山麓絵画館



トップページ
水彩画ギャラリー
ノート〜
文章のページ
山麓絵画館
山麓スケッチ館
<風景画>
<風の盆>
スケッチ館
発刊物掲載画

戻る to 文章のページ・フィールドノート ▲



別掲エッセイ



〇雨降り続く中徒然に・・(2018年7月5日記

 6月中に異例の速さで梅雨が明け、とたんに真夏の太陽が、と思ったら今度は台風の発生と日本海々上の前線が
列島中に大雨を降らせる毎日が続いています。そんな中で久しぶりのFノート、お時間ある方は目を通してみて下さ
い。

・ ワールドカップ
 このHPでは絵も文章も暫く途絶えていましたが、これは季節柄のせいに加えて、ワールドカップのような気になるビ
ッグイベントが進行中であったこともあります。しかしそれも日本代表がベルギーに惜敗して一段落。あとは純粋にサ
ッカーのまさしくワールドクラスの攻防を楽しめるステージとなりました。いろいろあったニッポンのWカップでしたが、
私もご多聞に漏れず、最初はどうせ何をやっても、といったよそよそしい目で見ていたのですが、始まってみれば手
のひらを返したように、日に日に一戦一戦が気になりだしたのでした。とは言え、正直言えば夜を徹してTVにかじり
ついていたわけではなく、録画しておいたゲームを朝一の速報で結果を知ってから初めて観るというずるい観戦態度
をとってきました。だって…と言い訳させてもらうと、歳も歳だし緊張感を持続させつつ徹夜状態で過ごした挙句、落
胆する結果に終わったりすると、この徒労感はまるまる疲労感となって残る、そんな事態は避けたいという身勝手な
理由あってのことです。つまり一歩も二歩も引きながら、そして結果を知って録画の画面に見入っては、「打てっ」とか
「やったーっ」、「上手いっ」、「あ〜〜」と歓声をあげて観戦するという、省力タイプの熱狂に終始してきたという案配で
す。そして決勝トーナメント戦のベルギー戦では、これまた結果を知りつつも、いい夢を見させてもらったと、終わって
溜息をついたのでした。

・ いろんな人がいるもんで・・・
 さてそんな日本国中が湧いたWカップですが、そういうものをやっている事実さえ知らない御仁が近くにいたので
す。それは、どういう巡り合わせか、たまたまこの八ヶ岳界隈に住み合わせた3人の高校時代の同級生の一人で
す。この御仁、TV、新聞は元より、パソコンもクルマの運転とも無縁、日頃は読書と薪割、時たま海外旅行といった
人も羨むほどのマイペース振りで一人山 麓に棲みついています。ついでにもう一人について言うと、こちらは社会福
祉のために奔走し、同い年ながら忙しい毎日を送っていて、その割には食事会とか何かにつけて仕切ってくれる真
面目さと几帳面さを併せ持ち、未だに日経は読む、TVの国会中継も欠さないという、先の御仁とは対極にあるような
御仁。ついでついでに私はと言うと、自分のことは論評しかねるものの、こ の二人からすると、どっち寄りとも言えぬ
ポジションにあるようではあります。世間との距離感という視点から言えば、全く我関せずという一人と、深くコミットし
ている一人、そしてそのどっちつかずの一人が私といったところでしょうか。それ故か、どうも私はミーハーぶりが目
立ってしまうようなところもあるらしく、しかし私自身は世のスタンダードに照らせば決してミーハーではないと思ってい
るのであります。三者三様とは良く言ったもので、この3人だけをとってしても、世の中にはいろんな人がいるもんで
す。 
 ついで話を続けますと、私を含むこの3人は2週間に一度夕食を共にしているのですが、私以外は二人とも下戸と
きていて、一人一杯やる私は肩身の狭い時間を過ごしている次第です。ウ〜ンこれまた私が一番俗世の垢にまみれ
てきた証なのか、してみるとやはり私が一番俗人というつまらぬ存在ということになりそうで、、どうも腑に落ちない落
としどころではあります。
 だから何? と訊かれると、Wカップの流れで書き連ねてきただけのことでして、この章立てにはまったく他意はあり
ません。 

・ このSNS社会
 上からの流れでついでに触れますと、上の3人の中でスマホを持っているのは真面目な御仁だけ。私は一応この
HPも開設しているくらいだからPCは日常的、ipadは持っているけど、Lineやtwitterなどは無縁。Facebookには昨年
登録したものの、どうもこのトゥール、何をどうしようというのかさっぱり得心できないまま、ひがな入るメッセージを無
視し続けているのが現状です。先の浮世離れした人は論外として、私はSNS空間との係わり方の平均値からすれ
ば、年齢的要素を加味してもはぐれ者の部類入るのでしょうか。田舎暮らしとは言え、どこか取り残され感は否めな
いのですが、しかしだからといって必死にキャッチアップしようなどという気はさらさらなく、隙あらば現代のSNS社会
の欠点を突き、むしろ盲目的な輩を皮肉ってやろうと思う気の方が大きかったりもするわけであります。
 それで、このSNS社会について批判を書いてみようとすると、これがなかなか難しい。読者にすぐ飽きられてしまい
そうなので、いつだったかNYタイムスのコラムニストが現した一節を抜粋して引用するに留めます。このコラムは、私
がこの何倍もの言葉を費やしてもまとめられない趣旨を簡潔に言い表しています。

(現代人は)メールやツイッター、フェイスブック、インスタグラムを頻繁にチェックしたい衝動に支配されている。
・ネットはあなたを殺さないし、荒廃や貧困に陥らせることもないだろう。だが、小さな画面に絶えず集中することを強
いる。
・配偶者や友人、子ども、自然、食事、芸術といった昔ながらの恵みを、常に気が散っている状態で感じざるを得なく
なる。
・分別ある使い方をすれば、ネットは新たな恵みをもたらしてくれる。だが、私たちは機器を使うのではなく、使われて
いるという一面を見逃してはならないだろう。
・こうした機器は中毒になるように作られている。私たちを狂わせ、気を散らし、刺激し、そして欺く。私たちは求めら
れるがままにプライバシーを差し出し、「いいね」がつくのを待っているのだ。
・オンライン生活は、社会的な恩恵や知的利益をもたらし、経済成長にも大きく寄する一方で、自己愛を増長させ、
疎外感や鬱を生み、想像力や熟考に利するより害する方が大きいと考えるに足るだけの根拠もある。
・いくらかでも主導権を取り戻すため、社会的、政治的な運動が必要だ。いわばデジタル規制だ。・・・(中略)・・・(こ
れは)特定の製品を適切に機能させようとする自制の文化を意味する。

・・・としたあとで社会や企業、教育の現場でデジタルの規制をルール化する必要性を説いているるのですが、そうし
たアイデアの一つとして次のようなことも提案しています。
小学校からパソコンを排除する。児童には、研究でインターネットが必要になるまで本で学ばせよう。仮想空間に取
り込まれるまでは現実世界で遊ばせよう。
 こうしたローテクの学校にシリコンバレーの巨頭たちがに自分の子どもを通わせるようになったら、人々は大いに
同調していくだろう。

・・・我が意を得たり! 自分の言葉で書くとこの先迷路にはまり込む恐れがあるので、引用のままで一旦終わらせて
いただきます。



○ スキー靴を買う・・・今さら?(2016年11月29日記)

 なぜこういうことを書くかと言いますと、最近齢74歳にしてスキーを再開する羽目となったからです。実は私のスキ
ー歴、8年前に途絶えるまでは相当長く、ひところはかなり深いものだったです。若いころはスキーでチイとは鳴ら
したもんでね"。 なんて台詞、年寄の方言の部類で大目に見てもらってお読みいただければと思います。 私の場合
は若いころに限らず、壮年になってもなお、シーズンが近づくと腕が鳴って(足が鳴って・・・と言うべきか)気分も高ま
ってくるのが常でした。若さを馬力にして一番熱中していたのが大学時代から社会人となって暫くの間の二十代から
三十代にかけてでしょうか。夜行列車を使ったり、まだ関越も東北道もできていなかった頃の夜道をクルマで走った
りと、ともかくも銀世界を目指していまでは考えられないほどハードなスキー行きを重ねてきました。ほんとにね〜、
若いということはただそれだけで世界を広げる力だったのです。
 遡って初めてのスキー体験は中学2年だったか、兄に連れられて石打の丸山スキー場でした。姉も一緒で、以降
よくこのスキー3兄弟で出かけたものです。その時のスキー板といったら、長く重い天ちょこりんがポチッと飛び出た
ような寸胴の格好で、靴は登山靴とさして変わらない紐でしめるタイプ、いわゆる骨折バッケンでスキーに留め、手
には竹製のストックです。お尻を出っ張らしながらどうやって曲がったものか、まあ歯を食いしばってのボーゲンでし
ょうか、ともかくも斜面を滑り降りたものでした。一、二泊してからの帰りしな、列車が石打駅から動き出すと少しバラ
色がかった夕暮れ時の雪の山々が窓の外をゆっくりと移動し、社内のどこかからか数名の男性コーラスが聞こえて
きました。♪山よサヨナラごきげんよろしゅ…" 当時初めて耳にしたあの「雪山賛歌」は鮮烈でした。雪と戯れ闘
った日々が、一瞬にして名残惜しい日々と化して胸を締め付けるようで、私がスキーの虜になった瞬間でした。

 その後受験で中断したりしましたが、大学1年の冬、私は蔵王でSAJの1級を取るまでに腕をあげていました。スキ
ーでバイトもし、大学の同好会ではオフシーズンでも立山とか谷川でスキー合宿をし、スキーに明け暮れる日々でし
た。就職が決まってサラリーマンになってからも、よくこまめに出かけたものです。特休も随分使いました。月給はス
キー行きの費用と、高級なスキー用具に相当部分費やしてきました。クナイスルのホワイトスターなんていう、その
頃を知っている人には懐かしい名前のスキー,、そして多くのスキーヤーの憧れの的だったこのスキーも、そのうち
手にしていました。

 あれから40年・・・きみまろの漫談ではありませんが、現在この八ヶ岳山麓に移り住み、クルマで10分走ればゲレ
ンデがあるのにスキーからすっかり遠ざかって久しい74歳の冬、既にスキーパンツは寸法外(一頃のサロペットとい
うやつですが、いくら頑張ってもジッパーが上まで上げられない!)、靴もスキーも物置の片隅に長年放置されて使
い物になりません。なのにまたスキーとは・・・われながら今もって得心が行っていないのですが、先日ついにスキー
靴を買ってきちゃったのです。どういうことかと言うと、昨年私の住む篠原区という地区で役員をしていた仲間内に数
名のスキー愛好家がいて、この地区でのスキー部を立ち上げようという話が持ち上がったのでした。冒頭の放言と
も関係して、これは一度ならずメンバーと一緒にスキーをしなければ何とも格好の付かない、そういう展開と相成っ
た次第なのです。弱った足腰、COPDのステージ1、頸椎と肩に抱えた爆弾 etc… そんな言い訳ばかりをしてはい
られない状況になってしまったのです。それで、スキーが今どんな具合となっているのか、何でもカーヴィング・スキ
ーというのはもう過去のものだそうで、サロペットなるウエアも今は誰も見向きもしていない様子。いろいろ勝手が違
ってしまって、もうちょっとした浦島太郎状態と言っても過言ではありません。何にしてもスキー靴だけは要るだろう、
これだけは都度借りていたのでは、名誉職的肩書とはいえテクニカル・アドバイザーの名前が泣くというものであろ
う、ということで先のスキー靴の買い物となったのでした。
 という次第で、続きはまた滑ってから後にでも書くとして、ひとまずここで一区切りつけることにします。日に日に雪
のきらめきを増す山々が、今冬は少し違って見える気がしないでもありません。


○ノーベル文学賞?(10月17日記)

 このFノートネタとは言い難いノーベル文学賞について一言。この話題は余りにも唐突としているので、中身は別掲
以下のように別掲エッセイとして載せることにしました。

 その文学賞がボブ・ディランと決まって、彼の功績をたたえる論評などがあちこちに散見されます。驚きの声ととも
に、こうなってみると(受賞が報じられてみると)、その作詞の動と実績は文学賞に値するとする肯定的な声が高まの
は世の常ですが、しかしその一方で、これは主として文学界から、一体ノーベル文学賞とは何か?といった批判的な
声もあがっているようです。私はボブ・ディランにさほどの馴染はないし、毎年騒がれている村上春樹を押す一派とも
縁遠いのですが、自身の意見は批判的な声の方に与するものです。世界の秩序や権威に対する反旗を翻し、反戦
のメッセージを伝え続けてきたボブ・ディランの業績を称えるとしたら、それはむしろノーベル平和賞の方ではないの
か? しかしそのどちらの賞にしても、ボブ・ディランはありがたく押し頂くようなことはないだろう、そんな風に単純に
思ってしまうわけです。
 以前から私はノーベルアカデミーのやり方に多分に権威主義的な臭いを感じていて、それは文学賞のみならず平
和賞然り、世の呼び声が高いほどあえてそれに逆らったサプライズを打ち出すようなところに嗅ぎ取れるように思え
て仕方ありません。私は文学に造詣が深いわけではありませんが、世界には文学という言語の世界に身を投じ、そ
の地平を切り開かんとしている人がごまんといるわけです。 そういう人たちやそういう人たちの創造の足跡を無造
作に踏み越えてボブ・ディランに、という選考過程が理解できないのです。当のディラン氏は受賞に関して沈黙を保
っていて、賞を受けるのかどうかさえ分からないような状態です。 それもまたディラン氏らしい・・などと支持者は好
意的な目で言いますが、私には氏自身がノーベル賞自身をひとつの権威として感じ、ある種の反感を抱いていたの
だと思えるのです。何といっても、権威と秩序に反旗を翻してきたその点においていささかもぶれることがなく、従っ
て受賞に相応しい言論とか社会的行動など、氏にとっては本来無縁のこと・・・そのように無言のうちに意思表示して
いるように思えるのですが、皆さんいかがでしょう


○ 2020年東京オリンピック・エンブレムのこと(4月27日記)

 以前(昨年夏のこと)このエンブレムのデザインに関して私見を書いた経緯がありますので、行きがかり上、紆余
曲折を経て決まった新しいエンブレムに関しても、一言意見を述べさせてもらうことにします。私はデザイナーではあ
りませんので、絵描きの放言に過ぎませんが。
           

 まず、最終的にエンブレム委員会21名の投票で、A案の組市松紋が過半数を超える13票を獲得して、正式に決
定となったのはつい昨日のことでした。採用となったこのデザイン、私の第一印象は、積極的な賞賛はないにして
も、悪くはない、この4案の中からの選択としては妥当なもの、というほどのものでした。その理由は、多分に消去法
的な要因によるもので、他のカラフルな3案の方がアイ・キャッチングではあるものの、そのどれもがどこか重心を欠
いて訴求力とか味わいに乏しいというある種の歯がゆさがあったからです。見続けていると平板な印象へと薄らいで
いくようなところがあるこの3案に対して、A案は一見地味で控えめに過ぎるように見えるのですが、他の案とは真逆
で、簡素ながら見続けていると結構味わいが湧いてくるところがありますし、面白味とか訴求力がじわじわと感じら
れるようになるのです。それがこの案の文字通り持ち味といいますか、昨今の日本ブームという時流からも、いわゆ
る日本的な出汁の効いたデザイン力を秘めているとも言えそうです。以上はA案決定後に改めて感じたことで、4つ
の案を横並びで見た最初の印象を率直に言えば、このA案はパッと見の力に欠けるので選択の対象外、かと言っ
てその他の案はどれも一つ一つ取り出して眺めると、薄っぺらで決め手に欠けるというものでした。つまり、これと言
って一押しの案がないと思っていたのは多くの方の感想と大同小異ではなかったでしょうか。
 "よく見ると分かってくる"というA案の持つ側面は、エンブレムとしての要件を欠くとの指摘もできるでしょう。にも拘
らず、この4案からの選択としては極めて妥当と思われたもう一つの理由は、優れたデザインは個性とか独自性
といった点で他とは差別化されるものでなくてはならない・・・と昨年夏にこのFノートで書いた通りの差別化が、
このA案には感じられるからです。さらに言えば、同じ昨年のFノートで関連して国立競技場の理想的コンセプトとし
て書いた・・・それこそ Cool Japan、日本の文化的風土がオリンピックの場にも反映されるなら拍手喝采で
す・・・のまさにその趣旨が、このエンブレムに投影されているところも好感度が上がるポイントではないでしょうか。
そしてこうなると(むろん私の推論に過ぎませんが)、エンブレム委員の面々にしても、あれだけの時間と集中力を
維持しつつ一つの案を選ぶというシチュエーションの下で、A案の持つ味わいが委員一人一人に浸透していったとい
う経緯が、投票を左右する下地としてあったと言ってもあながち見当違いとは言えないでしょう。
 今回の用心には用心を重ね、多くの人々と段取りを踏み絞り込んできた紆余曲折のあった経緯からすると、船
頭多くして船川を渡らず"というきらいがあったはずです。過剰反応に過ぎるとさえ感じさせたこの状況下では、肝心
のエンブレムを選ぶ段取りとか個々人の主観という面においてさえ、当たり障りのない没個性的な傾向に偏らざる
を得ない側面がまとわり付いたであろうことは想像に難くありません。そういう中で、よくA案のような地味なデザイン
が篩にかけられて生き残ったものだと感心させられるところもあります。

 さて、私の意見は随分と今回の結果を後押しするようなものとなってしまいましたが、これには、世間の目とかネッ
ト上での声とか、こういう時に決まって横行する専門家然とした人たちのしたり顔の批判の声"に対する反発もあっ
てのことです。例えばいくつかの事前アンケートでは、D案の朝顔が一番人気であったらしいのですが、この案は私
には朝顔市のPR以外の何者でもないそのものに映ります。デザインとして悪くはないのですが、オリンピックとの繋
がり感は希薄です。次に人気のあったC案は力強い点は買いますが、デザインとして十分こなれたものとは言い難
いでしょう。B案は一見スッキリしてスマートに見えますが、長い時間軸に耐える深みのようなものに欠けます。A案
は人気という点では最下位にあったらしいのですが、それはそれ、他の3案とは差別化される要素があるのは書い
てきた通りです。人気投票通りで決めていたら、どういう経過とか展開が待っていたのかと思うと、改めて世評の怖
さを知る想いでもあります。大体において・・・と、この点になると大いに持論が過ぎるのは勘弁していただくとして、
ネット上での声とは、ある面趨勢を示してはいるのでしょうが、それ以上にかなりいい加減なものが多数含まれてい
ることは確かなことです。大体において(・・・その2)、一見して、或は一読して、"イイね"かそうじゃないか"で何事か
を決しようという軽薄さがネット社会にははびこっています。そして世の中全体が、そうした安易で軽薄な声に流され
つつある風潮は、どこかで警鐘を鳴らされねばならないと私などは思うのですが・・・。

 という次第で、私は今回の決定を支持する立場です。64年のかのエンブレムには及ばないとしても、少なくとも、
あの昨夏の無個性、無味乾燥のエンブレムからすれば、はるかに上等で時間とともに人々に馴染むというか共感が
増していくような美質を備えているようにも思えます。余談ですが、今回マスメディアに登場することになった野老(と
ころ)朝雄というデザイナーの人柄にほだされる人は結構多いことでしょう。名は体を表すとすれば、デザインに滲み
出る人柄というものは、デザインそのものの存在価値をも高めるというものでしょう。そういう"作り手の人"を感じさ
せる点も、今後のエンブレムを後押しする要因となっていくと思われます。
 



○ 肩凝りの話・・・その4(くらい?) (2016年4月11日記)

 このFノートで何度か書いた肩凝りの話です。同じような悩みを抱えている人に参考になるかと思い、続きというか
顛末を書いてみます。
 現在、この事態に見舞われてかれこれ1年が過ぎようとしている頃ですが、実はこのところかなりの回復を見せて
いるのです。回復と言っても、凝りと痛みをもたらす根元である頸椎の変形が完全に修復されることはないのでしょう
から、ひと頃よりも変形の具合が小さくなったということでしょうか。そのきっかけは枕を変えたことにあるようです。1
月の末でしたが、偶々それまで使っていた低反発の枕を上下逆に使っていたことがあって、その日の朝は割合首筋
が楽だったことに起因しています。本来の高く盛り上がった側ではなく、盛り上がりが低い方を首に当てて寝ていた
わけです。そしたら楽だった・・・ひょっとして、と枕を同じ逆向きで次の日も寝てみると、同じように楽な感じがする
・・・つまりは首に当たる部分が低い方が良いのではないか・・・それなら、そういう枕に切り替えてみようか・・・と考え
るに至り、ネットでN社の枕の中から医者も推薦するという首や肩凝りにいいという一品を見つけ、次の日に即、甲
府のデパートまで買いに出かけたのでした。その一品とは、全体に低めで上から見ると中央を軽く絞った形、横断面
は真ん中に向かって緩い盆地状に凹んだ形状です。中身には備長炭を混ぜて使用しているという点も売りだとか。
実際それを使って寝てみると、首が水平に保たれて動きやすく自然で楽な感じです。直ぐに買って帰ってその日から
使い始めたのでした。効果はこれまたすぐ表れたようで、翌朝は期待通り首から肩にかけてずっと楽な感じです。そ
して使い続けているうちに、この楽になっていく感じ、つまりは、これまでのストレスで突っ張った重たるい感じが薄れ
ていく感じが確かな変化として感じられてきたのでした。レントゲン写真で確認したわけではありませんが、頸椎の変
形(私の場合は第4と第5頸椎の間の狭まり)が、多少なりとも修正されてきたに違いありません。そして、あれほど
必要としていた痛み止めも飲む回数が減ってきました。新しい枕使用後2ヶ月以上経つと二日に1回から3日に1回
と服用の回数も減り、さらには無理な労働とか長時間PCで目を酷使するようなことがなければ飲まなくてもいられる
までになってきました。もちろん、患部の凝りが消え去ったわけではなく、肩を回すと相変わらずぐりぐり感はある
ものの相当薄らいでいるという感じです。
 人それぞれ相性は異なるのでしょうが、私の場合はこのN社の枕様々です。こんなことならもっと早く・・・と思いま
すし、半年以上使い続けた仏製のあの高い値段の低反発枕は一体何だったのか、と恨めしく思わないでもありませ
ん。しかしまあ、もう一生付き合い続けることになるのかと思っていたあのしつこく頑固な右肩の凝りと痛み、さらに
は右腕のしびれとだるさが、ともかくもどこかに撤退してくれたというだけで、心身ともに随分と楽になりました。医者
もこれという治療がないし悪化すれば手術しかないと言っていたわけですから、枕のことは気付いて良かった、やっ
てみてよかったとつくづく思います。人間寝る姿勢が大事だし、ひいては枕が侮れない存在であったかと、これも今さ
らながら感じ入る次第です。



○ 今さらながら紫煙を偲んで(2015年11月23日記)

 実に久しぶりに煙草の話です。非喫煙者となってから4年8ヶ月に至る現在、煙草の話など現実の生活感からは多
分に遠のいてしまってはいるのですが、その辺の意識の変化とも言うべきことを我が身の記録に留める意味合いも
あって書き綴ってみる次第です。

 紫煙といいますが、あれは紫ではなくて青と言った方が当たっている、しかしそれでは青煙となって語呂が悪いの
で、紫煙の方がやはり幻想的というか幻術的な響きがあってしっくりと来る、などと今にして考えたりします。その紫
煙、最近は身近に見たり匂いを嗅いだりする機会が一段と減ってきてしまいました。それはつまり、喫煙率という統
計上でも、例えば私が吸い始めた50年前と較べると、男性で82% →30%(女性の場合は16% →10%)と顕著
に見られる通りで、その低下傾向は緩いカーブとはなったものの今以て続いているのです。因みに女性の元々緩い
低下傾向からすると、あと数年で男女の喫煙率はほぼ同じとなってきそうです。これも男女平等の格差のない社会
の標の一つともなるのでしょうか? 
 それはいいとして、自分の周りを見ても紫煙が漂うシーンが激減していることは、この田舎においても言えることで
す。私が現在地区の役員として携わっている関係でのイベントでは、よく野外にテントを張ってその下で催し物をする
シーンがあって、休憩テントのテーブルにはちゃんと灰皿が置かれているのですが、そこに集う喫煙者はごくごく限ら
れて面子となっているようです。そういう人たちの喫煙シーンなど、他の人たちは殆ど気に留めていない風で、少数
派だけの目立たない光景と言えるのかも知れませんが、主観を交えて眺めると、ややもの哀しくも映る光景と言えな
くもありません。限定された場所での市民権を遠慮がちに行使しているとでも言えばいいのでしょうか、それは、この
田舎においてさえ、ひと頃の大手を振って喫煙する素振りとは明らかに異なるものです。

 そして私自身は、そういう光景を目にしてそれが知人であれば近づいたりして、話を交わしつつ煙草の匂いを嗅い
だりします。他人の喫煙のおこぼれを頂戴するというさもしい姿ですが、私はこれが今も好きなのです。それなら一
層のこと一本頂戴すればいいのに、と思われるかも知れません。確かにそうした煙草談義になると、中にはホレッと
ばかり一本差し出す人もいて、ありがたいと思って手を出し火を付けたらどうなるのか・・・その先が恐ろしい。ですか
ら、決してもらうことはありませんし、もらわないでやり過ごす自信もちゃんとあるわけです。それでも・・・です。いや
いやとニッコリ笑って断っておきながら、どこかで引け目を感じる、というか申し訳ないと思う気持ちもまた否めませ
ん。つまり私は完璧な非喫煙者ではなく、未だ何処かで喫煙者の仲間意識を引きずっているようなところがあるので
す。ですから、今もって喫煙者を非難がましい目で見る人となると、どこか自分とは相容れない人種であるかのよう
に思ってしまいますし、煙草は健康に悪いといういわば正論にのみに拘って喫煙の良し悪しを論じる輩となると、抵
抗感を禁じ得ません。喫煙者の大半はそれが健康に悪いと知りつつも喫煙の習慣を続けているのです。ついつい
吸い続ける人、自らの意志で続ける人、或いはそこに唯一の愉悦の場を見出す人、肉体より精神の自由を重んじる
人、そういう様々な心象が入り混じった集団。私もかつて属していたそういう人種の心境を支持してしまう。 そういう
ところが私にはずっと内在しているわけであります。未練といえば未練、或いはまた、私には禁煙した側の人が抱く
優越感のようなものがあるのかも知れません。確かに、私は薬や医師の力を借りず、自分の意思のみで煙草を止
めた一人ではあります。医師の力ではなく意志の力で・・・とこれはダジャレですが、喫煙者イコール意志の弱い人と
いう観点から見ると、そういう優越感は否定し得ないところがあるでしょう。しかしその一方で、喫煙者には先ほどの
ように様々な心象が宿っているわけですから、端からみた優劣など殆ど意味のない話でしょう。

 と、ここまでは煙草を吸う人や止めた人の心象風面を書いてきましたが、私自身の肉体面での変化となると、最近
強烈だったある経験がありました。それは女房と一緒にあるファミレスに入ったときのことです。生憎混雑していたの
で、店員の「喫煙席でしたら直ぐに入れます」との言葉に乗ってそちらの席に誘導してもらったのですが、たちまちそ
こに充満していた煙草の臭いに襲われ、座るまでもなくその場を退散してしまったのでした。あれは強烈でした。わざ
わざ喫煙者に紫煙の匂いを嗅ぎに近づいて行くと言っておきながら、私としたことが・・・です。しかしあの籠もった臭
いは間違いなく悪臭だったのです。よほど換気が利いていなかったのか、或いは閉ざされた空間だったからなのか。
そもそも私に残された未練がましい性癖とは戸外に限ってのことなのか、いろいろ考えてもみた次第ですが、一つだ
け言えることは、私の気持ちとは裏腹に、私の肉体〜この場合は嗅覚から来る肉体的状況ですが〜は、既に非喫
煙者のそれとなってしまっていたということです。大袈裟に言えば精神と肉体とのこうしたズレは、禁煙後4年8ヶ月と
いう年月のなせるところなのかも知れません。

 とにもかくにも、こうして禅問答のような面も含めて喫煙について長々と論ずるというのは、私にはそこに関心を残
していることは確かであって、少なくとも過去も現在も喫煙をネガティブに捉えようとする気持ちは、私にはないの
であります。時代が変わり、喫煙は実は健康にもいいのだとする世の中となれば、私は喜んでまた煙草に手を出す
ことでしょう。尤も煙草は値上がりしてしまっているので、お小遣いへの負担という問題はありそうです。まあ、そんな
空想など読者諸氏にはどうでもいいことでしょうが、禁煙後4年8ヶ月を過ぎた元ヘビースモーカーのひとり事にここ
までお付き合いいただき、大変ありがとうございました。



○ オリンピック エンブレムのこと(9月17日記)

 先にこのことを書いてから大きな転換があったので再びこれに触れることにします。ことの推移は別としても私の
期待していた方向に事態は転換し、再びコンペという段取りとなったのは歓迎すべきことと私は思います。むろんこ
のやり直しによって大変な無駄が生じたわけですが、あのエンブレムを使い続けてオリンピックを迎えるという最悪
の結末は回避できたわけです。しかしこの間の一連のドタバタ騒ぎは、国民のオリンピックへの盛り上がりをかなり
殺いでしまったのは残念なことでした。国立競技場問題と相俟って、あの「2020 TOKYO」に驚喜した気分はどこ
に行ってしまったのか。そしてこれらの問題の影、というよりも核心部に、オリンピックの新風とは最早不似合の感が
否めない老獪な政治家が、他人事のような顔をして居座り続けているのが何とも解し兼ねるところです。加えて私た
ち一般国民には、オリンピックを動かすのは一体誰なのか? IOC?JOC?国の監督省庁?東京都?・・・そこが
良く見えていないまますべてが進められる不透明さが拭えないままです。東京オリンピックでありながら、批判側に
陣取って相変わらず主体的に係るのを避けているような都知事も然り、TVのクイズ番組にレギュラー顔のように出
ている場合ではないでしょうに。

 こうした事態の挽回を図るべく、すでにマスコミも騒ぎ立てているように、ことの透明性を保ちながら、多くの国民が
納得しうるエンブレムの採用に至るのは並大抵ではないでしょう。前回のごとき呆れるような選考過程を繰り返して
はならないし、関係者(と言っても正確には誰の責任で誰がどう指示するのか分からないのですが)は退路を断って、
果実を求めなければなりません。この点に言及し始めると最早堂々巡りとなりますので、私としては、何と言ってもこ
こで日本のデザインパワーをちゃんと見せて欲しいと思うわけであります。それはコンペに参加する方も選考する方
にも言えることです。最終選考に至るまでの選考過程には専門家以外のオリンピック関係者や或は権力者が混在
するとしても、専門家は専門家として目を堂々と披瀝して欲しいし、信じるところを発言して欲しい。少なくとも、あの
スタック細胞騒ぎを彷彿とさせるようなコピペの疑いがダブるようなデザインとは無縁のモノを推挙して欲しい、そう
願うのは私だけではないでしょう。また、専門家だけに通じるテクニカルな側面などに拘束されることなく、一般国民
の感性との乖離がなく、多くの共感を誘うような"目"を是非見せてほしいと思うわけであります。じゃないと、単なる
専門バカと言われかねません。

 もう一点、改めて大事なことは、東京オリンピックのあり方と言うか、どういうオリンピックにしたいか、といったオリ
ンピックに臨むコンセプトを今一度明らかにし、それをデザインテーマの核とするようなことの運び方が必要不可欠
だということです。それは、すでにあるものなのか、あるとすれば私らのような一般国民に伝わっているのでしょう
か? 世界に向けて何を発信したいのか、招聘の際の謳い文句だった"省エネ、低コスト、コンパクト"はどこに行っ
てしまったのか? 一世を風靡した"おもてなし"の心は、東京オリンピックとはすでに無縁なものなのか? その辺
をリシャッフルして分かりやすく印象的なオリンピックのコンセプト、つまりはエンブレムのデザインテーマに結実させ
る工程が、大会運営の側だけでなく、私たち一般国民に発信する意味でも今こそ必要なのだと、私などは考えるの
ですが・・。

  余談めいてきますが、あの招聘のときに掲げたエンブレム(例のサクラの散りばめられたリースをデザインしたも
の)はなかなかの人気でした。これを使えばいいのにと思う国民も大勢いたことでしょう。しかしこれは、招聘時と実行
に向けたエンブレムが同じであってはならないというIOCからの足枷があるために使えないと言います。多分IOCの
商権に結びつく問題があるからで、例えばそれは、あの暑い最中の8月に東京オリンピックをやらざるを得ない現
実とも同根の問題なのです。東京のいい季節である10月に実施となると、欧米でのサッカーや野球、アメリカンフッ
トボールなどの大事なシーズンにあって、IOCには有利なTV放映権が取れないといった事情が物事を決めているた
めです。すべてはIOCの利権に係ってくるわけで、オリンピックとはそうした実情との折合わせを欠いては最早実行
できなくなっている国際イベントと言えるでしょう。となると、もはや手を挙げる都市も国も共産圏とか準共産圏くらい
しかなくなりつつあると言われている冬季五輪の現実とも照らし合わせて、この金のかかるイベントはこれからどうな
るのかはなはだ心もとない状況に覆われていると言えます。例のFIFAはトップの首を挿げ替えて改革に向かおうと
しているようですが、同じようなことがIOCにも起こりうるのか、さらに言えば、そういう流れでも出てこない限り、JOC
は古色蒼然としてあり続けるのか・・・何やら最後は心もとないままで締めくくる羽目となってしまいましたが、東京オ
リンピックの新エンブレムは、そうした手詰まり感を打破するくらいの新風となって欲しいものです。



○デザインと東京オリンピック(8月1日記)

 東京オリンピックをデザインという切り口からみていると、何とも情けなくやるせなく、我が日本のセンスとはこんな
ものではなかろうに、と思ってしまうのは私だけではないでしょう。

・デザインは独自性! 

 あの国立競技場問題は仕切り直しという方向性を漸く得たわけですが、今度はエンブレムです。蓋を開けたら盗作
だ、著作権侵害だと騒ぎが始まりました。それも複数者からの指摘です。国立競技場のときもそうでしたが、私は初
めて採用されたデザインを見たとき、最初に覚えたのは失望感でした。国立競技場の採用デザイン発表の時と同じ
で、TVを見ながら女房と文句が口をついて出ました。その辺によく見かけるロゴの類かと思えたほど平板なものに
映ったのです。かの亀倉雄策氏による1964年のオリンピックのエンブレムが素晴らしかっただけに、その落差が大
きいこともあります。説明によれば、Tokyo、Team、Tomorrow の3つの"T"が込められているらしいのですが、それ
も取ってひっつけたようなデザインコンセプトと言わざるを得ず、パラリンピックのイコール(=)も同様で軽薄に感じ
ます。どういう人がデザインしたのか知りませんが、そこに洗練さの欠片も感じられません。見る人にスッと訴えかけ
る印象が希薄で、多くの人の共感をかう親近感も皆無です。64年のエンブレムは、シンプルさの中に強烈な訴求力
を秘めた個性溢れるデザインでした。今回の発表作にはデザインに欠かせないその個性が乏しいが故に、どこかで
見たような類似性が付きまとってしまうわけです。デザインとは誰がどういじくってひねり出したにしても、どこか似た
ようなところが出てくるのは避けられないという性質を本来有しています。歌にしても同じで、曲想がたのどんな曲に
も似つかないようなものはないに等しいのに、優れた曲は多くの人の心を惹きつける独自性というものが必ずあるも
のです。デザイン然り、優れたデザインは個性とか独自性といった点で他とは差別化されるものでなくてはならない
でしょう。それがないのです、今回のエンブレムには。

 デザイナーとしての資質云々は千差万別ですから、問題は "こういう無個性で平板なものを選んでしまった"側に
あります。私などはついそちらの方に思いが向いてしまいます。今回の選定をしたのは、大会組織委員会と東京都
ということになっていますが、外部の専門家を交えた選考委員会のようなものがあったのでしょう。誰がどう指揮して
ことを運び、決定を見たものなのか。そこにどのようなメカニズムが働き、決定に至ったのか。国立競技場と同じよう
に、そこのところが々にはいつもヴェールに包まれたように曖昧なのです。権威とか組織の風通しとか、相応しい人
たちが相応しい場で仕事をしているのか、重鎮の権威が邪魔をしてはいないか、そんな疑問が頭に渦巻くわけで
す。
 
 
  関連するエンブレムを並べてみると、私の言わんとしていることがよく分かると思います。日本の過去3回は素敵で
す!直近の北京やリオだってなかなかチャーミング。 それに続くTokyoはどうでしょう。どこかその辺から借りてきた
ような平板さ、素っ気なさが拭えず、情けなく感じるのは私だけではないと思うのですが・・・。

・国立競技場のキーワードは調和 

 さて、今回のエンブレム、好き嫌いは別にして商標権侵害といったレベルにまでは当たらないと思っていますが、
一度決めてしまったものをくつがえすには、むしろ黒判決が出てしまう方がいいのかも知れません。その点国立競技
場は、ぎりぎりの線で事態が改善され、私も多くの人と同様ひとまず胸をなで下ろしています。無論、この先様々な
ハードルがあるでしょうが、仕切直ししかないのです。あのデザインも、私は報じられて直ぐに失望感を禁じ得ません
でした。あのグラマラスで無駄のインフレーション満載といった姿は、これ見よがしの極致と言えるものです。そういう
代物を選んだ側の感覚とは一体どういうものだったのか、疑問符が拭えません。国立競技場ですからオリンピックと
同じ土俵で良し悪しを論じることはできないのでしょうが、そもそも、東京オリンピックの謳い文句は"低予算、省エ
ネ、コンパクト"のようなことだったと思います。本来の流れから言えば、オリンピックそのものは肥大化し過ぎ、手に
負い難いものとなりつつあったわけで、2020年という時期を考えれば、これまでとは違ったコンセプトの下に大会が
運営されて然るべきであったはずです。その意味では、低コスト、省エネ、コンパクトといったコンセプトは、まさに時
代の流れに即した感覚と言えます。従来の拡大一方の路線を抑制する方向に大会準備と運営の舵取りしていくこと
にこそ、東京五輪の真骨頂を求めるべきでしょう。大向こうを唸らせるような施設だとか仕掛けは最早時代遅れだ
と、多くの良識ある市民は感じ始めているのではないかと私には思えます。それこそCool Japan、日本の文化的
風土がオリンピックの場にも反映されるなら拍手喝采です。国や東京都、組織委員会などの面々に、そうした共通
項的な理解が及んでいれば、少なくともあのデザインを選択する根拠などどこにも見当たらなかったはずです。 そこ
に国立競技場があるとはなかなか気付かない!・・・これは極論ですが、それほどの見事な調和の中に様々なニー
ズを包み込んだそんな国立競技場を期待してしまうのは私だけでしょうか。

 以上、私は絵描きでデザインの分野に造詣が深いわけではありませんが、形や色、人の視覚に訴えるエモーショ
ンといった共通項の多い分野に身を置く者として、今回のデザイン騒動に対する苦言を認めた次第です。



○秋の夜長あれこれ(2014年11月16日記)

 Fノート本編の方で、久々に手にした家電(遠赤外線ストーブのことですが)の世界でも、クルマ同様技術革新は進
んでいると再認識できた・・・云々と書きました。何事につけ私たちは技術革新の恩恵にあずかっているわけで、爺む
さい話ですが(いやいや私もすでに爺でしたが)、快適さを提供してくれる文明の利器とはありがたいものです。その
一方で、何事につけもっともっと不便で、肉体的なロードが今よりずっときつかった頃、つまりは若かりし頃を思い返
すと、私らは暑い寒いそっちのけで熱中していたことがあったわけで、そんな時代がふと頭を過るのも、冬ごもりが近
づいたせいかもしれません。 ・・・・・・

★ 今更ですがネット社会あれこれ
 先に若かりし頃の熱中云々に触れましたが、最近の若者は何に熱中しているのでしょうか?あるいは須らくクール
で熱中することなどないのでしょうか。子供もおらず付近に若者の姿を見かけることも少ない田舎では、TVなどから
想像するしかないのですが、スマホとかSNSに現を抜かしているのが若者世代を代表する姿とすると、彼らの頭の
中となると、どうにも想像すらつきかねます。世代間の価値観格差はいつの時代にもあるとしても、これが同じ人間
だろうか思ってしまう節さえあります。たとえばスマホの世界。小さな四角いモニターに没入して、目の前のことに対
しての五感を断絶させている様。たとえばSNSがコミュニケーションの主舞台であり、意見の大勢を決したり友人の
多寡を左右する場であったりすること。こうした社会通念とか人格形成に最大公約数のように係っているのがネット
社会と言えるでしょう。そしてまた、このネット社会ほど先ほどの文明の利器そのものであり、技術革新の恩恵に授
かっている世界はないという事実・・・これは何とも皮肉な一面ではないかと、私などは考えてしまいます。
 難しい理屈はさておいて、私などは20年ほど前でしたでしょうか、周りを見ると俄にPCを使う人が増えだし、いつ
の間にかIC弱者のような肩身の狭い思いをした経験があります。こんにち、曲がりなりにもPCを日常的に使う身分
となっているわけですが、しかしやっぱりこの分野での日進月歩には取り残されるままです。この夏には私も長年使
ってきたXPからWindows8.1 に買い換えたのですが、新しいOSに馴染むのに相当の日数を要しました。それでも馴
染んだとは言い切れないばかりか、私にはXPより8.1の方がいいという理由が見出せないままです。負け惜しみ半
分で言わせてもらえば、こんな日進月歩など本来必要のないものではないのか。どうも我々は最新の道具に振り回
され、道具の扱う情報そのものが安物の洪水のごとき様相を呈している事実を忘れがちなのではないか。そもそも、
このネット社会には情報発信者の顔が見えないと言う致命的な欠陥が蔓延し、この事実に人々が麻痺しかけている
のではないかと、私などはつい思ってしまう次第です。うまい接続語が出てこないのですが、こうした事象を象徴して
いるのがSNSの普及とスマホという小さな持ち物であると言いたいところです。この二つが金科玉条のごとく若者の
行動指針として存在しているとすれば、これはやっぱり情けない話です。ネットへの過大な依存は、人間の精神醸成
や行動規範の元ともなるべき、人と会って話したり人の目を見て物事を判断したり、あるいはまた飲みながらホンネ
を明かし合ったりと(ここは飲兵衛だけの理屈?)、そういう本質的なところから人を遠ざけていくように思えてなりま
せん。よくニュースで見る事件の信じ難い心理とか行動の背景にも、どうもこうした本質部分の欠落があるようにも
思えるのです。何をいまさら…という話で私の書いていることは悲観論に偏りすぎているのかもしれません。現代の
若者だってちゃんと心得るべきは心得ているよ、という声も聞こえてきそうです。それならいいのですが、今更ながら
ぶつぶつとつぶやきたくなる私なのであります。
 このつぶやきに関連して、トゥイッターの訳語は「さえずり」であるべきで、日本語で言う「つぶやき」は当たらないと
私は以前から思っています。「さえずり」の方が軽い意味合いで、これは本来このように理解してかかった方がいい
とも言えます。以上は日頃感じている事々ですが、どうもよく説明し切れませんでした。

★ 視力
 私はド近眼です。そのせいで近くのものはメガネを外せばよく見えるのですが、このところ、使っている遠近両用メ
ガネもだんだん役に立たなくなってきました。もちろん近くのものを見る上でということで、卑近な例がPCの画面で
す。それから、写真を参考にしながら絵を描いたりするときの視野深度ともいうべき点についても不便を感じていまし
た。そんなとき、近々両用メガネなる言葉を知って私もそのメガネを作ることにしたわけです。大体4〜50センチのと
ころがよく見え、その先7〜80センチあたりまで不便なく見える眼鏡を、ということで検眼し1週間たって出来上がっ
たその近々両用メガネだったのですが、これがかけてみてがっくりするほど目的に適っていないのです。つまり、PC
画面(私の場合はデスクトップなのでほぼ正面)を見るのにいつもよりぐっと接近しなければ見えないし、絵を描くの
に画用紙の先の方まで見渡すと何だかその辺はもうボケてしまうのです。これは何か検眼ミスか制作上の手違いで
はないかと、再度そのメガネ屋に行き事情を説明すると、それでは・・・と無料で作り変えてくれると言います。それで
再度こちらのニーズを説明し、検眼し、試しレンズの眼鏡をかけてチェックし、そうして出来上がった第2弾を手にし
たのですが、これまた満足のゆくものではありません。しかし再再度作り直してもらう根気も勇気もなく、それでもこれ
までの遠近両用よりも目的には適っているので使ってはいるのですが、まあ厄介なものですね〜この視力というも
の。元々は眼球内の筋肉の調整能力が衰えていることに起因している問題です。その上私には、初期の緑内障とも
いうべき問題を抱えていて、ここ数年定期的に眼科にかかり眼圧を下げる目薬を点眼していたりで、目の問題には
人一倍神経を使っているのです。もちろん絵を描くという点でも、健全な視力の維持は欠かせません。う〜ん、やっ
ぱり中近両用メガネに作り替えねばならないかと、そんな想いを巡らせながらこの文章を書いた次第です。


○ 懐かしい映画と煙草の話(2013年1月14日記)

 何だか久しぶりに煙草のことを書く気になって、自分でもちょいと懐かしく、その一方で、"今更なにを"とどこからか
声が聞こえてきそうですが、それは無視して書くことにします。

  私自身は、あの震災後の脳内出血騒ぎを契機に禁煙に踏み切り、煙草から遠ざかってかれこれ2年になろうとして
いるところです。むろんこの間一本も吸っておらず、ノン・スモーカーの生活もごく自然に送れるようになりました。自
分が喫煙者であったことをときとして忘れているくらいです。それが今日こうして煙草の話を書くきっかけとなったの
は、ある映画の一シーンを見てのことです。それは、数日前にTVから録画しておいた「ローマの休日」。この映画、も
う何回観たことか数え切れないほどなのに、こうして放映されるとまた録画してみたりと、私にとっては黙って見過ご
すわけには行かない映画なのです。これと「カサブランカ」は台本も買って持っていますので、台詞の大半は殆ど頭
に入っています。まあ、それほど青春時代からの思い出の映画と言うことで、今日はまた降りしきる雪で外にも出ら
れず、室内にこもってこの録画を観たという次第です。その中で、王宮を抜け出したアン王女が街のカフェで煙草を
吸うシーンがあります。初めての煙草のこのシーン、特ダネをものにすべく同席していたカメラマンが、ライターに組
み込んだ小型カメラで隠し撮りをします。王女の行く先々でこの小型カメラが活躍し、その都度このカメラマンはカモ
フラージュとして煙草を吸うわけです。ローマの街中いたる所で紫煙が上がります。

「ローマの休日」


こちらは「カサブランカ」のHボガード
  紫煙と言えば、かの「カサブランカ」などは、Hボガードが実に美味そうに煙草をくゆらせるシーンがたくさんありまし
た。彼の経営するボギーズバーではもちろんのこと、デートのシーンでも煙草は付き物。紫煙はときの経過とともに、
殆どのシーンでごく自然に漂っていました。もちろんこれはモノクロ時代に限らず、その後も映画が総天然色(なんて
言葉を最近の人は知らないだろうな〜)、シネマスコープ画面となってからもずっと続きます。映画ならずとも、良く昔
のニュース映像が出てきたりすると、どこかで誰かが煙草を吸っているのは珍しくなく、喫煙は生活に溶け込んだ行
為であったのは今更言うまでもありません。しかしとりわけ、このモノクロ画面に煙草は似合っています。そういう似
合ったシーンを今日は映画の中で見て、私は久しぶりに喫煙の雰囲気を思い出したのです。そうすると、やっぱりあ
の美味しい時間が甦ってきたりします。当然のことながら、許されるなら吸いたい、ゆっくりと紫煙をくゆらせたい・・・
そういう気分が頭をもたげます。もたげますが、決して手にとって吸うことはないだろう、という確信も一方でちゃんと
あって、だからというか、こういう書き物で自らの気分を代弁させ、あるいはどこかで気を紛らわせているのかも知れ
ません。

 それにしても・・・です。オードリー・ヘップバーンの何とチャーミングなことか! そして、ウイリアム・ワイラーという
監督は何とお洒落な映画を作ってくれたことでしょうか。同じヘップバーン主演の「昼下がりの情事」を監督したビリ
ー・ワイルダー然り、これほど小粋な大人のフェアリーテールを作れる監督はもう現れないでしょう。またこうした映画
を歓迎し拍手喝采する世相というのも、最早過去のものとなってしまったのかも知れません。その意味では、私の"
若い時分"はいい時代だったと、改めて思ったりします。生活の利便性という点では、現在と較べようもない不自由な
時代でしたが、精神の自由という点では、もっとおおらかで振り幅も大きかったように思えます。そういういい時代が
私の中では自由な喫煙とリンクしているわけです。何だか、ノスタルジックな書き物となってしまいましたが仕方あり
ません。私にとって煙草は最早そうしたノスタルジーの世界での記憶と化しているのですから。



○ 集落考(2012年6月17日記)

 ・・・と言っても、絵のモチーフとしての集落について、最近知り得た話のことです。このところ、身近にある集落を描
くことが多くなり、このHP上でもご覧いただけるように、そこに集落が描かれていない風景画の方がむしろ少なくなっ
ているほどです。それは、当地に移住して間もなくの頃と較べると、ここ1年ほどは特に顕著な傾向として指摘できま
す。何故そうなったのか? 自身に問うてみると、いくつかの要素が絡み合っていることが改めて見えてきました。そ
のひとつは、日常的に目にしている風景にあります。この八ヶ岳山麓では、神々しい山々の織りなす大自然や四季
の移ろいなど、自然界の風景はそれなりに素晴らしいものはあります。それこそ、長年都内やお隣の神奈川県に暮
らしていた私が求めていたもので、移住当初は山麓の開放感に浸りながら、絵のモチーフとしても自然溢れる風景
ばかりを追い求めていました。しかし、これだけ開かれた土地柄ですから、そこに家並みとか田畑といった生活感の
ある光景が入り交じっているのが現実です。時を経てやがてそうした現実を受け入れ、そこから感興を覚えるように
なってくるのはごく自然な成り行きでした。峻厳な自然の持つ冷たさよりも、集落の宿す温もりに惹かれるようになる
という年齢的な要素も加わってのことでしょう。そうなると、この山麓のあちこちに散りばめられた、生活のしるしとも
言うべき集落の存在を、今度は風景画のポイントとして能動的に捉えるようになってきました。そしてこれは絵描きの
心に湧いた一種の化学反応と言えるでしょうか、いつの間にか集落そのものが描きたい対象としてクロースアップさ
れていたのです。どこかいい集落はないか探し、いくつかお気に入りの集落を見つけ、何度も訪れては構図を変え、
季節を変えて描いてみるといった循環が始まります。当然のことながら、目の前にある集落への親近感が湧き、そし
て次なる化学反応を誘発し出します。これはどんな集落で、どんな歴史が刻まれているのだろうか? 想像力に任
せるだけではなく、ちょっと知りたい気持ちにもなってくるというわけです。

★ 三つの集落
  私には、このHP上でもモチーフとして何度か載せているいわばお気に入りの集落が三つあります。もちろん他に
も気に入って描いている集落はいくつかあるのですが、それら全ての中からアトランダムに選んだ結果がこの三つで
す。その一つが須玉町北部にある津金の集落で、観光施設である「おいしい学校」のある近くの一帯です。ここには
下津金と上津金の二つの地区がありますが、良く絵にするのは上津金の方です。二つ目がそこから北上して海岸寺
のある峠を越の先にある浅川の集落で、こちらは現在の行政区分は高根町に属します。目の前に広がる八ヶ岳連
峰を背景にした、どこか趣のある集落が魅力的です。そして三つ目がこれも須玉町は北の外れにある小尾の集落
で、みずがき湖西岸を北上した直ぐ先にある御門を中心とした地区のことです。山一つ手前の神戸とか、その先信
州峠方面にも小集落があり、小尾としては東端の増富温泉までを含みますが、ここで言う集落は御門地区が主体と
なります。この三つの集落はどこか惹きつけるものがあって、それ故に季節を問わず訪れてはスケッチをし、それぞ
れ4,5回は作品として載せているでしょうか。正確に言えば、三つとも八ヶ岳の裾野ではなく、秩父山系の西の端に
位置しています。こうした地理的な共通性は以前から認識していましたが、特別な意味合いなど感じていませんでし
た。八ヶ岳山麓は火山礫などからなる乾いた土壌ですから、植生も含めてもっとウエットで山の恵みも多い秩父山系
に古くから集落が成立してきたのは、ごく自然な成り行きというくらいの認識しか持っていなかったのです。それがつ
い最近になって、我ながら「あっ」と驚くような、殆ど発見と言っていいほどの符合があることに気付いたのです。結論
から言いますと、三つの集落とも戦国の世に隣国の信濃との往還に使われたルート沿いにあり、国境警備上
重要な戦略拠点であったということです。戦略拠点といっても、これらの集落が軍事要塞化されていたわけではな
く、主として人の往来を管理したり兵站機能を整えたりする拠点といったことではなかったでしょうか。以下は、ネット
上で村の由来などを少し調べてみて分かったことで、歴史好きの諸氏には、今さら何を・・という話かも知れません
が、少しかいつまんで書いてみます。

★ 甲斐と信濃との往還路
  戦国時代に隣国信濃の国との派遣を争う戦では、信玄と謙信との度重なる川中島の戦いが有名です。武田の軍
勢は幾度か国境を越えて進軍するわけですが、二つの国境を結ぶルートの確保は常に重要な課題でした。伝えら
れているそのルートはいくつかあるのですが、一番古いと言われるのが穂坂路(またの名を川上口)と言って、その
名前は現在の中央道韮崎IC付近にある穂坂という町名と信州の川上村から来ているようです。そこから明野町の
浅尾を経て塩川沿いを北上、現在のみずがき湖付近を通って、かつて小尾郷と呼ばれた御門、和田、黒森といった
地区を通り、その先信州峠を越えて川上村に抜ける道でした。現在は原浅尾韮崎線と呼ばれる県道辺りで、当時は
小尾街道とも呼ばれていたようです。そしてこの道の口留番所は、一番北の黒森地区に置かれていました。
 次に佐久道(またの名を平沢口)といって、現在須玉ICのある付近からおそらく須玉川に沿うように北上し、下津
金、上津金といった後述する津金衆の拠点を通過する道です。その先にある、南北朝時代に創立という古刹、海岸
寺の脇を通って峠を越え、浅川地区を抜けて平沢口(平沢の部落や平沢峠辺りを指すのか?)に至るルートで、現
在は清里須玉線と称する県道辺りです。口留番所は浅川の集落に置かれていました。そしてこの佐久道と併走する
ように須玉ICのある若神子から西寄りに北上するのちに佐久往還と呼ばれる道があり、こちらは現在の141号線
(佐久甲州街道)となっています。尤も、このルートは当時どこをどう通って佐久道との使い分けがされていたのか、
ネット上ではよく分かりませんでした。いずれにしても前者の佐久道が軍用の道として重要視れたのに対して、後者
はおそらく江戸時代以降でしょうか、商用のルートとして主要な役割を担う街道となっていったようです。口留番所は
現在道の駅(南清里)がある長沢という地区に置かれていました。
 この他に、信玄が開いたと言われる棒道の存在があり、こちらの方は高根町から西に八ヶ岳を巻いて大門峠へ向
かう大門峠口と称されていたようですが、これが軍用道路だったかどうかは諸説ある処です。戦国の世における覇
権争いでは、隣国に通じるルート確保と防備は常に重要事項であり、就中山々に取り囲まれた甲斐の国、信玄にと
って、それは命運を制する課題であったと言えます。

★ 津金衆、小尾衆
  戦国期の武田氏家臣団の中には、「,衆」あるいは「党」とよばれる辺境武士団がありました。普段は農業などに
従事していて、「国衆」とも呼ばれていた集団です。国境は彼らが防衛の任に当たっており、一旦事が起こればこの
国衆一族が力を発揮したのです。そして、軍事上最も重要な(と思われる)佐久道の防備に当たっていた武士団が
津金衆です。津金衆の勢力範囲は、津金郷と呼ばれた居館・要害城所在地であった所(現在の下津金・上津金)を
中心に、現高根町の中心地辺りまで及んでいたようです。一方、川上口を受け持っていたのが小尾衆で、その本屋
敷は小尾郷の中心とも言うべき御門地区にありました。この小尾衆は、津金衆の一派であったという記述と、武田氏
出自の者であるという記述があって、良くは分かりません。当時、大体の地名というものは、そこに住み着いた権力
者が自分の名字をもって命名することが多く、津金も小尾も、こうして命名され今日に残っている名前というわけで
す。また、比志、小池、箕輪、海ノ口、村山、井出などなど、北杜市の住人であれば馴染みのある地名は、津金衆か
ら分出した諸氏の名字から来ているそうです。一方、小尾姓はその中心であった小尾郷には殆ど残っておらす、こ
れは婚姻関係の広がりや、武田氏滅亡のあとの徳川・北条の覇権争いで徳川につき、その軍功で知行が元高根町
五町田や明野町、韮崎市辺りにまで拡散したことに伴い、小尾姓もまた拡散したせいだと言います。
 さて、以上からお分かりの通り、かつての信濃との往還に使われた穂坂路、その拠点であったのが小尾の集落
(御門地が中心)で、ここは小尾衆が国境警備の任に当たっていました。当時は信玄の隠し湯として戦の負傷兵や
金鉱山の甲府の治療に使われた現在の増富温泉も、この小尾の東端に位置します。そして、おそらく往来の最も多
かった佐久道、その拠点であったのが津金の集落で、その先国境にあって番所が置かれていたのが浅川の集落で
す。ともに津金衆が管轄し、津金衆はこの地を中心に、現在の八ヶ岳南麓の相当部分にまでその勢力範囲を広げて
いました。

★ 歴史を宿した集落
  最初はただ、“見て絵になる、絵にしたい集落”として私のお気に入りとなった三つの集落、そのいずれも戦
国の世に遡って同じ歴史的な共通項で結ばれていた・・・そういう話でした。そのことが分かってみれば、何故こ
んな山際や山奥にある種のまとまりというか落ち着きを備えた集落があるのかといった疑問も解けるような気もしま
す。私としてはちょっと興奮を覚えるようなこの符合ですが、読者諸氏にとっては“だからどうなの?”という話に過ぎ
ないかも知れません。また、絵描きという立場からして、こうした集落を描いた自分の作品に、何か今までとは違った
趣が添えられるかと言えば、これも殆ど関係のない話です。私は別に司馬遼の「街道を行く」の挿絵を描くわけでも
ないので(でもそんな類の仕事の依頼が来れば喜んで引き受けたいとは思いますが・・)、ただ単に、これからも三つ
の集落から受ける感興を絵にしていくだけです。 しかし・・・・です。自分を惹きつけた集落に宿っていた歴史、その
臭いが集落の佇まいの中に漂っていたとすれば、私はその臭いをどこからかかぎ取っていたのかも知れず、そして
その臭いが、この三つの集落を他と差別化していた要因であったのではないか・・・・そんな空想をも膨らませてくれ
るのでした。
 一つ蛇足を加えますと、そもそも描く対象の集落に関してちょっと調べてみようと思った発端は、小尾集落の中の
御門地区の佇まいに惹かれてのことでした。どうしてこんな山中に御門という高貴な名前が付けられたのか? そう
いえば、御門のお隣には神戸(ごうど)と呼ばれる地区があり、村の鎮守の社が神部神社です。田畑の土地も少な
い狭隘の山地に、このように命名された一帯があることが不思議でした。こちらの方の謎解きは、小尾の総鎮守とさ
れる神部神社に残された書き物に、日本武尊が東征の折に命名云々・・・といった記述を見つけただけで、他にこれ
といった根拠は見つかりませんでした。この神社は創立が飛鳥時代に遡るとされていますが、古事記や日本書紀か
らのこうした引用は、日本全国どこに行ってもある話なので、結局当初の疑問は解けないままではあります。


○ 禁煙〜まる1年・・(2012年 3月21日記)

 「あれから1年」、と言えば日本全体が重く受け止めた3.11一周年のことですが、私にも小さな「あれから1年」が
ありました。禁煙一周年のことです。50年の愛煙生活への決別は、その動機となった脳内出血という事態に発し、
高血圧制御、毛細血管の大敵であるニコチンの進入を絶つという止むに止まれぬ事情あってのことで、いわば命と
の引き替えとも言うべきことでした。今は簡単にこう書いてしまいますが、私にとってこれは大変な闘いでした。それ
が1年という年月が過ぎた今になって、煙草のない生活をごく自然に過ごせるようになったと言えるでしょうか。"あ
〜、ここで煙草を吸えたなら・・・" という恨み節とか誘惑めいた気分になることもずっと減ってきました。ひと頃口寂
しさを紛らわすために噛んでいたガムを口にすることも少なくなって、クルマに常備していたこのガムも中身が一向
に減らない状況です。間食もこれが大体私の並状態だったかと思われるところまで、ひと頃と較べるとかなり治まっ
てきています。あ〜それなのに・・・身体にとりついた脂肪は、いまだにしつこく残ったままなのです。一応プールでの
プラクティスとか朝晩の簡単な体操は続けているのですが、どうも思い出したように励んでいる程度では生ぬるいよ
うです。そう言えば、煙草を吸っている夢も少なくなったかも知れません。とまあ、そんなことを言っているうちにまた
夢を見て、"しまった、なんてこった、折角ここまできたのに" という想いをまた味わうのかもしれませんが。それにし
てもこの"しまった"という感覚、夢だと分かってこれほどホッとすることもないですよね。経験者なら肯ける話かと思
います。

 何事も三日、三月、三年という諺からすると、一年というのは、まだ油断のできぬ年月ではあるのでしょう。先に触
れた薬療法で禁煙に成功した人達の1年後の再喫煙率が半分という恐ろしい数字もあることです。この数字には、
意志の介在があるかないかが関係しているはずです。辛い思いに打ち勝って禁煙した人には、あの苦労を簡単に
無にして堪るかという気概が強いものです。抵抗なく止めた人は、再喫煙するのにもさしたる抵抗を感じない、という
のが私の推論です。まあだから、簡単には煙草にまた手を付けたりはしないという自信というか戒めというか、そう
いう確信めいたものがあるのです。かと言って・・・ここは強調したいところですが・・・、私は未だに嫌煙の気分には
ほど遠く、そればかりか、スモーカーに対する共感と憧景を抱き続けています。彼らが形見を狭くしながら吸っている
光景には同情を禁じ得ませんし、その一方で、さぞかし美味かろうといった想いは、今でも頭の隅を過ぎります。先
日は東京でのある会で、後輩が胸ポケットから取り出した煙草のパッケージを手にとって、臭いをかがせてもらいま
した。やっぱり懐かしく、いい臭いだった・・・。これが素直な感想でした。ですから、喫煙の取り締まりを強化しようと
か、禁煙環境を広めようといった世の動きに対しては、敬虔さを欠いて精神性を束縛する浅知恵のなせるところと、
未だに非難の声を上げたくなります。私の友人で喫煙でも先輩格にあたる御仁は、昨年大動脈瘤の手術を受けた
のですが、術後も決して禁煙はしないという信念を貫き、現在でも月に1,2本は気が向いたときに吸っているとのこ
とです。私に言わせれば、これは天晴れ! 断固禁煙ではないこの極度な節煙は、おそらく一番難しい技ではない
でしょうか。私も見習わねば・・・と思って、イヤイヤやめた方がいい、自分にはとてもできないことだと、もう一人の私
の声が慌てて阻止します。

 私の禁煙元年はこうして過ぎ去りました。あと1年、2年と経って、振り返ればこうだった・・・などという話がまたでき
るのかどうか、それはどんな話となるのか、自分でも半分楽しみにしながら、この禁煙エッセイは取りあえず幕引きと
します。お読みいただき、ありがとうございました。



○ 禁煙〜まだ9ヶ月、もう9ヶ月(2011年12月22日記)

 2ヶ月ほど前だったか、NHKの「ためしてガッテン」が禁煙をテーマに放映し、テーマがテーマだけに興味深く観る
ことになった。私には腑に落ちない・・・どころか憤懣を禁じ得ない内容だったので、このタイミングで、敢えてこの番
組への批判を書くことにした(煙草とは縁のない諸氏には、つまらないかも知れません)。
 司会の志の輔も一日5箱も吸うというヘビースモーカーだったようで、相当な苦労をして禁煙したのが1年前。当時
の苦痛にゆがんだ顔写真が印象的だった。それで、これも筆舌につくし難い辛酸をなめた挙げ句ついに禁煙に成
功した私の友人のことが思い出された。彼は、吸いたくなると何でも傍にあるものを噛んだそうで、あるときはクリッ
プまで強く噛みしめたらしく、そうして歯ぎしりしながら喫煙の誘惑に耐え抜いてきたのだ。それほど禁煙をやり通す
ことの難しさがあるわけで、つまりは禁断症状との壮絶な闘いが禁煙の全てであったはずなのだ。ところが、最近は
何の苦もなく薬の治療で止められるそうで、この番組では、その効能を取り上げていた。映像から私も聞き覚えのあ
る"チャンピックス"という名前が読みとれのだが、この薬、私も友人の奥さんから、自分もこれでいとも簡単に止めら
れたから是非使ってみては、と勧められたものだ。しかし止めるからには自分の意志を通そうと、偏屈な私は粋がっ
て使わず仕舞いに今日まできているのだが、その効果はかなりのものらしい。以下、番組の要旨に触れる。

 この薬療法を3ヶ月続けた人の禁煙成功率は80%にのぼる。元々ニコチンは脳の神経伝達物質「アセチルコリン」
の代わりに作用して頭がスッキリしたり、落ち着いた気分にさせる。煙草を吸い続けるとそのアセチルコリンが弱まっ
てニコチン依存が強まるから、それが切れるとイライラしたりボーとしたりで禁断症状が出てくるという理屈だ。薬は
そのニコチンやアセチルコリンと同じ働きをしてしかも煙草を吸っても美味しく感じさせなくしてしまうという効能があ
り、だから8割もの人たちが楽に禁煙に成功する という算段だ。ところが・・・である。1年経つとこの8割の成功者
の再喫煙率が50%におよぶというのだ。
そこで、人は何故煙草を吸ってしまうのか、最近の脳科学から分かったことは・・・・として続くのだが、話はこの辺り
から怪しくなってくる。私に言わせれば、とても番組名の合点というわけにはゆかぬ展開に陥っていくのだ。揚げ足を
とる訳ではないのだが、余りにもお粗末な展開なので、ケチをつけずにはいられなくなるのだった。

○ 先ず、再喫煙率の50%が、そもそも薬療法で喫煙した人たちに特有の数字なのかどうか。それは、普通に禁煙
した人たちの再喫煙率と較べてどうなのか、この点の言及は一切ないままだ。話題の薬の効能から始まり、"ところ
が・・"と話が転ずるわけだから、この言及を避けて先に進めるのは、まさに画竜点睛を欠く。
○ 話は最近の脳科学で分かってきたこととして、再喫煙するのは意志が弱いのではなくて、煙草のもたらす快楽の
記憶が甦るためという。・・・・これはちょっと待って欲しい。快楽の記憶とは即ちそれが禁断症状のことで、そもそも
話題の薬はそういう記憶を消去してくれていたのではなかったのか?? それが甦るとは、薬の効能が消えてしまう
ということなのか。そこをはっきりして欲しいのに、これまた素通りするのみなのだ。さらにさらに、その記憶が甦った
として、それでも吸わないという意志を通せるか否かは、意志の問題ではないのか。こんな疑問が次々と湧いてくる
のだが、番組はお構いなく進行してゆく。○ さらに、脳科学で分析された帰結の一つとして、ついついタバコを吸っ
てしまう理由は、「タバコが無いと喜びが完成しない脳」になってしまっているからではないか、と今さら何を?という
話が挿入される。こんなことは改めて脳科学の分析をしなくても分かっていることだ。私だってこのエッセイでも同じ
ようなことを度々書いている。
○ そしてこの番組は驚くべき(最大級の皮肉を込めた表現のつもり)結論を導き出していくのだ。曰く、禁煙を続け
られる人は、今の快楽を重視する「キリギリス脳」から、より将来の喜びが待てる「アリ脳」へと変化していた。このこ
とから、番組では、禁煙の過程で、より将来の喜びを待てるようになれば禁煙の成功率が高まるのではないかと考
えた。そこで、実際の成功者を調査してみると…吸ったつもりで500円玉貯金をする、とか、吸いたくなったらお腹の
子供のエコー写真を見るとか、エトセトラ・・・・。そして「タバコなしではいられない脳」を、上手にだませるかどうかが
成否の分かれ目となる・・・のだそうだ。

・・・・こんな子供だましの結論があるだろうか。呆れるのみだ。吸いたくなったらコイン貯金ですと!? そんなことで
禁煙を成功させられるなら、みんなとっくにやっているはずではないか。しかも、これが最新の脳科学で分かったこと
の帰結として、この番組は堂々と述べているのだ。そもそもアリ脳とやらは薬の効能としてそうなってきたのか、再び
この点について何の説明もないままだ。そして何よりもこの番組、不思議なことに意志の強い、弱いに関しては何一
つ問題視していないどころか、むしろそこから目を背けて進行しているのである。私や友人のように苦労して禁煙し、
喫煙の強烈な記憶と再喫煙の誘惑にも耐えている者は一体どう受け止めたらいいのだ!私がゲストなら、絶対こん
な帰結に「ガッテン」ボタンは押したりはしない。それなのに、ゲストはみんな”ガッテン”の連呼だ。ゲストが如何にお
飾りでやらせかという一例だ。大体NHKは最近消化不良のまま、この種の情報番組を平気で流す傾向が強まって
はいないか。やたらセンセーションのみに走って内容がお粗末という類の番組は、民放との視聴率争いのプレッシャ
ーが異常に高まって、焦りを感じているように思えてならない。

 とまあ、ことが禁煙であるだけにちょっと熱くなってしまったのだが、私の場合はまだ禁煙9ヶ月、熱くなるのはいま
だに煙草への関心が強いという証とも言えそうだ。そして禁煙の反動は未だに我が身を醜く変えたままである。体重
は禁煙前から5キロ増えたままで、先々週受けた人間ドックでも、中性脂肪過多、典型的な脂肪肝、酒も控えめにな
どなど、耳の痛くなる指摘を数々浴びることとなった。そこで「煙草を止めたもんですから・・」と言い訳をすると、それ
なら少しは大目に見ましょうか、と少しは同情を誘う。どうにか私の体面は保たれるのだが、禁煙はもう9ヶ月たっ
た・・・とも言え、そろそろこの言い訳も通りにくくなってきているのも事実である。どうにかしなければ・・・・。


○ 禁煙その後〜半年が経過して(2011年10月6日記)

 厚生労働大臣に就任するなり、喫煙は健康に悪いから煙草税を引き上げるべき、という場違いな発言をした小宮
山という女大臣、私はそのニュースをTVで見て思わずその大臣を罵倒していました。私は一応ノンスモーカーとなっ
たのだから、関係がないと言えばない立場なのですが、この種の短絡的な税金引き上げを口にする政治家は許せ
ないのです。外国と較べてまだ安いから、という理由もあるようですが、何でも外国並みを目安にするなら電気代や
ガソリン代はどうなのか。もっと安くして然るべきではないか・・・と、私はいつも決まって税収不足となると煙草に目を
つける単細胞、思慮短絡を軽蔑し、政治家として失格の烙印を押してしまいます。とまあ、私は相変わらずスモーカ
ーの身方であって、今や彼らの美味そうに煙草を吸う姿を、遠目ながら羨ましく微笑ましく眺めている者です。踏ん
切りの悪い、と言われそうですが仕方ありません。

  煙草を止めて半年になる、などと人に語ると、大概の人から「それは良かった」と言われます。要するにご同慶の
至りという意味合いで、それはいいことだ、私としても喜ばしい、といったほどの文脈になるのでしょうか。ところが、
それを聞く私はいつも複雑な気分となるのです。健康のことだけを思えば確かに良かったと言えるのですが、私自身
の素直な気持ちからすれば、好きなことができなくなった(しなくなった)わけですから、積極的に"良かった"という気
分とはちょっと違うわけです。それなら、大儀であった、と言われるくらいがちょうどいいのでしょうか。むろんこれは
身勝手な言い分で他人にそこまで押しつける気などさらさらありません。そしてともかくも、この半年間私は一本も吸
わないで通してきました。半年経ったのだからもう大丈夫、と言いたかったところですが、どうもそこまでは断言でき
ないのが素直なところです。先日も親しい友人に、禁煙半年が続いたと多少自慢げに話したら、「脅かす訳じゃない
けど、半年、1年と禁煙を続けてまた吸い出した仲間を何人も知っている」、と返されました。これはまさに脅し、私は
それを聞いてギクッとしたのでした。何故ギクッとしたかといえば、つい最近も、ここで一服したら美味かろうな〜と、
かなりリアルに煙草の味を思い出すことがあったからです。それも一度や二度ではなくて何度もそういう危険な誘惑
にかられ、喫煙復帰の想像を巡らせることがあったのです。もう少し前、例えば禁煙3ヶ月とかその頃の方が、煙草
なしの生活は順調であったような気もします。何故そのあとさらに禁煙の月日を重ねたのに、不安定な気持ちとなっ
たのか? 私なりによく考えてみると、一仕事を終えたあとの煙草ほど美味しいものはない(いや"なかった")わけ
で、その意味で私は個展という一仕事を終えて間もなくが、ちょうど禁煙半年目というタイミングであったことが関係
していそうです。個展といっても自分で勝手にやっていることだから一仕事も何もないと言われれば返す言葉もない
のですが、私のような絵描きにとって個展はやはり一仕事、いや一大事業と言ってもいいほどのことです。それを終
えた安堵感が、脳裏のどこかであの一服の美味さを想起させているらしい・・・そのように自分を分析してみるのでし
た。
 まあ、しのこの言っても、私は未だ自分の意志で喫煙を押さえ込んでいる状態で、よく人が言うような喫煙そのもの
を忘れ去ってしまうような楽な状態では決してないのです。最近は禁煙治療も進んでいるようで、それを受けてそれ
に成功し、嘘のように煙草との絡みを忘れ去っているような、そういう状態をよく人から聞いたりします。それからする
と、私の置かれている事態は随分かけ離れています。禁煙とは簡単なことではないという実感を、今さらながら新た
にしているからです。ですので、相変わらず私は頑張って吸わないでいるのです。相変わらずおやつを口にし、ガム
を傍に置いて何時でも噛めるような状態としています。だから相変わらず中性脂肪はとれないままで、4キロ増の状
態を維持しています。自分でも不甲斐なく思っています。

 これを書く当初、私は"三日、三月、半年"という何事も成せばなっていく月日の節目とも言うべき格言を頭に思い
浮かべていたのですが、それは"三日、三月、三年"というのが正しいのだそうで、だとすると道のりはまだ遠いという
ことになります。忘却とは忘れ去ることなり、忘れ去るには三年が必要・・・ということになると、半年や一年で騒いで
も始まらない。であれば、この禁煙エッセイもこの辺で止める潮時なのでしょうか。


○ 禁煙〜その後(2011年7月5日記)

 3ヶ月あまり、数えてみると今日でちょうど100日目、煙草なしの日々が続いています。挑戦者本人としては立派、
立派、お主なかなかできるの〜と褒めてつかわしたい、そんな心境です。友人からの受け売りですが、何事も三日、
三月、三年というのだそうで、禁煙が三月以上続いたということは一つの節目を通り過ぎたということでしょうか。そ
れでも、未だに一日に何度かここで煙草をと、記憶装置が動き出す瞬間がふと訪れます。昨日も一人で畑に行き、
草取りやら追肥など1時間半ほど汗を流してクルマに戻り、飲物を飲んでホッと一息入れたそのときです。 私の目
と手は一瞬煙草をまさぐり始めていたのでした。それはもうこういう時が一番美味いことはしっかり記憶に染みついて
いるわけです。もちろん、身辺に煙草があるわけではなく、私も直ぐ我に返って誘惑を拒み、同時にわき起こる空し
い気分を封じるために、またガムを噛むのでした。こんな風に、喫煙の記憶が甦る瞬間がまだあるにはあるのです
が、切迫感はひと頃と較べると随分薄まってきました。誘惑をいなしてやり過ごす術が段々身に付いてきたものか、
おやつやガムへの依存度も徐々に減りつつはあります。中性脂肪が警戒レベルであることも、間食にブレーキをか
けるようになった理由です。 吸わないという禁止事項に、間食を控えるという抑制事項が加わっているわけですか
ら、気分的には窮屈で欲求不満を免れません。ストレス発散の術がこれといってあるわけではないのに、我ながら
良く凌いでいる状況と言えます。その理由は、あとで述べる禁煙継続へのモチベーションがより強まったことや、単
に諦めの気分が日常化し、我が身は知らぬ間にそれに馴染んできたこと、おそらくはその両方のせいで、自らを騙
しているような面もまたあるからだと思います。

 半月ほど前のことだったか、人から「煙草を止めて何か良かったことがあった?」と訊かれました。そのときは咄嗟
に"これ"という答えが思い浮かばないまま、「深呼吸が気持ちよくできるようになったことくらい?」と自問気味に答え
ただけでした。その後"何か良いこと"について考えることがあり、些細なことながらそう言えば・・・と思いつくことがい
くつか出てきました。身体的なことばかりですが、例えば、あれだけ頻繁だった咳き込むことが殆どなくなった、同様
にあんなにティッシュを消費させていた痰が出なくなった、深呼吸の改善に伴って直ぐ息切れする瞬間も減った・・・・
などなど。私は長年の喫煙のせいで肺機能がかなり弱っていたことは確かでした。肺活量も検査係のおばちゃんが
首を傾けるほど低い数値だったのです。うどんやラーメンなど暑い湯気を吸ったときは必ず咳き込んでいました。肺
機能がどれほど好転したのか、そもそも失われた機能が回復するものなのか、良くは分かりませんが、禁煙後は明
らかに呼吸器系が楽になっています。良く禁煙すると食べ物が美味しくなると言いますが、この点はまだ目立って自
覚をしていない状況です。
 もっと軽い気分的な面で一つ、確かに言われた通りかなと思うことがあって、それは、煙草を止めると煩わしさがな
くなって結構さばさばするということです。やれ煙草の買い置きがなくなってきたとか、外出時はライターだ灰皿を忘
れないようにとか、行く先々で喫煙場所を探す手間だとか、そうしたいくつかの煩わしさが皆無となったのは確かで、
その分さっぱりとした気分でいられます。こうしたちょっとしたさっぱり感が、先程書いた諦め気分と適度にミックスア
ップして日常化していくものなのか、そのうち、以前と比べて何がどう変わったとか、考えることもしなくなっていくのか
も知れません。

 まあこんなところが禁煙3ヶ月ばかりの時点で綴れる事々でしょうか。何せ50年、煙草と共に歩んできた日々、と
いうよりも人生があるわけです。たかが100日くらいの日々が心身に馴染んでいないからといって、それは仕方のな
いことです。ですから、私には、禁煙したらまるで人生180度転換、極楽のように変わったという人が理解できませ
ん。そんなに良いことずくめに転換するものなのか。でもそうした人々がいることもまた確かで、それには最近の禁
煙治療とか禁煙のノウハウが係わっているとはいえ、私にはちょっと信じ難いことです。むしろ、私などは、長年の友
(或いは愛人)との別離には、苦痛が伴って当然と思ってしまいます。 ですから、他力本願ではなく、多少時間がか
かっても自らの意志で始末を付けたい、と思うわけです。 まあそこまでいくと多分にMなのか、自虐的としか言いよ
うのない古い一面が私にはあるのかも知れません。
  そんなことで、喫煙と禁煙を天秤にかけてものが言える立場ではまだないのですが、一つだけ良かったこととして
言えるのは、私の連れ合いが私の禁煙をことのほか喜んでいることでしょうか。まあ長年連れ添って、私が一方的に
嗜み、それが相手にとっても家庭環境にとっても迷惑だった事態が我が家から消え去ったという事実は、ことのほか
大きく重いものであるようです。改めて考えれば、かなりくたびれかけているこの年でできることとして、禁煙は相当
大きなことと言うべきでしょう。そう思うことで、私には復煙を止める最大の防波堤とせねばならないと、肝に銘ずる
ことにします。


○ 煙草との惜別・・・タバコ飲みだった人には分かる話?(2011年5月29日記)

  絵とはまるで関係のない話ですが、梅雨入りの退屈凌ぎに一文を供します。日本人の喫煙率は今や23.9%(2
010年JT調査)、つまり老若男女ひっくるめて4人に1人を切っているということです。この数字は、都会だともっと低
い数字ではないかと誰しもお思いでしょうが、田舎も含めて見れば、なるほどとこれが時代というものでしょうか、ひと
頃とは隔世の感があります。因みに私が初めてタバコをやった昭和36年では、喫煙率が男だと8割を超えていたほ
どで、喫煙は大人への通過儀礼のようなものでもありました。あのむせて咳き込んだピースの味に始まって以来50
年間、私は愛煙家を通してきました。途中、一度も禁煙しようとは思わないままやってきたこの私でしたが、この度タ
バコを止める羽目となりました.。もう二ヶ月以上、紫煙とは縁を切ったままです。禁煙は、以前ちょっと書いた不測の
事態(簡単に言えば高血圧から来る脳梗塞と紙一重の事態)に起因しており、その再来を未然に抑える必要が生じ
たからです。分かってはいたものの、タバコは血圧にとって大敵、特にニコチンは脳内毛細血管を詰まらせる原因と
もなるそうで、"とんでもない"と改めて医者から突き放され、いよいよタバコとは"おさらば"するしかない顛末とあい
なった次第です。

  しかし、喫煙の習慣はいわば麻薬中毒に侵された状態と同じでしょうから、禁煙は言うは易く、実行には難く、こ
れはもう何人かが既に経験して成功したり、くじけたりで、分かったくれる人も多かろうと思います。禁断症状が出る
と意志の力で押さえ込むか、何か他のことで気を紛らわすしかありません。私も意志の力だけでは負けそうになるの
で、大勢の諸氏と同様、何でも口にすることで凌いでいます。一服やりたいというタイミングでおやつを食べる、ガム
を噛む、とにかく何でも口に運んでやり過ごすわけです。当然太ってきますがそれは目下のところしょうがない。とに
かく闘いなのです。油断すると一挙に自滅に追い込まれる危うい闘いです。それでいっときよりも3〜4s体重が増
えてしまい、今度は血液検査結果を見た医者から中性脂肪に要注意だって! 血圧対策でタバコ厳禁、塩分控え
め、お酒はほどほど・・・これらに加えて今度は、炭水化物、蛋白質の取りすぎはダメ、脂分控えめ、間食はダメ・・・
となると一体私はどうしたらいいのだ!と誰かに八つ当たりしたくなります。振り返ってみると、私が好んで飲んだり
食べたりしてきたものは、どういうわけか身体に悪いものばかり。煙草、酒、ラーメン、お者漬けの供のような塩辛い
もの。どれも健康志向の皆様にはとうにケアーされていたものばかりで、それを年甲斐もなく、無防備に愛し続けて
きたその付けを一挙に払わねばならない時がきたということです。そして健康第一。全ての価値観はこの一点で計ら
ねばならない身となったわけです。
  それは至極当然、みんながやっていることじゃないの・・そんな声が聞こえてきそうなので、あえて私なりの弁明〜
愚にもつかぬ言い訳〜をさせたもらいます。かつて團 伊玖磨のエッセイで喫煙に関する私の好きな一文に出会った
ことを思い出します。それは"タバコは毒じゃありませんか?と問われた團 伊玖磨が、"毒だから吸っているんです"
と答える下りで、私は一人溜飲を下げて拍手喝采したものでした。人生には少しばかりの毒が必要だ、隅から隅まで
清廉潔白な人生など面白くない・・・なんてうそぶいて粋がっていた人生、私にはそれがなかなかの楽しいものでし
た。考えようによっては、私はこれまで毒気を楽しんで来られたわけで、その点は幸せだったと言えるのでしょう。もう
一人、心理学者で文化庁長官をやったことのある河合隼夫の言葉も印象的でした。氏自身は煙草を吸わないので
すが、かつてアメリカで禁煙が神経質なまでの社会的運動に発展し始めた頃、氏はそのヒートアップ振りを"精神の
自由を束縛しかねない"として批判したことがありました。私は今でも人生有毒肯定論を捨てがたく、精神の自由を
束縛されることを忌み嫌う者です。未だにタバコを敵対視することができないままで、この一文のタイトルを未練がま
しい言葉にしたのも、こんな背景があってのことです。 そしてこの健康第一の生活とは、何と味気なく、つまらないも
のであることか。観念的なことではなく、自分でやり始めてみてつくづくそう思います。禁煙に成功した先達は、そのう
ち慣れると気分も変わるよ、と言うのですが、私にはまだ健康第一と味気ある人生というものが繋がっていないので
す。この闘いに勝利できるのかどうか、その確信が持てないまま、未だ女々しくタバコを惜しんでいるというのが、現
在の私の姿でもあります。別れた女への憎しみよりも未練の方が勝っている状況と同じです(想像ですが)。

  改めて、タバコの美味さというのは、食事よりもお酒よりも勝っていたのではないか、と今さらながら思われます。
あの食後の一服、酒の合間の一服、一仕事終えたあとの一服、次なることに進む前の一服。どの一服も美味かった
な〜、あの時間そのものがおいしかったな〜と思うのです。むしろその一服のために食事をし、酒を飲み、仕事も次
なることもやってきた・・・そんな言い方さえできそうです。幕間の楽屋での一服があるからステージで身体を張ってき
たというわけです(これも想像ですが)。そんなオーバーな、とお思いかも知れませんが、決してオーバーな表現では
ありません。まあ、それだけ私が喫煙という麻薬にはまっていたということかも知れません。ですから、今他人が煙草
を吸っている姿を見ても、決して恨みがましいとか非難がましい思いが湧くわけでありません。むしろ"あ〜、いいな"
と微笑ましく感じるのです。 決して"あんな馬鹿なことをやって"といった後悔の念などはないのです。その一方で、
自分も吸いたい、という気持ちは何処かで抑え込んでいる自分がいます。そして一度タバコを一本吸った夢を見たこ
とがありました。 そのときは"美味い"などという感慨よりも、"マズイ、やってしまった"という後悔の念が一瞬湧いて
きたものです。だから夢から覚めてホッとしたことを覚えています。

  何やら全編を通して煙草へのオマージュのようになってしまいました。まあ、私の闘いも、こんなことをあれこれ書
き起こすことができるくらいには進展してきているわけで、どこかで喫煙を客観視し始めているらしく思われます。し
かし油断大敵。しばらくは戒め、戒めでいかねばなりません。中性脂肪対策には有酸素運動がいいということで近く
にあるホテルのプール年間会員ともなりました。せっせと水中ウオークに取り組まねばなりません。それで本当に"
健康第一"が美味しい人生と相容れるようになるのか、暫くはこの実験が続くことになります。


















戻る to トップページ ▼ 

戻る to 文章のページ・フィールドノート ▼

または、こちらから館内移動を


トップページ
水彩画ギャラリー
ノート〜
文章のページ
山麓絵画館
山麓スケッチ館
<風景画>
<風の盆>
スケッチ館
発刊物掲載画


















トップへ
トップへ
戻る
戻る