山麓絵画館
○ 今年の秋は・・・(10月13日記)
ここのところ秋らしい澄み切った空が広がる毎日ですが、この季節は確かに天がくなっているようで、気持ちもスッキリするというもので
す。今朝などは冷え込んで5度を悠に下回り、当家では凍結予防の水道栓ヒーターが作動していました。
先日、山麓では間もなく一面の刈田が広がるだろうということを書きましたが、未だ所々刈り入れが終わっていない稲田があって、そこは
黄金色からやや茶がかった色に変わってきています。お米作りをやっている人の話では、今年の出来は病気こそなかったものの、ひび割 れが生じるなど不良であったそうです。雨が少なく、あれだけの暑さだったので、やはり・・という感じではあります。野菜でも毎年一年生と 言われるほどですから、お米作りとなると毎年厳しい受験勉強をクリアーしないとならないというほど大変なのでしょう。そうした悲喜交々に 終わりを告げるかのように、刈田のあちこちに天日干しのはざ架けや藁ボッチが列をなしています。毎年のことながら、本格的な秋への前 触れのような光景です。
先日触れた紅葉のことですが、例年だと9月中には届けられる北海道からのきれいな紅葉便りを見た覚えがなく、一体どうなっているの
かと思っていたそんなとき、東北北部だとか本州も標高の高い山地では、紅葉がもう見頃を迎えているという報道を目にしました。映像で 見る限り、それはかなり見事な紅葉です。それで思い出したのですが、昨年乗鞍高原に行ったのはちょうど今頃のことです。さらに雨飾山 や奥裾花高原に行ったのも10月下旬のことでした。今年は11月早々に個展を控えているせいか、紅葉をチェイスする気持ちが希薄だっ たので、気が付けば紅葉前線が下がり始めていたというわけです。どこか冷めた気分の秋云々だと書きましたが、紅葉の便りはいくつに なっても心騒ぐものです。尤も、この山麓界隈では落葉広葉樹の多い秩父山系でも紅葉が見頃となるのは11月に入ってから。個展が2日 〜12日ですから、終わったら素早く取材やスケッチに行かねばなりません。ただ、この秋は全国的に熊の出没が頻繁におきているようで す。懇意にさせてもらっている夫妻の話では、息子さんが赤岳を目指して登坂中に、サンメドウズ・スキー場の直ぐ上の沢沿いで熊に遭遇 したそうです。今までは余り聞いたことのない出没の場所です。かつて熊は生息していないと言われていた八ヶ岳でもここ何年かは目撃情 報が相次いでいて、この分だと今年はもっと増えそうです。同夫妻の話では先週行った乗鞍高原でも、一ノ瀬園地では連日熊が出没して いるので警戒態勢が取られていたとか。熊の好物のブナの身は何年に一度、大不作に見舞われるとのことですが、猛暑の続いた今年は ブナに限らずミズナラやコナラのドングリも大不作の年となったようです。そういえば、今年は栗の実がかなり早くから落ちていると感じるの ですが、これも不作の表れなのでしょうか。熊に出逢わずに、落ち着いていいスケッチをものにしたいものです。
○ 黄金色の季節(9月28日記)
大地が黄金色のパッチワークに彩られる季節。稲穂はすっかり頭を垂れ、あちこちで刈り入れが進んでいます。彼岸であった先週末は
稲田の至る所、家族総出で稲を束ねては稲架(ハサカケ)をする光景が見られました。最早日本の田園地帯の風物詩と言えるものです。 今年はあれだけの日照りでお米はどうかと思っていたのですが、これまで台風にやられることもなくこの辺りではいい出来のようです。目下 のところ刈り入れは順調に進んでいると思ったら、何やら台風17号が本州に上陸しそうで、この週末は追い込み作業となる模様です。そ して間もなく辺り一面に刈田が広がる頃となると、もういつでも本格化な秋を迎えられるし、気の早い向きにはもういつ霜が降りても大丈 夫、といったある種安堵感のような空気が、この山麓一帯に漂い出します。今年の紅葉はどうなのでしょうか。日照量が多く雨が少なかっ たので、この先冷え込みが続くようだと結構期待が持てるかも知れません。私どもとしては当地で8回目の秋を迎え、自然も文化的風土も いよいよ秋たけなわの賑わいを呈してくるわけですが、かと言ってさほど胸の高まりを覚えるでもなく、どこか達観し、どこか控えめながら の期待感ありで、ウ〜ン我ながら余り可愛気のない心境ではあります。
絵画的に言えば、先ほどの刈り入れ前の黄金色の大地が、今年はいつも以上に目を惹き、現在そうした絵を制作中です。11月の個展
にも出展しようと思っているのですが、その前に当HPにも登場させる予定です(→ 描き上げましたので掲載しました)。今暫くお待ち願いま す。そして、秋たけなわと来れば、紅葉と集落といったモチーフで描いてみたい場所がいくつかありますので、こちらの方も手ぐすね引いて 待っているところです。さほど盛り上がらぬようなことを書きましたが、絵においてのみ、季節の移ろいはいつも活力を与えてくれるものが あります。
○ 今年の"おわら風の盆"(9月4日記)
昨年は9月に個展が控えていたので断念したおわらでしたが、今年は2年振りで行ってきました。と言っても、気力体力とも最早自信喪失
の昨今、八尾滞在は最終日である3日〜4日の朝だけです。何度行っても最初耳にするあのおわら節は心を捉えるものがあります。その 音源がCDであれ、DVDであれ、八尾の町で聞くと心にスーと染み渡ってきます。オーバーな言い方かも知れませんが、これがいいので す。これだけで、その先どうであれ"やって来てよかった"と思うのです。
さて今年のおわら、何年ぶりかで頭2日間が土日となって相当人出が増えたと言います。しかし雨に祟られて、特に1日の雨が凄かった
ようで、お天気ばかりはどうしようもありません。私の行った3日も天気予報では当日近くになると俄に傘マークが増えてどんどん悲観的な ものになってきました。こういう場合、私としてはいつも行き着けている飲み屋さんが救世主となり、そこに行けば店の人たちや顔馴染みの お客とも再会できるので、雨なら腰を落ち着けて・・・という別の楽しみもあるわけです。ところが・・・です。そのお店「かどや」さん、いつもの 通り夕方になってから先ずは訪ねてみたのですが、ナント閉店となっているではありませんか! ちょうど裏側の家に仮設の飲み食いでき るスペースがあったので取りあえずはそこに陣取ってビールでもと入っていくと、そこには既に友人仲間が。店主らしき人の話では、かどや の名物お婆ちゃん(もう90歳代後半で、お子さんやお孫さんたちと店を切り盛りしていた)が今年2月にベッドから落ちて入院し、そのまま 退院できずに店も仕舞うことになったとか。ウ〜ン、ここの店の壁には私のおわらの絵ハガキが10数枚貼ってあって、私も訪れる度に新 作を補充していたのでした。閉店は何とも寂しい限りですが仕方ありません。私らは毎年一度訪れるのはおわらのときだけです。八尾の町 自体、私たちはこのおわらのときだけやってきて、終わればそれっきりで去っていく通りすがりの旅人のようなものです。そう考えれば、年 中この町に暮らし、人生を送る町の人々とは、ほんの一瞬触れ合ってきただけでした。ですから、これまで高齢ながらずっと店を続けてき てくれただけで感謝せねばなりません。
さてそのおわらです。私が行った3日の日はお昼のおわらは一切なし、夜のとばりが下りた7時から各町内で一斉に始まります。交通規
制がかかる夕方までに八尾に入り、いつも駐車しているスポーツ公園広場脇に行ってみると、そこはもう満杯。漸くクルマ一台が入れられ るスペースを発見し、何度も切り返してそこに治まることに成功、取りあえずはそこに一夜の宿を確保したわけです。八尾の町中ではここ 何年か年とともに駐車規制も厳しくなり、かつて直ぐ傍にあった仮設トイレだとか洗面台などもずっと数が減ってなおかつ遠くに設置される ようになってきました。広場の中心にあった特設のステージもなくなっています。これらもまた仕方のないことで、なるべくバスか列車で、ク ルマで来るなら町からかなり離れた所定の駐車場へどうぞ、というわけです。そこからはシャトルバスのサービスもあるのですが、これが夜 の11時に終わってしまうのが玉に瑕、歩けば約1時間、タクシーで数千円かかるので、勝手裏を知った私などはこうして町の中にベースを 確保してからおわらに繰り出すという寸法です。混雑を緩和し、後々の掃除の整理の手間も少なくし、そしてなるべくスッキリとおわらを運 びたいという町の意向が伺えます。元はといえばおわらは観光のための行事ではありませんでした。自分たちだけで楽しむおわら・・これ が原点にあったわけです。そこに時代の波が押し寄せて、見せるおわら、観てもらうおわらもまた大事な要素となってきました。そしてlこの 両者のせめぎ合いの上で、おわらを敢行し、必要なサービスと規制を施してきたと言えます。もう十年以上も通い続けたおわらですから、 私なりにそうした時代の流れも感じます。そしておわらの実演を観ていて感じることの一つが、年々踊り手の数が減ってきたという事実で す。各町内の流しや輪踊りを演じる踊り手が少ないのはやはり観ていても寂しいものです。その一方で名手と言われた三味線や鼓弓、そ れに歌い手といった地方の人たちの老齢化という問題もあるようです。長い目で見れば、おわらがおわらとして存続していくための必要な 策を、考えていかなければならなくなった現実の一端が、一番感じ取れたのも今回のおわらでした。今回、3日間の人出は26万人でこれ はかなり多い方と言えます。最大の理由は初日、二日目と週末が重なったためで、月曜となった最終日は5万人だったとか。私の行ったそ の最終日の夜などは、幸い雨にも降られず、いつもより空いていたのでゆっくりとおわらを鑑賞できました。
それにしても、年々おわらを体験することがしんどくなっています。もう徹夜で朝までとはとても行かなくなり、今回も日にちが替わって4日
となると2時過ぎまでが限界、その後はクルマの宿に戻って爆睡状態となってしまいました。ダメですね〜、こんなことでは。写真を2点、ご 披露します。左が上新町、右が天満町のおわらです。
○ 9月1日(9月1日記)
9月と聞けば世間では下半期突入。秋は直ぐそこまできているという時節ですが、日本全国相変わらず残暑が厳しいようです。それで
も、昨夕から夜にかけての一降りは、久しぶりに大地を潤してホッとした気分をもたらしてくれました。そして今日も、室内がやや蒸し暑かっ たので窓を開けると、ナント、爽やか空気が一瞬のうちに部屋の中を満たしてくれました。ここ数日来、ひと頃よりも日陰が少し長くなりつつ あるのが目立つようになってきましたし、明らかにこれまでとは違った大気が漂い始めたようです。見上げる空にもひと頃は毎日のように 盛り上がっていた積乱雲が見当たらす、替わって輪郭が切れ切れとなった雲の集団が風に運ばれて流れています。漸く・・という想いは、 ここ八ヶ岳の高原にいても湧いてきます。"高原にいても"と書きましたが、“高原だから”一足早く秋の気配がやってきたと書くべきでした。 よく見れば、我が家のジューンベリーの木も、所々黄色くなった葉が散見されます。尤もこの木は深い赤に染まるので、まだその序章とは 言えないようですが、その奥のススキの穂も目立つようになってきています。当地では、もう一週間ほど前から小・中学校では新学期が始 まっています。稲穂も大分色づいてきました。間もなく黄金色になると秋は確実にその歩調を早め、里では刈り入れが始まります。日めくり カレンダーのように収穫の秋が進んでいくことでしょう。そう言えば、先日知人が送ってきてくれたピオーレという種なしブドウの何と瑞々しく 美味しかったことか!この夏はこれだけ太陽の恵みを受けたのだから、不味かろうはずはないのですが。果物王国の山梨、面目躍如と言 った処です。
そしてもうひと月もすれば、秋の催し物が次々と始まります。私どもも所属している倶楽部の文化祭だとか、知人の参加する作品展示会
とか、私自身も11月初めからの個展に向けた案内状の発送とか、畑仲間での収穫祭といったごく個人的な催しも控えています。画集の第 2弾の企画も始めなければなりません。実は、このHPにまだアップしていない秋の絵も何点か描き上げています。個展や画集用に描いた もので、季節がきたら掲載していく積もりです(結構律儀なのです、この辺は)。そして、そうこうしているうちにその先の長い冬が・・・・まあ 今はそこまで触れないでおきましょう。いい秋にしたいものだと、早くも残暑を忘れたような気の早いFノートでした。
○ 音楽は鳴っているか(8月16日記)
こんなタイトルで書き始めたいと思います。暦の上では立秋が過ぎましたが、まだ長い残暑が続くのは例年の習いです。しかし当地では、
耳を澄ますと夜のとばりの向こうから虫の音が聞こえてきます。そういえば夕方はカナカナがしきりと鳴いていました。我が家の周辺は東 側が茅の原で開けていて、その向こう側から下(南)の方にかけて、森が続いています。こう書くと大自然の中のように聞こえるでしょうが、 南前は別荘、西隣と裏側(北側)は定住者の住居が建っています。つまり、生活の息遣いが適度にあるという一帯で、家々の奥には森が あって、その林縁が空との境をなしています。このFノートで何度か書きましたが、こうした場所を住処として多くの野鳥がいるのですが、夏 場は山の上や北の方に渡っているようで余り姿を見せません。森の中からは時々キジも出没しますし、四つ足の獣もこの森をつたってか なり下の方まで移動しているようです。昨夜はキツネが森から茅の原に向かって歩いているのを目撃しました。秋から冬にかけては鹿がや はりこの森を通路として山から下ってきます。人里に食料を求めてのことで、今のところまだ山にはふんだんに食料があるようです。
さて、 すだく虫の音に話を戻しますと、虫の音に風情を感じるのはどうも日本人に特有のことだと聞きます。例えばあの広いアメリカの
大地では、虫の方も相当大きな音量でないと雌の耳に届かないというわけで、虫の発する音圧レベルがそもそも違うのだそうです。だから 虫の音は雑音で、風情どころではないのです。そう言えば、鹿(しし)おどしとか風鈴とか、静寂と音の醸し出す雰囲気に風情をそそられる のもまた、日本人に独特の感性と言えるでしょう。こうした心地よさを生み出す音の仕掛けは、まさしく文化であり、もう音楽と言ってもいい ものだと思います。かなりはしょった物言いをしますと、大陸にはない箱庭的な自然というか、人と自然の距離感が、日本人に独特の心地 よさを編み出してきたと言えそうです。改めて島国であり単一民族である我々日本人に育まれたDNAを感じざるを得ません。
こんな感想を新たにしたのは、つい最近終わったばかりのあのオリンピックでした。その開会式とか閉会式をTVで観ていて、何とまあ彼
ら(西欧人のことですが)は音楽が好きなんだろう、改めてそう感じたのは私だけではないと思います。音楽が・・と言うよりも歌が好き・・と 言った方が適切でしょうか。あれだけ次から次へと繰り出される歌の数々、ミュージシャンの数々、そしてそこにはビートルズもそうですが、 往時のヒットナンバーを今でも慕い愛し続けている彼らの民族性が見て取れます。ちょっと難しいことを言いますと、言葉を発することによ って自己表現をし、意志を通わせる西欧の国ならではの文化的土壌がそこにあります。歌の国ならではのそうした光景は、鹿おどしや風 鈴のDNAが流れる私などには、途中で辟易をとして疲れを感じるほどでした。同じような感想は、王室の結婚式とか何かの記念式典や追 悼記念式典などを観ていても覚えるものです。ここには賛美歌が多く混じってくるわけですが、考えてみれば、キリスト教自体が信心と歌と の欠かせない繋がりを持った宗教でした。
少し絵のことに触れます。西欧において宗教絵画からの脱却を象徴する印象派の絵は、屋外に出でて光と影を追求した絵画でした。風
景画なるものが台頭してきたわけですが、そのモチーフの大半は人と人の織りなす景観であったと言えるでしょうか。例えばアルプスの峰 峰だとか、北欧のフィヨルドだとか、自然を描いた作品が余り見当たらないということは、私がかねがね抱いていた不思議でした。活動の 環境からしてそうした自然溢れる場所に行ける交通手段とか道路が整っていなかった時代のことです。その辺を割り引いて考えないわけ でもありませんが、しかしその前に、どうも彼らの活動舞台周辺の自然というものは、案外と平坦で変化の乏しいものであったことも看過で きない要因であったと思われてなりません。日本では身近な変化に富んだ山河、入り組んだ海岸線とは少なからず趣を異にした大味な大 地が彼らを取り巻いていました。変化とか多様性に欠ける分、彼らは色やタッチの変化を画面に持ち込んで、それが表現の多様性に繋が っていったのではないか・・・穿った見方かも知れませんが、あながち的外れではなかろうと私などは思ったりするのです。そして何と言って も、印象派の画家たちを取り巻いていたのは、長い歴史の中で築かれてきた景観、人間の営みが文化として集積された景観でした。その 中で空気を吸って生きてきた彼らが、そこに絵のモチーフを求めたのは、ごく自然な成り行きであったと言えるでしょう。その点日本ではど うでしょうか。繰り返すようですが、ここが言いたかったポイントで、この島国は多様な自然環境に充ち満ちています。山や谷や流れ、植生 にしても実に多様です。その中で人が係わって残してきた景観もまた多様だと言えます。先ほど書いた島国ならではのほどよい人と自然 の距離感にしても、繊細な風土を創りだしてきた理由の一つだと言えるでしょう。多様で繊細・・・こういう点が、日本の風景のキーワードと 言えます。我々はそこで育ち、呼吸をしてきたわけですから、同じキーワードが、日本の風景画からも引き出せるのではないか。むしろ、そ こを感じ取れる絵が、日本の風景画の美質でなければならない・・そんな思いに私は駆られたりします。とはいえ・・これは批評家的な蘊蓄 のようなもので、私が常にそのことを意識して描いているわけではなし、私の絵がそんな美質を備えているという気はなおさらありません。
長くなりましたが、以上が今回のタイトルと絵画に関連した私の勝手気ままな雑感でした。残暑厳しい中での退屈しのぎになってもらえた
ら、大いに多とすべきです。
これを書き終える翌17日には、雨音が心地よく聞こえています。久しぶりの雨に伴ってクールダウンした大気が気持ちよく、夕方には気
温が20度まで下がりました。この雨音もまた音楽?と思いつつ、そうか"雨だれ"というショパンの曲もありましたし、雨を歌ったポップス系 の歌もたくさんあるので、雨音と音楽の関係は万国共通なものかも知れないと思うのでした。尤も、一度降り出すとゲリラ豪雨となる昨今の 雨はその限りではありませんが。
○ 暑中お見舞い申し上げます、当方まる7年です。(7月27日記)
久しぶりのFノートです。"夏ですね〜"などと今さら何をという話ですが、私ども夫婦が八ヶ岳山麓に越してきてからちょうどまる7年となり
ました。それは7年前の7月28日、いろいろなしがらみやら未練やらを吹っ切って、夏の盛りに私どもはこの山麓にやってきたのでした。 家が建つまでの仮住まい先に当座の荷物を運び込み、ここが最後の青山かと様々な感慨を胸に、当面は環境の変化と生活の周辺を整 える忙しさに心身を紛らわせての毎日が始まりました。希望に満ちた船出とは違って、ある種開き直っての再スタートといった心境で、もう この点に分け入ることは避けますが、それはいろいろあったわけでした。その一方で、取りあえずはあの都会の息苦しい暑さからは開放さ れたという安堵の思いもありました。ですから、夏が来たという思いは、指折り数えて何年という、私らの身の上に過ぎた年月といつも重な ってくるわけです。
さて、Now and Then のイマの方に話を戻します。一月ほど前に"今年も半分が過ぎた"と思ったばかりでしたが、もう夏の盛りです。 "夏
が来れば"・・・とくれば、 ♪夏が来れば思い出す 遙かな尾瀬 遠い空・・・ この中田喜直の「夏の思い出」がオウム返しのように口をつ く人は、私と同世代の方か或いはちょっと前後した近い世代の方ということになるでしょうか。この歌が世に出てきたのは1949年と言いま す。"歌は世に連れ、世は歌に連れ"とこれまた余り聞かなくなったフレーズですが、PCも携帯もなくメディアも未発達であった当時、この歌 と世が連れ合った時間は現在のスピード感覚からすれば想像を超えて長かったわけで、それだけに私らを含む世代では尾瀬と言えば夏 というイメージが定着してきたのだと思います。しかしどうでしょうか?いまはこの歌を聞いたことがない、知らないという人の方が多いのか も知れず、つまりはまあ、世間というものは、私のような古希のオッサンには思いもつかぬほど変わってきているのかも知れません。オッ と、また脱線していきそうですので元の八ヶ岳山麓の夏に話を戻さねばなりません。
今週に入ってから、人出が俄に増えてきました。世間は夏休み突入ですから、人とクルマがどっと当地にシフトしてきているのはいつもの
ことです。いつも以上に店に人が群がり、いつもはスムースに通過できる交差点も何台かクルマをやり過ごしたりしなければなりません。普 段は意識することがないのですが、こうなってくるとやはりここは観光地であり、私たちはその中で日常を送っているのだということに気付 かされます。これからお盆にかけて、こういう状況はますます顕著になってゆくことになります。
私の住む標高千bの辺りでも、梅雨が明けて台風がいくつか通過するといよいよ夏本番の暑さと向き合うことになります。強烈な日射し
の下、半袖姿でスケッチでもしようものなら、忽ち腕が真っ赤に焼けただれます。画用紙の白が目に刺さるようで、日向で描くのは至難の 業です。しかしそこは高原でのこと、日陰に入ればそれなりに涼しいのですが、描きたい風景と描く歩しション取りがそのようにうまく行くと は限りません。むしろそれは希なことですから、必然的に野外でのスケッチの機会は減ります。私の水彩教室も9月まではお休みです。暑 いだけでなく、木々は憎々しいほどに緑が増して風景が単調になりますから、描く面白味にも欠けてきます。木と言えば、私の家の庭など は手の施しようもないくらい生い茂って、段々地面に日が差し込まないようになってしまいました。7年前に植えた手を伸ばした辺りの高さ だった何本かの苗が、いまは屋根の高さに十分届きさらにはその上に突き抜けるほど生長してしまったのです。木も草もその旺盛な生命 力とは大したものです。さて今日も真夏日で、少し開けた場所に出ると、遠く甲府盆地辺りの上空は積乱雲がいくつもの山をなすように立 ち上がっています。秩父連山の上空では、次々と新しい積乱雲が発達して盛り上がり、上空にもう一つの白い山並をつくっているかのよう です。強烈な夏の日射しの下では、ものの陰がより濃くなって風景がコントラストを増してゆきます。密集した木々が日射しを遮る林などで は、木陰がその暗さと広がりを増して、こういう点もまた絵のモチーフとしてはますます無愛想となっていく所以です。とはいえ・・・、ここはみ んなが避暑にやって来る観光地です。私としても言い訳ばかりしないで、何か夏らしい絵を描かねばなりません。オリンピックでTVを見る 時間も増えることだし、そうこうするうちに直ぐお盆を迎え、気が付けば秋の気配が漂っているということになりかねません。夏の思い出を 歌った歌はたくさんありますが、"秋がくれば思い出す"という歌は特段浮かんできません。今さら良い思い出作りなどといった年格好でもな いので、せめて夏らしいいい絵でも残せれば思っています。
○ 今年の春アレコレ(5月25日記)
・ サクラgone ・・・
つまり、サクラは行ってしまったというほどの意味で、もう一月前の話です。私の普段の行動領域である標高千b内外でのことで、桜前線
が漸くこの辺りまで上がってきたと思っていたら、初夏を思わせる気温となったり、一転寒い風雨の日々がきたり、こうした天候不順もあっ て、ゆっくりと満開の風情を楽しむ間もなく、気が付けば既に散り始めているという案配でした。一体に今年は寒かったので開花が遅れた のですが、漸く咲きほころびたと思ったら、開花の遅れを取り戻すかのように満開の期間をグッと短縮させて辻褄を合わせたという感じな のです。昨年のサクラとの出会いが強烈であった分、今年はごくあっさりと通り過ぎていった感が否めません。
・ 風薫るべき5月は暑かったり、寒かったり
まさしく風薫る5月は、山麓でも一番輝きを放つ季節です。その5月も、今年は気候変動が大きかったようで、季節は一月かそれ以上も
先行したり逆戻りしたりで、どこか変な様子のまま終わってしまいそうです。むろん輝く新緑と残雪の山々、水を張った田圃などの織りなす 春の風景にうっとりする日もありましたが、それが長続きしなかったという印象が強いのです。尤もこうした春らしい日々が年々少なくなって 行く傾向は、このところずっと続いているのですが、それを惜しむ気持ちがこれも年々大きくなっていくのは、やはり年のせいもあってのこと でしょうか。ウ〜ン、言いたかないのですが私も5月初め、ついに古希となった次第ですから、これも仕方ないことではあります。まあしか し・・・と今度は自らを慰めてもいるのですが、古希といっても今や古来希なことではなくなっているわけで、つまり、そこら中にうようよいる 年代ということではあります。
先ほどのサクラといい、春を恨めしく唱えておきながら、実はこの季節、私は自らを忙しく追い込んで落ち着きを欠いた日々を送っていた
のでした。集まりに参加すべく上京したり、増設した教室等の機会に追われたり、伊豆くんだりまで遠征したりで、要するに私自身が春をじ っくり満喫できる余裕とか気分を持ち合わせていなかったという反省もあるのです。だから何をかいわんや・・・ちょっと不順な季節の進行と 年回り故のあれもこれもといった短兵急なところが相俟って、春への恨み節を増幅させていたことに改めて気付かされるのでした。
・ 伊那
これもまた春を忙しないものにしている一要因なのですが、ここ20数年間、春には一度伊那へという習慣が続いていて、今年もまた出か
けました。と言っても、我が家から伊那は入笠山のある山塊をひとつ越えたその先なので、大袈裟に言うほどのことではないのですが、し かし誘うべき人を誘い、現地で会うべき人と会い、宿も確保し・・・ということになると、身一つで気軽に出かけるのとは自ずと違った行事め いたものになってくるわけです。かつては伊那の山中一角には一帯の別荘地を所有する人たちのための山荘施設があり、私の親が昔購 入して姉がその名義を引き継いだ名ばかりの別荘地がある関係上、毎年その施設を利用させてもらって大いに楽しんできたものでした。 しかしその山荘も、周辺が別荘地としての体を失った感のある現在はある個人の手に渡り、私らも当然利用できなくなって数年が経ってい ます。従って都度宿をとる必要があるのですが、にもかかわらず伊那行きは続いています。中央アルプスと南アルプスに挟まれた伊那谷 は、谷と言うよりも悠揚迫らざる広がりを持った盆地と言うべきところです。その最低部に天竜川が流れ、東西の天空には雪の峰々が浮 かんでいるといった面持ちで、私のいる八ヶ岳山麓とも似た地勢であるのにどこか違っている、どこかのんびり感が漂っている、だから空 気の味も違う・・・という感想をいつも抱く所です。そんな伊那行きの最大の動機は山菜。コシアブラ、ウコギ、フタバハギ、タランボ、ウル イ、アサツキなどなどなど、伊那で採れる山菜はふんだんにあってこれがとても旨いのです。土地の人に手ほどきを受け、毎春連休の前後 に訪れては山野を歩き回って採取し、その日に山荘で美味しく食し、したがって酒も美味しく進み、かけがえのない春を満喫してきたのでし た。
・土地の味、店の味
その山菜が旨いのはそれこそ土地柄でしょうか、例えば伊那から持ち帰ったコシアブラの小さな株は今や我が家の庭で4bほど生長し
ましたが、この新芽を採って食しても香りが殆どしない、同様にフキノトウも今や我が家の庭にはびこるようになりましたが、これがまた香り 一つしない、と言った案配で、これは土のせいだと私は勝手に決め込んでいます。
味ついでにもう一つ、昨年食べて美味しかった店に入ると全然期待外れだったというよくある話です。昨年は舌鼓をした杖突峠の蕎麦
屋、今年も入ってみると何かメニューが違う、出てきた料理の味も全然違うで、店名も店内も同じなのに、まるで別物です。帰りしなに厨房 を覗くと"いやこの人ではなかった"という人が働いていて、のちに経営が変わったという話を聞いて納得した次第でした。店の味について もうひとつ、今度は駒ヶ根IC近くでお蕎麦とソースかつ丼を出す店のことです。こちらは店名が変わっていたものの、若い店主夫妻は同じ で味も感じもいい店です。蕎麦屋らしく醤油とだしの利いたソースかつ丼は、昨年食べたその味が忘れられずに伊那から遠征して食べに いったのです。そのソースかつ丼、美味しいには美味しいのですが、覚えている味よりもちょっと甘みとジューシーさに欠けるといった印象 でした。味の記憶とは不明瞭なようでしかしあながち見当外れというものでもなく、食べたときの体調とか腹の空き具合で微妙に異なる面も 無視できないとしても、案外と確かなところがあるもので、ですからその店の味が変わったと言う印象は、的外れではないと思うのです。恐 ろしいと言われる食べ物の恨みと常に隣り合わせの世界、たかが店の味では済まされない大変な世界だと改めて思うのでした。
話はころっと変わりますが、駒ヶ根で時間つぶしのために訪れた光前寺と いう天台宗のお寺は、その佇まいといい年輪を重ねた杉の古
木といい、素晴らしい古刹でした。ここは、光苔とか霊犬伝説、さらにはしだれ桜で有名なようですが、紅葉もさぞかし綺麗だろうと思わせ ますし、何と言っても国の重要文化財に指定されているという実に深閑として精霊な空気を漂わせた境内全体がとても魅力的でした。また 行ってみたい、そう思わせるお寺などそうそうはないものですが、是非また行ってみたくなった光前寺でした。
○ サクラ前線急浮上(4月26日記)
我が山麓も桜の前線が迫り上がってきて、漸く私が住んでいる千b辺りに届いたところです。24,25日と暖かい日が続くと、開花は一
気に進んだようで、私のように日がなチェックをしていても、このスピードには驚きを禁じません。例年よりも数日遅い開花〜満開のカレン ダーでしたが、貯まった遅れを一気に挽回せんとするような勢いを感じます。それと、今年は余り見かけていなかったコブシも、ここのとこ ろサクラと歩調を合わせるように咲き出し、あちこちで見かけるようになりました。とはいえ、やはり今年はコブシの不作年、開花のタイミン グが遅かっただけではなく、花付もかなり貧相な感じです。以前予想したように、現在はサクラとコブシ、それにこれもやはり咲き遅れた感 のあるウメが、同時に咲きほころんでいる八ヶ岳山麓です。この分だと、千bより高い所や、西北に隣接する富士見町や原村にかけて は、GW入りしてからがサクラの見頃となりそうです。
昨日は友人に誘われて花見をしてきました。場所は、長坂駅から少し南東に行った所にある農業大学校の境内、直ぐそばを中央線が走
っています。きっと車内から我々を見ては羨ましく思っているに違いない・・とそのように勝手に想像するだけで、楽しさが増します。この辺 りは標高700bちょいと言った所で、サクラは散り始めていていました。少し風が吹くと文字通り花吹雪、お酒やつまみの上にも花びらが ほろほろと散り落ちてきて風情満点!車座をなすのは風情とはやや相容れない、酒飲み男4人でしたが、それでも「どうだい、この風 情!」を連発して悦に入るのでした。サクラといえば、昨年の今頃はサクラの開花に生命観を吹き込まれたように感じ、これが私自身の震 災後の体調不良から立ち直るきっかけとなってくれました。それが1年経つと、この花見を楽しんでいる私がいるわけで、何とも現金といえ ばそれまで、返す言葉もありません。
"願わくば、花の下にて春死なん・・・" 西行法師の心境が、このときばかりは身に染みるのでした。
明けてこれを書いている26日は朝から雨。止んでも靄がかかって昨日とはうってかわって季節が戻った感じです。でも、サクラの季節に
なると、何日かはこのような天候に見舞われるのが常で、その度に気をもむことの多い春先のことです。
○ 海を求めて西伊豆へ(4月14日記)
一度海を描いておきたい、それもこちらで桜が開花する前に、という思いが強くありました。晴れ間の続きそうな2日間を選んで以前泊ま
ったことのある松崎の宿を急遽予約、女房を連れて出かけました。描きたいイメージとしてあったのは、鄙びた漁村とのどかな春の海の光 景です。往きは甲府南から精進湖に抜け、朝霧高原を通って富士宮、沼津を経由する富士山の西側ルートをとったのですが、やっぱり伊 豆は八ヶ岳山麓からは近いようで遠い所です。特に沼津から伊豆半島に入り込む辺りの混雑地帯を抜けなければ辿り着けないという、こ れは一つの心理的な壁と言っていい要因があるせいもあります。沼津の市場でで昼食をとってのち、念願の海縁に出ると待望久しい海の 青と輝きが迎えてくれました。そして、想像以上だったのは、低山の山肌がヤマザクラと芽吹きの木々が入り交じって、春めいた柔らかさと 美しさを見せてくれたことです。日頃残雪の山とまだ冬枯れの残った森を目にしている私には、この温もりのある低山の風景もまた新鮮に 映ります。道中至る所でクルマを止め、シャッターを切りまくりました。この海岸線を下って松崎までには、途中、戸田や土肥を通過し、地 図上で目を付けておいた2,3の漁港もあります。先は長そうですから、ここぞという場所で腰を落ち着けてスケッチをすることができませ ん。大瀬崎を回り込んで南下すると、つづら折れの道が続き、いくつもの峠を上り下りし、岬を回りこみ、ときに海原を俯瞰しながら進みま す。海はいよいよ伊豆らしいエメラルドグリーンを流し込んだような色になってきました。
とまあこの辺りまでは良かったのですが、土肥温泉を過ぎてから立ち寄った宇久須、安良里、田子といった海岸や漁港にどこか違和感
を覚え始めました。ちょっと風情を欠いてピンと来ないのです。訪れる人の多い伊豆のことだから鄙びた感じを求めるのは無理として、海 辺に出てみるとその決定的な理由が分かってきました。どこも海岸線はコンクリートの防潮堤が張り巡らされていて、かつて海を望んでい た家並みと道路は、高さ数bの分厚い壁の陰で遮断された状態となっているのです。そこには、海と家並みの同居するかつての漁村の光 景が存在していません。そればかりか、一種自由を奪われた施設の中・・・といった感じさえ否めません。これは、明くる日松崎からさらに 南下していくつかの漁港のありそうな場所に下りてみて、どこも皆同じ状況にあることが分かりました。それで改めて気付かされたですが、 ここは静岡県の伊豆、東海地震による津波への備えがかなり厳重な土地柄で、集落のある海岸線のコンクリートによる護岸工事もかなり 早くから進められていたわけです。もちろん、住民や行政にしてみれば、風景だとか、旅人の風情などと言っていられる場合ではありませ ん。しかしその一方で、こうして目にしている光景は、あの3.11以降、半分意味のないものになりかわっている・・・そんな矛盾を孕んだ光 景でもあるのでした。西海岸の最後に立ち寄った妻良港は、二重の防波堤に囲まれて、その内側はコンクリートの埋め立てヤードが広が り、かつての面影がすっかり消えていました。最早、伊豆に思い描いたような光景を求めるべくもないと、知らされる思いでした。ただ、深い 蒼を湛えた海はかつてと変わりありません。そこに岬や崖をなして落ち込む陸の様相も伊豆ならではのものです。防潮堤の所々にあるゲ ートの外に出てみれば、そこには漁船や漁具が漁師の生活感を醸し出している波止場の風景がありました。家屋の屋根瓦の色にしてもそ うなのですが、漁船の意匠などもどことなく明るい色調で派手めです。明暗こもごも彩りに満ちた南国伊豆2日間でした。結局の処、スケッ チをしたのは一点だけ(→ 山麓絵画館)。漁船の停泊している様は面白い絵柄で、これから何点か絵にしてみたいと思っています。
余談ですが、復路にとった下田〜天城峠〜修善寺〜伊豆スカイライン〜芦ノ湖スカイライン〜御殿場〜河口湖〜甲府の道のりは、変化
に富んでしかし長〜い道のりでした。途中の御殿場界隈では渋滞に巻き込まれたりして、やっぱりこれが伊豆と山麓を実際の距離以上に 遠く感じさせている要因かと思いました。結局のところ富士を挟んで西を行っても東を行っても伊豆への往来は普段山麓生活では経験す ることのない混雑という壁を越えねばならず、これが心理的に伊豆を遠く感じさせる犯人と言えそうです。最後は雨も降り出し、日も陰って 薄暗くなった頃、漸く中央道に乗って八ヶ岳山麓に帰り着きました。もう一つ余談。私らの帰った翌日が第2東名の開通日に当たる日でし た。この新東名道も渋滞緩和のみならず、災害時のインフラ確保が大きな目的となっているものです。大災害への備えが、日本の風景を 変え始めていると言えるのかも知れません。
○ 山麓の動植物事情(4月2日記)
今年の冬は寒く、長かった・・・誰もが抱く感想だと思います。さすがに、もう4月という段になって、日中はぽかぽか陽気となる日も出てき
ました。大気も霞む日が多くなって、あの残雪の山々も薄いカーテンの向こう側に佇むようになってきています。"梅は咲いたか、桜はまだ かいな♪" と歌いたいところですが、その梅も山麓界隈では漸くほころびて、目につくようになったばかりです。当県では甲府の開花が1 日、見頃となるのは次の週末辺りと予想されていますので、私のいる千b付近だと、それより十日ほど遅れるでしょうか。
今年は野鳥の飛来が随分と減ったように思えます。数そのものものもさることながら、やってくる種類も少ないのです。それは、よく餌
のヒマワリの種を買う店の主人も言っていました。ヒマワリの種の売れ行きが昨年よりずっと落ちたと言うのです。今冬一度も目にしていな い鳥がシメやホオジロ。昨年は団体でやってきてはうるさいほどだったイカルも、一度つがいが飛んできたのを見ただけです。アトリを見た のも数えるほど。こういう状態ですから、我が家の餌台もカワラヒワとシジュウカラ、そして木に吊る下げた油粕のような餌にはエナガが、 ほぼ独占状態となっています。
野鳥の飛来が減ったひとつの理由として、この界隈の市有林や町有林の伐採が挙げられそうです。相当規模で行われているこの伐
採、松や杉の植樹林では、数十年おきに更新しているのですが、昨年あたりからこの更新期がやってきているらしく、あちこちで伐採が進 んでいるわけです。最初はすわ不動産開発か、と警戒したのですが、根こそぎ抜いているわけではないので、そのうち計画的な伐採である ことが分かりました。伐採のあとは広葉樹も交えた林にすればいいのに・・・と誰もが思うのですが、同じ針葉樹林としての再生を促していく のだそうです。それは、地表に顔を出している実生が伐採後に日当たりを得てほっておいても育つからで、それを選別してゆけばいいだけ の話となるからです。なるほどこれなら植林の手間とコストがかからないというわけで、ウ〜ン、半分納得せざるを得ない話です。それで も、自然環境と観光都市を標榜する北杜市ですから、針葉樹林を混交林に変えてゆけば、それだけ観光資源となって山麓の魅力が増す はずなのに・・・。植林のコストという問題もあるのでしょうが、趣旨に賛同してくれればボランティアも大勢集まるだろうに・・・。私などはつい そう考えてしまいます。野鳥飛来の現象と林の伐採はおそらく因果関係があるのでしょうが、私の住む地区の長老に聞くと、そもそもこの 辺には高い木や林などなく、低い灌木と草地ばかりで、従って見通しが良くて眺めもずっと良かったそうです。それは八ヶ岳山麓での別荘 地開拓や移住の始まる以前、つまり3,40年以前の話で、今私が書いた林や高い木々にしても、全て人が植えてこうなってきたということ です。そう言えば、広大な八ヶ岳山麓をぐるっと取り巻いているカラマツ林にしても、自然林でこれだけの単独種の群生はないわけで、やは り植林から始まって現在の姿があるわけです。
この話とどう関係してくるのか、一方で、山麓のそれも人が居住する一帯での鹿の出現がかなり増えているのは、昨日今日の話ではあ
りません。先日の夕方も当家の直ぐ下にある草地で、はじめは何か枯れ草のロールでも置いてあるのかと思ったら、何と地面を突っつい ている風の十頭の鹿の群でした。その草地の一端には野菜畑や飼料用トウモロコシの畑があるのですが、もちろん今は種も蒔かれていな いし、収穫した残りが置いてあるわけでもありません。草の芽でも食べていたのか、私が歩いてその草地の方に近づくと、一頭また一頭と 私を避けるように傍の森の方に移動を始め、最後は早足で林の中に姿を消してゆきました。夕闇迫る中、白いお尻の部分だけが目立っ て、それが一斉に森に向かって動いている様は、一種提灯が揺れ動いて移動しているような感じです。一瞬、キツネの嫁入りの光景を垣 間見る思いでもありました。因みに、この場所で鹿を見かけるのは二度目ですが、こんな群がいるところを目撃するのは初めてです。もっ と早くから気付いていれば、カメラを持ち出して撮影できたところです。 とまあ、こんな悠長なことを言っている場合ではありません。鹿の 出現する範囲が下へ下へと年々広がってきているのです。鹿は畑を荒らすという食害の面で有害動物と言えるのですが、元々は彼らの世 界に人間様が進出してきたのですから、悪者扱いは肩身の狭いところもあります。その鹿の出現、標高1200b前後を走るいわゆる八巻 道路は、冬ともなれば鹿が大手を振って行動している一帯として知られていましたが、その道路を使ってクルマ通勤をしている友人によれ ば、山に餌のなくなる冬期はもちろんのこと、最近は冬場以外でも大きな群が出没するのだそうです。この一帯はまた、かつて別荘地開発 が盛んで、広大な別荘郡が林の陰に隠れています。それが世代交代で別荘に訪れる人も少なくなり、広範囲で無人化の状況を来している ことも無縁ではないでしょう。かつては、小海線より下にはなかなか下りてこないと言われていたのですが、昨今はこんなことに全く関係な く、ときに中央線を超えて下りてきているようです。中央線の下をさらに南下していくと、今度は南側の七里岩沿いの森に生息する動物が 頻繁に出てくるようになります。私らの畑のある一帯はこの七里岩沿いの森に近く、そこでは鹿よりも猿やイノシシの出没が深刻な食害と なっています。
そもそも、鹿は旺盛な繁殖力で知られている動物で、食物連鎖の上部にあたる動物もこの山麓にはいないはずです。それに、本来の生
息域である山麓の高い所の森で最近開発が進んでいるという話も特に聞こえていませんので、彼らは自ら増えすぎた結果、恒久的な餌不 足を招いている事態だと言えそうです。それに、忘れてならないのは、ここのところ駆除する側の老齢化と人手不足という深刻な問題も手 伝っているという事実です。対策に手を焼いているのは、ここ八ヶ岳山麓に限らず、県下山間部の大きな問題となっています。人と自然と の共生という問題は、私らのように農業を生活の糧としているわけではなく、自然に近づきたいがために移住した輩にとって、軽々に論じら れない問題ではありますが、日々状況を目の当たりにして、改めてこの問題の根深さを思い知らされるのでした。
○ 野焼き(2月6日記)
既に今年も36/365日が過ぎ去り、立春を迎えてなお春近しの気配はありません。そんな寒さの僅かに緩んだ昨日、所用でクルマを走
らせると、谷戸という開けた所でいつもの甲斐駒風景に目をやると、眼下の畑地のあちこちから煙が立ち上っています。かなり広がる視野 の中、結構広い面積からその煙は立ち上っているのです。薫炭(籾殻を蒸して作る肥料)作りにしてはこんな時期だったか?畑の冬仕舞 いで残骸を燃やすのは12月だし、この時期、そんな光景を見ていたような気もするのですが、それが何であるのか余り気に留めていませ んでした。所用を済ませた帰り道に、その正体を見極めんと煙の多い一画に近づくと、煙が県道にまで立ちこめてよけて通らねばならない ほどです。道ばたの土手からは赤い炎がチロチロと斜面をなめていて、一瞬、山火事ではないかと疑ったのですが、畑地のそこここに人 の姿があるのに特に慌てた様子はありません。それで、これは野焼きかと思いが至り、そうなると私は写真を撮りたくなって、ちょっと厚か ましくもクルマで畑地の一画に乗り入れました。農家の人に訊くと、芝焼きをやっているのだと言います。例年だと1月中にやるところを、今 年は雪があったので遅れたとか。村人総出といった趣で何人かが手分けをして筒状のバーナーをかざして畦道の斜面に火を放っていま す。それにしても、芝などはこの斜面には生えていないはずです。要するに野焼きなのでしょうがしかし、阿蘇でも若草山でも、野焼きは雑 物を焼き払い、燃えかすを肥料としてまた美しい草地を甦らせるための一種の新陳代謝を促すものです。一般的に言う芝焼きもこれと同 じ理屈でやるものだとすると、この田圃や畑の入り交じった一帯の野焼きは、何が目的なのでしょうか?決して美的理由でやっているわけ ではないだろうし、だとすると、雑木などの芽吹きを押さえ、刈りやすい草だけの土手とするためなのか、或いは野焼きは害虫の発生を抑 えるとも言われているようだから、それが目的なのか、その理由までは聞き忘れてしまいました。(・・・後日、推察した理由の通りであること が判明しました)
写真のように、立ち上る煙がうつろい、ときに風景に煙幕をはってしまう様は、冬の風物詩と言えるでしょう。そしてもちろん、野焼きは来る
べき春に備えての年中行事に違いありません。春はそこまでやってきているはずなのに、その足音がなかなか聞き取れないのは、この寒 い冬のせいばかりではなく、そこに、昨年遭遇したあの大震災の一周期という忘れ難き事由があるせいなのかも知れません。そんなことを 書き連ねているうちに、窓の外は雪が舞い始めました。ここ八ヶ岳山麓ではそんなに積雪に見舞われることはないのですが、我が家の周 りの日陰はそれでも雪が溶けないままです。何にしても今年は平和な春を迎えたいものだと願わざるを得ません。
ここから上↑ 2012年〜
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以下 2011年
○ 師走も半ば、今年も残り僅か(12月18日記)
ここ一週間で山は随分と白くなりました。八ヶ岳は私の住んでいる所からだと白い岩峰は権現岳しか見えませんが、お隣の富士見町まで
走ると、八ヶ岳西面は一段と雪が増え、主峰の赤岳や阿弥陀の白く峻厳な岩肌が目に飛び込んできます。いよいよ厳冬期突入、冷たい大 気を運ぶ北西風が、時に我が家を揺するほどに吹き付けてきます。師走も半ばを超え、今年もあと2週間を切りました。いつも迎える年の 瀬がまたやってきます。そしてこういう時期になると決まって振り返るこの1年、やはり今年は大変な年だったな〜・・・これに集約されるよう です。
◇大震災
震源地から数百キロ離れた八ヶ岳山麓でも、"そのとき"は強烈でした。停電の一夜が明け、TVで目にした画像はもっと強烈でした。そし
て、得体の知れぬ恐怖心を覚えた原発事故。大地震と巨大津波という自然災害としても千年に一度という未曾有のものであったのに、人 災としてかつてないほどの深刻な災害が加わったのです。被災者に対してどう気持ちを向けたらいいのか、そのことと同時に、この先日本 がどうなってしまうのか、誰もが戸惑いと得体の知れない不安を抱くことになりました。被災者との距離や心理的隔たりは埋めようもありま せんが、いつか厄災が我が身を襲うかも知れないといった恐れと不安をみんながごく身近に覚えたことも事実でした。おののきと嘆きと祈 りと・・・日本人は同じ心の軌跡を共有しつつ震災以降の月日を送ってきたとも言えるでしょう。
私はここで、何一つ偉そうなことを言える身ではありませんが、今年というこの1年は、誰もが大震災に照らして我が身や我が家族を振り
返る年となったことは確かでした。
◇私自身
もう何度も人に話したり、このHPでも書いているのですが、私は、大震災後の“なにがしか”とどう連動したものか、脳内出血という事態を
招いてしまいました。幸いその後の経過が良かったために大事には至りませんでしたが、それが元で煙草を止めたり食生活や血圧のケア ーを始めたりと、私自身がそれまで遠ざけていた(などと粋がってきたのですが)健康ケアーを人並みに心がけることになったのです。それ が春先のことで、個展も控えたこの年なのに、絵筆を取れない日々が続きました。そして一月余りが過ぎ、こんな年にも拘わらず、見事に 開花してくれたサクラは、私の心に化学反応を引き起こしてくれ、私は無心にサクラを描き始めました。そしてサクラを描き続けたること で、いつもの絵心を取り戻していったのです。私自身を大災害に照らして振り返ると、この一連のことがひとつの曲がり角としてやはり一番 印象に残ることでした。そしてサクラは私自身にとって再生のシンボルとなったのでした。
◇一年を総括する?
年の瀬は1年を総括するときで、今年がどんな年だったか、十大ニュースとか、ナントカトップテンとか、はたまた社会を反映する流行語
まで、いろいろと振り返って総括するのが世の常です。我が身を振り返って総括する人も多いと思います。私もそんなことをやっていた頃も あったかと思うのですが、最近はこれといって総括することもなくなりました。大体1年を振り返って何があったのか、子細に思い出すのは 難しい仕業となっているのです。それに、そもそも総括するというのは、来年の計として我が身を律したり励んだりする意図を持ってのこと でしょうが、その"今後"も段々長くはなくなると、一々計をたてるのも億劫と言うか、意味が薄まってきているという一面は否めません。まあ それでも年の瀬は、1年というときの物差しを否応なく意識するものです。誰もが何かと感慨にふけったり、来年はどうしよう・・・くらいのこと は考えるでしょう。そしてここ何年かは、また一つ歳をとることなど意識の外においたまま年を越したいと願うようになっています。そうは言 っても、私たちは暦という"時の枠組"から抜け出すことはできないのだから仕方ありません。そんなこんなが入り交じって、ある種複雑な感 慨、と言うか感傷を抱くことになるのが年の瀬です。
◇年賀状に何と書く?
そしてもう年賀状を作る季節です。もらえば嬉しいものなのに、出す側になるとかなりの骨となるのがこの年賀状。それも、来年のそれに
は浮ついた慶賀の気分は控えた方がいいといった風潮にあって、これは国民的気分と言うべきもののようです。郵政省は例年通り年賀ハ ガキを発行し、一枚5円を義援金に回す年賀ハガキを用意していました。そんなことを知らなかった私は、いつも通りのインクジェットのハ ガキを買ってしまったのですが、知っていれば考えたのに・・・という人も少なくないでしょう。しかしそんなに気にすることもないのだと、改め て思ったりもしています。これほど日本人の心にのしかかった大災害です。これまで何らかの支援を差し伸べている人が大半であるに違い ありません。だからこの義援金年賀ハガキには、駅前での街頭募金に応じたのに、別の駅で募金を頼まれたときと似たような気分を味わ っている人も多いでしょう。いやいや、ことはお金の話ではなく、年賀状に書く言葉のことでした。TVでは、"絆"だとか"手を繋ごう"とか、被 災者と私たちはどこかで繋がっているといった趣旨の言葉が多くなりそうだと報じています。理解はできますが、どこか同じ気分を強要して いるようなところも否めません。それならば、修辞を弄することなく、率直な気持ちを綴るとか、そういうものが思い浮かばないなら、いつも 通りの年賀の言葉でいいのではないか・・・とも思うのです。お互い、生きて年賀を交わすだけでも幸せ者、そういう者同士が交わす賀状に "賀春"とあるのはごく自然だし、それでいいのだとも思うわけです。
◇最後に絵のこと
先に総括について触れましたが、私の場合一つ言えるのは、今年はどんな絵を描いたか、と言うこの一点についてです。毎年どこかで1
回は個展をやっていますから、そこをめがけて・・・と言うか、それが一つのモチベーションとなって、作品を手がけ残していくことが毎年の ならいのようになっています。総括として分かり易いといえば分かり易いわけです。しかし、だからといって、どんな絵を描くか、描きたいか といった1年の計があるわけではありません。創作というものはそれに向かっているときの心境や気概が源となっているものですし、1年を 区切って作風をどうこうするというのは(そういう人もいるかも知れませんが)、自らを束縛しかねないので、私は敬遠する方です。ただ、創 作とは別にして、来年は絵の仕事として手がけることが控えています。予定と希望を含めてですが、一つはクラブツーリズムからのオファー に端を発し、東京での教室の機会が開けてきそうだということです。3月に一度その機会を持つことは決まっていて、それは当地へのスケ ッチツアーにリンクしたものです。その先の継続性についてはまだ何とも分からないのですが、東京で個展をやる度に東京での教室につい て、質問や希望の声を多く聞いてきましたので、そうした声に応える一つの契機になればいいとは思っています。もう一点、来年は画集の 第2弾編集にかかろうかと考えています。来年は古希という年格好からして、そのエネルギーがあるうちに取り組んだ方が良さそうだという のが一番の理由で、古希を記念して・・・という心積もりでは毛頭ありません。そして来年に限らずいい絵・・・自分で得心のゆく絵のことです が・・・を描き続けられたら、と思っています。相変わらず皆様のご贔屓にあずかりたいものと、心より願っています。
○ 消え去るモノについて・・8月31日のノートに追加(11月11日記)
今回は復活の話です!! 8月にはこのように書きました。
東京地図出版の出していたワイドミリオンというシリーズの中の"日本中央圏道路地図"。この地図は何年かおきに最新版に買い換えてい
たのですが、絶版となってしまいました。
それが、先日、他の本を探しに韮崎の本屋さに行き、道路地図のコーナーに立ち止まって一渡り覗いてみると(私は地図が好きなので、本
屋ではよくやるのです)、見慣れた装丁のワイドミリオンシリーズの中に「日本中央圏」とあります。アラ、今頃まだ在庫があるのかと手にと って背表紙を見てみると「2012年発行」とあるではありませんか。これはしたり!復活したのです。直ぐさま買い求めました。値段は¥40 0下がって¥3000(+税)。帰ってページをめくってみると8ページ薄くなっていて、それは巻末の高速道の距離と料金表が割愛されてい るためでした。代わって圏内主要道主要IC間の距離と料金が示された見開きのページがあり、道の駅の索引も追加されています。高速道 は今やいろいろな料金割引の体系があり、料金設定そのものについても長い目で見ると流動的だから・・と言うことでしょうか。しかし距離 だけでも全路線の記載があったのはそれなりに意味があるものであったと思うのですが、まあ、細かいことは抜きにして、とにかく復活して くれただけで拍手喝采です。私の手元にあったのは2004年版でしたから、何だか7年間の空白が埋められたようで、暫くはドライブのとも だけでなく、暇つぶしのともとして、私を楽しませてくれそうです。間違いなく他社のものより優れたいい道路地図です。そしてこの時代、い いモノが復活してくれるのは、ありがたく歓迎すべき事態に違いありません。
○ 二つのブナ原生林(10月25日記)
二つとは、一つが小谷村の雨飾山、もう一つが鬼無里の西端にある奥裾花です。いずれも北信州、私の住む八ヶ岳山麓からはそう遠く
ない所にあるブナの原生林として、私はかねてから訪れてみたかったところです。先週欲張って二カ所に行ってきました。来年以降の個展 や画集の第二弾に向けて秋の絵がどうも不足気味だったので、紅葉取材が主たる目的でした。ただでさえ、今年の紅葉は欲求不満気味 です。当地でも山沿いを走り回ってみると、ケヤキが色づく前に涸れて貧粗な様相を呈しています。家の庭を見渡しても大半の落葉樹が我 が身を染め抜くのを諦めてしまった感があります。それなら久しぶりにブナ林の秋を訪れてみよう、本当は東北まで遠征できればいいので すが、割と近場でも目的は叶えられそうだと思い立ち、そうなると善は急げ・・です。雨飾山は長野と新潟の県境にある山で、中腹にある鎌 池は紅葉で有名です。奥裾花自然園は水芭蕉の群落が謳い文句のようですが、私はここのブナ林にかねてより目をつけていて、以前か ら鬼無里と白馬を結ぶ県道を走るたびに、そこから逸れて奥裾花川沿いを遡上してみたいと思いつつ、実現していなかった経緯がありま す。出かける前日にまたまた軽く考えて、ウイークデイなら雨飾山の公共の宿がとれるだろうと電話をすると、1週間ずっと満室とのこと。 例の高齢者の旺盛なレジャー意欲故かと思いながら行ってみると、やはりその通りでした。結局宿は二つの地点の中間にある白馬村のホ テルにしました。むろんこちらも、私と同齢者が客の太宗を占めていると言っていい状況でした。
それはともかく、ブナの原生林の紅葉は、期待に違わぬ素晴らしいものでした。やはりブナの森というのは、その深さとか母なる味わい
が何ともいいものです。それが鎌池では最初は霧の中に潜んでいたのですが、霧が晴れてやがて本来の色や形を現し始めると、まるでオ ーケストラがそのカラフルな音色を一斉に奏で始めたようでした。奥裾花では快晴の空をも遮るような森の高さと深さを味わいました。ここ は長野市の私有林として保護でされており、ブナをはじめミズナラやカエデ類が混在する見事な落葉広葉樹林です。木々が貯めた地下の ダムが池や湿地を育んでいて、自然の長い営みが体内に染み渡ってくるような森の潤いです。自然園はその名の通り原生林の中に小径 がつけられているだけの手つかずの自然に溢れた広い一帯です。クルマはその手前の観光センターのある場所までしか入って行けない ので、そこからは徒歩か乗り合いのシャトルバス(ミニバン)でしかアプローチできません。最初はそのさわりだけでも味わいたいと思って徒 歩で入り口まで辿り着き、そこから自然園に入ったのですが、分岐点毎に吊された熊よけのフライパンや板きれをがんがん叩き鳴らしては その先へと進むうちに、結局2時間半かけてアップダウンの続く自然園の中をほぼくまなく歩き尽くしてしまいました。小淵沢の家の近くの 坂道を上るのにもゼーゼーしていた私としては近来にない珍しいことで、これは禁煙の賜と言えるでしょうか。それにしても奥裾花のブナ林 には立派なブナやミズナラの株が多いのに驚きました。樹齢三百年を超えるとも推定される森の長たちとも対面し、足下の灌木から梢の 高さまで装いを凝らした森に包まれていると、それだけでもう訳もなく嬉しくなってくるのでした。
が1200メートル強なので、この辺りが紅葉のピークであったことも重なっていたようです。雨飾山は深田久弥の日本百名山として有名で すが、紅葉のシーズンともなると、訪れる人の大半がこの鎌池目当てと言えそうです。ですので、池の周りにはカメラを手にした老若男 女・・・と言いたいところですが、高齢男女が圧倒的に多いのでした。むろん私もその一人に過ぎないのですが・・・。水辺に向けて開かれた ポイントにやって来ると、そういう場所は既に先着のカメラマンで賑わっています。三脚を据えてじっくりとシャッターチャンスを待っている人 も多くいましたが、その点、こちらは絵を描くための撮影です。一瞬脳裏に刻まれる絵のイメージをカメラで切り取るといった案配ですの で、ズームレンズを頻繁に動かしてはフレーミングを決め、素早くシャッターを切るだけです。それで枚数だけはかなりのものになります。 当初この池では水辺の後方に構えてスケッチでもしようと思っていたのですが、そういうスペースも殆どないことが行ってみて分かりまし た。雨上がりで径もぬかるんでいて、そこを大勢の人が行き来するので足場の確保も難しい状態です。そして、これが紅葉シーズンの常な のか、池のそばの駐車場は満杯で次から次にクルマがやってきますし、池を巡る人たちも一周すれば自然と次の来訪者に入れ替わると いった具合ですから、長時間留まって心ゆくまで紅葉を楽しもうとしてもなかなか許されない事情があるのです。それほど人を惹きつけるス ポットということでしょうが、それはこの目で見て確かに納得のゆくものではありました。この点はクルマをシャットアウトしている奥裾花は、 知名度が低い分だけ訪れる人も少なく、野趣に富んだ好ましいスポットと言えます。ただ、森の中に腰を落ち着けて独り絵でも描いている と、こちらは熊に遭遇する恐れなしとは言えません。それほど無垢の自然が味わえるということです。
ブナ林の光景を描いた作品の一部は、近々掲載の予定です。
○ 乗鞍高原に行くと・・・(10月12日記)
10日〜11日と一泊二日で乗鞍高原に行って来ました。今頃はちょうど乗鞍高原あたりの紅葉が良いのではないか、と踏んでの行動
です。乗鞍は西側の緩やかな斜面にあるキャンプ場には何度か行ったことがあるのですが、東側の人が集まる一帯には冬のスキーシー ズン以外には行ったことがありませんでした。行動の基地として格好な休暇村に泊まろうとネットで見るとこの1週間は平日も全て満室で す! とは言っても3連休最終日なら空きがあるのではと電話をすると、ちょうど一組キャンセルが出たので今ならその和室を確保できま す、と言われ即予約。やはり紅葉シーズンのせいなのでしょうか、それにしてもこの混み具合はどういうことか、と驚くのみでした。
中央道松本で下りて「上高地方面」の交通標識に従って走るのですが、この道は何度も利用している馴染みの道です。毎年「おわら」で
八尾に行くときも、高山に行くときもここを走って安房トンネルを抜けます。途中昼食で入った道沿いのレストラン・・・「アンダンテ」、見かけ は余りさえない店ですが、ここのステーキ丼は絶品でした。値段も千円でおつりがくるお手ごろ価格。旅の途中でこうして知らない店に入り 大当たりとなると嬉しいものです。 出しなに訊けば、ステーキ丼の肉は信州牛ではないのですが、高い肉を使って美味しく食べさせるのは 料理とは言わないそうです。確かに。帰りに立ち寄った蕎麦屋も美味かったな〜。店の名は覚えていないのですが、風穴の里という道の駅 を少し下った右手にある民芸風の店構えでした。
食べログはこれくらいにして、いよいよ乗鞍方面に左折し、徐々に高度も上げていくのですが、どうもあの紅葉が下りてきている様子が
窺えません。それは乗鞍高原の中心、標高千4〜5百bの辺りにやってきても、あの期待した鮮やかさは影を潜め、どことなく地味な紅葉 シーンなのです。これはちょっと時期尚早だったか、と始めは思ったのですが、その後あちこちを走り回って、紅葉のピークは千3〜4百b 周辺まで下りてきていたことが分かりました。つまりどういうことかと言うと、今年の紅葉は外れということです。それは翌日バスで標高270 0bの畳平まで上がってはっきり照明されました。カラマツからダケカンバ、やがて森林限界に至る木々の様子を見ていると、本来黄色に 色づいているはずのダケカンバが全て茶色に変色してしまっています。少し下の一帯で既に黄葉し始めているカラマツもまた冴えません。 やはり9月に入っての異常な暑さとかその後の気温低下と更には再び上昇といった気候変動が思わしくなかったせいでしょうか、木々達が うんざりして身を染めるのを放棄してしまった感があります。それでも2日間にわたって走り回り歩いてみると、一の瀬園地といわれる一帯 が結構見られる色づき具合で、それが標高で言うと千3〜4百b辺りです。園地などと命名されているので、何か人工的に整備された一帯 を想像していたら、ここはなだらかな山の斜面を落葉広葉樹林が覆い、平地には湿地帯や流れあり、灌木が点在して、ほどよい高低差と かなりの広がりを持った一帯なのです。その中には遊歩道がほどよく整備されていて、時間をかけてこれを一周すると多様な自然と接する ことができ、気分爽快となること請け合い(私は一周していないので推察です)。乗鞍高原にはいくつかの滝や池もこの園地の中にあり、 “一の瀬園地”の持っている穏やかで豊かで広やかな自然の箱庭の存在こそ、乗鞍高原の一番魅力的でユニークな資質ではないかと今 回行って思いました。バスで入れる最高地点と言われる2700bの畳平も、そこに広がっている一種殺伐とした光景は絵にも写真にもし 難く、山登りでもしない限りは次のバスの時間まで少しもてあましてしまうほどでした。
写真はいずれも一の瀬園地、右写真後方に乗鞍連峰が。
以下はフィールドノートとはかけ離れますが、泊まった国民休暇村では驚かされたことがあります。夕食は広い食堂でのバイキングなの
ですが、悠に200人は収容できそうなこの食堂、見渡せばそこにいるのは私らとほぼ同じ年格好の熟年世代ばかりなのです。それも夫婦 者が圧倒的に多いのです。これはどういうことなのでしょうか? と、その中にすっかり溶け込んでいる私ども夫婦が不思議がっているのは 可笑しいことなのですが、いわゆる親子ファミリーの図も若い男女の図もみられないこの光景は、一種異様な雰囲気を放っていると言うべ きでしょう。三連休最終日の夜だから働き盛りは既に帰ったあとと言うこと? してみるとこの日以降の1週間満杯なのは、こうした熟年世 代の仕業なのでしょうか? してみると、今や日本の観光業は、こうした世代の貢献抜きには語れないところにきていることになります。明 くる日の畳平へのシャトルバスの中でも事態は同じでした。むろん若い人の姿も見かけましたが、これは極めて少数派。みんながカメラを 手に、地図を手に、旺盛な好奇心と行動意欲で振る舞っている様子は、何やら微笑ましく、ちょっと異様でもあり、また元気づけられたりも する光景でした。再びスミマセン、自分のことは棚に上げての言い分でした。肝心の絵の取材では大した収穫はなかったものの、そんな、 こんな・・・の乗鞍高原でした。
○ 2011年 個展のこと諸々(9月24日記)
今年の個展は、暑〜い暑〜い1週間の中で明け暮れました。9月の中頃なら暑さは幾分和らいでいるだろうという甘い観測は見事打ち
砕かれ、暑くて蒸して不快指数の高かったであろう毎日でした。そんな中を画廊までお運びいただいた大勢の方々に対し、心より御礼申し 上げます。画廊の方からもこんなに来ていただいて私たちも嬉しいと喜ばれました。:これまで何度も来ていただいている方々はもちろんの こと、ネットを見て来られた方々、人に薦められてきた方々、朝日新聞(東京マリオン)を見てこられた方々など、初めてご覧いただく方々も 思いの外多くおられ、回を重ねるに連れて多様で多層なお客様からご支援いただいている実感を持てたことは、大変ありがたく感謝の気 持ちを新たにしました。
さて、今回は昨年よりは手狭な画廊でしたが、額サイズで言うとスケッチ4Fから大全紙まで織り交ぜて30点を展示しました。特に画廊の
サイズに見合うと思われた三三の額サイズを意図的に多く出展もしました。特徴的だったのはやはりサクラをテーマとした絵が7点あった ことでしょうか。春先に私の絵心を甦らせてくれたモチーフだけに、何処か皆様の気持ちに届いたところがあったのか、ご好評をいただき ました。お買い求めいただいた作品もこのサクラを描いたものが多い結果となりました。
今回もまた、水彩を習ったりしている方々から多くのご質問を受けました。一番多かったのは、サクラを描く技術に関してで、私は何度と
なく、周囲の色で塗り残してその姿を描くという白抜きの技術を説明することになりました。この白抜きは透明水彩の表現の一つなのです が、桜や水の流れをモチーフにすると自ずとこの技術を多く使うようになりますし、私はマスキングを極力使わないようにしていますので、 余計念入りな描き方となる傾向があります。そこに多くの方が目を凝らすわけですが、むろん、そうした技は本来絵そのものの説得力の陰 に隠れているものでなくてはならず、その技術的な側面だけが目立ってはならないのは言うまでもありません。その点は改めて自分にも言 い聞かせておかねばならないと思うのでした。
もう一点、ちょっと書き留めておきたいのは、絵のサイズに関することです。通常、公募展応募には30号、50号以上といった規約がある
ようで、これは油彩などに引っ張られる形で水彩画にしてもこのサイズ以上でなくてはならず、それに引きずられる形で各種絵画団体の絵 描きさん達は、競って大きなサイズの絵を描く傾向が強いようです。例えば50号、60号、或いはそれ以上というサイズをものにすることが ステップアップに欠かせないといった風潮があって、私は常々疑問に思っている者の一人です。そういう水彩画はいわゆる透明水彩には 不向きで、多くはアクリルとかガッシュといった不透明水彩を使ったものが多いようですが、このサイズを競う傾向とは一体何なのか、それ でなくてはコンテストの会場では目立たないから、という以外にどんな理由があるのか? 私はまだ納得のいく説明を聞いたことがありませ ん。別に小さなサイズでなくてはならないと主張するつもりはありませんが、大きいことが良いこと・・・が水彩画、特に透明水彩の絵ほど似 つかわしくないものもないでしょう。何故こんなことを書くかといえば、偶々複数の方から、先生は大きなサイズの絵は描かないのですか? と質問を受けたからです。私はごくシンプルに、水彩画は家で飾ってもらって心地よいサイズが一番いいサイズだと思っている、と答えて います。それぞれの家の事情がありますから心地よいサイズも様々でしょう。いずれにしても、コンテスト目当ての大きなサイズという動機 がいい水彩画を生み出す土壌となるとは思えません。サイズの大小は水彩画の本質とはかけ離れたものであると、改めて指摘しておきた いと思います。
毎回訊かれることの一つに教室のことがあって、今回も何人かの方々から東京で教室を開く予定はないのですか?というご質問を受け
ました。会場の手配とかまとまった人数を集めるとか、どうもそういうことを考えると、やはりどなたかマネジャー的なことをやってくれる方が いないと、私一人ではおぼつきそうもありません。かと言って、私はカルチャーセンターからお声がかかるほどの著名画家でもなく、必然そ うした機会とは遠ざかってしまいがちです。私は当地(八ヶ岳山麓)では水彩教室を開催していますが、目下のところ定員が一杯です。そし て小さな声で言わせてもらうと、参加希望者が常時控えているという状況であります。東京近辺に在住の方々には、なかなか教室へのご 案内をしにくいのですが、例えば何人かのグループで来麓される折に現地でのご案内とか必要なら指導とか、ご相談には応じております。 この点、昨年までは私が主導してこちらで水彩キャンプ的なことを企画する積もりもあったのですが、いろいろあって現在はその予定は立 っていません。と言うよりも、率直に言いまして、私には企画から全てを運営するエネルギーをなくしている状況ですので、どうか悪しからず ご理解願います。ただ、上記のようにお声をかけて頂ければ、ケース・バイ・ケースで対応が可能ですので、その際はメールなり、お電話に て事前にご連絡下さるようお願いします。
個展は自分の作品を見て頂くという一方通行的な機会ではありますが、会場での触れ合いはまた、自分自身を見直す場でもあります。
それは会場で絵をご覧になっている皆様を私が見て、或いはお話しして感じることで、描くという私の行為が皆様の目や心を通して私に跳 ね返ってくる個展ならではのやりとりにあると思います。それがまた、年々疲れの度合いが大きくなってくるとか、もうこの辺で一区切りした いといった私の気持ちを抑え込んで再び個展開催へと向かってしまうエネルギーのようなものでしょうか。本来、お出でいただいた皆様一 人一人にお礼状を出すべきところですが、それを割愛してしまう無礼を平にお許し願いたいと思います。
○ 消え去るモノ・・について(8月31日記)
個展までもう2週間を切りました。昨日までに全出展作の額装を終えて、前にも書きましたが、今回は珍しく順調、余裕さえあるのです。
唯一問題だったのは、水彩画の装丁に欠かせないマット紙の手当でした。これまで入手できていた気に入った色のマットボードが手に入り 難くなったばかりか、今後廃盤となってしまうという困った事態なのです。問題のマットは、ミューズ社の2o厚マットボードでマーメイド系の 色のこと。そのうちの何色かが繊細で柔らか、そしてシックな色味で私の大のお気に入りです。何処の画材屋でも扱っているという代物で はないので、個展の都度決まった画材屋さんでまとまった点数を注文し切ってもらっていました。似たような色は他のメーカー、就中日本の メーカーのカタログからは見つかりません。それで今回は、このマットを扱っていてかつ在庫があるか、手当可能でありそうな他の店を苦労 して探し出し、漸く一部の色について手当可能とはなったのですが、他の何色かについては入手できず仕舞いです。 結局は他の絵で使 っていたマットを外して個展ように回すとか、他の色に代替して注文するとかして、何とかカバーしたのですが、今後のことを考えると思い やられます。別に、そのマットを欠いては個展ができないという訳ではありません。ただ私は、そのマット紙の繊細でお洒落な色合いが好き なばかりか、額装すれば作品を引き立てて自らはちゃんと引っ込むという・・・そんなマット紙の鏡のような存在を誰よりも評価していたの で、残念で仕方ありません。と同時に、そんな優れた製品にさほどの頓着も見せない(ように見える)作家とか流通業界に、疑問を抱かざる を得ない節もあるのです。もちろん私同様残念がっている御仁も少なからずいると思うのですが、大方の目は曇っていたとしか言いようが ありません。
このマット騒ぎで思い出すのが、やはり私にとっては残念極まりないくつかの消え去ったモノです。同じ絵のジャンルでいえばセヌリエとい
う水彩紙がありました。偶然にも先のマットと同じで生産国はフランスです。絵の具の浸透性とか発色、ぼけ具合など私が一番気に入って いた紙だったのですが、いつの間にか店頭から姿が消え、ネット上でも手当てできなくなり、のちにメーカーの方で生産中止となったことを 知りました。何故?と愛好家なら誰しも思うのですが、生産者からすれば、経済合理性は至上命令、つまりは需要が少なければ採算が合 わないという一事は無視できないものでしょう。使う側の声に一々耳を貸してもいられない事情は分かりますが、それなら値段を上げると か、"いいモノ"への拘りの姿勢を訴求するやり方とか、対応の仕様があったのではと思うのです。どうもしかし、そうした細かな対応をとる 余裕がないほど世知辛くなっている昨今の市場環境というものが背景にあるようです。間違いなくいいモノではあっても経済合理性の前に は消え去る運命にある、そしてどうも私には、そういう結果的に消え去るモノを愛してしまう巡り合わせが多いような気がします。
そんなケースはかつて都会の何軒かの飲み屋についてもありました。ちょっと隠れ家的なリラックスできる店、むろん酒と肴が美味しい
店、値段手頃・・・。だから何度となく利用していた店が、ある日姿を消していたり、店を畳んでしまうという風の噂を耳にしたり、そういうケー スが一つや二つではありませんでした。これもやはり経済合理性のなせる技で、そういう消え去った店のあとに入ったり、リニューアルして 店開きするのは決まってチェ−ン店なのです。世知辛い世の中は、酒飲みの世界をもずっと侵してきたわけです。道路地図でも似たような ことがありました。東京地図出版の出していたワイドミリオンというシリーズの中の"日本中央圏道路地図"。この地図は何年かおきに最新 版に買い換えていたのですが、絶版となってしまいました。この道路地図のユニークなところは、北は南東北から西は関西周辺までという 広範囲を1/10万というメッシュでカバーしていた点です。見やすいし情報量も結構多く、他者の追随を許さない優れものでした。私のように カーナビを持たない者にとって、道路地図は大事であるばかりでなく、元々地図を観るのが好きな私には、この中央圏道路地図は大変な お気に入りで、良くそのページをめくっては想像力を巡らせていた代物でした。それが絶版の憂き目となったので、このときばかりは出版 社に問い合わせをすると、ネットやカーナビに押されて地図本は劣勢となり、採算に合わないものから切り捨てにしてゆかざるを得ない状 況を説明してくれました。またもや、私の好みが採算に合わずに切り捨てられるという現実です。因みに、この道路地図本の業界は今やS 社の独断場の様相を呈し、私の贔屓にしていたミリオンシリーズは本棚の片隅に追いやられています。S社の地図は見た目にスッキリして いて、私も他に選択肢がないので何冊かを所有しているのですが、明らかに情報量が不足しています。競合他社の撤退による寡占化状 態にあぐらをかかれては、消費者にとってろくなことはありません。
ここに書いた消え去るモノは、どれも私の嗜好、私のニーズに照らしての話です。それらはしかし、時代とともに消え去る価値観として括
られるような気もします。優れた製品誕生の裏には優れたセンスの人間がいる、そこにクオリティーの源泉が宿る、それがいいモノとして評 価される、企業も潤う・・・こうした好循環とは最早時代の歯車とは噛み合わなくなってきているのでしょうか。それもこれも、世の中変わった とか、近頃の若いもんは分からんとか、そうした熟年世代の世相観に相通じるものだとすると、これはかのマッカーサーの言葉を思い出さ せます。“老兵は死なず、ただ消え去るのみ”、ウ〜ム、消え去るのは私の方だったか? とさえ思われてくるのでした。
○ 残暑猛々しく(8月12日記)
暑い、暑い、の毎日、その暑い話を書きます。立秋を過ぎてますます暑さは盛ん、都会や内陸にお住まいの皆様には、堪ったものではな
かろうとお察しします。しかし、節電にしても然りで、多少のことは辛抱せねばと思う気概の底には、厳しい被災地の現実に思いを馳せる今 や国民的意識と言っていいものがあるからでしょうか。さて暑い話など、私のように八ヶ岳高原に住んでいる身で何をほざくか、ということに なるのですが、高原とてやっぱり暑いのです。来る日も来る日も山沿いには積乱雲が次々と誕生し、迫り上がってゆきます。最高気温こそ 31〜32度というレベルですが、紫外線をたっぷり含んだ日射しは強烈、風がないと日陰に入っても涼味を感じません。ただ、夕方から夜 になれば、ずっと凌ぎやすくなって熱帯夜とも無縁ですから、そのあたりが高原の良さではあります。
そんな暑さが続いた一昨日は風もなく、家にいるとあまりにも暑いので(この辺の家にはエアコンがないのです)、女房とどこかに涼みに
行こうという話となったのです。しかし、ここは本来都会から避暑地にやってくる高原なのですから、何処に行くと言ってもおかしな話ではあ ります。例えば当家よりもずっと高い清里や野辺山まで上がればそれなりに気温は下がるでしょうが、日射しはもっと強烈になります。加え てその辺りは木陰も少なく、観光スポットにはこの季節人で一杯です。涼しげな水辺となると当家よりもっと低い所を流れる釜無川の辺りで すが、ここよりも3〜4度は気温が上がります。そこで足が向いたのは、ホームセンターとかスーパーという大型店舗。冷房の設定は上げ てあるものの、エアコンのある室内空間でサンダルのまま行ける所といえば、この他には思い浮かばないのです。おまけに行き帰りはエア コンの効いたクルマですから、これが一番手っ取り早く涼める方法ではあります。その代わり、買わなくてもいいものを買ってしまったりしま す。何とも味気ない話ですが、これも避暑地の現実ですから仕方ありません。こうした大型店舗もこの季節は別荘族とか観光客が大勢来 店しているので普段よりも賑わっています。そして明日からはお盆、八ヶ岳山麓でも1年中で一番人口密度が高まる季節です。そんなこと で、私たち山麓民も暫くは息を潜めるように毎日を送らねばなりません。畑に行くのも少しでも日射しが弱まる時を見計らって、十分な飲物 と首を冷やす首巻き(これをなんて言うのか?)を欠かすことができません。暑さで元気なのは雑草だけですから、草刈りが一番の労働と なってきます。ちょっと油断して半袖のまま畑仕事をしようものなら、むき出しの二の腕は直ぐに水ぶくれ状態となること請け合いです(経験 者だから言えることです)。
この尋常でない暑さ、私たちが山麓に移住して6年この方、前半の3年と後半の3年とでは明らかに状況が変わってきています。温暖化
の例証とも言うべき生活実感として;
・ クルマでそうそうはエアコンの世話になっていなかったのに、ここ2、3年はこれをかなり使い出し今年はもう大活躍。
・ 多少暑くても前半は結構頑張ってスケッチに出ていたのに、ここのところはその気も起きない(尤もこれは年のせいもあり)
・ 夕方からのクールダウンが高原の良いところ、それがなかなかクールダウンとまではいかない。
・ 就寝時に、私らが越してきて2,3年は、大体窓は閉め切り、パジャマは長袖でちょうど良かったのに、昨年当たりからか、天窓を開けた
まま、パジャマも夏仕様のものでないと凌げなくなった。
その他、年間レベルで言うと、冬季は積雪がかなり少なくなっていて、このフィールドノートでも度々書いているように、積雪のあった朝にク
ルマを駆って勇んで外に出る機会も、ここ3年ほどはめっきりと減っています。 美味しいお米の産地にしても、この辺りだと武川米が代表 格でしたが、最近は評価の高いお米がその武川のできる標高500b前後から、釜無川を越えて北上し、800b以上の所でも作られるよ うになっていることも、温暖化の一つの例証でしょうか。
それはそうとして、ここ数年、日本列島で最高気温を記録するのは関東内陸部の熊谷とか館林、岐阜の多治見などが常連となっていま
す。全国の気象情報を見ても、南の那覇や鹿児島よりも大阪とか名古屋の方が例外なくと言っていいほど高い気温です。東京だって負け てはいない。どうもすっきりしないのです。だって暑いのが相場だったのは、概して沖縄や九州だったのではないでしょうか。今の気温状況 だと、夏場に関東、関西から南九州や沖縄に行くのは、少なからず涼しい方へと移動するということになります。都市部にはヒートアイラン ド現象による温室効果があるのは分かりますが、それだけでもなさそうです。温暖化と緯度による寒暖の関係変化、内陸部 vs 海岸部の 気温の関係変化が、この日本列島でどんな具合におこってきているのかいないのか、ちゃんと知りたくなってくるのは私だけでしょうか。
○ 8月突入〜来月は個展なのですが、さて・・・ (8月2日記)
何度言っても何度聞いても実感を伴う言葉・・・ それは“月日の経つのは何と早いことか”ではないでしょうか。今年ももう8月を迎え、私
たちがこの八ヶ岳山麓にやってきてから、ちょうどまる6年が過ぎ去りました。そしてあの大震災からもう4ヶ月半、被災者ならずとも簡単に は癒えない傷跡を心の中に残し、あの原発事故の経過とも相俟って、今年はいつもとは違う時が刻まれているかのようです。それが私と いう一個人にとってどのような意味合いがあるのか、よくは掴めないまま、それでも光陰矢のごとく月日が過ぎてゆきます。私の場合、来月 になると12日からの個展が控えているのですが、その割には漲るものがいつもほどなく、それが今年という年のせいなのか、或いはそも そもの年齢のせいなのか、どうにもよく分かりません。
しかし、誤解なきように言っておきたいのは、制作が手抜きになったりしたことは一切ないということです。それどころか、今日現在で必
要な点数は既に描き上げていて、その多くはむしろいつも以上に心情を注ぎ込んだ作品となっています。準備状況としては、前倒しで進ん でいるのは珍しいことです。当HPのトップにも書きましたが、そもそも今回の個展(それは会場確保の関係で2年以上前から決めていたの ですが)では、一度「おわら風の盆」だけの個展にしたいと考えていました。少なくとも、おわら主体で行きたいと、実際年が明ける頃からい ろいろな作画の構想を練り始めてはいました。おわらの場合は、風景画と違ってその辺に題材が転がっているというわけではありません。 撮り貯めた写真とか、DVDなどから起こしたカット写真などを参考にして作画をします。踊りの所作や衣装の図柄などは正確を期すことを 信条としていますので、それなりの資料も必要、おわらの絵は手間も時間もかかるのです。そうこうしているうちに、3.11が勃発しました。 そしてほぼ時を同じくして、私は異常な頭痛に悩まされ始めていました。医者から高血圧が原因と診断され、脳外科に場所を移してMRIと CTスキャンを受け、そこで左側脳室内出血という事態が判明したのでした。1週間を経て幸い出血も止まり、出血痕も退いているという良 好な経緯であったことから、もう大丈夫でしょう、しかし危ないところでしたと医者から告げられたのでした。大袈裟に言えば、この世に再び 復帰できたという気分でした。それが折しもサクラが咲き始めたときに重なったことから、私は自らの気持ちのおもむくまま、サクラの春を 描き出しました。自然はあんなに無惨な震災をもたらしながらも春を運んできてもくれる・・・春は再生へのシンボルのように感じられまし た。その反面、気がつくと「おわら」を描こうという気持ちが遠のいていたのです。そこで改めて分かったこと、それは、私が愛するおわらの 哀調とか詩情というものは、平常心という心の下敷きがあってこその感興だということ、ましてその絵を描くとなると、それなりに心の余裕が 必要だということでした。私は素直に趣旨変えをし、個展は春を中心とする四季の風景が主、おわらは副として臨むことに決めました。
現在、必要な点数は揃ったと書きましたが、その中にはおわらの絵も7点含まれています。いつもより数が多いばかりか、これまで取り
上げなかったモチーフも描いています。月日とともに心の余裕が出てきたのと、年明けから始めた準備も役に立つ結果となりました。・・・と まあ、作品についてはそれなりに気合いが入っている、と言いたかったわけです。どこか漲るものが感じられないというのは、別の面、別の 理由からで、それを今突き止めようと書き進めると私の絵描き人生にも係わって袋小路に入り込んでしまいそうですから止めにしておきま す。淡々と前に進む、前に進める、いまはそのことに尽きるでしょうか。昨日個展案内のハガキを大量郵便局に持ち込みました。滞在中の ホテルも予約完了。お盆前に額とマット合わせ、それに注文を済まさねばなりません。細々としてこともあるのですが、いろいろと段取りが ついてくると、ちょっと描き足したいという気が起こってくるのが常です。それでまた制作に戻ったり、この分だと今年は諦めていたおわらに も行けるかも知れない、結構余裕ありかも・・・ とまあ、こうしたゆとりの連鎖がもしかしたら漲るものを消去しているのかも知れません。
今回もまた、多くの方々にお運びいただければ、絵描きとして大変嬉しく思います。
○ 禁煙〜その後(7月6日記)
絵とはまるで関係のない禁煙の話、思いもかけずに好評でしたので、図に乗って続きを書きました。
○ 水を求めて〜山麓川事情(6月26日記)
初夏というのはいつ頃までのことなのか、梅雨時の6月はまだ初夏という感覚はあるのですが、早くも猛暑で記録的な最高気温が出る
日々が続くと、最早真夏としか言えません。季節の移り変わりはここ十年ほどで大分変わってきたようで、極論すると春と秋が僅かばかり しか続かないという感覚でしょうか。自然を愛で描いたり撮ったり詠んだりする人にとってはもちろん、四季を愛する日本人にとって、歓迎さ れざる現象と言えるでしょう。そのことは別として、真面目に降っている今年の梅雨時、その晴れ間となるとこの希少な機会をものにしよう と外出が増えます。もちろん絵を描くためで、自ずと涼しそうな水辺を求めることが多くなります。と言っても八ヶ岳山麓には実はそれほど 涼味たっぷりの場所があるわけではありません。何しろ火山台地ですから、雨水は地下にしみ込んで地表を流れ下ったり貯まって湖を形 成するようなことなどそうそうはないのです。その点・・・と懐かしく思い出すのは東北の河川です。最上川、寒河江川、只見川、阿賀野川 ETC・・・蕩々と流れ下る様は、これこそ川だと思わせるものでした。どの川でも岸部に立ってスケッチをしましたが、川の流れが上空の空 気も冷やして一緒に運んで流れるといった感じでした。
とまあ、当地で無い物ねだりをしても始まりません。我が北杜市だって自慢できる山ならあるのです。そうなのです、川の絵を描くとなる
と、この自慢の山々との合わせ技ということになります。別に合わせなくてもいい訳ですが、川単独の風情とか表情となると、管理河川が多 くて味気ないとか、そもそも川辺まで接近ができないといった難点もあってままなりません。例えば甲州街道に沿って流れる釜無川は、この 辺では一番水量が豊富なのですが、田圃や畑に隣接して流れていることから、昨今は電柵が張り巡らされていて、川岸に降り立つことが できません。川向こうの森から河原づたいに入ってくる動物をシャットアウトするためです。私がかつて描いたことのある2カ所のポイント も、今は立ち入り禁止です。一方南アルプスから流れ下る川はどれも急峻な山地を流れ下るので暴れ川ばかりですから、昨今は過剰なほ どの堰堤が設けられ、護岸もコンクリートで固められています。清流で有名な尾白川にしても、気軽に徒歩で近寄れる所となると、もう堰堤 だらけで趣のある川とは言えなくなっています。昭和34年の台風時をはじめ過去何度も大洪水を引き起こした名だたる暴れ川、大武川も 近年大規模な河川工事が漸く一段落し、いまは可能な限り直線的に固められた護岸に守られています。野趣は望むべくもありませんが、 徒歩なら川縁まで接近できますので、広い河床を蛇行しながら流れ下っている動的な水流を捉えることができます。残る大きめの河川とし ては、瑞牆山辺りを水源として韮崎を縫って流れる塩川があります。この川もごく一部(韮崎の道の駅)を除いては流れに接近できません。 遊歩道が整備されていますが、意外と川が視界に入ってこないようです。そんなこんなで山麓(ここでは南麓と言った方がいいでしょうか) の川の絵となると、背後に山が入った風景となってしまうわけです。
言い訳めいた話はこの辺にして、ともかくもここ数日は晴れ間があると川辺をうろついて探索を続けてみました。その結果は3点の絵
(スケッチ)として山麓絵画館に掲載した通りです。狙っていた山々との合わせ技は、新たにいくつかの場所が発見でき、今後また描いてみ たい風景の引き出しを増やしてくれました。塩川と八ヶ岳については、この川が韮崎にかかり、流れが南東に向かってからのち、八ヶ岳が 後方に入ってくる何処かいい場所があるはずだと、折を見ては探索してきたのですが、帯に短し襷に長しで、これがなかなか見つかりませ んでした。それで今回、当たりを付けておいた付近の橋で漸くそんな風景にヒットすることができました。これが住宅街や田圃の中の入りく んだ細い道を通り抜けて漸く橋のたもとに出られる所で言葉ではとても説明できそうもありません。それにクルマ一台しか通過できない狭 い幅で、近隣の人しか使いそうもないマイナーな橋です。地図では岩根橋とあります。その代わり飛沫を上げて流れる早瀬が眼下にあり、 上流眼前には八ヶ岳が広がっています。これだったのです!探していたのは。ということで欄干をイーゼル代わりにして、立ったままのデッ サンをしてきた次第です。もう一カ所、釜無川が韮崎に入って間もない辺りに橋が架かっており(地図で見ると入戸野橋とあります)、この 上から上流方面を見た景色も、遠く八ヶ岳を望んで気持ちのいい広がりを見せていました。初めて訪れた場所でいい発見があると嬉しい ものです。釣り人が魚影を求めて渡り歩いた末に魚にヒットしたのと似た喜びでしょうか。私は釣りをやらないので想像に過ぎませんが、そ う言えば探索を続けた3日間、釣り人に会わなかったのはどうしてだったのか。相次ぐ河川工事で魚がいなくなったものか、或いは渓流釣 りはもっと上流とか源流に近い所となるので、私のような絵描きがうろつく辺りとはそもそも行動流域が違うのか、今度誰かに確認してみた いと思ってます。ここに書いた山麓川事情も従って、南麓のそれも普通にアクセスできる領域のことですので、その点ご承知置き下さい。
ps 釣り人云々について、あとで分かったことがあります。 釜無川の鮎解禁日は今年は7月3日でした。私がうろうろしていたのは解禁日
前のことだったので、釣り人を見かけなかったわけです。のちに教室の生徒さんを連れて釜無川と大武川の出合いに行ったときは、長い 竿を垂らした鮎釣りの人たちが大勢来ていました。
○ 煙草との惜別・・・タバコ飲みだった人には分かる話?(5月29日記)
絵とはまるで関係のない話ですが、梅雨入りの退屈凌ぎに一文を供します。
このフィールドノートとも何の関係もない話ですので、別掲とします。→こちらでどうぞ。
○ 水と緑の季節(5月23日記)
5月の山麓は、いっとき本当に表題のように水と緑が滴るような日々となります。田圃は水を湛えて広がり、新緑は日一日と潤いを増して
大地を染めてゆきます。八ヶ岳山麓は広く緩い裾野をひいていますので、田圃は棚田というほどのものではありませんが、何処に位置して いても緩い段々状態で迫り上がっているのです。その一段一段が水を張った大きな舞台のようでもあり、人々はそんな舞台のあちこちで 立ち働いています。田植え時の週末ともなると、一家総出で田に出るといった面持ちで、いくつもの舞台が常にない人数で賑わっていま す。ちょっと日を置いて行ってみると、どんどんと田植えがはかどっていくそんな光景は何と平和であることか。被災地のニュースに接して いると、なおさらそんな感想を覚えます。こうして巡り来る季節に応じて働くことができる幸せをつくづく感じざるを得ません。・・・と、私は農 家の皆さんのように立ち働いているわけではなし、絵を描いたり写真を撮ったりしている傍観者に過ぎないのですが。せめてスケッチでもし ておこうと(何が"せめて"か意味不明ですが)、天気がいいと出かけています。この水田の風景を描ける期間はごくごく短く、あっという間に 周囲の緑は憎々しいまでに生い茂り、水田は稲の浅緑に染まってゆきます。そして世間では衣替えの季節へと足早に過ぎてゆくのです。 しかし、水がある風景というのはいいものですね。見た目にもまた体感上も清々しいばかりか、私たちはこの水によって生かされていると いう実感が改めて沸き上がってくるからでしょうか。そんな水の季節です。
余談めいてきますが、八ヶ岳山麓とこの水との関係で言うと、興味深い事実があります。それは八ヶ岳南麓にある市町村は、概して八ヶ
岳の斜面を上から下にかけて南北に細長い行政区画となっていることです。北杜市内で言えば小淵沢と長坂、それに大泉の三つの町の 区分もそうで、それぞれが、上(北)は八ヶ岳山嶺から下(南)の裾野に向けて扇状に広がっているのです。町内の区割りにしても小淵沢や 大泉では北から南に細長く区分けされています。例えば私の居る小淵沢町の上笹尾という区割りは、北の高い場所から南の低い場所に 末広がりの繋がっていて、高低差で言うと1700bくらいあるでしょうか。こうした区割りは水利との関係で成立したものと思われます。八ヶ 岳山麓は火山台地ですから雨水は地下に潜り伏流水となってあちこちから湧きだし、その流れに沿って集落が形成されてきたことが、村 割りの基礎となり今日の行政区画に繋がっているわけです。今や旧跡となっている三分一湧水(湧き水を三方向に等しく流す水路がある 所)も、人々が湧水の恵みを受けて田を耕し、生活の糧を得て集落を築いてきた歴史を物語る場所です。それにしても、八ヶ岳山麓では至 る所伏流水が湧き出ていて、1年中水が絶えることがありません。私も仲間と小さな畑をやっていますが、畑地の傍の側溝引かれたこの 湧水の恩恵を授かっています。
水と緑の織りなす山麓の写真をいくつか載せます。どれも水の張られた田圃ですが、この季節に湖が現出したと見まごうばかりの風景で
す。
○ 肩すかしだったサクラ取材(5月5日記)
私の住む辺りはもう葉ザクラとなったので、もっと標高の高い清里から野辺山〜川上村周辺へとサクラを求めて出かけてみました。期
待に反してこの辺りではこれはというサクとの出会いはなく、南麓では散ってしまったコブシが今を盛りと咲き誇っていたのは、さすが北海 道並みの気候風土を持つ高原地帯ならではのことです。しかし、高原野菜の畑から少し下った川上村の人里でも事態は似たり寄ったり で、サクラもあるにはあるのですが、目立って群生していたり、人目を惹いたりするサクラとの出会いがなかったのは、ちょっと意外でした。 日本国中、大体何処に行っても春になればサクラが短い命の華やぎを解き放つような光景を目にするもので、それは私のいる八ヶ岳南麓 でも同じです。しかしこの日に走った清里(141号より東側)や野辺山〜川上村では、ついぞそのような光景を目にしなかったのはどうして なのか・・・。以下は私の想像に過ぎないのですが、サクラというのはヤマザクラを除いては人の手で植えられたものばかりで、例えば山の 中で自生しているコブシなどとは氏素性が異なるものです。人がサクラの木を植える・・・その心にこそサクラの情景が宿っているのだと思 います。その心とは、サクラを愛でる気持ちはもちろんのこと、それが田圃の際なら豊穣への祈りとか、学校の校庭なら成長への願い、寺 社なら魂への尊厳といった日本人の心情に寄り添ったものであると言えるでしょう。その心情はまた稲作文化の長い歴史とも係わっていそ うで、そうしてみると、私がこの日走り回った一帯は、少しく状況が異なるようです。冬は北海道並みとなる寒冷な気候は、元々稲作には不 向きな風土であったことでしょう(少なくともかつての稲作技術では)。加えて、現在高原野菜の産地として潤っている一帯は、主として昭和 に入ってからの厳しい開拓によって切り開かれた地域です。稲作文化の長い歴史とは異なる風土という辺にサクラとは比較的に縁の薄い 所以があるのでしょうか。サクラの存在具合によって、春の趣は随分と違ってくるものだという体験をした次第です。
稲作文化ついでに、この日訪れた最初の浅川集落は、清里ではなくその南隣の高根町の北端にある村で、おそらく稲作の北限的な場
所だと思われます。ここでも期待したようなサクラとの出会いはなかったのですが、ちょうど田に水を曳いている最中で、図らずも水田に映 る八ヶ岳の風景に出会えたので座り込んでスケッチをしてきました(→山麓絵画館)。
○ GWはAKT?
さて、そのサクラ巡りの日に帰路清里駅周辺を走って人出の多さに驚きました。私がスケッチしたり撮影したりする場所は、人影もまば
らという静かな所が大半で、いまGWの最中にいることなどともすると忘れてしまうくらいです。なので、この人出は余計ギャップが大きかっ たのです。例えば八ヶ岳の展望が広がる平沢峠の駐車場では、溢れたクルマがかなり遠い路上までを覆い尽くしていました。野辺山の割 と地味な蕎麦屋で昼をと思って行くと、そこも駐車場が満杯。清里駅周辺はかつての賑わいが戻ったかのような都会的な活気に溢れ、清 泉寮も前の道が渋滞、エトセトラ。如何にGWとは言え、この山麓でこんな人出を見たのは珍しいことです。確か昨年は例の高速道路休日 千円効果でどっと人が繰り出したのですが、それでも八ヶ岳近辺は素通りされたらしく、清里の住人からは閑古鳥状態だったと聞いていま す。それが今年はこの人出! 震災ショックから抜け出して徐々に日常が戻ってきたとはいえ、人々の心理はやっぱり控えめ、まさに安近 短一色といった感じではあります。因みにタイトルのAKTは安近短の略(AKBの間違いではありません)。余談ですが最近CMでもTNP= 低燃費というのがありますね。この種頭文字を三つ取り出す簡略表記は、英語圏では元々頻繁にあるものです。BBQ=バーベキューなど はその代表例でしょうか。日本語でこれをやると結構クイズめいて面白いものです・・・いやいやそんなことを言うと、国語保護派に叱られ そうですが。
○ 今年のサクラ〜前回の続きです(4月22日記)
八ヶ岳山麓では、私の住む標高千bあたりで漸くサクラが開花しました。どうもここ数年で較べてみると1週間から十日ほど遅い開花の
ようです。尤も広い山麓の下の方は既に満開で、それが中央線の走る800b付近をを通過して上へ上へと満開前線が上がってきている ところです。前にも書きましたように、私はこのサクラの春を心待ちにしていました。サクラの咲く風景は毎年それを目にしているのに、いつ も何と新鮮で心が開放されることでしょうか。今年は特にその感が深く心に染みます。ですからサクラの絵をたくさん描こうと思い、現に描 いている最中で、徐々にこのHPにもアップして行く予定です。こんな気持ちでこの山麓を走り回ってみると、これまで気付かなかったサクラ の風景との出会いが結構あるものです。こちらの気持ちに根負けして、その姿、佇まいを私の前に現してくれた、そんなサクラの織りなす 風景ばかりです。そしてそれらの大半が、特に名のあるサクラのスポットではありません。元来あまのじゃくな私は、いわゆる銘木とか名所 に足を運んだりすることが少なく、大勢が殺到するような有名なサクラとなると端から敬遠してしまうのが常です。韮崎には有名な「わに塚 のサクラ」というのがあって、それは大きくて見事な一本桜なのですが、あのカメラマンの三脚の放列には辟易とするものがあります。小淵 沢にある「神田の大糸桜」は、もうつっかえ棒だらけで生かされている姿が痛々しいばかりです。もちろん名所と言われる中には絵心を誘う 例外もあって、例えば北杜市ではかなり有名な蕪の桜並木とか、武川の実相寺とその周辺も魅力的なサクラがあって私も画にしていま す。
下の写真2点は、いずれも見事な端の樹形ですが、特に名のある木や場所というわけではありません。
話がちょっと横道に逸れますが、サクラに限らず日本中何処に行っても、定評のある風景のスポットとなるとカメラマンが実に多いもの
で、こんなにカメラ愛好家がいたのかとその都度驚かされます。ただ、私がいつも不思議に思い解せないのは、何故大勢があんなに同じ 立ち位置に群がり同じ方向にカメラを向けているのか、ということです。カメラ愛好家の世界とは、どうも写す場所、時間、方角といった固 定観念が支配している世界なのか、“我が道を行く精神”を愛する私にはどうにも理解できません。例えば一人サクラの木に近づこうもの なら、背後から罵声が飛んできます。かく言う私も昔からカメラは大好きでしたし、現在もカメラは手放せない一人ですが、あの数を頼みと しているかのようなカメラマン達の習性には抵抗感を禁じ得ません。
話を元に戻して、私が絵に描くサクラは私が探し、出会ったものでなければなりません。まあこれはサクラならずとも同じなのですが、こ
うして見つけたスポットの多くは何でもない集落の片隅だとか、畑地や疎林の傍らとか、或いはその名も知れ渡っていないお寺の境内とい った場所が大半です。田舎だと、学校はその跡地も含めてほぼ例外なくサクラが咲き誇っています。そこにはサクラに寄り添った歴史とか 生活が刻まれているわけです。それは全国どこに行っても同じでしょうが、八ヶ岳山麓ならではの特徴的なサクラの風景と言えば、その多 くが背後に残雪をいただいた山を配しているということでしょうか。この山麓に絵心を誘うそんなポイントがたくさんあることを改めて知ること ができたのは嬉しいことです。この春はそういうサクラとのいい出会いをたくさんしつつあります。むろん、花の命は短く、その上この八ヶ岳 山麓は広大なので、サクラが咲いている期間は高低差がある分だけ長いとは言え、結構忙しく走り回らねばなりません。View hunting には 貪欲な私ですから、ついあれもこれもとなって必然カメラの力を借りることも多くなります。加えてサクラの季節には雨が付き物、雨ならずと も曇天ともなればあのサクラの輝きは半減してしまいます。そういう点でも儚いものですね〜、サクラというのは。そんなこんなで今年のサ クラのあれこれ、サクラに触発された画のいくつかをこれから徐々にお披露目させていただきますので、お楽しみ下さい。 →2011年春の作 品
○ 今年も春の訪れが(4月14日記)
大震災から一月、私たちは相変わらずTVに映る被災地の映像を見ては一喜一憂し、溜息と祈りをない交ぜにした状態ので春を迎えて
います。私の住む八ヶ岳山麓の千b付近ではまだサクラは開花していませんが、コブシの白が冬枯れ色の森を彩り始めました。今年はコ ブシの当たり年のようで、明らかに昨年とは違う花の付きようです。あと一週間もすればサクラも開花を迎え、その頃になるとモモやスモモ なども一斉に色づいて、春爛漫の様相を呈します。自然は時に計り知れないほどの牙をむきますが、いつも変わることなく美しい四季を運 んできてもくれます。今年はそんな春のスケッチのタイミングを待ちきれずに、私は春の画を描き始めました。全て私の引き出しにあった春 の画題を元にして描いているのですが、とにかく明るい画を描きたいという気分が強かったのです。大震災による暗い気分を払拭したいと いう思いと、今ひとつには私自身が遭遇した思わぬ事態もあってのことです。それは、高血圧が災いした左側脳室内出血という思わぬ疾 患で、そもそも不摂生のしっぺ返しとも言うべき事態でした。こちらの方はその後脳外科の先生から経過状況も良くもう心配はないとの診 断を得ているのですが、そんなこんなで私としては生への執着が自ずと高まったものか、明るい画を描きたくなっていたようです。4月に入 って展示したサクラ2点と本日アップした早春の川の表情を描いた1点は、そんな背景があって描かれた作品です →2011年春の作品
サクラと日本人というのは不思議な間柄ですね。ほんのいっとき春爛漫を周囲の誰よりも高らかに告げたかと思えばはかなく散ってし
まう・・・そんな淡泊さを愛する日本人のメンタリティーというのは、やはり私たちが共有するDNAのせいなのでしょうか。そのサクラを描くと いうのも一種不思議な体験と言えそうです。通常風景画として描くサクラは、誰もがよく知っているサクラの花の一輪一輪ではなく、サクラ の樹全体の形や枝振りなど、サクラの樹形であることが殆どです。そしてまさしく日本人の愛するサクラとは、多くの場合こうした姿とかそ れが醸し出す風情にあると言えるでしょう。それがソメイヨシノでもエドヒガンでも、或いはヤマザクラであっても、形や色の違いを越えて共 通するこうした風情を私たちは愛しているのです。であるにも拘わらず、多くの日本人にとってそうしたサクラの樹形となると、皆さん花の形 ほどには確たるイメージを持ち合わせていないように思われます。例えば生徒さんにサクラを描かせると、こうした姿を捉えるのに結構苦 労しているようです。どうしてなのか、ちょっと考えるにサクラの姿というものはある種雲がたなびくようなフワッとした感じです。淡いピンク の樹形は、多くの場合それ自体が存在を主張しているわけではなく、その背景の中に自らの姿を浮かび上がらせていると言った方が当た っているでしょう。私たちは無意識的にせよ、その背景との調和の中でサクラの姿を捉えているわけです。この、サクラが周囲との調和に よって生かされるという点も、日本人のメンタリティーに適っているのかも知れません。
サクラ余話のようになってしまいましたが、このたおやかさ、この高貴、この爛漫さを、今年も描けるのは春の大きな楽しみです。
○ 春近し、されど・・・(3月21日記)
今日は3月21日、春分の日であったと今朝気付かされました。巨大地震と巨大津波の悲劇によって、暦というものが何とも空しく、しかし
時は確実に経過ししていて決して止まったりはしません。我が家のデッキ下にはフキノトウが数えるともう10個以上芽を出しています。思 い返せば16年前、同じような感覚を抱いたのが当時の関西淡路大震災と、それに続いて起こった地下鉄サリン事件でした。相次ぐ大事 件のあった年が、やはり春を間近にした頃であったのは、何という皮肉な巡り合わせであることでしょうか。しかし、今回の東北関東大震災 はその規模と被害者数において、そのいずれをも凌駕する空前絶後の天変地異です。目下のところ原発事故がこの未曾有の災害を一層 深刻なものとしています。私たちはその動向を報道で知り、救済の様子に一喜一憂しつつ、そして計画停電やガソリン不足など多少の不 便を凌ぎつつも、春に向かった日常を送ることができるのです。被災地のことを考えれば不遜な言い方かも知れませんが、改めて幸運を 噛みしめざるを得ません。
今回の大災害で海外からは前例のないほどの励ましと援助の意志が伝えられる一方で、希代の災害に見舞われながらも冷静さと団結
心を保つ日本人に対する賞賛が寄せられています。特に知人が送ってくれた韓国の人民日報社説は印象的でした。
以下、その要旨を抜粋します。
「・・・・・ 日本列島が連日、地震、津波、原発危機に呻吟しているのだ。もっと驚くのは不思議なほど冷静な日本人だ。 死の恐怖の中でも
動揺しない。 避難要員に従って次々と被害現場を抜け出し、小学生も教師の引率で列を乱さず安全な場所に移動した。 地下鉄・バスの 運行が中断すると、会社員は会社から支給された緊急救護物品をかついだまま静かに家に帰った。 みんな走ることもなく3−4時間ほど 歩いた。 翌日はいつも通り会社に出勤した。 想像を超越した大災難と日本人の沈着な対応に全世界が衝撃を受けている。 私たちは大 規模な自然災害が過ぎた後に発生する数多くの無秩序と混乱を目撃してきた。 昨年22万人が犠牲になったハイチ地震がその代表例 だ。 「地震よりも無法天地の略奪と暴力がもっと怖い」という声が出てきたほどだ・・・・。
・・・・・ 日本人は沈着な対処で阪神・淡路大地震を乗り越えて自ら立ち上がった。 今回の大地震の傷もいつか治癒されるものと信じる。
むしろ私たちは日本を見て、韓国社会の自画像を頭に浮かべる。 災難現場でテレビカメラが向けられれば、表情を変えて激しく泣き叫ぶ ことはなかったか。 天災地変のため飛行機が少し延着しただけで、一斉に大声で文句を言うことはなかったか。 すべての責任を無条件 に政府のせいにして大騒ぎしたことはなかったか。 隣国の痛みは考えず、韓国に生じる反射利益を計算したことはなかったか…。 私たち は自らに厳しく問う必要がある。 また災難と危機の際、韓国社会の節制できない思考と対応方式を見直す契機にしなければならない。 私 たちは依然として日本から学ぶべきことが多く、先進国へと進む道のりも遠い。」
さて、ここに書かれているように、私たちの行動は十分称賛に値するものでしょうか? むろん被災地の様子や賢明な救援活動を報道で
知る限りは然りと言えるでしょうが、その一方で"すわ"と買い占めに走るような事態はその限りではなさそうです。かく言う私も、震災のあっ た翌々日、単一電池の在庫がなかったためにいくつかの店頭を探し回る羽目になり、その手当がならないまま停電のないお隣の長野県ま で出向いて漸く発見、その店で残り僅かな電池パックを必要以上に買ってしまいました。反省。誰しも備えは十二分にしておきたいもので、 特にこうした大災害のあとではなおさらその心理が働くのは否めません。しかし・・と一呼吸をおく余裕が大事で、それこそが冷静な態度と 言えるでしょう。私たちは災害後日時を経過すれば現状の多くを報道で知り得るわけですし、一人一人の冷静な生活態度がいま如何に求 められているかも判断しうる立場にあります。人民日報や他の国々の賞賛に本当に値するかどうか、反省も込めて今問われているのは私 たち一人一人とも言えそうです。
○ 未曾有の大地震、大津波(3月13日記)
概ね何事もなく、ただ日々や四季折々のちょっとした変化に身をやつし、世間の喧噪を眺めたり、ときに少しばかり身を以て感じたりと、
私たちの生活はそんな事々の積み重ねです。それがあるとき何の前触れもなく襲ってくる天災。一瞬にして何千、何万の人たちの運命を 変えてしまう未曾有の事態。そういうものが確かにあることを歴然と示してくれたのが今回の東北関東大震災です。途方もない被害の全貌 は未だ知れない現在、遠く八ヶ岳山麓に暮らしている私は言ってみれば傍観者に過ぎないのですが、日々TVに流れてくる情報に見入って しまうのは、或いは同じようなことが何時か我が身にも起こるかも知れず、だから・・と言うべきか、傍観者と言うよりも何処かで我が身に置 き換えて推移を見守らざるを得ない気持ちになるのかも知れません。先にクライストチャーチの地震について書きましたが、その記憶も消 し飛んでしまうくらいの災害が、この小さな日本列島の中で起き、現に進行中です。それは世界が注目している事態であり、ましてや日本 人なら誰しもが目をそむけてはならない現実と言えるでしょう。個人的にはせめて義援金に協力するとか、停電など多少の我慢は惜しまな いことくらいしかできません。あとは祈るしかありませんが、この際、政治も産業経済界も気持ちを一つにして難局に対応して欲しいもので す。まさにこの空前絶後の災害をどう乗り越えていくか、そこに国民生活の当事者である私たちも関心を寄せ、協力できることは些少なり とも実践してゆくことが、今問われているのだと思います。世界もまた、その点に注目しているのではないでしょうか。
私のHP、私の体験を書こうと思ったのですが、震災当日は震度5弱の揺れと翌朝までの停電があった程度。その後我が家では給湯
設備に故障を来してお湯にありつけないといった事態となっていますが、被災地のことを思えばいたって平穏と言える日々です。また機会 を見て綴ってみたいと思います。
○ 徒然なるままに(2月25日記)
・ クライストチャーチの大地震
それこそ何気なくTVを見ていて"クライストチャーチにM6.3の大地震"のテロップが流れ、驚きました。エッ、NZに地震があるの?はじ
めはそんな疑問に駆られ、そういえば友人夫妻がクライストチャーチに滞在しているけど大丈夫か?と思いを巡らせました。この街への親 近感は、私ども夫婦がもう30年も前にNZ旅行をした折に立ち寄って一泊したからです。当時私らはシドニーに駐在中で、正月休みを利用 してNZの南島を旅したのでした。落ち着いた市街地や水と緑に同化したかのようなクライストチャーチの佇まいに、海外に住むのだったら こういう所がいいと二人とも思ったものでした。戸建て住宅はどこも庭自慢で、通りがかりの我々にも"庭を見ていかないか"と進めてくれま した。あのあえなくも崩れ落ちた煉瓦造りの教会は、まさしくこの都会を象徴する存在でした。いい印象ばかりだったので、深い傷口を負っ たこの街の映像をTVで目にすると、本当に痛々しく思われます。それにしてもNZは地震国であったのに建物の耐震性とかはどうなってい たのでしょうか。そんなことよりもいまは日本人をはじめ多くの犠牲者への哀悼の意と、多くの行方不明者に対する救助の手が最大限及び ますよう祈るばかりです。先の友人夫妻、郊外に住んでいて無事であったことは3日後に確認できました。漸く電気が復旧したとのことで水 はまだ、ライフラインの断絶は経験してみないとその不便さは想像を絶するそうです。
・ 表現は須く翻訳である。
シェークスピアの全訳をライフワークとしている松岡和子さんは、高校時代の同級生です。親しい友人の中で有名人といえば、私の場合
は彼女くらいでしょうか。その彼女が先日NHK教育ChのN響アワーにゲスト出演しました。"音楽家はシェークスピアがお好き"というタイト ルだったか、"ロミオとジュリエット"や"夏の夜の夢"をはじめ、いくつかのシェークスピアに触発された曲を取り上げて、音楽とシェークスピ アの係わりを演奏とトークで語り継いだのですが、友人が出演しているということは度外視しても、とても興味深く面白い中身でした。中で も、番組の最後に司会の西村氏が「松岡さんにとってシェークスピアとは?」と質問し、それに彼女が「言葉によって世界を作った人」と答え たのに続き、彼女が語った言葉が印象的でした。それは、表現というものは芝居や音楽を作ること、ものを書くことや話すことなど、何につ けても翻訳だと思う・・・と語った下りです。五感で捉えたものを脳細胞で咀嚼し、それを表現するという表現に繋がる一連の行為は翻訳で あるということです。なるほど言い得て妙!それは彼女が長らく翻訳という仕事に付き合い我が身に染みこませているからこそ出てきた言 葉でしょうか。それに、私は絵を描いているので、これはなおさら共感できる言葉です。絵をどう描くかも個々人の翻訳作業によるもので す。その仕方は人様々で、そこに個性が存在します。私も教室をやっていますが、生徒さんに教えていることも、筆使いだとか色の出し方 とか技術的な事柄は、そうした翻訳の領域に立ち入っている部分も相当あると言えます。むろん、個性そのもの、つまりは翻訳の本質は 教え用もありませんが、一通りの表現法=翻訳の技術を教えていると言い換えてもよさそうです。ところで、言葉とは人間の本質であり、文 化や文明の源泉でもあるわけですが、しかし言葉以前に人間は絵を描いていたのは、世界各地で発見されている洞窟画で明らかです。誰 の本だったかホモサピエンスは同時にホモピクトルスとも言えると書いてありました。絵を描くという表現手法は、人類にとって言葉以前か らの大事な翻訳の仕事であったわけです。だから何? と問われると・・・ん、返す言葉もないのですが、何かと連想を膨らませてくれた彼 女の言葉だったという次第です。
・ 春の兆し・・でもその前に
これを書いている今日は、ここ山麓でも日中の気温が10度を上回るという暖かな一日です。例年にない量の花粉が飛ぶという気象情報
も、いよいよ現実のものとなるようで気になり始めました。私も軽度の花粉症患者で、昨年は何ともなくやり過ごせたのですが、今年はそう はいくまいと腹だけはくくっています。
話は前後しますが、今週月曜日の朝にかけて降った雪は、当家で30pほどの積雪となりました。それも殆ど溶けてしまっているのです
が、実はその積雪の朝、私は雪かきも割愛してクルマに飛び乗り、ここ久しく飢えていた雪景色を仕入れようと、川上村探索に出かけたの です。こちらは少なくとも50pは積もっていて、走る先々で雪かきの雪上車に出会いました。お目当てのポイントがいくつかあってそれらを 回ってみると、期待外れの所あり、期待に違わぬ所あり、しかしそれ以上に、予期していなかった雪と光の織りなす光景に出会えたのが嬉 しく、やはり多少冒険でも来てみなければ始まらないとつくづく思った次第です。八ヶ岳はあと少しで赤岳の頂上も雲間から見えるのに、と いった天気でしたが、これはものにできるという画題も結構仕入れることができました。現在はそれらを絵に起こし始めているところです。 当日は勢いづいて、いっそ信州峠を越えて増富の方に抜けてみようという気になり、漸く雪かきを終えて一車線だけ確保された峠道を走っ てみました。すれ違いするクルマがなかったので事なきを得ましたが、まあこんな日にカメラをぶら下げて嬉々として飛び回っている人は皆 無。こういうときが、やっぱり私は他人とは違った変わり者かと感じるときです。峠を越えると何と雪の瑞がき山がその全貌を見せてくれて います。これは滅多にお目にかかれない光景と、夢中でシャッターを。
タイトルは春の兆しでしたが、そこまで引き返すことができそうもないので、この辺りで打ち止めとします。雪は通常3月に入ってからドカッ
とくることが多いのですが、冬らしい降雪となるとどうもこの日のものが最後となるかも知れません。
○ 冬の山麓余話(2月14日記)
今年は寒いといわれた通り、当家付近(標高千b)の山麓でも1月は最低気温がマイナス10度前後まで下がることも珍しくなく、その一
方で本当にドライな日々が続きました。それが2月も上旬を越す頃になると寒さが緩む反面、今度は降雪の日々が続いています。太平洋 低気圧が列島沿いに北上する冬の気圧パターンが戻ってきたためで、当地でも先週末に25pほどの積雪、本日(月曜)になると、一旦溶 け出したところにまた雪です。ニュースでよく都会の気温が零度を下回ったとか、積雪があったとか騒いでいる事態を取り上げています が、私らとしては心中せせら笑うしかありません。かく言う私らももまた、雪国の人たちからすれば、大したこともない事態に何を一喜一 憂・・・とせせら笑われているに違いありません。
雪が降ると、我が家は俄に野鳥の飛来で賑わいます。山の食糧事情が悪くなると我が家に限らず餌台が置いてある家屋地帯へと野鳥
たちの大移動がおこるのです。こうなるとヒマワリの種の需要も急増、買い置きしている分は一挙に減って、人々は店頭に買い出しに、そ してたちまち品薄という事態を招きます。私もいつも買う店に行くと、この雪で品切れということで、入荷を待たなければなりませんでした。 野辺山とかさらに先の小海町辺りからも買いに来るお客さんがいるそうで、遠方の方は10キロ詰めを何袋も買い求めて帰るとか。人間が かなりの数の野鳥を養っていることになります。こうなるともう野鳥とは言えないのかも知れませんが、何はともあれ、こうも野鳥たちが集ま ってくると、ついついカメラを取り出しては撮影してしまうのも山麓の冬ならではのことです。つまりは、これと言って取り急ぎやることもない 冬の日の"ヒマ"つぶしを、野鳥たちがちゃん演じてくれるというわけです。この日はシジュウカラやヤマガラといった常連さん、カワラヒワや スズメなどの団体さんに加え、珍しいところではマヒワが混じっていて、シメやアカゲラもやってきました。今年はまだイカルやアトリの飛来 がなく、毎冬目にしているホオジロもまだ見ていません。その一方で、最初は山鳩かと間違え、その後シロハラと同定できた鳥がやってき たりもしています。野鳥の世界で何が起こっているのか、鳥たちがトゥイッターをやっているわけではないので知るよしもありませんが。
余談ながらこのトゥイッター(twitter)、日本では"つぶやき"と称されていますが、この言葉自体は本来"さえずり"(または"さえずる")を
意味しているはずです。英語の辞書を引けば一目瞭然のことで、"つぶやき"にはれっきとした他の英単語があります。ネット上もて囃され ているトゥイッターは、本来小鳥がピーチクパーチク囀っている様から来ているはずで、これが日本では"つぶやき"となってしまい、そうな るとやや重く暗いイメージになってはいないか?と不審に思っているのは私だけでしょうか。どうもこのITやネットの世界には、腑に落ちな い日本語表記があって、私は"だから信用がおけぬ"などと勝手に思っている少数派です。
野鳥の写真を何枚か載せてみました。
ここから上↑ 2011年〜
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