山麓絵画館


2017年 甲府での個展 メモリアル

11月13日(月)〜19日(日)
県立図書館’イベントスペース)




甲府での個展、盛会のうちに終了することができました、

八ヶ岳山麓移住後12年間に制作した水彩画から作者がピックアップした計46点
を展示しました。個展初出の作品に加え、これまでの個展や当HP、或いは画集に
載せた作品が多数展示。県民の皆様はじめ大勢の来場者の皆様に、私の
透明水彩の世界に接していただけたことは、私の望外の喜びとするところです。
ありがとうございました。  2017年11月 栗原成和


  
広くて明るい県立図書館のイベントスペースでした。



<この個展出展作のうち当HP未掲載だった作品>



「新緑を縫って」

Fabriano Extra White F8相当
2016年5月 北杜市小淵沢町・白州町

 釜無川新緑の図である。5月も日を重ねると、岸辺の新緑は日に日に輝きを増してくる。
春先の水量もこの辺で一段落し、流れは新緑の廊下を伝うように岸辺をはんでゆく。







「相談事」

Fabriano Extra White F6相当
2017年10月 北杜市須玉町小倉

お婆ちゃん二人が散歩する姿。それは初冬の薄暮どき。二人がゆっくりと歩を進め
ながら何事か話している。独り言のようでもあり、相談事で言葉を交わしているようで
もある。そんな情景が微笑ましく、描いているうちに何度も話の中身を想像したりした。







「花の龍岸寺」

Fabriano Extra White F6相当
2017年4月 北杜市長坂町長坂上条

「花の龍岸寺」というタイトルの絵は、これで何作目だろうか。何度描いてもここのサクは
は素晴らしい。そして何度描いても絵のタイトルは自ずとこうなってしまう。他に形容
の仕様がないほど、この寺は季節になるとサクラの雲に埋め尽くされてしまうようである。




<会場にはこんな一文も掲げました>

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ご挨拶

ご来場いただき、心よりお礼申し上げます。

 小淵沢に移住して12年、この間私は絵を描いたり教えたり、地元や東京で個展を開催したりし
てきました。しかし、まだ一度も甲府でお目見えの機会を得ないままでしたので、今回の個展は
県民の皆さまはじめ、広く私の絵に接していただける機会として、最新作に加えこれまで描きた
めた作品から見繕った計45点を展示しました。すべて透明水彩による風景画で、北杜市を中
心にした峡北の風景が大半を占めています。

 こうして並べてみると、改めて覚える感慨があります。一つは、私の活動の舞台となっている八
ケ岳山麓界隈が、如何に四季の光彩に満ち満ちていることか、その認識を新たにすることであ
り、もう一つは、風景によって触発される絵心の中身が、明らかに経年変化を来しているという
点であります。

 四季の素晴らしさは日本固有の美質ですが、この界隈に特筆すべき魅力は、日本有数の高
山が持つ峻厳さと、その裾野の牧歌的味わい、麓では昔ながらの田園風景や歴史を偲ばせる
山間の集落など、それらが相俟った多様な自然と風土を創り出している点にあると指摘できるで
しょう。
 こうした環境で描いてきた絵を年代順に眺めてみると、移住当初は風景に衝き動かされた感
動が素直に絵に表れていて、我ながら当時が懐かしく思い出されます。年月を経てその感動も
薄まり、モチベーションが低下した分を補ってきたのは、いい意味でも悪い意味でも作為という
要素と言えるでしょう。こんな絵にしたい、構図は、色調は、といった平たく言えば構想であり作
戦であります。それは対象との対話に始まり、年齢的な要素も加味されて作画に繋がってゆくも
のです。そうした作為がさりげなく絵に隠されている風情・・・これを枯れた味わいとして、ひとつ
の目指すべきところとするなら、どうも自分の絵はそんな風味が感じられません。これは憂うる
べきことか、或はまだ先が長いと思うべきか、しばし腕組みをし、首をかしげるこの頃でありま
す。

繰り言はこれくらいにして、どうか皆さま、引き続きゆっくりとご覧いただきたいと思います。

2017年11月 栗原 成和

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<以下、アーカイブス的に移住当初の数年間に描いた作品を再掲示してみました>





「八ヶ岳 夕照」 2006年

新しい生活の舞台となった八ヶ岳山麓。その盟主
の姿を私としてはメリハリを利かせたタッチで描き
上げた一作である。山だけを主題にした絵は結構
珍しく、これ以降もさほどはない。




「雪明けの甲斐駒」 2008年制作

 降雪が明けた朝、晴れ渡った空に甲斐駒がくっ
きりとその姿を誇るかのように鎮座している。
当地にやってきて暫くは、このように雪の朝は
勇んで出かけたものである。間近に見る雪山
から受けた感動をそのまま絵にしているようで、
思い返すと新鮮な気分が甦ってくる。



「カラマツの秋」 2008年

カラマツ林だけをモチーフにして画面一杯に描く
作品は当時私が追求していた画題の一つであっ
た。しかし、ほどよい密集の具合とか、光線の具合
を満たした情景は、なかなか存在しないもので、この
絵は実在と想像が上手く噛み合った一作と言える









「サクラ咲く農道」 2010年

画中に人を配する絵は余り描かないのだが、この
一作はその手始めとなったような風景画である。人
がいると和むこともあって、この絵は今回展示した
中でも好感度が高かったようだ










 以下は、個展直後に書きたかったことですが、中断のやむなきに至っておりました。
この度取り纏めましたので、ご一読願えれば幸いです。
(2018年1月10日記)


   
〇 ポスト個展〜絵描きの視点から

<改めて個展を振り返って>
11月の個展(県立図書館)は、ご来場いただいた大勢の方々から大きな手ごたえを感じることができた個展
でした。特に絵の愛好家、中でも水彩画に親しんでいる方々の熱心な眼差に接し、こうした方々が展示作と
の間に交わす会話さえ聞こえてくるようなときもあって、作家冥利に尽きる体験をさせてもらいました。ここに
個展開催の大きなモチベーションであったのだと今さらながら思い起こす瞬間でもありました。遠路県外から
お越しいただいた皆様への感謝の気持ちもさることながら、多くの県民の皆様と、私の作品を通してこうした
交流ができたことは、この県立図書館を選び、そこで個展を開催した意義が十二分にあったものとつくづく思
われたのでした。
        
< 私流ということ>
この個展では、私の水彩画の世界に多くの方々が接していただけたわけですが、手前味噌を承知の上で言
わせてもらうと、初めて私の作品をご覧いただいた方々には、新鮮な印象を抱かれた方が多かったようで
す。特に水彩画への関心が深く、ご自身も描いておられる方の中にこうした印象が強かったようで、中には
直接私に様々な表現でそうした感想を伝えてくれた方が多くおられました。水彩画、もっと言えば透明水彩の
絵に関して、こんな風に描けるのだ、こんな世界があるのだ、あるいはこんな風に描きたかったのだ・・・など
など。いわゆる水彩画の概念として、私のような画風が一般的なものとは違って新鮮に映ったのだと言える
のかも知れません。
 こうした反応に接して、私自身は素直に嬉しく感じました。私自身が世の潮流とかその筋の権威になびく風
潮などとは全く無縁で、何よりも私自身がその私流をずっと気に入っていて、ずっと私流を貫いてきたからで
す。

<水彩画の世間体>
・ 入賞が全て‥という現実
その次に思ったことは、水彩画として横行している一般的な概念・・・これを水彩画の世間体としますと、私が
抱いてきた世間体へのある種の疑念と言いますか、批判的な気持ちが、この個展への反応を通じて確信的
な見方に変わってきたことであります。この際、私流を主張したり人に押し付けたりする気はさらさらないこと
を断っておきます。その上で、多くの水彩の会(或は会派と言った方がいいのでしょうか)では公募展等での
受賞を目標に置き、会場で人目を引く絵、油に負けない押し出しの強い絵、といったところがその眼目となっ
ている現実を、今更ながら指摘しておかねばなりません。こうした水彩画は、不透明水彩を多用し、大きなサ
イズで描き、油に負けじと自己主張を絞り出すような作品を生みがちです。それはつまり、水彩画の持って
いる透明感とか瑞々しさといった特質から逸脱するばかりか、本来その人に備わった絵心からも逸脱して背
伸びをし、不自然な画風に走らせてしまいがちです。現実問題として、そうしたジレンマにはまり込んで自らを
失って悩んでおられる人もいるようです。どこかで自分を振り返り、何を描きたかたかったのか、どう表現し
たかったのか、自らの絵心に虚心坦懐に向き合ってみる必要があるのではないでしょうか。

<固定観念も困りもの>
私がもう一つ感じることは、透明水彩とはこのようにして描くのだといった固定観念についてです。上に書い
たことと一見矛盾するようですが、いわゆる水をたっぷり使って滲みやぼかしを効かせた味わいを極上とす
る伝統的とも言える画風についてです。それはそれで多くの人が好み、或は追求している表現方法ですか
ら、何ら否定するものではないのですが、世の中にはこうした画風こそ透明水彩であるといった固定観念に
固執し過ぎている感もまた否めません。もう7,8年前になるでしょうか、銀座で個展をしたとき、ある御仁がや
ってきて、不透明水彩の多用などに犯されている透明水彩画の現状を嘆き(この点は先述の私見と同じで
す)、透明水彩本来の純粋な技法を是とする会を発足したいので、私に発起人だかメンバーの一人になりま
せんかとの打診をされたことがありました。本来群れるのが余り好きでない私は、しかし一方で水彩画の現
状に疑問を持っていた者として、そのときは検討したいとして即答は避けました。後日その会(日本透明水彩
会)のことをネットで調べ、中心的な人たちの作風を観て第一に感じたことは、夫々の絵が例の伝統的な画
法に拘り、私に言わせれば狭義の世界に留まってこれぞ透明水彩画です、といった発信をしているように思
えたのです。申すまでもなく、これもまた私の意に沿った世界ではないと思い、丁寧なお断りのメールをのち
に入れたという経緯がありました。

<世間体よりも個性を>
以下、私の考えをまとめてみます。
・ 油絵や日本画にもさまざまな技法があるように、水彩画にも様々な表現手法がありますから、これが水
彩画だという固定観念は特に意味をなさないでしょう。一つの作品として、どれだけ観る人を捉えるか、共感
を誘うか・・まさにその点にこそ作品の価値は問われるべきです。であれば、透明水彩でも不透明水彩でも、
或は描くサイズの大小如何によっても、作品としての価値は左右されないと言えます。
・ 入賞を目指して描くのは人に認められる証を得ることであり、自信にもつながりますから、それ自体は否定
されるべきではなく、割り切って臨めばいいことです。ただし一定以上の大きさが必要だとか、油と並べて負
けない絵でなければならないといった半ば強制的な表現方法を以て水彩画の目指すところとするなら、
それは大いなる勘違いと言えるしょう。こうした風潮に縛られている人は、私に言わせれば気の毒で哀れな
存在でしかありません。指導する方も教わる方も・・です。
・ そこで、ここからが大事なのです。絵とは本来楽しんで描くべきものです。「上手く描くことは楽しんで描くこ
とに如かず」。論語ではありませんが、原点に立ち返れば何事も同じです。その上で、"その人なりの"絵心
があり、モチベーションがあり、そして表現技術や手段があるわけです。その人なり”という部分は、言い
換えれば個性です。個性は誰にでも備わっているものでしょうが、ここで言う個性とは、もう少し踏み込んで
絵に投影される個性で、それは感性を磨き、表現能力を高めるにつれて作品の力となっていくものです。外
部からの強制とか了見の狭い固定観念に縛られると、そうした本来の個性の醸成が阻害されると言えるでし
ょう。
・ 私は水彩、それも透明水彩で描くことが好きです。観る人を後ずさりさせるのではなく、観る人を画面に惹
きこむような透明感とか奥深い味わいが私の好むところで、それがまた私の考える絵画の価値にも繋が
るものです。塗り重ねたり、塗り伸ばしたり、水でぼかしたり洗い落としたりといった、足し算引き算が入り混
じって一つの作風、それもかなり幅広い作風が生み出す世界に透明水彩の魅力を感じますし、そういう世界
をこれからも追い求めてゆきたいと考えています。




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