声に煽られて慌てて咲き出した感が拭えないので す。
 これは別として、毎年のことながら、散歩をしていて草木の華やぎを目にするのは嬉しいことです。しか し、こちらとしてはゆっくりと春を味わいところなのに、実際は一旦春へのギアーチェンジが入ると、人間の 気持ちなどは置き去りにしてせっせとその勢いを増していくのが自然界の常のようです。
 それでも、山麓の良さは標高差にして600bの中で春を追っかけることが出来る点です。その分春を長く 楽しめるのが、山麓人として嬉しい点です。いくつかの春の表情をご紹介します。



まだ芽吹いていない森を背に咲くコブシ

サクラ満開

菜の花畑で

サクラと甲斐駒馬、そこに馬との出会いも



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我が家のダンコウバイは蕾が膨らんだ状態  株分けしてもらったラッパスイセン  クリスマスローズはこんなにしっかりと・・。

〇春の兆しを楽しむ(3月20日記)    

 サクラの開花は日ごとあちこちで発表されています。甲府では3月18日で、これまた最速タイだとか。北 杜市では一番標高の低い武川辺りで3月末に開花となるのでしょうか。いずれにしても、毎年繰り広げられ るサクラの追っかけは、4月に入ってからが忙しくなりそうです。追っかけとは、サクラの撮影やスケッチの ために低い所から高い場所へとサクラを求めて行動範囲を変えていく年中行事のようなことです。始まりは 韮崎〜武川から、以降白州〜長坂、高根、そして4月も下旬になってからは我が小淵沢とか富士見町辺り へと、標高を追って場所を変えていくわけです。

 さてそんなサクラの開花以前に、身近な所でも春が萌し、日に日にその領域を広げつつあります。我が家 での初フキノトウは3月11日のこと。これを書いている20日現在で、裏側の日陰で6株の芽出しを確認し ています。友人宅からもらったラッパスイセンも元気に花を咲かせています。アサツキも結構しっかりと立ち 上がりつつあります。待望の我が家のコシアブラは、まだまだ固い芽がついている状態なので、収穫できる ようになるのは4月の下旬でしょうか。
     
   春雪に覆われた野辺山高原       バッコヤナギの芽吹きが。    動物の足跡があちこちに

 昨日の日曜日は雨上がりのいい天気となりました。山の方は雪明けでこの季節らしくない冬化粧の様相 を呈していたので、久しぶりに野辺山方面に取材に出かけました。開拓碑のある1400m辺りでは、今頃 はやや温もった土が現われているのでしょうが、一面雪に覆われ、その雪原の先に立ち上がる八ヶ岳は雪 と岩の表情をくっきりと見せていました。雪景色ではあるのですが、春の日差しを浴びてどこか暖か味も漂 っています。雪原の端にある灌木地帯では、バッコヤナギの芽が丸く膨らませていました。全体に春の気 配を漂わせつつ、しかしむしろ冬の名残を楽しんでいるような野辺山の風景でした。
         顔を出したフキノトウ(左)と収穫物
   
 野辺山から帰りしなに、秘密のフキノトウのスポットに行ってみました。標高1400メートルの雪原から、8 50bまで、標高差550bを下った田園地帯は春が兆し始めたところで、フキノトウはそろそろと思ってのこ とでした。私だけが知っているポイントに辿り着くと"来るのが遅い!"と言われているような状態ではありま せんか! こちらも芽出しが早かったようで、その分幾分か貧弱ではあるのですが、数はそこそこありま す。いつもクルマに用意してある万能ナイフとビニール袋を手に早速収穫に乗り出し、結構な数を袋に忍ば せて帰ってきました。天ぷらとフキノトウ風味のスパゲッティが待っています!

 山麓の春、その輝きはまだまだこれからのこと。今はその序章を愛で楽しんでいるといったところです。




〇繰り言、他人事、自分事(3月2日記)

 このタイトル、私がかつてある同人誌に3年余りにわたって掲載してきたエッセイのタイトルです。このよう に並べ書きしてみると、本文の中身は何であれ大体のところ三つのうちの一つに当たる、という我ながら上 手くひねり出したタイトルだと思っています。という次第で、またこのFノートに使わせてもらいます。

◆ 腰痛
  1月中頃に腰痛に見舞われました。私は忘れたころに現れる腰痛持ちですが、今回のそれはギックリと いう感じではなく、どうも鬱陶しい痛みが右腰からわき腹辺りにかけて感じられるといった程度のことから始 まり、二日後には紛れもない腰痛という状況に様変わりしていた・・といった経緯でした。その原因はこれと いうほどのことは思いつかなかったのですが、そう言えば・・と思い出したのが、片足で椅子から立ち上がる 腹筋テストのようなことをちょっとやったことです。いやしかし、その時もその後も痛みを感じたわけではな かったので、これが遠因かどうかは今もって定かではありません。経験上、無理せずにひたすら一週間も 日数を稼いでいればそのうち治るであろうと高を括っていたのですが、一週間、十日間とたっても回復の兆 しが一向に見えてきません。これは年齢故なのか、或は腰痛の背景に内臓の疾患が関係しているのでは いか、などと疑いつつ、およそ半月ほどたってから痛みが和らいで覚えてきました。そして立ったままでの パンツの着脱ができるようになった(回復の目安)のは、20日目のことでした。腰痛は歳をとるほど完治に 時間がかかる厄介なもの、と実感させられた今回の経験でした。

◆ そこで一句・・・  
 私は肺句をたしなむ人ではないのですが、昨今TVの影響もあって関心が高まりつつあります。ご存じ「プ レバト」、あの夏井先生の的確な講評が面白く、有名人の意外なセンスに感心したり、俳句を楽しめるのは 日本人なればこそ、と改めて感じたり・・。かつての飲み仲間の間で気楽に読詠んだ句が、その道の先輩 から褒められたことを思い出したりで、俳句は目下の処鑑賞するだけですが、ちょっとしたマイブームなの です。
 1月下旬の「プレバト」は、観光地のポスターに添える一句というお題で、一つは千葉県のいすみ鉄道(通 称"菜の花鉄道")、もうひとつは京都の三条大橋のそれぞれのポスターが題材でした。夏井先生の一番押 しは、次の句で、どちらも破調といわれる十七音の句で、そこがまた印象的でした。
 いすみ鉄道 ・・・ "忘れ物をさがしに菜の花を行く"  (立川志らく)
 三条大橋  ・・・    "初蝶の止まる擬宝珠の刀傷"  (千原ジュニア)
               *擬宝珠=ギボシとは橋や手すりに施された飾りのこと)
 前者は現代人の心の隅にあるであろう"わすれもの"が、菜の花の中で見つけられるかも知れない、とい った心境を詠ったもので、この鉄道に誘うようないい句だと思いました。
後者は、初蝶という季語を発掘したことと、それを古都ならではの光景に詠み込んだこれまた優れた句だと の講評でした。
 因みに、いすみ鉄道は、番組を見た後の外房の旅の途中、私らは一目だけでも見てこようと線路わきを わざわざ走ってきました。まだ菜の花は早い時期でしたが、ひとつの俳句が、早速自分たちを誘ったわけ であります。


 先に触れたかつて試みた‥の話の中で、私は「おわら風の盆」を詠もうとあれこれひねってみた経験があ ったのですが、このプレバトついでに過去の優秀句なるものを検索したら、次の一句を発見しました。
 "もてなしの豆腐ぶら下げ風の盆"  (柴田理恵)
なるほど、こういう普段着の視線で捉えた風の盆もまたいい句だと、いたく感心した次第です。因みに、柴 田理恵は八尾の老舗旅館と縁の深い同町出身の人です。


◆ トイレのモーツアルト ♪♪
 外出先でトイレを借りる経験は誰でも経験するところでしょう。ある冬の日にお隣の韮崎まで所用で行っ たその途中、もよおした私はショッピングセンターでトイレをかりました。個室の方で用をたしていると、天井 からモーツアルトが聴こえてきたのです。有線放送だか館内放送だか、それはコロコロと打鍵から奏でられ るピアノソナタでした。なかなかいいものだと思う一方で、ちょっとモーツアルトはこの環境に相応しくはない だろう、などなどと割り切れないところもあります。それじゃあどういう音楽なら相応しいのか? と自問した りもして、結局のところ、その答えに行き着かないまま無事用を済ませた私は、結構清々しい気分でトイレ を後にしたのでした。清々しければモーツアルトで良かったよかったのか・・・? この先は結論を得そうもな いようなので、考えるのは打ち止めにしました。


◆ 県民人口が80万人を割り込んだ(3月1日)
 山梨版ニュースで、県民人口が43年ぶりに80万人を割り込んだと報じていました。
減少傾向は2000年の89万人をピークに年々続いていたのですが、昨年ついに大台を割り込んで799, 238人となったのです。その内訳は、転入>転出ではあったものの、死亡>出生でトータルではマイナスと なったとのことです。

→ 日本の出生数が80万人を割り込んだ
 上記山梨県の人口は、奇しくも昨年の出生数799,728人とほぼ同数でした。こちらの方は1899年の統計 開始以来初の80万人割れということで、10年で10万人という急激な減少ぶりです。先進諸国での減少傾 向はみられるものの、日本のそれは相当な激しい減少率と言います。同じ80万人割れと言っても、その意 味するところは、日本の将来が危惧される深刻な事態と言えるでしょう。

→ 関連して異次元の少子化対策?
 以下は少し硬い話になりますが、少子化は現政権下でも大きな問題として、首相が異次元の少子化対策 に乗り出すと大風呂敷を広げたのはつい先日のことです。それで蓋を開けてガッカリ!中身は相変わらず 出産と育児への費用補助ばかりで、これらは前政権に遡ってもずっと論議され施行されてきたて現在に至 っているところです。つまりは異次元とは金額のレベルのことらしいのです。首相の(政治家たちのと言うべ きか)日本語のレベルや、思考能力がこの程度とは思いたくもありませんが、少子化の根っこにある問題 にメスを入れてこそ異次元の施策というべきでしょう。

→ 以下は独り言をブツブツ
・・・・一番の問題は若者たちが結婚しない、できない、結婚しても子供を作りたがらない・・・生活設計がで きないといったところにあるのでは・・・その背景に今や全体の46%にまで達した非正規社員の雇用割合と いう現状は無視できない・・・これはひた走ってきたグローバリゼーションのツケ〜 つまりは株主優先の効 率化を最優先してきた結果としての雇用コストの削減と非正規雇用の拡大、という因果関係が。・・・グロー バリゼーションが若者の未来を危うくする一方で、企業には500兆円という社会に還元されることのない膨 大な内部留保をもたらした・・・この問題の是正には企業の社会的責任という面を避けては通れない・・・そ れを促すような施策こそ、異次元足り得るのではないか・・・・・ブツブツ。

◆ バックカントリー 
 スキーシーズンになって、よく耳にする"バックカントリー" という言葉があります。スキーの遭難の大半 が、このバックカントリーで起こっており、そこに踏み入るのは外国人が多いので、必然遭難事故の殆どは 外人スキーヤーがしでかしているわけです。このback country・・なかなか適当な日本語がないのですが、 辞書では; 奥地、辺境、農村地帯などとあります。スキーで言えば、ゲレンデとして整備されていない自然の ままの一帯ということで、"コース外"とか、スキー場の管理区域外、ということになるでしょうか。私も半世紀 ほどの長きにわたってスキーに親しんできましたので、誰も滑っていない新雪の世界ほど魅力的なものは ないことはよく分かっています。当時は現在ほどゲレンデが整備されておらず、ゲレンデ脇に少しけ踏み込 んだだけでその新雪の世界を楽しめたものですが、今は事情もかなり違っていて、コースの仕切りロープを 越え、見つからないうちにいち早く奥の方へ、といった心境になるのでしょう。自ずと雪崩の危険性が高い バックカントリー深くにまで踏み入ることになるのだと思います。
 このバックカントリーは、外人とりわけ西欧系の白人たちの血を騒がせるようで、これはコロナ下でも管理 されることを嫌う彼らの行動様式からしても大いに頷けるところではあります。私も、かつてカナダでスキー をしたとき、信じ難いほど遠い雪の稜線まで登っていく彼らの姿を目の当たりにして驚いたことがあります。 それは、管理下に留まって何が楽しいのかと言わんばかりでした。いずれにしても、遭難すれば危険で金 のかかる救助活動を伴うわけで、迷惑を被るのはスキー場です。事前に危険性の周知徹底や、行動計画 の自制を呼びかけるなど、何らかの予防措置の強化が求められるのは言うまでもありません。いまや、有 名スキー場は外人に乗っ取られかねないような状況を呈しています。だからこそ、彼らには身に染みている はずの"自己責任"を、この際日本のスキー場でhくどいほど喚起しておくに越したことはありません。



〇久しぶり‥そのA "海を見る" (2月15日記)

 "久しぶり"シリーズというわけではないのですが、前回雪の話の久しぶり ついでに、海を見に行った話を 少しだけ。これまた既に一週間以上過ぎた2月中旬の話です。

 暫く海を見ていない・・という感情は山間に住んでいると、"常に"と 言っていいくらい心のどこかに潜んで いるものです。年が明け、頃合いを見てというタイミングで、かねてより友人夫妻にコミットしていた海辺へ のドライブ旅行をしてきました。今回は外房で、私は、幼少時代を送った内房には馴染が深いのですが、外 房となると一度鴨川に言った覚えがある以外、ほとんど行ったことのなかった領域でした。行程は、当地を 発って東京横断する形で海ほたる経由木更津に出て、そこから房総半島を殆ど横断するようにして銚子 に。近くに一泊した翌日は九十九里を下って、我が懐かしの保田にちょこっと立ち寄り、久里浜フェリーに 乗って帰路につくというものでした。ところが・・・。
  
 初日は終日雨 と強風。二日目は折悪しく南下してきた寒気団の中、強風に加えて房総なのに寒い、とい う一日で、何とも恵まれない天候の中でのドライブに終始したのでした。ですので、これぞ房総半島・・・とい う温暖な春の兆しを綴りたかったのですが、それらは一切ないまま終わってしまった次第です。ただ、そん な中を二日間走り回ってみると、上総、下総の国とは大きなもので、我が甲州の国が何とも狭隘な土地に あるという想いを禁じ得ませんでした。例えば、木更津から銚子までの横断道は、いくら走っても車窓には 低い山並みとその合間に点在する集落といった光景が、一向に変わることがなく続いていました。帰路に は、地図上ではちょうどいい立ち寄り先と思えた勝浦が、工程の長さと所要時間の関係で、かなりの回り道 となってしまうので諦めざるを得なかった・・といった状況もありました。
 私のふるさとと言っていい内房の保田は、今回ゆっくりすることはできず、「道の駅・保田小学校」と、幼馴 染の家やかつての我が家の周辺を一筆書きのように一巡してきただけに留めました。それでも、行けば" いつでもそこに待っている" という懐かしい故郷のような地を、束の間ながら感じることができました。
 
いつか、もう一度仕切りなおしをしてみたい、そんな房州の旅でしたが、旅の合間に撮影した海の写真をご 紹介させていただきます。
    
ホテルから見た朝の海辺(九十九里)      日の出              帰路に立ち寄った金谷港から見た懐かしの鋸山



〇久しぶりの雪景色(2月20日記)  
 
やや古くなりかけた話です。今冬は降雪が少なく、折角の冬タイヤが泣いていると思っていたら、2月10〜 11日にかけて久しぶりの大雪警報がありました。南岸低気圧と寒気団の南下という組み合わせです。この 時期、TVのニュースを賑わしていたのは大雪や寒波による交通渋滞で、日本海側では殆ど連日、昼夜を またがる大渋滞の状況を報じていました。わが山梨県でも今季初の大雪警報でしたが、結果から言うと警 報級の積雪はなかったようで、小淵沢の我が家周辺でも、一夜明けた11日の朝で25センチといったとこ ろでした。それでも、久しぶりの積雪!用意しておいた雪かき用のスコップやデッキブラシがこれまた久し ぶりに役立つことになりました。尤も、私は雪かきの前に、クルマを駆って雪景色を撮りに出かけ、雪道に 轍を付け、パチパチと撮りまくって帰ってきました。どういうものか、当地八ケ岳山麓での雪景色は毎年目 にするもので、特に今季のそれが特別なものではないのでしょうが、その冬初となるとどこか特別な感覚を 覚え、年甲斐もなく興奮したりします。何なのでしょうね、この毎年繰り返し覚える感覚は? 人はこうしてリ フレッシュメントを重ねつつ人生を送るということなのでしょうか。急に哲学じみてきましが、この日撮った写 真を少しご披露します。
         
   2月10日、久しぶりに雪中の運転         明けて11日、我が家から4q南下した八反歩堰は一面雪の世界でした!

 思い起こせば、当地での大雪はこのFノートを手繰ってみると、2014年2月のことでした。もう9年前にな るわけですが、この時の積雪(当地で160センチくらい)は、まさに非日常の世界! 玄関先とクルマの除 雪は何とかしたもののその先は雪の盛り上がりだけで手を付けられないまま。家の前まで重機が除雪にや ってきたのは、雪明け三日目のことで、それまでは家から出られない缶詰状態を強いられました。我が家 はちょうど車の買い替え時で、家には軽しかなかったときです。新車はその年の3月末、消費税が上がるま でに納車してもらうことになっていました。そしてその時の新車が今年4月には4回目の車検です! 9年間 で四回も車検する必要が一体何処になるのか!全くこんな無駄を繰り返す国は世界広しといえども日本だ けのようです。車検の都度憤懣やるかたない想いをするのは私だけではないでしょう。この旧癖にメスを入 れられるのは、族議員が多い現自民中心の政治では望むらくもありません。
 この先は雪の話から逸れてますます政治向きになってしまうので、ここで打ち止めです。


〇事と言の葉(2022年8月〜)

  再び書き留めておいたメモが溜まっていました。その中からのピックアップです。
ちょっと長いですが、読み飛ばしもらえれば、と思います。

〜22年8月
◆位置情報共有アプリ
 いまや若者には欠かせないこのアプリにより、相手が今どこにいてどっちに向かっているかなどがたちど ころに分かる時代ですから、待ち合わせという概念もすっかり様変わりとなっているようです。何時、誰と、 何処で、何時に・・を手帳に書き込み、当日はこれに遅れまいと待ち合わせ場所に急いだりと、私どもの時 代の待ち合わせ光景が、愛おしくさえ思えきます。いまは、あとどれくらいで着くといったリアルタイムの情 報を相手に伝えたり、遅れる方も待つ方もお互いにスマホの画面で確認するだけという待ち合わせは、 我々世代からするとなんとも味気なく、便利が人を幸せにするのだろうか、などとつい考えてしまいます。
 関連してスマホが習慣化してから、電話の仕草が受話器を耳元から、スマホを斜め前にかざして・・・とい う具合に変わってきているらしいのです、ハイ。
 
〜9月
◆許されるのか、NHKの台風報道(喝)
 みなさんは、NHKの台風報道の現場から "安全な場所から中継しています。(または) 撮影しています"  という前置きを聞いてオカシイとは思わないでしょうか。 この現場リポートでは必ずと言っていいほど耳 にする一言。私はこれを聞く度に"これは何事か、誰に断っているのか?"などと、いつも腹立たしく思いま す。一体何が元でこのような前置きを入れることになったのか? 誰のための前置きなのか? 報道する 側の姿勢に"喝"を叫びながら、常々そんな疑問をぶつけたくなっています。予想される危険は重々折り込 んで必要な対応を施し、現場のリアルな状況を伝えるのが報道のプロというものでしょう。ホテルのロビー から"外はこうなっています(危険なので分かりませんが)" と報じるのがNHKの台風報道なら、最早NHK は報道者としての資格も矜持をも全く欠いていると言わざるを得ません。更にいえば、そんなNHKに受信 料を払うのは間尺に合わない、とまで思ってしまうのです。

〜10月
◆抽象作品を説明?
 徳島のアーティスが作品(光を駆使した抽象作品)についてその意図を語っている番組を見ました。ところ が、よく耳を傾けて聴いても、その意味するところがさっぱり分からないのです。こうした抽象作品は、元々 作者としての創作意図があって作られたものとはいえ、それをどう感じるか、どう観るかは観る側に委ねら れるものでしょう。そこを作者が分からせようと説明すること自体、作品本来の意義から外れていると言え なくもないのですが、その説明がやっぱり意味不明となると、最早作品としての体をなしていない事を意味 します。そもそもロゴスの世界を逸脱している抽象作品にロゴスを持ち込んでも意味がない、とも言えるでし ょうか。
〜11月         
◆これでも発明?
 外国人が驚いた日本人の発明(だったか?)の中に、電動アシスト付きキャリアーというのがありました。 トランクを運ぶあの便利なキャリアーに電動アシスト機能をつけて更にらくちんに・・という魂胆なのでしょう が、そこまでする必要があるのでしょうかね? そんな知恵を巡らすなら、もっと別の所で巡らせてほしいも のだ・・と私などは思ってしまいます。あのトイレに入ると自動的に便器の蓋が開くという類のお節介な商品 開発然り、 そこまでやるか、そこまで意味があるのか?"と不思議に思うのですが、同時にそれをありが たがって買う日本人もまたいるのも不思議ではあります。


◆主要新聞の発行部数
 元日経のSさんと昔話をしていて知ったことですが、新聞の発行部数はいっときとは隔世の感があるとい うのです。当時(私が広報にいた90年代末)、読売がトップで800万部台、朝日が500万部台、そしてずっ と後追いだった日経は300万部達成で、これが当時は記念すべき数字でした。それが日経だと現在は殆 ど半減しているというのです。改めてネットで調べると、2022年度上半期の平均部数では、朝日新聞が約 430万部、読売新聞は約686万部、日本経済新聞は約175万部とありました。 地方紙も減少傾向が続 いているとのことです。勿論この背景には、新聞までネット化の波に晒されたという事情があるわけです が、それにしても若者ほどものを読まなくなった、情報と言えばSNSに走り、本といえば漫画に夢中にな り・・・日本大丈夫でしょうか。この続きは最早年寄りのひがみになりそうなので止めますが、あの新聞の一 覧性〜開けば世間が見えてくるといった感覚は懐かしいだけではなく、いずれまた光を浴びるのではない かとさえ思えてきます。そういえば、当地(小淵沢町)では、新聞配達募集のビラがひっきりなしに折り込ま れています。新聞にとっての逆風は、私などの世代には隔世の感があるものです。

〜12月
◆日本代表帰国12月7日)
 世界からも賞賛されたワールドカップの日本代表が帰国! 成田空港の入国口には650人の観衆が集 まり、一行を出迎えました。ニュースを見ていると、森口監督、吉田主将はじめとした代表一行が姿を現す と、一斉に上がった歓声・・と言うか音声は、ありがとう、ブラボーの声をかき消すほどのスマホのシャッター 音でした。スマホを掲げた手が林立し、まさに野次馬軍団が群がるときには付き物のこの光景です。TVで 見る限りはどこか寂しく拍子抜けのする歓迎のいっときのように映ったのでした。

◆ロシアのブラック・ユーモア
 藤原正彦の本を読んでいて印象的だった一行です。そこには;
大統領は無知で無能だ、と言いふらした人が捕まって、203年の禁固刑を受けた。このうち3年が名誉棄 損による罪で、200年が国家機密漏洩の罪であった。
・・・と記されていました。何というユーモア! ロシア人にもこんな一面があったのかと思わせます。
  
〜2023年1月〜
◆ホンダとソニーがEV開発 (1月5日)
 この二社が提携して開発した近未来のEVが発表されました。エンターテイメント性に溢れるクルマ造りが 売りで、両者のテクノロジーが結集されている一台。全部で24のカメラを装着したレベル5での自動運転が 可能で、内部にはかなり大きめのモニターが後部座席や助手席に備えられ、車内で最新のAVを楽しんだ り、運転席では横長の大型ディスプレーを通して外部との交信も可能といういわば動くエンタメ空間という宣 伝文句です。'25〜26年から受注開始の予定とかで、近未来というよりも、もう数年先に実用化されてこう いうクルマが走っているということでしょうか。
 これを素晴らしい未来とみるかどうか・・つまりはこういうクルマを欲しいかどうか ・・私にはそんな触手は 微塵とも動きません(尤もそんなお金の余裕もないのですが)。クルマは本来移動を容易にすることともに、 それ自体を楽しむ手段でもありました。時間と空間を容易に超えて非日常の風景に出会ったり空気を吸っ たり・・そんな体験を身近にすることが魅力だったはずです。現代の若者のクルマ離れが言われています が、彼らはそんなクルマの魅力よりも、モニター画面のメタバースの方が魅力的なのでしょうか。
 もし、日本のトップ企業がクルマをエンターテイメント空間にすることが未来だと信じ、そして企業の経営 資源を尽くしてそういう未来を提供しようとしているとしたら(どうもこれが現実のようですが)、これはもう見 たくはない未来としか言いようがありません。しかしどうも、これはこの二社に限った話ではないようで、日 本はむしろアメリカや中国からも遅れをとっているらしいのです。
 "効率化は決して人を幸せにするものではない"という言葉が浮かんできます。私には虚像としか映らない クルマの未来ですが、せめてそこに日本ならではの情緒ある味付けを期待できないものでしょうか。

◆経済団体互礼会(1月6日)
 TVは企業トップへのインタビューで、今年の景気見通しなどに関する何人かの声を報じていた。それを見 ていて思い出すのは、現役時代に役員が外部でする挨拶や取材に際しては、下からいつも資料やコメント の原稿があげられていたことです。そして大企業のトップが経団連などの経済団体のメンバーになってから も、その傾向は変わらず、報道対応などに際しては元いた企業からそうした助力があって、企業トップとし ての対面を保つのに一役買っていました。叩き上げの経営者ならいざ知らず、大体において大企業のトッ プはこのようにして下から支えられ、偉そうな発信をしているのは、古今東西さして変わってはいないでしょ う。そして残念ながら、現政権下では、そうした経財界のトップやOBたち大きな影響力をもって日本の行く 末を左右し続けているの果たしなことです。”目覚めよう、ニッポン国民!!” などとつい言いたくもなると いうものです。


◆筆おろししたら!(1月19日) 
 今年の第一号となる水彩画を描き始め、 彩色を施そうと筆を取りだしました。その前に、長らく放置して いたパレットの汚れを落とそうと水入れに筆を付けると、なんと水は乾えあがってしまったようで空っぽにな っていました!! 思い返すと12月以来絵を描いていませんでした。このひと月ちょっとで、五槽の水差し の水全てが蒸発してしまったということです。恐るべし、冬の乾燥!

〇何もない2023年こと始め(1月23日記 

 事はじめとして書くべきことが、実は何も思い当たりません。さあ今年は・・と、これまではたとえとるに足ら なくても何かあったのでしたが、今年は本当にないというのが実情です。少し勿体ぶって言えば、昨年は個 展という個人的には大きなイベントを終えたので、今年以降は次なる個展に向けての緩やかな始動の年が 明けたのだというほどの認識はあるのです。しかし私にとっては個展がすべてというわけでもありません。 年齢的なことい伴う生活環境の変化をそろそろ本格的に模索し始めなければならない、年でもあり、そうな ると身辺整理が大変なことは何人かからも聞いていています。もうそういう事々に手を付けねば・・・という 意識もあります。一度書いてみた終活ノートも見直さねばならないとこが出ています。いろいろと数え上げる とやるべきことは出てくるのですが、それらに手を付ける前の一呼吸・・そういうときに当たるのが今頃なの かもしれません。

そんな風にして明けた2023年ですが、心身の弛緩状態ゆえか、1月11日にギックリ腰をやらかしてしま いました。今回はアッと思った刹那のことではなく、何か右腰に鈍痛が始まっている・・というような緩い感覚 で始まり、次の日からはかなり重度な腰痛状態となったのでした。これまでの経験から、一週間ほどは不自 由をするかと覚悟をしたのですが、がこれを書いている十日以上経過した後になっても、変な態勢となると 痛みが走る状態が続いています。これまた80歳の身辺具合故ということで、抗ってもしょうがないのかも知 れません。

そんな威勢の上がらない1月も、あと一週間で終わりです。ここまでは比較的暖かな冬でしたが、今週は何 十年に一度という寒気がやってくるそうです。その前兆なのか、昨日あたりから雲行きが忙しなくなってきま した。今年は殆どない積雪も、週半ばではありそうです。積雪で忘れられないのはあの大雪、このFノートで 遡ってみると、それはもう9年前となる2014年の2月のことでした。その日は明けてみると、クルマががす っぽりと雪に覆われて見えなくなっていたのでした。ちょうどクルマを買い換えたあとで、新車のフォレスター が納入されたのが、その年の4月でした。そのクルマもこの3月で4回目の車検を迎えます。そのクルマで すが、クルマ好きの私も買い換えはもう諦めるしかないかと思っています。いまのクルマはよく走ってくれて いて何の不満も感じられませんし、もう新車のウキウキ感は大分失せてしまった年ごろなのでしょうか。・・と もかくも、こうして緩〜く年明けの日々が過ぎ、気が付けば1月も終わり近くになっています。












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フィールドノート2019〜2022
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フィールド・ノート 2015〜2018
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フィールドノート2007〜2010年
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フィールドノート2003〜2006年
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2月22日付東京新聞(中日新聞)記事
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栗原成和の水彩画集〜八ヶ岳山麓から〜
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