山麓絵画館


フィールドノート2019〜2022


これ以降は2023年〜

〇2022年 空の記憶(12月23日記)
 今年も空を見上げては随分とシャッターを切ってきました。空はドラマ、空は雄弁、空は季節の語り手・・・などなど、私たち の頭上はドラマティックな舞台が幕を閉じることがありません。

スマホ撮影
そんな空を、正確に言えば、そんな空に漂う雲を写真に捉えてきたわけで、撮影は大半がスマホです。引き伸ばしたりどこか に展示する意図もないので、露出だピントだといった面倒なチェックをしないで済むし、いつ何時も何処にいても、いいと思っ た瞬時に撮影できる気軽さがスマホの最大のメリットです。その反面、これは雲の写真に限ったことではないのですが、スマ ホ撮影での最大の弱点はファインダーの見にくさから来る構図の取り難さにあると言えるでしょう。ついつい広角気味に捉え てあとでトリミングといった傾向になってしまうケースが多いし、こんな瞬間を捉えたという実感が35ミリカメラほどはないの が、心許ない点です。もうひとつ留意すべきは、スマホの画像作りにがとにかく"きれいに""ブレなく""最適露出で"・・・といっ た設定がされている関係上、どんなショットでも絵ハガキ的な仕上がりとなってしまうことです。ですので、私はいつもなるべく 自然な仕上がりになるように、撮影した写真はスマホの編集機能を使って調整します。過度な鮮やかさとかブリリアンスは抑 えるとか、写真によっては明暗夫々の領域での見え方に多少の変更を加えたり・・・とにかく人工的なキレイさを抑えてより自 然なキレイさにトーンダウンさせるわけです。構図については、地上の風景を効果的に取り込むと空が引き立つようで、私は そんな作画を心掛けています。

★その表情は無限大
 撮影テクニックの蘊蓄はさておいて、肝心な空の表情、雲の表現はいつも驚きと感動に満ち満ちています。そして特筆すべ きは、そんな空の表情は常に変化していて一刻たりともじっとしてはいないというところでしょう。ちょっと目を逸らしている間 に、雲の位置も形も変化しています。束の間の変化が重なって大きな変化に繋がっていくわけです。まるで人生を物語るよう で、そこに空の尽きない魅力の源泉があると言えるのかも知れません。
 そんな表情を少しでも掬い取ろうと、何枚も何枚も写真に撮るのですが、写し尽くすことは到底不可能ではあります。せめて 記憶の断片だけでも・・・と数多くの写真から抜粋して並べてみることにしました。題して「2020年 空の記憶」。ドラマの断片 をご覧ください。全ての写真は、我が家のごくごく周辺で撮影したものです。


冴えた冬空に八ヶ岳下ろしがつくる高積雲が(2月)

春めいた青空に漂う飛行機雲(3月)

春霞みの空に漂うちぎれ雲(3月下旬)

初夏の入り陽(7月)

いよいよ積乱雲の季節に(7月)

次々と積乱雲が誕生(8月)

積雲の合間に秋の入り口を臭わすような高い青空が(8月下旬)

高層のうろこ雲(9月)

風で空に溶け込んでいくような羊雲(10月)

秋の陽はつるべ落とし(10月)

また八ヶ岳下ろしの季節に〜レンズ雲誕生?(11月)

空は冬色〜山際では雪雲になるような綿雲が(12月)







〇たまにはフィールドのことを(12月12日)

 時々これを書きながら、ここはフィールド・ノートの場であったことを思い起こします。
そうなのです、フィールドと言っておきながら、肝心のフィールドの記述がどうも少ないのではないか、という反省です。振り返 れば、独りじっくりと戸外に身を置き、風景との対話に時間を費やしたり、描いたりしたのは、どうも今年の春辺りが最後だっ たように思えます。その後の戸外での時間は、大半が教室のときのスケッチのときくらい。やはり個展を控えて何かとやって おくことが目白押しにあったせいでしょうか。しかしどうも、この傾向は今年に限ったことではなく、ここ数年のことのようにも思 えます。移住して17年、当初の目にするもの全てが新鮮で胸に迫るような感動は、時とともにすり減っていったのは仕方ない ことではあります。

★ある画家の言葉が・・
 それで思い出すのは、移住前に立ち寄った山麓のある民家でのことです。須玉町のどこかで、名前は忘れましたがその民 家にはかつて住んでいた画家の風景画が展持されていて、印象深かったのは、絵そのものよりも添えられた一文の方でし た。そこには、当地を去ったのはここで描くものがなくなったから、という趣旨のことが書かれていたのです。つまり、当地の風 景は殆ど描き尽くし、最早絵を描くモチベーション足り得なくなったと言っているわけです。そんなこともあるものだろうか、ある とすればそれは、風景へのまなざしの方に限界があったせいではなかったか・・・とそのときは思ったのでした。同時に、最上 川ばかりを終生描き続けた東北の画家とか、富士の写真を終生のモチーフとして追求し続けた写真家のことを思い浮かべた りもしました。いくら描いても描き尽くせない風景とか風土というものは、その存在の有無よりも、それを掘り起こす描く側にあ るはず、という想いでした。

★自己開発意欲は健全
 再び私自身の話に戻して、時とともにすり減っていく感動と書いたのは、このこととどう関係するのか、とうことです。私もま た、この地を去ったあの画家と同じ状態になっているのか。そんな想いも頭を過ぎらないでもありません。しかし、一つだけ確 かに言えることは、もっといい絵を描きたいという自己開発意欲は今もって1oも損なわれてはいないということです。そしてそ の意欲を追求し続ける場所がこの地であっていいかと自らに問えば、そこは一向に問題ないとも言えますが、その一方で、ど こか他の場所には求められない、とまでは言い切れない自分がいるのもまた事実です。しかし、この点を突き詰める以前の 問題として、足蹴く外に出て無心に風景との対話を図る時間を、いつの頃からか端折ってきているのも事実のようです。理屈 はさておき、いろいろな出会いを求めて出かけてゆかねばと改めて思います。
 今度はこんな風に描いてみたい、こんな色彩感を出したい、こんな雰囲気を添えたい・・・絵心を満たす引き金となってくれる のは、一陣の風かもしれないし、ひとひらの雲かも知れない、風景の片隅に動く人影かも知れません。初心に返ってそんな一 瞬と出会いに行くこと・・それがこの18年目というタイミング、そして久しぶりの個展を終えた今でこそ、心新たにすべきこと と、自らに言い聞かせなければなりません。

 最後に筆者のつぶやきを一つ。本来このフィールドというのは、戸外というそもそものouter worldだけではなく、描くことの 様々なinner worldも含めての意味合いであってもいい・・・と、今度は開き直るようですが、今後とも自由に書いていきたい、と 結論めいたことを書き添えておきたいと思います。


〇作品にバイバイ(11月27日記)  

 個展も終わったある日、友人とのメール交換で次のような質問を受けました。
「丹精込めた絵を手放すのは、心残りとか勿体ないといった気にならないのか?」
私は答えました・・「売れた絵を送るときは、バイバイ・・といった感じかな」。
続いて折角の機会だったので、少し遡って心境の変化のようなことを書きました。

初の個展で
 初めての個展(2002年)を日比谷の山形画廊で開催したときのことです。私はどういう値段を付けたものか、皆目見当が つかないまま、全くの一存で値付けをし、絵毎に明記して展示したのでした。蓋を開けてみると、思いのほか買いたいという声 が多く次々と売約に至ったのです。一番慌てたのは他ならぬ私自身で、その時の素直な感情は、嬉しさ以上に、「これはいけ ない。手をこまねいていると絵が手元からなくなってしまう」というものでした。慌てて取った行動は、残った絵の全てに"売約 済み"のマークを付けることでした。個展を終えて私が真っ先にしたことも、売れた作品をせめて複製という形でもとっておき たいと思い、銀座のさる専門店に複製の制作を依頼したことでした。今にして振り返ると、20年前には現在にようなデジタル 技術がこの分野にまで及んでいなかったこともあってか、この複製の出来はかなり劣悪なものでした。 

言われた一言
 それから暫くしてある御仁から言われたのは、「絵が手元から亡くなるのを惜しんでいては、いい画家にはなれない」といっ た趣旨のことでした。この一言はその後の絵描きとしての心構えに変化をもたらすきっかけとなりました。なるほどそうか、描 き終えた作品に未練を残していては、次なる創作の意欲を削ぐことになる。そういう示唆であったかと気付いた私は、以後少 しずつ割り切って、絵をお買い上げいただいた方へ感謝と気持ちを込めて、絵を送り出すといった心境に変わっていったので す。
 余談ですが、初回の経験を踏まえて臨んだ二回目の個展では、絵の売れ行きは初回ほどの勢いではありせんでした。やは りビギナーズラックのようなものもあったのでしょうか。売約という点ではそれでも一定の実績をキープし、その後の個展では 徐々に落ち着いたレベルになってゆきました。そしてありがたいことです、お買い求めいただく方々が常におられることは。そ れがどんなにか絵描きの励みになっているか、絵描き本人にして身に染みて分かることでもあります。

バイバイと送り出す
 元々私の絵は、部屋に飾ってもらうことを前提にして、これに相応しいサイズの絵とすること貫いてきました。言うまでもなく、 個展は丹精込めた作品を皆さんにご覧いただく場であります。それと同時に、作品の売買という点では、購入希望の方と作 品のお見合いの場でもあるわけです。婚儀が整えば、育ての親たる作者にとっても、嫁たる絵にとっても、新しい親御さんとな る購入者にとってもめでたいに決まっています。そして親たるもの、愛情を注いできた娘を送り出すときは、冒頭に書いた"バ イバイ"どころの心境では収まらないでしょう。まあしかし、そこは一個の作品なのです。”どうしても我慢できなければ戻ってお いで”などと言ってはいけないのです。私は部屋に飾ってみたくなると思えるような絵を志向して描いてきたのですから、欲しい という評価を得られるのは絵描き冥利に尽きることです。多少の未練は覚えつつも、喜んで"バイバイ"と送り出す・・そういう 心境に今はなっているという次第です。そして今回の個展でも、6点にバイバイをしました。嬉しいバイバイでした。

 もう一つ余談ですが、友人は、ゴッホにしてもフェルメールにしても、手放したくなくて終生大事にしていた絵があるという話を してくれました。作品への愛情とは他人が推し量れないものがあるようだ・・と言うのです。分かる気もしますが、それは絵に限 らず全ての創作者にとってのエゴとして、付いて回るものかもしれません。

 とここまで書いてきて、誤解を生むといけないので再度付言しておきます。絵は先に書いたような嫁入りが敵ってなんぼとい うだけのものでは決してありません。絵をご覧いただき、感動してもらえる、いい出会いであったと思っていただく・・・それが個 展本来の目的であり、開催する側の願望であることに変わりはありません。自分の作品を通していろいろな出会い、多くの触 れ合いが生まれる・・あと何度できるか分かりませんが、私の個展とはそういう場でありたいとずっと念じています

〇 2022年個展を振り返って(11月14日) 

5年ぶり、80歳の節目
 このタイトル、5年と80歳は、今回の個展案内に使ったキャッチフレーズで、ちょうどそんな数がめぐり逢うタイミングでの個 展でした。5年ぶりの方は、元々は前回の個展(2017年)からそれほど間を空けることなく開催する積りで、現に2021年6 月に同じ県立図書館を予約していたのですが、コロナの関係で施設が閉鎖され中止の止むなきに至った経緯がありました。 そして80歳の方は、前回の個展以降歳相応にいろいろありまして、このFノートでも書いた心臓発作による二度の入院やら、 緑内障などの手術やら、その諸々を乗り越えて80歳を迎えることになったわけですから、これを節目と言わずと何なのか・・ と思ってのことでした。それで、急遽会場を予約、以前から目を付けていた甲府駅から直ぐの「元麻布ギャラリー甲府」を訪ね ると、空いていたのは11月1日からの1週間のみ。週の間に休日が入る行楽シーズンたけなわの週なのが難点でしたが、こ れを逃してはならじと予約をしたのが6月末のことでした。

たくさんの作品
 この5年の間に描いた作品は実にたくさんあって、この中から40点に絞り込むのは、大分骨の折れる作業でした。考えて みれば、この5年は身体の不調から立ち直り、さあこれから波に乗ってと思ったら今度はコロナというパンデミックです。世の 中生活も仕事もコロナシフトとでも言うべき経験したことのない事態の中で年月を送ることになりました。しかし八ケ岳山麓と いう自然豊かな場所は、独りでうろつくにはコロナなどどこ吹く風かといった稀有な舞台です。世の中から距離を置く形で(普 段からそのけはあるのですが・・)絵を描き続けることができたのは、まさしくこの場所柄故と言えるでしょう。それで、手元に はたくさんの絵がたまっていたという次第です。今回の個展の副題も、やはり「八ヶ岳山麓から」とするのが自然で相応しいも のでした。

個展に向けて動き出してみると・・
 夏も過ぎ去ろうという頃、そう言えば個展までのタイムテーブルなるものを作っていたことを思い出し、久しぶりに必要なこと を並べ立ててそれを作ってみました。案内先名簿の整理から始まり、DMなどなどの作成と配布、マスメディアへのPR、会場に 見合った展示数の把握、展示作の選定・・・時間を喰う作品の額装が始まる前に手を付けておかねばならないことが、山ほど あるではありませんか。加えて、疲労の管理という前回の一番の反省点を踏まえ、搬入から開催中の受付など、潤沢な助っ 人の手配も必要だし、隣接したホテルの予約も必要です。こうしてお尻に火が付いたのが8月のこと。5年のブランクは、この 辺のペース配分をも忘れていたようです。自ずと前のめりにことを運ぶという状態に陥り、会期の始まるひと月前には案内の DM配布に踏み切るという、後で考えると集客効果の上では逆効果となりかねないタイミングで事を運んだりもしていたのでし た。しかしそんな中でも、もう1,2点新作をものにしておこうという気になって、筆を取ったりもしたのは一体何なのでしょう?

幕が開け、7日間が過ぎ・・・
 大勢の助っ人の手を借り、私は疲れたらすぐにでも隣のホテルにシフトして一休みできる態勢を敷いての個展が始まりまし た。月並みですが、7日間は長かったようで短かったようでもあり、しかしそんな風にして終わって一番思うことは、人との繋が りの大切さという一事であります。一つには、個展という一仕事は、自分ひとりの力では決してできないと、改めて実感したこと です。黙々と作業に精を出してくれた人たち、自分事のように会場に気配りをはらってくれた人たち・・こういう人たちの助けあ っての個展でした。もうひとつこれは何時も感じることですが、個展を盛り上げてくれるのは、観てくれる人たちの熱量です。総 じて今回の来場者数は、場所柄か時節柄か前回よりかなり低調ではあったのですが、ご来場いただいた多くの方々の発する 熱量という点では、決して前回に引けを取らないものがありました。作品との対峙が引き起こす化学反応が、大きな熱量とし て私に伝わってきた、ということです。手前味噌を承知で書くと、居並んだ作品に接した多くの方々が、"あなたはお若い"と言 ってくれました。むろん、80歳にしては・・という接頭語が付いてのことでしょうが、作品の持つエネルギーがそう言わしめてく れたとすれば、これは作家冥利に尽きるところです。
 人との繋がりという点で今回特筆すべき事は、東京など遠路駆けつけてくれた方々が大勢おられ、大いに勇気づけられたこ とです。銀座や京橋の個展以来ずっとご愛顧いただいている人たち! 長い空白を埋めてくれる懐かしい再会! お互いの 健在を讃え合える仲間たち!嬉しい再会を数多く経験することができました。 そしてお越しいただいた県下や地元の方たち からも、変わらぬ激励とお褒めの言葉を頂きました。思えば、これぞ個展の醍醐味!と言えるものを、この節目の個展で十 二分に味あわせてもらいました。この場を借りて、ご来場いただいた方々に、心よりお礼申し上げます。

 一週間の都会暮らしから戻って我が家周辺を見回してみると、秋はすっかり深まり、早くも通り過ぎつつあるような気配でし た。散歩の傍ら撮った写真を何点か掲載します。
         

○メッセージ (9月17日記) 

 以前書いたことのある安野光雅の著作「原風景の中へ」(山川出版社)に再び触れます。私が枕元に置いてある何冊かの 本の一つで、もうどの項も何度も読んでいるので中身は知っているのですが、折に触れパラパラとページを手繰ってはそこに ある絵と文章を楽しんでいます。
 この本は、週刊新潮に連載されていた氏の絵と文章を単行本化したもので、1年近くにわたって日本各地の原風景を訪 ね、そこで取材した絵に文章を添え、夫々が見開きのページに載せられていています。絵は、その土地夫々の風土に触発さ れた自在なタッチで描かれていて、画風や色彩感はどれひとつ同じものはありません。まさに、氏がどこかほかの著作で書い ていた"津和野を描くのではなく、津和野で描く"のように、その場で得たインスピレーションがそのまま手を伝って絵となった ようなものばかりです。文章もまた氏特有の暖か味のあるユニークなもので、現場で見聞したエピソードも交えて書かれてい ます。例えば、銚子に行ったときは、笹川という地名に触れ、地元ゆかりの任侠、笹川一家と敵対する飯岡一家との因縁の 一戦に話が及び、用心棒の平手造酒も登場してチャンバラの模様が書かれていたりします。
 この取材は氏が80才を越えた頃のものでしょうか、氏の好奇心や遊び心はますます旺盛で、ときに子供帰りをしたような奔 放さがこの本の心地よさでしょうか。まさに大人の絵本として、現代人がどこかに置き去りにしてきた記憶を呼び戻すような読 み心地と言えるでしょう。最後の項には、取材に同行して何かと面倒をみてくれ、ときに自慢話も聴いてくれた記者への次の ようなお礼の二行が書かれています。
   "最後に、感謝を込めて新しくつくった歌をあげたい。
    「言いそびれたる言葉あり/君を忘れじ いつまでも」"

 何と心温まるメッセージでしょうか。これを読んだ記者の気持ちがいかばかりだったかが察せられますし、この取材の旅が どんなに楽しいものであったかも伝わってきます。同時に、この記者は女性だったに違いないとも思い、さらには、こんな取材 旅行なら私もしてみたいと、叶わぬことながら思ったりもするのでした。



〇友達、トモダチ・・(8月21日記)

 私は、自分の水彩作品紹介の場として、このHPに加えて4年前からfacebookを利用しており、現在は月に2〜3回程度、 facebookに新作をアップしています。ただ、未だにこのFブックには馴染み切れないところがあって、それは他のトゥールも含 めて、SNS全般に私らの年代が抱くある種の抵抗感があってのところもあるのでしょう。特に、このFブックは、友達登録をす ることで、ネットワークが広がるという性質のSNSなので、この友達なる概念というか、友達という言葉の安売り的な使用に、 気恥ずかしさとかある種戸惑いを禁じ得ないまま、一向に馴染んでいけないところがあるのです。
 ここ半年くらいの経験なのですが、何人かの特に海外常住の女性からの友達リクエストがあり、それを承認してのちに、ちょ っと困った事態に遭遇するケースが多々ありました。こちらは、絵のサポーターになってくれればと思って承認したのですが、 先方は日常的な交信相手(つまりトモダチ)をゲットしたということらしく、勢い趣味だとか近況といったいたって日常的で親し 気な会話を要求してくるのです。しかもその大半が、たどたどしい、如何にも翻訳トゥールを使ったような日本語です。この手 合いは独身女性(それも真実かどうかは定かではありませんが)で、私の作品とは何の脈絡もないまま、日常的な付き合いを 求めてくるわけで、その先にどんな魂胆があるのか、私には測りかねます。大体において、私が齢80の爺であることさえ認 識していないようで、結局のところ、私は片っ端から、この手の登録を削除し、以降同様の疑いがあるリクエストは無視し続け ています。

 このケースは極端かも知れませんが、何を言おうとしているかと言えば、ネット上での友達の安売りが、どうも友達という本 来の概念をも変えつつあるのではないか? といった危惧が、このところ富みに高まってきているからです。それは、怪しげな 海外からのリクエストに限った話ではなく、日本のSNS世代全般において感じることです。TVを見ていても、友達の数を聞か れたある若者が、SNS上での友達の数を答えていたことを思い出します。"友達登録"をすると、何某かの恩典があるよう な、そんな類の商品宣伝も見受けます。ある良識派のコメンテイターは、友達までコスパの時代になってしまったのか、そもそ も、コストとは無縁の積み重ねが友達を生み出すのに・・・と、SNS万能時代の儚さを憂いていました。けだし、同感! 私に は、こうした傾向は、例えば独身男性の4割が、デートの経験がない・・・とか、7割が恋人や配偶者がいない・・・といった統計 と、どこかで符合するように見えます。改めて何人かの友の顔を思い浮かべるぶつけ、私はいい時代を過ごしたものだと、い つもそこに想いが至るのでした。



  〇 7月に思う貴重な夏の日々のこと (7月28日記)  

 7月入りしたときは、今年も早や後半入りかと思っていたのに、7月もあと3日を残すのみとなってしまいました。7月を文月 と呼ぶのは、七夕絡みで詩歌の交換をしていたことに起因しているそうですが、何故かこの文月、この呼称とは裏腹に時の 流れが早いように感じます。ひとつには目まぐるしく変わる気候のせいがあってのことでしょう。本来7月の天気予報は難しい 月だと言いますが、今年は異常に早かった梅雨明けかとか梅雨の戻りもどき気候とか、猛暑や線状降雨帯による豪雨など、 めまぐるしい要素がたくさんありました。加えてコロナ第七波の急激な襲来は、人々から一服の安堵感に警鐘を投げかけまし た。世界に目をやっても、あの理不尽極まりないウクライナへの軍事侵略は、今なお留まる気配がありません。こうした不安 定な状況もまた、不穏な気持ちを煽っていて、それもまた慌ただしい7月の背景にあるものでしょう。その一方で、年々夏は長 期化しつつあるのも事実のようです。猛暑日は6月初めから始まったり、海外では熱波による異常事態が続出したり、地球温 暖化による仕打ちは、いよいよ色濃くなりつつあります。 

 さて、そんな中で始まった夏休み。今年もまた、足掛け3年に及ぶコロナ禍の制約から逃れられない夏となっています。人々 の対応の仕方は、幾分変化してもきているのでしょうが、子供や若い人たちに課せられた足枷は、若かりしときにこそ体験で きる貴重な機会を奪い去ってはいないかと、気がかりです。
夏と言えば夏休み、旧暦のお盆や花火大会、夏祭り・・・自由に振る舞い、想いのままに行動できた私たち世代からすると、 夏の暑さの中には、いつも非日常の濃密な時間が流れていたものです。私の子供の頃の記憶を辿っても、夏休み中の田舎 の海での生活は、1年で一番の楽しみでした。学生時代はアルバイトとそれで貯めた金で旅行するのが、これまた心躍るビッ グイベントでした。ひと夏の恋・・・なんていうのもあったりして、こうした非日常の体験には、常にない自然や人間同士の濃密 な時間が流れていたものです。ですから、行く夏を惜しむ頃は、ある種の感傷が付き物でした。情操を豊かにしていく過程の 子供や若い人たちが、そうした夏の日々から疎遠になってしまうのは、何か大きな落とし物にはならないのか。老婆心ながら 大いに気になるところです。





〇 シラカバの空(6月30日記)

 今年の梅雨は、殆ど梅雨らしい日々を感じさせないまま終わってしまいました。そして猛暑! ラニーニャのなせる恐ろしき 仕業にキリきり舞いするのは、日本だけではないようです。昨日も、南アルプス市まで所用で出かけたとき、クルマのダッシュ ボードに表示された気温は39度でした。この分だと、本来の真夏の季節にはどうなってしまうのか、高原住まいの身でも、不 安を覚えます。本来6月は、もう真夏と言って差し支えないのです。
 当地に移り住んでこの方の感覚からすると、6〜8月は夏、9月は半分が夏で、後半は大気が入れ替わって秋へ。10〜11 月が秋、そして冬は12〜3月と長く、春と言えば4〜5月とごく短命です。この春と秋が短くなったという印象は、私などの子供 の頃からすると、随分と顕著になっているのは確かでしょう。子供の頃の私は、東京と千葉県で過ごしたのですが、それにし ても、ということです。
 特に今年の6月はそれが顕著。例えば当家でも、つい先日には梅雨の肌寒状態でエアコン(暖房)をオンにしたりしたの に、今週に入ると、さしもの高原でも暑すぎるのでそろそろエアコン(冷房)をオンにしようとしている状態です。この激しさ故に 空の状態、つまりは雲の状態も変化が激しいものがあります。激しい大気の状態変化は、そのまま雲の変化を引き起こしま す。特に朝、夕は気温の変化が急激なので、空は余計にドラマティックです。そんな空を折に触れては撮影してきましたので、 ここでちょっとご紹介を。今回は、我が家の東側にあるシラカバの大木をモチーフにして定点撮影したものから抜粋してみまし た。

    
   6月7日 06:31 急激に気温が上がって靄が。           8日 17:33  まだ浅い夏の日の午後。

     
  6月18日 19;06 東の空でも夕焼けが。                     24日 19:03  暑かった日の日没頃

    
 26日 4:27  窓を開けると日の出前の鮮やかな朝焼け           30日 7;13  朝新聞をとりに行くと、垂直の筋雲が。


〇 真夜中の読書(6月26日記)  

 夜中トイレに起きてから暫くの間、私は布団に横になっても、なかなか寝付けないのが毎夜のことです。それが2〜3時とい った丑三つ時のことで、こんなときに目が冴えるのは、ひょっとして私には夜盗の血が流れているのかと思うくらいです。いや いや夜盗ではなくて、火付け盗賊改めの方か・・・などとそんなことはどうでもいいのですが、ともかくもこの時間帯が鬼門なの です。そんなとき、我慢して目を閉じていても埒が明かないので、ついつい枕元の本に手を伸ばしてしまいます。そこには小さ な棚箪笥(と言うのかどうか・・)があって、文庫本が数冊置いてあるのです。深田久弥の「日本百名山」、司馬遼太郎の「風塵 抄」(上・下)などで、座右の書とまでは行かないまでも、折に触れてはパラパラとページをめくっては、適当なページを読むの に適しています。むろん、すでに何度も読んでいる私の好きな本たちで、殆ど内容が分かっています。だから夢中で読み出し て止まらない、という事態にはならず、真夜中の読書向きでもあるのです。

「日本百名山」  
 さて昨夜のこと、例によって眼が冴えた私は「日本百名山」を取り出し、適当なページをざっと読んでみました。それは、北ア ルプスの「五竜岳」の項でしたが、この山を評してこんな書き出しがあります。
 
「北安曇野から後立山連峰を眺めると、高さは特別ではないが、山容
雄偉、岩稜俊れい、根張りの どっしりした山が眼につく。それこそ
大地から生えたようにガッチリしていて、ビクとも動かない、といった感
じである。これが五竜岳だ。」




 まさに、山への憧憬が深い深田久弥ならではの表現で、この山を言い尽くしています。さらに続いていくつかのエピソードが 書かれていて、その中には、古来この山を餓鬼ヶ岳と呼んで、餓鬼とは、累々とした激しい岩の様のことである、といったこと も書かれています。実際の登録記は最後に少しあるだけで、山を一つひとつの人格として捉えているようなところが、「日本百 名山」の優れた資質の一つであり、世に満ち溢れる登山のための山の本とは明らかに一線を画すものだと私は思っていま す。因みに、この百名山に関しては、多数の著作とか地図や写真集が出版されてきましたが、それらの殆どが登山を念頭に 置いた本なのは残念なことです。山々を多角的かつ精神風土にまで及んで言及している本が見当たらないのは、この山国日 本にして寂しさを禁じ得ません。


深田久弥という作家
 さてこの著者、深田久弥は石川県生まれ、1903〜1971年とあります。享年68歳、最後は茅ヶ岳の山頂直下で、脳卒中 のため没したということですが、この年齢は健康な山男にしては短命のようにも思えます。今の私の年齢からすると、もう12 年前に尽きているわけです。しかしこの平均寿命というのは、ここ20年で急速に伸びていて、深田久弥の没した'70年辺りで は、男で69.3 歳と、現在よりも12歳近く短命という数字なので、特に彼が短命だったとは言えないようです。そのことより も、この作家は、著作からのイメージとは随分と違って、どうも現を抜かしたのは山だけではなかったようです。愛人との同 棲、結婚と不倫、そして再婚・・・と、友人の言葉を借りるとかなりの福艶家でもあったということで、若い頃には功を急いて盗 作まがいの騒ぎまで起こした経歴の持ち主でした。かなり人間臭い経歴の持ち主ではありますが、歳を経て日本山岳会の重 鎮として、さらには名を成した作家、深田久弥があるのは言うまでもありません。私はこうした経歴を知って、モーツアルトのこ とが思い浮かびました。この偉大な作曲家も、若い頃は今でいうかなりのチャラ男だったようで、或は福艶家の部類でもあっ たかも知れません。そしてそのことと、天空に消え去るような純粋な音楽とは、何の脈絡も見えない・・・そんな出口も見えない 想像を働かせてもしまうのです。深田久弥とモーツアルトに共通した人間性を見出すなどと言う気はさらさらなく、これも真夜 中のエンドレスな空想の一端に過ぎません。こうなると、目はますます冴えてくるという次第です。


〇メモ&ノート (5月31日記)  

 日頃気に留めたことのメモからまた書きます。前回は"事と事の葉"などと洒落た見出しでしたが、要するに何でもメモの一 環です。

まぶい、ばえる、むずい、バズる、ディする・・・・
 と聞いて、私に限らす、たちどころに意味が分かった高齢者はどれほどいるでしょうか。
"眩い、映える、難い" と漢字で置き換えれば、その意味するところは明白とはなりそうです。と言っても、こういう具合に漢字 変換はできませんでしたが。それに続く "バズる=buzzる、ディする=disる" となると、buzz はブザーのことで、うるさく喚きた てるといったところ。そして dis はdisrespect" の略で、けなしたり悪口を言ったりといった意味であることが分かります。むろ ん私は調べて言っているわけですが、こうした語源までを理解して日常会話を交わしている若者がどれほどいるでしょうか。
 関連して、"まぶだち"なる言葉は"親友"を意味する近代語だそうで、"まぶ"は"美しいこと、真実であること、またはそのさ まを意味する元々ある言葉だそうです。いずれも、SNSの普及に伴い、ネット上で横行するようになった若者たちの造語でしょ う。私などの若い頃、こうした言葉使いの年齢格差は、今ほどにはなかったように思うのですが、どうだったでしょう。いずれに しても、若者との距離感を感じさせる言葉たちではあります。

◆運慶のリアリズム  
 運慶・・・ご存じの通り、平安〜鎌倉時代の興福寺系の仏師です。私が運慶に心惹かれたのは、"興福寺北円堂無著像"の 写真を見て、痛く感じ入ったからです。実物を観てみたいと思っているのですが、この無著像とは、5世紀ごろの北インド ガン ダーラ国で活躍した兄弟の学僧、無著と世親のことです。私が感じ入ったのは、あの時代にあれほどの写実性が! というリ アリズムでした。内面の表現も含めた写実の見事さ・・という点に、驚きと感銘を覚えたのです。明らかに一般的な仏像とは別 物です。同時にこうも思いました。仏像の世界で見られるあれほどの写実性が、何故絵画の世界には見られなかったのか?  人の顔や姿の描写は、その後もかなり時代を経るまで、ずっと稚拙なものでしかありませんでした。稚拙と言っているのは、 リアリティーの表現という意味においてで、浮世絵を含めた日本画の芸術性云々のことではありません。もし、絵画にあの無 著像の写実性があったら、頼朝はじめその後の戦国武将たちの肖像画は、歴史の実在感を高め、後生に真偽の論議を生 んだりはしなかったことでしょう。
 彫刻でできて絵画ではできない理由は何だったのか・・・。以下は想像ですが、立体ならなぞって表現する術はあっても、そ れを二次元の平面に置き換えて表現する術がなかった、としか思えません。遠近法にして然りで、風景画でも遠近が表せる ようになったのは、西洋文化に触れてからのことだったのかも知れません。そんなことまで考えさせる無著像でした。


◆"風土" について 
 「諏訪式」(小倉美恵子著)という本を読んでいると、"風土"という言葉が随所に出てきます。この本は、諏訪地方とのかか わりを得た著者が、この地が輩出した多くの著名人や数ある企業に共通したある種の”佳風”に惹かれ、諏訪地方の持つ魅 力を掘り起こしていく本です。因みにこの"佳風"なる言葉も、佳人とか佳作の"佳"で、すぐれて良い、とか、美しいといった意 味です(と辞書にありました)。 端的に言えば、この佳風は、この地に宿る風土がもたらすものであり、そうした風土は今も残 っていて、"諏訪式"とでも言うべきこの地特有資の質が見えてくる・・といった内容です。
 そこで"風土"についてです。著者は、ときに"風土をつくりだす"とか”つくっていく”といった、時に人々が意図して風土を築 いていく、といったニュアンスも込めて書いています。その点にやや違和感を覚えたので、風土とは何か? を改めて調べて みると・・・「風土とは、@ その土地の気候・地味・地勢などのありさま。 A 人間の文化形成などに影響を及ぼす精神的な 環境・・・」 などと小難しい説明が載っていたりします。私流にまとめてみると、「風土とは、人と自然が織りなすその土地固有 の特性、有様」ということになるでしょうか。「その土地固有の文化とは表裏の関係にあるもの」とも言えるでしょう。その風土と は、意図的に作り出すものではなく、出来上がって来たもの、出来上がっていくもの、という時間的要素が不可欠で、自然と醸 成されるものだとも思います。効率とは別次元の心地よさ・・・そんな風土に触れたり感じたりするのは、嬉しいことです。風土 という言葉もいい響きの日本語だと思います。英語ではclimate(=気候)などという何の風情もない単語でしかありません。し かし考えてみるに、昨今の日本は、どこに行っても、この風土が薄れつつあるようで、寂しい気持ちを禁じ得ないのも事実で す。


◆ 最近覚えた早口言葉
・・・"貨客船の旅客と旅客機の旅客"、ちょっと言ってみてください。これが結構難しい。>かきゃくせんのりょきゃくと りょかっ きのりょきゃく


◆ニセコを売って札幌を買う
 TVで変わりゆくニセコを取り上げたドキュメンタリー番組をみました。今は外国資本が次々と入って来てホテルが建ち並 び、、かつての日本人経営の旅館はその数を減らす一方です。私がニセコで最後にスキーをしたのは、20年近く前だったで しょうか。そのときはまだ、外人の姿さえ稀にしか見かけなかったのですが、状況は一変しているのでしょう。親子二代にわた ってペンションを経営してきた日本人経営者の言が、印象的でした。
   「ここがいい値で売れたら、札幌にでも家を買って、のんびり暮らそうか」
と言っているのです。ニセコの物件を売って札幌に家を買う、買える? 札幌という大都会が、のんびりと暮らせる所? とい う二点で気にとまったのです。特に後者ですが、大都会を脱出して田舎でのんびり暮らそう・・が普通だと思っていたので、こ の逆を言っているわけです。札幌の友人にこの話をすると、払底しているニセコの不動産を売れば、札幌の結構中心地で も、そこそこの値段でマンションが買えるだろう、と言います。それはそうとしても、"のんびり" という点はどうなのか。確かに 札幌という都会は、他の都会とはどこか違う爽快感のようなものを感じます。食べ物は旨いし人々は大らか(だと思う)、自然 環境は素晴らしいし、冬は長くとも家の中は温かく暮らせそうだ。などと考えていると、老後に住む都会としての札幌のイメー ジが急浮上してきたのでした。私が現役の頃の将来のキャリアー志望調査で、私は地方赴任先として、いつも札幌を第一候 補に挙げていました。いやいや、でもね〜。理想と現実の距離は結構あるとしても、札幌暮らしは未だに結構憧れます。
       札幌の大通公園


◆北国の春〜スニーカーを履く喜び
 北国ついでと言っては何ですが、これもTVの何かの番組の話。長い冬と深い雪に閉ざされていた北国は、その分春が輝く ばかりで、人々はその到来を待ちわびると言います。雪が解け始め、地面が見え始めると、心が躍るのです。まさにそうなの でしょう。私もそんな春先の北国に何度か出かけた経験がありますが、その都度、雪は多い分だけ、雪解けの恩恵も大きい と実感してきました。開花はドラマティック、芽吹きも美しい、山の恵みもかけがいのないもの。あの雪解けで顔を出したフキノ トウを見た喜び、食して何と美味かったことか! スタジオで嬉々として話す北国出身タレントの言も印象的でした。曰く・・・東 京に居ても毎年サクラを観に帰る、山菜の苦味を知って大人になっていった、長靴からスニーカーに履き替える喜びは都会 の人には分からない・・などなど。確かに、スニーカーを履く喜びなんて、北国育ちならではの感想かと、いたく納得したのでし た。


◆旬の筍
 春到来と少し関連する話で、私は長年苦手だったタケノコが好きになったのは、採りたてのタケノコを口にしてからのことで す。こちらに移住して初めて南部町を訪れたのが、数年前のこと。妻にせがまれてタケノコ狩りに行き、竹林から採ってきたタ ケノコを生で食べたときの感動は忘れ難いものです。持ち帰ってあく抜きをし、煮物にして食したり(調理したのは妻ですが)、 どれも美味で、そのときからタケノコへのイメージは一変して今があります。南部町にも毎年旬の頃に買い出しに行っていま す。わが北杜市からはかなりの距離なのですが、最南端の地へのドライブ一足早い春の情景を楽しめますし、何と言っても 旬のタケノコの旨さはその遠さを埋めて余りあるものです。こうして書いてきて「筍」が竹冠に「旬」という字であることに、改め て気付かされます。まさに、旬の竹だから筍・・・文字通りの漢字というわけでした。


◆マツコ、ヒロシ
 今やバラエティー分野の大御所的な存在となったマツコ・デラックスと、あの"ヒロシです"のヒロシ。後者は現在のアウトドア ブームを作った一人でもあり、一発芸の末路と悲哀を経験してのち、再びブラウン管に登場するようになった今やソロキャン パーとして有名な人です(ブラウン管のあるTVはいまやどこにも見当たらないですけども)。この二人とも観るのが面白いTV 人だということで、二人とも違った意味で観る者にストレスを感じさせない、というよりも、ときに観る者をして優越感さえ感じさ せる奇特なタレントだという点にあります。
 マツコの方は、言いたいことをずけずけ言うのですが、それが癇に障ったりはしないのが不思議です。その理由は @毒舌 にしても、この人なりの人生経験と博識に裏打ちされて的を射ていること。それとA、これが大きいのですが、あの超ド級と言 うべき図体とそれを包む不思議な衣装。これに較べれば、私なんか随分とまともでは" といったある種優越感のヴェールで視 聴者を包みこむからでしょう。あの肉体的丸み故に、文字通り何を言っても角が立たない、というわけです。
 一方のヒロシ。この人は見る者に一切のストレスを感じさせない稀有な存在と言えるでしょう。週一の番組、「ヒロシのぼっち キャンプ」は当家のお気に入りで、欠かさずに観ています。あのたゆたうようなテーマ曲と、ヒロシの自然体がよく合っていま す。中身は、キャンプサイトでテントを張り、薪を集め、火をおこし、食事を作り、ボツボツと独り言を呟き・・・
毎回ただそれだけなのにこれが実にいい。何一つ難しくない、飾らない・この良さは、ヒロシのキャラそのものです。
 自意識過剰と灰汁の強さが氾濫するTV業界にあって、この二人は視聴者との間の距離感を縮め、自然体でTVに向かわ せる貴重な存在と言えるかもしれません。


◆海はストレスを和らげる
 山麓のある知人女性・・この人はたまに海辺に住む娘さんに会いにゆくのですが・・・が、帰ってくるとどこか満ち足りた様子 で、"海はストレスを和らげるんですよね"と言います。我々のように山に囲まれて暮らしている者にとって、確かに海は遠い存 在でときに "海を見たい"という欲求に駆られたりします。海はストレスを和らげる・・それが「母なる海」と言われる所以なので しょう。母親の胎内への帰休願望とか憧憬が、意識下にあるのだと思われます。それでは、山はどうなのでしょう? 山もま た、見るとホッとしたり、嬉しくなったりもするので、ストレスを和らげる要素を持っていると言えそうですが、こちらの方は、特 に「父なる山」とは言わないようです。こんなことを考えていたら、信州の格言、「海は産業を潤し(だったか)、山は思想を育 む」というフレーズを思い出しました(これ、一度書いたことがあるように記憶しているのですが、前段の「海は・・・」部分がこれ で良かったか確信が持てないままです。もし知っている方がおられたら、是非教えて欲しいところです)。思想を育むとは、や や堅い響きがありますが、山から受ける感動が、脳細胞のどこかを動かして、想いが膨らむ、といったようなところでしょう か。日本は山国で、周囲を海に囲まれています。海も山も両方が身近にあるということは、考えると幸せなことだと、今更なが ら思います。
 何だか、"海が見たくなったな〜"。




 春をスケッチ(4月26日記)     我が家の庭のジューンベリー

 絵ならぬ、文章での春スケッチです。
 間もなくゴールデウィーク突入となるこの頃、八ケ岳山麓では一番春らしい光に満ち溢れています。雨で二日も外出しないで いると、晴れた三日目には光景は目を見張るばかりの新緑の輝き、花々の主役交代に驚かされます。標高千mの当地で は、漸く最多ソメイヨシノが葉桜になり、代わってヤマザクラが森のあちこちを白く彩り、新緑とともに主役を張っています。こ の素早い変わりよう! 山はあっという間に雪が解けて、晒された岩肌が日に日に大きくなるのもこんなとき。清里や野辺山 のヤマナシやコナシは、間もなく蕾がほころぶ気配が見てとれます。留まるところを知らない自然界の変化に追いかけられる ようにして、田では既に代掻きが進み、水田が出現しつつあります。

        
  高原大橋の春〜谷の斜面には点々とヤマザクラ〜背後には甲斐駒ヶ岳。       釜無川の新緑(武川)

 私はこんな春の刹那に駆られ、天気がいいと撮影やスケッチに余念がありません。空にはぽっかりと浮雲が。のんびり平和 に見えて、その実こうなると余計忙しくなる。毎年のことで、私はこうして春から初夏へのスピードに常に責め立てられて、忙し く写真を撮り、スケッチをし、アトリエでは完成画の制作に取り組みます。できるならもっとゆっくりと時を刻んで欲しいし、この 輝く季節を暫く留めおきたいと誰しもが思うでしょう。でも、自然はそうはいかないとばかり、坦々と時を刻みます。"??命短し  恋せよ乙女・・" と歌いたくなるものですが、こんな歌、もう知っている人は少なくなっているのでしょうか。
      
   オオシマザクラ             スイセンの庭囲い                 我が家のデッキから(左がカツラの新緑)
 そんな春の輝きと忙しなさは毎年のことで、それも幸せというときを過ごしているわけですが、どこかいつもの幸せ感に浸り きれないのが今年の春です。その理由のひとつは、これで3年目になるコロナ渦との付き合い。もうひとつは、ウクライナで起 きている憤懣やるかたない侵略の現実です。前者は自分さえ気を付ければ"どうにかなる"のですが、後者は自分ではどうし ようもない事態で、ならば無視すれば済むようなものですが、そう割り切れないのが人間なのでしょう。こうした怒りと無力感の 併存は、"不安定感"の元となって、折角の春なのに・・・という想いを阻害しています。きっと誰もが似たような心持であるので はないでしょうか。

 それでも時は流れ、春もまた移ろいゆき、私はそんな時の流れに身を委ねるばかりです。そんな折、お隣のNさんから、"ウ クライナに心を寄せて"的な作品展への出展をしないかとのお誘いがありました。「非戦の想像力展」と銘打つ芸術家集団の 主催になるものです。 私は、本来こうしたイベントに積極的に参加することはなかったのですが、趣旨には賛成なので参加 することにしました。 平和を訴求するような作品が好ましいのでしょうが、私が描いている絵は、元々日本の自然〜美しく平 和な四季の風情が対象となっていることもあり、普段通りに描いた絵から見繕って2,3点を出展することにしています。以下 簡単ながらその告知です。
  
   「ウクライナに 世界に 平和の思いを馳せて」展 ・・・と言うちょっと長いタイトル
   日時  5月7〜8日、13日(金)〜15日(日) 9:00〜17:00
   場所  あおぞら共和国 北杜市白州町鳥原2913-134
   (この場所は私も知りませんでしたが、恵まれない子供たちのためのフィールとコテージなどを配した福祉関連の
    施設とのこと。見学する価値もあり・・です)
           



〇 初夏へ、そして今度は・・(4月14日記)  

 季節を描いたり、書いたり・・毎年のことですが、今年は例年以上に書き記しておきたい季節の進行具合です。順当な季節 進行の定型化パターンから逸脱しつつあるのは、ここ何年か経験してきたことですが、今年はその逸脱程度が、どうもいつも より激しくなっていると思われます。先日このFノートで、"いきなりの春"と題して、一段と寒かった冬から待望の春が・・と喜ん でいたら、それがいきなり初夏から始まったようで・・と記しました。それが一月前のこと。その時は、甲府では真夏日を記録、 我が家では初めて窓を開け放っての日中を過ごしたものでしたが、その後、一応順当な春の到来へと舵取りをしてくれ、サク ラの春を迎えました! それでも"春に三日の晴なし"で、花曇りや肌寒い日が戻ってきたりもしました。そしてここ数日の初夏 への舞い戻り(と言っていいものかどうか)です。一月も二月も先行した気温の数日を過ごしてきました。まだ冬タイヤを交換 していないままだったのに、エアコンを入れたくなるという、奇妙なドライブを体験したりもしました。そんな数日を経た今日は、 一月前に逆戻りの肌寒い日で、今週末はひょっとして朝は氷点下になるか!と警戒感すら覚える天気予報となっています。ま あ、そんなこんなを書き連ねてはみても、実態は地球温暖化が常なる季節の進行を狂わせ、それがまた常態化しつつあると いうことなのかもしれません。
 こういう不順を感じてか、今年はコブシがなかなか咲かないまま、桜が咲き出してしまった感があります。多分コブシの裏年 に当たるせいなのかと思ってもいたのですが、ここにきてあちこちにコブシが咲き出し、場所によってはサクラと同居するよう に咲き誇っている光景を目にします。大分遅れての開花だったのに、何事もなかったかのようにしゃーしゃーとサクラの横で 咲いていたりします。サクラにしても、今年の開花はこの辺だと昨年より1週間ほど遅れたので、コブシは多分2週間以上遅 れての開花となるのでしょうが、気候変動と開花の関係は、一律ではないということなのでしょう。 

       
   遅れ咲きのコブシは悪びれもせずにサクラと競演・・            残雪の山とサクラと、早くも水を張った田圃

 さて、昨日とは打って変わって寒さを感じる曇天下の今日、午後になったら予約していたタイヤ交換をしてくることになってい ます。一昨日、暑い最中で食べたくなり、急遽買ってきた冷やし中華とソーメンですが、今日は出番がありません。そのかわ り、今日のお昼は鍋焼きうどんとなりそうです。そして晩酌は、昨夜までの冷えたビールではなくて、常温のお酒にしようか・・・ そんな方針転換を余儀なくされる、季節のキックバックです




〇 2億円が消えた! (3月25日記)

 ここのところ、家の中で探し物ばかりしています。どこに置いたものか?ここにあった筈なのに? 以前からそれは多かった のですが、ここにきて大分増えたように思えます。私は、物をなくしたり、どこかに置きわすれてきたりと、どうもこの種のうっか りが多く、それがお金や財布だったりしたこともあって、苦い目に遭ったこともしばしばです。ですので、家内もこと私の物忘れ となる、と自分のことは棚上げにして、私の行動にはかなり懐疑的な目を光らせているようです。

 ごく最近のこと、財布にしまっておいた大事なバレンタインジャンボの宝くじ券を紛失してしまいました。もう当選番号の結果 が出ている頃だと思って、財布から取り出そのうとすると、それがないのです。2億円が消えた!・・一瞬そのような大事が頭 を過ります。ハンドバッグの中身をさらけ出して探しても、それは出てきません。それで今度は、書斎の机の上近辺を徹底的 に捜索。一度当選番号をチェックしようと、宝くじ券をPCの前に持ってきた覚えがあったからです。その時はまだ抽選前だっ たのですが、財布から出したとするとこのときしかありません。かなりあちこちと念入りに探したのですが、一向に出てきませ ん。いよいよ2億円も消えたか・・・当たるチャンスは殆どないとはいえ、10枚綴りの3千円を無駄にしてしまっただけ、という 風には割り切れないものです。前科がある自分ですから、外のどこかに置き忘れたか、他のものと一緒に捨ててしまったのだ ろうと、そう疑ってみたものの、この苦い後味はなかなか消え去りません。やはり諦めるしかないのか・・・そう思って、翌日念 のためもう一度書斎のあちこちを捜索してみました。やはりここもない、あちらにもない・・・それで、まさかこんな処には、と普 段は殆ど開けない引き出しを開けると、ナントあの 「バレンタインジャンボ宝くじ」 という文字が目に飛び込んできました!!
 何故こんな所に? 何か意図があってそこにしまったのでしょうが、その意図がとんと見当がつかないのです。物忘れには、 こうした普段とは違った意図でした結果であるケースが多く、その意図の何たるかをすっかり忘れてしまっている処に、原因 の一端があるものです。それでも、諦めていたものが出てきた、という喜びとホッとした気持ちになりました。しかし不思議なこ とに、そのときは2億円を取り戻したという感覚よりも、 これで当選結果をちゃんとチェックできる、というかなり現実的な安堵 感が支配的となっているのでした。早速PCで結果をチェック。同じ組三枚があって計¥3300の当たりという決して悪くはない 結末でした。
 これで宝くじ券を無くしたままだったら、きっと"逃した魚は大きい"という思いだけが尾を引いていたことでしょう。釣り人の心 境がよく分かった今回の紛失騒ぎでした。



〇 いきなりの春(3月15日記)   今年第一号のフキノトウ

 先に"春近し"なんてことを書いていたら、3月の中旬になってから、春がいきなりやってきました。それも、春というよりも初 夏が! 
 まず12日の日中、年が明けて初めて家の中で少々暑い!と感じ、窓を開け放ちました。標高千メートルの我が家でのこと です。この日、気温は17度まで上がって、季節はひと月以上飛び越えた高原の春に。デッキ下を除くと"ありました!"フキノ トウの第一号発見! これでも昨年より2週間遅れです。
 翌13日も暖かく、この分では・・と思って、小淵沢南部の田園地帯(私の目をつけている収穫ポイント)を視察に行くと、どこ もまだフキノトウの影も形も発見できず仕舞いでした。してみると、我が家のデッキ下はかなり暖かいポイントということのよう で、折角なので顔を出した株三つを採って、刻んでお昼のスパゲティの香りづけとしました。。
 さらに翌14日、ナント3月なのに甲府市では夏日に! 私には夏日とはこれくらいの気温、とするモノサシのようなものがあ って、それはまだ学生時代の夏の海でのこと。海に入ったはいいけど、上がったら震えていたのが24度だったのです。だか ら、日中の最高気温が25となる夏日とは、あのときと較べるとこれくらいか・・・いう具合です。甲府市での最高気温はこの日 25.3度、これは5月下旬並みということでした。一方、NHKの気象情報で北杜市一帯を代表するような地点となっている大 泉でも、21.5度という気温を記録。このところの異変で、我が家でも暖房の設定を大幅に変え(まだオフにはできません が)、掛け布団も一枚に減らしました。
 こんな具合で、待望だった春が勢い初夏を思わせるほどの気候となり、こうなると嬉しいよりも、ちょっと損をした感じが否め ません。折角待った春は、徐々にやってきて、草木も徐々に春接近の様子を見せてもらいたいものです。フキノトウだって(妙 にこれに拘るようですが)、順当に芽出しをしてくれ、何回かに分けて楽しみたいではありませんか。特に今冬はコロナ渦で明 け暮れたので、明るい春到来への期待は一塩のものでした。それがこんな具合で・・・自然も世の中も、思い描いていたよう には行かないものです。春待望を先取りしてアップしてきた作品も、この次はサクラと決めて制作を進めていたのですが、こ の調子だとうかうかしてはいられません
                     甲斐駒上空も、初夏の雰囲気です。  


〇 春近し・・・?!(3月1日記)  

 漸く日中の気温が上がって来て、漸く真冬日はなくなりました。先週末の暖かさで、かなり雪も解けました。春が待ち遠しい のは、このコロナ渦の制約があって例年以上強いのものがあります。私どもは3回目のワクチンも済ませました。幸い感染状 況もピークアウトして、どこか明るい見通しを持ってもいいのではないか・・・そんな空気に期待に水を指したのが、あの狂人と しか思えないプーチンの仕業です。全く彼の暴挙は、世界から春近しの明るさを奪うものでした。許されざるべき話ですが、こ の話は、Fノートでこれ以上深入りすることではありませんので、一旦忘れることにして・・。

 振り返ればこの冬は寒かった・・これは実感です。大体暖房費も昨年と較べるとかなりかさんでいます。それと、2月に入っ てからの降雪が多かった点も、昨年と違うところでした。昨年の同じ頃の写真を振り返ると、雪景色は一つもありません。降 雪を積算するとそんなに多くはなかったのでしょうが、今年は我が家周辺の畑地や草地は、日陰部分だと未だに雪で覆われ ています。これは寒くて解けていないせいもあるでしょう。別荘の北側の屋根も、軒並み雪が残ったままです。因みに、我が家 のように人が住んでいる家は、とうに雪はなくなっています。
 そんなことで、今年は春近しの実感もなかなか湧いてこないのですが、季節の遅れは、山のように撮りためたスマホの写真 でく昨年と較べても明らかです。昨年はこの時期、つまり2月末から3月突入辺りでは、すでにフキノトウが芽を出し、フクジュ ソウも花をつけていました。我が家のデッキ下に毎年策クリスマスローズも、立派な花をつけていました。しかし今年はその兆 しを探しても見つけられないままです。寒くて乾いた気候が長かったせいで、クリスマスローズに至っては、或は枯れてしまっ ったのかも知れません。
 とはいえ、少しずつ春は近付いてきています。ここ2,3日の気温の緩みで、写真のように、さしもの残雪もかなりその面積を 減らしつつあります。
  
 左は25日に撮影した我が家東側の畑地。右は同じ場所を今日(28日)に撮ったもので、日向の畑地は雪が解けてしまっています。

 季節の進行は遅れていても、私は気持ちだけは春近し・・・早くも春の絵を描き始めています。すでに2点を上げましたの で、山麓絵画観をご覧ください(→ 2022年春の作品



〇 今年の雪景色(2月18日記)   我が家北側の軒下はつららの列が(2月12日)

 2月に入ってから、よく雪が降っています。いわゆる南岸低気圧の通過に伴う降雪ですが、少し降ってはまたその上に少し 積もるといった案配で、おまけに気温は例年になく低い毎日なので、解けずに残っているのです。そこでちょいちょい写真を撮 っています。何枚か添付します。
        
         雪明けの朝、甲斐駒がきれい!            我が家のデッキ、30pくらい (ともに2月11日)

 この降雪、今のところは生活にさしたる支障はないし、私ごとき雪景色を喜んでいる位だけの輩にとっては、ありがたいこと です。ただ、8年前の大雪のようにはなって欲しくない・・その気持ちは、誰もが忘れずに持っていることでしょう。あの時(201 4年2月14〜15日、120p)は大変だった・・・我が家へのアプローチ除雪は自力では困難、三日間はクルマも出せずに缶 詰状態、地下の物置にも行けず、停電にも遭い、そのせいもあって外置きのエコキュートのモーターがダウン・・・そんな状態 から較べれば、雪景色を楽しんでいられるのは夢のようでもあります。今週末もまた降るようですが、それが過ぎた来週の寒 さが抜けると、いよいよ気温の緩む日もやってきそうです。ただ、まだ油断ならないコロナ下ですが、。厳冬もコロナもやり過 ごしての春爛漫、誰しもが心待ちにしているところでしょう。

        
   我が家東側、地面の雪は落ち着いてきた(2月14日)  その後の降雪で我が家へのアプローチは轍と獣の足跡が(2月16日)


〇 事と言の葉(2月13日記)  

 徒然なるままにメモした事と言葉、その第三弾です。相変わらず話はあちこちに飛び火しますが、そこが面白いところと、全 くの独断で書いているものです。

★日本の100歳以上の人口〜2021年9月の報道から 
 ちょっと旧聞に属しますが、昨年9月15日現在で、日本の100歳を超える人口が86,510人となったそうです。このうち女 性が9割を占めて7万6450人、男性は1万60人で初めて1万人を超えました。医療の進歩や健康意識の高まりで年々長寿 化が進んでおり、100歳以上の高齢者は20年前の2001年と比べてなんと6倍! 主要48か国の比較では、20年の平均 寿命は女性(87.74歳)が世界1位、男性(81.64歳)が同2位。我が山梨県では854人というから、人口80万人の当県で は10万人当たりで100人以上いることになります。その上、平均余命は年々増えているというから、行く末どうなるのか?  と思いつつ、そんなに長くはないと思っている自身の行く末にどう照らして考えればいいのか、この点になると思考は方向性を 見失ってしまうのが常です。 

★ 恋愛対象 男性
 Facebookでの友達リクエストでは、簡単な自己紹介の欄があって、その中のアイテムは生誕地だとか、趣味だとか、いろい ろあります。先日私が受けたある女性からのリクエストにあった1行が目を引きました。そこには「恋愛対象 男性」 とあった のです。なるほど、ジェンダーフリーが叫ばれる昨今の情勢を踏まえ、はっきりと自分の立場を書いておこうというわけです。 そう言えば、何かのニュースで、公衆トイレに第三の性を対象にした一角を設けるという話もありました。そういう時代になっ たのだと、この感覚を自然に受け止めるには、まだ時間を要しそうな私であります。


★ 山頭火
 "山からの風が風鈴をならす 生きていようと思う"
 このコトバ、自然律俳句というのだそうですが、知人からのメールで知りました。心にストンと落ちるこういう俳句を、山頭火 はたくさん残しています。因みに山頭火は正式名、種田山頭火、明治の自由律俳句の俳人とウイキペディアに書いてありまし た。山頭火と言えばラーメンが先ず頭に浮かんでしまう私が恥ずかしくなりました。


★ 「ノースライト」(横山秀夫)より
 この人の書くミステリー小説は殆ど読んでいます。「64」とか「クライマーズ・ハイ」、「第三の時効」などなど、この作家の小説 はどれも面白いのは勿論、文章もある種品格があって、そこも好きな点です。最近読んだこれもベストセラーだった「ノースラ イト」。この中で私が付箋を付けた一文をご紹介します。

 ◆ 「生き物は本能的に寄る辺を求める。動かざるものがあってこそ、人はどこへでも行ける」
  ・・・少年時代に父親のダム工事の仕事で転々とした思いを回想するシーンで。
 ◆ 「風であれ雨であれ、自然がもたらすものは皆、気持ちを言葉に変える後押しをしてくれる」
  ・・・主人公ともう一人の登場人物と天端を歩きながら、話し出すきっかけを探っている場面。そのとき一段と風が
  強まってくる、そんなシーンで。因みに天端(てんば)とは、ダムや堤防の一番高い部分を指すそうです。

★鞆の浦
 12/19  NHKの「小さな旅」は、広島県の鞆の浦が舞台でした。江戸時代は塩待ちの港として栄えたこの港町は、江戸時 代の古地図が殆どそのまま使えるという街並みが魅力でもあるとか。「山紫水明」という言葉は、この地を訪れた頼山陽が、 船の上から明け行く鞆の浦の山と海を眺めて表現した言葉だそうです。鞆の浦は一度行きたいと思いながら、未だに果たせ ないでいる所です。

★8chの「ホンマでっか」から。
 DNAが父親と子どもが一致するかどうか、親子の遺伝子検査を一度やってみたらどうか・・といった話題となった。そのと き、あのとぼけた味の武田先生が唐突に放った一言に思わず爆笑。
・・・"鳥類では3分の2が一致しないんだから!!" ・・・だって。



★NHK朝の番組(12月27日頃?) スキー人口の変遷
 私は、人生の半分ほどはスキーに現を抜かしていた身なので、こういう話には今でも多少は関心があります。
番組によると;―
 スキー人口は1993年に1860万人 → 2020年には270万人へと激減。
 スキー場の数は、668か所 → 400か所強。
 スキー板の長さは、平均190p → 165p
全体ではスキー人口よりもスノボ人口の方が多く、そのためにスキー場の数は激減には至っていない。
 因みに、映画「私をスキーに連れてって」は1987年11月に公開され、スキーブームを後押ししました。私が長年愛用してき たスキー板を買い換えたのが、2000年代初めの頃だった。その時の長さは、身長より10p委ほど長い175pくらい。いわ ゆるカーヴィングという技術の走りの頃の板で、振り返ると、どうもその頃からスキーへの愛着は薄れたきたように思えます。 現在、業界ではかつてスキーを楽しんだ世代を対象に、comeback to ski field的なキャンペーンを始めたといいますが、さす がに、今の私はそれに乗る気は失せています。


★ 源平合戦
 ここのところ、TVでは大河ドラマで源氏と平家の時代が舞台になったことから、その時代を取り扱った番組が結構多い。ご 存じ「チコちゃんに叱られる」によれば、紅組だとか白組だとか、紅白に分ける日本の風潮は、その源が源氏と平家の色分け に起因するといいます。それで思い出すのは高校時代の逸話です。

 日本史の授業でのこと。平安から鎌倉時代辺りを取り上げた授業の中で、先生からの問いかけが。
・・・「さあ、この時の二大勢力が争ったのは、何という合戦だったでしょうか?」 
 これを受けて、普段は文科系に弱いO君が、珍しく手を挙げて答えた。
・・・「ハイ、源平芸能合戦です」 !? 

 すぐさま教室中が爆笑の渦に。もう知らない人が多くなっただろうが、当時TVの人気クイズ番組に、この「源平芸能合戦」と いうのがあったのでした。


★クマ肉の話 〜「日本百山」 西丸震哉を読んでいて
 友人から勧められていたこの本、著者は探検登山家ということで、深田久弥らと同時代の山岳会に縁の深い御仁。私は 「日本百名山」が愛読書で、今でも時々ページをめくっては山の話を楽しんで読んでいるのですが、この西丸某氏の「日本百 山」は、どうも様子が違います。どう違うかというと、山の説明などは殆どないまま、その山での体験談(冒険談とか常識派や ミーハー登山族を揶揄するといったエピソードなど)を書いているだけなのです。またまた逸話になりますが、そのどこかの山 の話で、クマの肉の話が出てきたのを読んで、思い出した話があります。

 もうかれこれ三十悠余年も前のこと、時々山行をともにする仲間で、尾瀬戸倉方面の山中でキャンプをしたことがありまし た。連れの一人が、今日はとっときのクマの肉を持参したので、今晩のお楽しみはこれだと、意気込んでいました。そして河 原でのテントの夜、そのクマ肉をBBQにしてむさぼったのですが、これが意外と柔らかくて美味! 全員喜んでそれをたいら げ、ビールも飛び切り美味しい夜でした。そのキャンプから帰って2,3日後、クマ肉を持参した御仁からメールが入りました。 そのメールには次なる一文が;−
 「どうもおかしい、と女房がボヤいています。冷蔵庫にしまっておいた豚肉のブロックが見当たらない、と言ってます」
  
 この一文を読んで吹き出してしまったのは言うまでもありません。どうりであれは旨かった、と納得もしたのでした。
 先の源平芸能合戦といい、このクマ肉の話といい、おかしい話は一生涯可笑しく思い出しては、人を幸せな気分にさせてく れるものです。



〇 最近気になっている”コロナ下での思わぬ変化”について(2月3日記)

 ここのところ、私がずっと注目してきた事象について書きます。
 以下、やや長くなりますが・・・。

★ 山麓の風景がちょっと変わってきた?

 最近、わが北杜市では土地の造成や新築物件が増えてきています。知り合いの不動産業の話では、引き合いの増加もさ ることながら、肝心の物件の確保がままならない状況ということでした。そして特にここ1年で、外出する度に戸建ての新築を 目にする機会が増えてきました。その戸建ても、この辺では目にする木材や木材モルタルを使ったヴィラ風の建物とは明らか に雰囲気を異にして、概してシンプルかつコンパクト、おそらく金属製のサイディングを外壁に使った建物です(写真参照)。そ れは、この山麓の雰囲気からするとちょっと違和感を禁じ得ない住居です。どちらかと言えば、都会の働き世代が郊外で手軽 に住めるような一戸建てで、見ていると、その工期は驚くほど速く、完成後間もなく、比較的若い子持ちの一家の姿をそこに 見かけたりします。背景には、このコロナ下で加速したリモートワークの普及と、それに伴って都心から離れた場所に居住地 を求めるといった動きと関連しているのであろうと、かねがね想像を巡らせていました。
    

 私のそんな想像を裏書きするような、地方シフトを取り上げた報道もありました。昨年11月の「ニュースステーション」では、 20歳代の4割が地方への移住に関心を示しており、企業側も昨年9月現在ではすでに276社が地方に移転といった数字を 示していたのです。また、ふるさと納税総合サイトの調査によると、20代、30代の回答者の半数以上が"地方移住に関心が ある"と答えていて、"現在移住を検討中"が20代では16.3%、30代では12.2%、既に移住を決めているのが、同10.1%と5. 9%であったと報じていました。こうした動きを捉えて、若者世代の受け入れを促すべく、保育所の拡充とか、リモートワークの 基地づくりとか、税法上の利点などなどを検討し、実施している市町村もたくさんあると言います

★ コロナ渦が地方格差の解消へ?

 私は政治家も社会学者でもありませんが、東京への一極集中という問題はかねがね気になっていました。全国比で人口の 10%、GNPの18%が、面積比では僅か1%に満たない地域に集中しているのです。また、2020年までの20年間で、日本 の総人口が0.6%減少した一方で、東京都では同期間内で16.6%も増加しているとも言います。私のように地方に移住して16 年もたつ者には、東京に行くと人や交通機関やビル、家屋の密度の高さに、まるで別世界に来たかのように圧倒されます。こ の一極集中、超過密に何かあったらどうするのか・・・。直下型地震の可能性とその被害の甚大さが指摘されて久しいのに、 誰しもがそうした不安を意識下のどこかに収めてしまって、毎日のルーティンの中へと押し出されて生活しているように思えま す。そんな中で開催された東京オリンピック・・これなどは開催の是非よりも、そもそもお金も情報も人も東京に集まり、一極 集中を加速させるこのオリンピックを東京に招致したこと自体が問題ではなかったかと、今にして一層その念を強くしていま す。
 一極集中の危うさに対する私の懸念が、どうも様相を異にしてきたと感じているのがここ1年でのことです。それは誰もがコ ロナ禍という厄災の中で日常を送っていくに伴い、個々人の中での意識変化が芽生え、それが一つの社会的なムーブメント になりつつあるらしい、といった事態に現れているのです。

★ ついに東京は 転出>転入へと逆転

 そんな状況を具体的に示したニュースにも、つい最近接しました。東京都への転入者と都からの転出者の人数が逆転した という異変の報道です。先日のNHKニュースによれば、異変"が起きたのは2020年5月のこと。今の方法で統計を取り始めた 2013年7月以降で初めての「転出超過」になり、その動向は以降続いているという報道です。23区だけをとっても、区外や他 県への転出者から転入者を差し引くと、1万4828人の転出超過となり、コロナ禍前は5万〜7万人程度の転入超過で推移して きたことからすると、人の流れが大きく変わっている事実を意味しています。その背景に、最近すっかり日常化したかに見え るテレワークの実践によって、仕事の現場が家に移り、更には地方に移りつつあるという現状2も言及していました。繰り返し ますが、それはこのコロナという不幸な出来事への遭遇は、意外な効用をもたらしているということです。
     

 その転出先ですが、グラフのように、人数だけをとると近隣の3県に続いて地方都市が多いのですが、コロナ前と後の人口 増加で見ると、地図にある通り、流出先が必ずしも近隣の県に偏っているわけではないことが分かります。受け入れ側の環 境や施策などとの関連で、若者たちが魅力を感じる受け入れ態勢がどんなものであるか、その具体的施策の数々も報道さ れていました。この魅力度との関連で、移住先は都市部だけではなく、地方の田舎町周辺にも及んでいるようです。
 
    

 このムーブメントは、コロナ渦による一時的なものなのか、或はポストコロナでも変わらずに続くのか、この点を見極めるの は時期尚早のようですが、ともかくも地方活性化とか地域格差の是正とか、笛吹けど踊らなかった世間の風向きが、ここにき て変わってきたことは確かだと言えそうです。

 災い転じて福となす・・・

 もし私が一国の舵取りをする立場のものであったら、その長期的政策のトップに、この東京への一極集中の緩和を据え、そ れを促す一大施策として首都移転を掲げるであろうと、かねがね思ったりもしていました。それはまた、長く言われて一向に 進まない地方との格差の解消の引き金にもなると考えていたからです。そんな中でのこの社会現象・・これがポストコロナでも 継続していくとすれば、これはコロナのもたらした不幸中の幸いと言うべきでしょう。歓迎すべき事態と思う一方で、他人事で は済まされないという懸念もまた拭い去れません。私に限らず、この地に移住したの人達の多くは、余生をこの山麓の自然に 接しながらゆったりと送りたいと考えているでしょう。或いは仕事をしながら自然と接したいとそれを実践している少し下の世 代も大勢います。そうした移住先発組には、山麓の雰囲気とか風情を壊したくないといった住民感情も大きいに違いありませ ん。サイディングの住宅や、子育て世代の増加が、山麓の雰囲気を壊すとまでは言えないものの、私ごとき傘寿を控えて変 化への対応がままならない者にとっては、社会全体と個々人の心情とどう折り合いを付けていけばいいのか・・・未解決の問 題は残りますが、今後の動向が注目されるところです。



○ シジュウカラがやってきた!(2月1日記)

 私たちには嬉しいニュースです。今冬はその姿を見ないまま、もう2月になってしまった・・と思っていたその2月1日、、庭の アオハダの梢に、あの白と黒の小さな姿を一羽見かけたのです! 漸くきてくれたと喜んだ次の日の朝、いつやってきてもい いように、もうずっとおいてあったヒマワリの種が無くなっていました。そして見ていると、それは二羽のつがいで、餌台にやっ てきてはヒマワくわえて近くの木に飛んでいって食べることを繰り返しています。手すり上においてある水も良く口にしていま す。見慣れた光景が、漸く目の前に繰り広げられているのでした。この冬は一体何があったのか、いつもなら12月にはその 姿を現すシジュウカラやヤマガラ・・・当家では”うちのこたち”と呼んでいるのですが・・・長い空白を経てやって来てくれたので した。奇しくも2月1日は我が家では忘れてはいけない結婚記念日です。コロナ禍で外食もままならない中、うちの子たちの飛 来は、まさに吉兆のようにも思えるのでした。そのうちヤマガラも、と期待しています。
以下は2日の撮った写真です。

  



〇 冬日和(1月14日記

 たまにはこのコーナーの名前の通り、フィールドのことを書かねば・・とは常々思ってはいます。でも冬は寒い、外に出るの が億劫になって、いつも鳥籠の中から外を見るように、カーテンを開けては外の様子を見る毎日です。何せ日中でも氷点下 の真冬日が続いていますので、ついつい・・。思い返せば、かつては真冬でもよく出かけていた頃がありました。当地に移住し て数年間でしょうか。私は風景画の材料として、かなりの枚数の写真ファイルを持っているのですが、冬のモチーフを描こうと そのファイルを紐どくと、最近とは比べものにならないくらいの枚数が、その頃のファイル収められています。

 そう言えば・・と思い起こすのは、これも移住後間もなくの冬の日にスケッチに出かけたときのこと。ある晴れた日に、ここぞ というポイントに陣取ってスケッチにかかり、いざ色を塗ろうと水の入ったペットボトルを開けると、中の水がシャーベット状に 凍って出てこなかったことがありました。そんな寒さの中、戸外でスケッチを始めていた熱心さとか馬力に、我ながら感心せざ るを得ないわけで、それが十年余り前のことでした。それから、当時は極寒の野辺山高原にもよくでかけていました。清里を 過ぎてあの広々した高原に出ると、そこはもう別世界。高度の違いもさることながら、八ヶ岳を左にし、北は遮る山もない野辺 山高原は、わが北杜市と較べても平均気温で5度以上は前後は低いはずです。かつてはマイナス25度を記録したこともあっ て、これは本土の居住地で最低気温だったという話も聞きました。そんな厳しい冬を実感したり絵にしたりするために、凍結し た道路を走ったり、外に出て撮影をしたりと、頻繁に出かけていたのですから、これは物珍しい以上に"若かった"と言うほか ありません。若かったと言っても、60才代半ば頃の話ではあるのですが・・・。


  今朝方の積雪の名残を留める小径



東側の坂道


   編笠岳以外は雲に覆われた八ヶ岳の姿が・・・
 さて、そんな回想ばかりでは話にならないと、今日はほんのちょっとだけですが外を歩いてみることにしました。まだ陽があ るうちなのに気温はマイナス3度! 寒いというよりも耳が痛い! スマホで写真を撮ったのですが、あれは手袋をしたままで はシャッターが切れないので、これは下も凍るよう。家の周りの周遊路のような道を15分ほど歩いただけで、そそくさと退散し まいました。手袋を脱ぎつつ撮った写真を何枚か載せました。今日この頃の当家周辺です。



〇お正月点描(2022年1月3日)

 70歳台最後のお正月、今年の5月にはいよいよ傘寿になります。またワンステップ アップというか、ダウンといった方がい いのか、ともかくも未知なる領域に足をお踏み入れるに似た心境の年となりました。今さらお正月と言っても、ことさら書き立 てることもありません。コロナ下であっても例年と同じように迎えたお正月です。さはさりとて、この歳ならではの感興というもの もありましょうから、ちょっとスケッチ風に綴ってみます。

・年越し蕎麦はカップ麺
 どうもいくつになっても宵っ張りの傾向はなくならない当家、大晦日からお正月となると、一段とその傾向が強まります。TV、 と言っても我が家は長年アンチ紅白なので、あんな白けた1chは閉鎖状態。余談ながら、最近は民放まで紅白の話題を取り 上げる傾向はけしからんと憤慨仕切りです。ともかくも、いつもよりは多めの晩酌が尾を引いたまま夜更かしをしつつ、やがて 年越し蕎麦となるわけです。このお蕎麦、かつては市内の旨い蕎麦屋で仕入れておいたりもしたのですが、今回はカップ麺を 二人で分けての形だけの年越し蕎麦。風情も何もあったものではありません。

・さらば年賀状・・・?
 一応我が家もお正月は御節、今年はほどほどの値段の小さめの重箱二段を用意していました。他には、好物の数の子をタ ップリ用意、驚くほど高値のカニは省略、大好きなウニもイクラも敬遠、こうして揃った肴で朝から大っぴらにお神酒を口に運 べるのがお正月の一番いいところです。しかし好き放題飲んでいるわけにはゆきません。その理由は、年賀状の投函、それ もクルマで唯一開いている郵便局まで行って投函という仕事が待っているからです。因みに、この辺では集配頻度の低い近く のポストは利用価値が低い一方、年賀状配達の方もお昼過ぎまで待たねばならないのが常です。なので、年賀の返信はお 酒の冷めた夕方にクルマで行って投函するとのが、お決まりとなっているわけです。参考まで、朝郵便ポストに年賀状がどっ さりという状態は、当地に越してから16年この方経験したことがありません。加えてその次の配達は三日のこれまた午後遅く まで待たねばならないとなると、もう年賀状も興醒めです。こういうお粗末な郵便環境にいると、もう年賀状など止めにしたいと いう思いは年々強くなる一方ではあります。

・日本人でよかった〜出汁の文化
 御節とは別に、今年は妻が取り寄せてくれていたタイの姿焼きが逸品でした。玄界灘の産で、身をほぐしながらこれを肴に 一杯・・いけます! 残った身は、あくる日にご飯に載せ、出汁じるをかけてのお茶漬け・・これがまた絶品! 出汁を利かせ た煮物といい、おそらくは秘伝の出汁がベースとなっているであろう御節、そしてこのタイ茶漬けと、日本の出汁文化を楽しめ るのは、酒飲みならずとも嬉しいことです。そしてこの時ばかりは、日本人に生まれてよかったとつくづく思うのでした。

・「蝉しぐれ」
 お正月のTVは作り置きのお手盛り番組ばかりで辟易とさせられます。ただ二日はいつも箱根駅伝を観ながら一杯、という のが我が家では(私にとっては)、お正月の伝統行事となっています。まだ勝負の先が見えない往路は特に面白い。全身汗ま みれとなり酸素をむさぼりつつ最大級の努力を払っている有様を、暖かい部屋でほろ酔い気分、最大級にリラックスした状態 で観戦する・・・この好対照がいいのですね! しかし今年のように、あのA大学が足場を固めてしまったのでは、もう面白さ半 減です。
 そして夜にはあの「蝉しぐれ」!三部作がBSで一挙再放映されました。これを録画も含めて足掛け二日間じっくりと味わった のですが、藤沢周平のこの一作は、TV映画化も原作に劣らぬ見事な出来です。筋書きはよく知っているのに初めて観たとき のように画面に釘付けとなってしまいました。本も監督も俳優も全て良かったら優れた作品となる・・この一事に改めて気付か されたりもしました。NHKを除いては何かにつけて余裕のないのがTV業界の現状です。そのことを逆説的に物語っていた「蝉 しぐれ」。水野真紀演ずる"お福"、愛おしかったな〜!

  何だか他愛のないお正月記でした。傘寿間近、年とともに段々子供に帰ると言われる年代です。それゆえのお正月記と捉 えてもらえれば幸いです。
          


・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ↑ こかから上が2022

〇今年も暮れてゆきます(12月31日記)  

 2021年も間もなく幕を閉じます。いよいよ差し迫った年の瀬に、1年を振り返って何か書こうと思ったのですが、なかなか書 くことがまとまりません。コロナ禍による非日常が常態化したそんな年だったせいか、或は自身の年齢のせいか、我ながら考 えが巡ることのないまま、ただ漠然と時の流れを眺めるがままのようでもあります。そしてまた、コロナの終息が見えそうでま た遠ざかるといった昨今の事態が、いまひとつ不透明感を拭えないことも確かです。こうした焦点の絞れない状態は、やはり 年齢故のところが大きいようにも思えます。そんななかで、以下は思いつくがままの記述です。

・オリンピック、ありましたね〜
 開催の是非をめぐってのあの喧騒も、今は人々の記憶から外れて嘘のように思えます。ある試算では、今年の東京オリン ピックの損失が2兆4千億円、このうち都の負担が1兆4千億、国が8千億、組織委員会が2千億・・・といいます。それはとり もなおさず、国民への負担となって尾を引いていくのですが、こんな結末など関知しないかのように、あのバッハ委員長は"東 京2020が安全な大会が可能であることを証明したので、それが来年の北京五輪を後押しする" といった趣旨の発言をして います。莫大な放映権さえ担保されればいいというIOCの独善的な姿勢は、いまや明白です。こんな組織のために国際社会 はオリンピックを後押ししていっていいのか、私には来年の北京五輪など、今や何の興味も湧いてきません。

・日本の若者たち
 先のオリンピックの記憶の総体よりも、私には大谷翔平一人がもたらしてくれたインパクトの方が大きかったように思えるの です。彼一人がもたらしてくれた日本人としての喜びとか誇りというものが、極論すればあの莫大な支出によって開催に漕ぎ つけたオリンピックの成果よりも大きかったという意味で言っています。日本の若者一個人が生み出した力の精励にして潔白 な集積がどれほどのものだったか・・・。同じことが、先日のショパンコンクールという場でも証明されました。2位入賞に輝い た反田恭平はじめ、このビッグイベントへのコンテスタント87人のうち、日本人若手ピアニストが12人、うち5人もが難しい三 次予選に残ったのでした。二人のファイナリストだけでなく、彼らの演奏はみな個性的で、音楽的な背景も実に多様です。私 はよく、"最近の若い者は・・"とネガティヴに感じることが多いのですが、そういう想いを払拭して誇らしさまで感じさせてくれた ニッポンの若者たちでした。

・コロナ憎し
 コロナ下の様々な制約・・・とりもなおさず、それこそがこの年の停滞をもたらしたものですが、私のような後期も後期に属す る高齢者ならいざ知らず、子供や学生たちにとって、この制約がどんなに不幸なことであったか、改めて同情の念を禁じ得ま せん。通学の想い出とか、同窓で学んだりイベントを共にしたり、修学旅行に行ったりと、学生時代の経験とか思い出は、こ の時期にして得られる人間としての滋養であり、心の栄養ともなるものだと思うのです。それが制約されたり損なわれたリで、 二度とこない青春のエネルギーを蓄積できないまま社会人となっていくのは、自身に照らして考えると、本当に気の毒なことだ と改めてと思います。子供も然り、野に放たれて遊んだり、家族旅行を楽しんだりと、そんな中で本来培われるものを手にしな いまま成長するとすれば、これまた見過ごすことの出来ない事態と言わざるを得ません。そんな巡り合わせに遭った子供や 学生たちが、ポストコロナで何かいいご褒美に巡り合ってもらいたいものだと、つくづく思うこの頃です。

・生命維持装置
 さて、私にしては珍しく若者への同情心を披瀝することになってしまいました。かく言う私自身は、さしたる傷跡もないままに コロナ禍の毎日と付き合ってきたし、それは今しばらく続きそうな気配ではあります。そんな中、今年の言葉として最も印象深 かったのは、以前このFノートでも書いた、ドイツ文相の発言にあった"生命維持装置"なる言葉とその文脈です。この文相は コロナ下での芸術活動の諸規制に際して、音楽や絵などの芸術は、人々にとっての生命維持装置のようなものだと言い切 り、それ故に規制下で被害を被る個人や貧しい芸術家集団に、大きな補償を約束したのでした。何と素晴らしい国なのか。そ れ以降、私もまた絵を描いたり音楽を聴いて充足されるのは、まさしくこの生命維持装置のなせるところだと改めて感じ入っ たりしました。そして私が描く作品もまた、多少なりともそれを見る人たちの生命維持装置を働かせる原動力となっているので あろうかと、勇気づけられもしたのでした。
 
 そんなこんなを書いているうちに、すっかり外は暗くなってしまいました。この年末年始は、極寒の日々となる予報です。皆 様もこの冬とコロナ禍を乗り越えて、良いお年を迎えられますよう、お祈り申し上げます。
 


〇 久しぶりの東京へ(12月15日記)

 実に久しぶりに上京しました。前回から2年4か月ぶりで、この間はコロナで上京を控えていた年月ということになります。目 的は、懸案だった多磨霊園の墓地の名義変更と、同墓地に敷き詰める砂利の追加でした。二泊三日で新座市にある姉宅に 泊まり、三日間で保谷氏と府中市の間をクルマで行き来しました。以下、二つの感想です。

・ 高密度故の整然
 今回の行動域は東京の西部一帯で、都心部のまるでお上りさん同然となってしまう目まぐるしい変化とは無縁でした。それ でも東京は来るたびに変化し続けています。ましてや2年以上もの空白があると、田舎者と化した身には、その変化が際立っ て映るのでしょう。半ば商業ゾーン、半ばベッドタウンと言っていい三多摩地区にしても、駅周辺の様子とか、住宅ゾーンにし ても家々の密集具合とか、改めて大変な高密度社会なのだと実感させられます。その中で今回感じたことは、密集の中の整 然とも言うべき点です。隙間もないくらいに建ち並ぶ家々は、整然としているが故に見苦しさが和らぎ、大小の入り組んだ街 路は、複雑でも整然としているが故に閉塞感が和らぐ・・そういう感じなのです。高密度であるが故に全ての関連性が整然とし てなくては成り立たないし、息もつけない、そんなことが感じ取れたのでした。そこには、今回のコロナ対応で見せた日本人の 几帳面さも重なっているのでしょう。田舎にいると異常にさえ思える東京という大都会の混沌・・それがある種清潔感の中で整 っているといった印象でしょうか。

・ クルマ社会の成熟?
 同じようなことは、クルマで走っていて感じました。何と言ってもみんなお行儀がいい、交通マナーが徹底されているという感 想です。だからこそ、これだけの交通量の多いクルマ社会も、それなりに上手く回っていると思えるのです。そんな実感を得た シーンは、片道2〜3車線の幹線道でのことです。東八道路では、信号が青に変わって、先頭の私はいつもの通りアクセルを 踏んで60キロ近くに車速を上げたのですが、バックミラーを見ると後続車の集団はずっと後ろに控えていて、それが不思議 で違和感覚えたのでした。それから武蔵境〜伏見通でも全く同じ経験をしました。後続車との間隔が空いてしまったことは一 度ならずで、その都度自制心が働いて、いつの間にか私も他のクルマと歩調を合わせて走っているのでした。もう一つのシー ンは、大泉学園のバス通り。右折しようにも、反対車線の車列が途切れない限りそれが適わないといったシチュエイションで、 これも何度か対向車が止まってパッシングし、道を譲ってくれたことがありました。どちらも既に身に付いた習慣のように見受 けられ、それは八ヶ岳の田舎では、そうそうは体験できないことです。例えば空いている道路、少ない信号機、反対車線はガ ラガラ・・・そういった環境の違いを考慮してもなお、成熟したクルマ社会の側面が私には見受けられたのでした。

 何だか今回は、過剰な変化に付いていけないといったいつもの印象とは違って、なるほどこういう側面もまた東京の変化な のかと、珍しく好意的に感じられた変化であった次第です。

・ 加えてもう一つの混雑
 それを感じたのは、多磨霊園事務所での事務手続きのときと、最終日の姉宅を出て直ぐ近くにある有名な和菓子店でのこ とでした。
 霊園事務所では、今回上京の主目的であった栗原家墓地の名義変更手続きをしたのですが、事務所入って直ぐの長い対 応窓口が、なんと10区画ほどに区切られていて、入ると順番待ちのカードを手にして待たねばならなかった意外な事態・・・こ れには面食らいました。二年前に相談にきたときは二組ほどの客しかいなくて閑散としていたはずです。そういえば、霊園の 中を走って、やたらと更地化した墓地が目に付きました。合祀とか墓仕舞いとか私のような名義変更といったことが、ここにき て相当増えているということでしょうか。それがこの間のコロナと関係しているのかどうか判断しかねますが、静かだった霊園 事務所での混雑は、世の中が変わりつつあることの査証である光景であったかも知れません。
 もう一つは、妻のリクエストで入った「大吾」という和菓子屋での話です。ここでも狭い店内に大勢の順番待ちの客がいます。 入り口の前でも、中を窺ったり入店を躊躇するような客があとを絶ちません。私は不案内でしたが、ここは知る人ぞ知る和菓 子屋だそうで、ちょうど師走も半ばを過ぎた贈答のシーズンのせいもあってでしょう、中には大量に注文をする客もいます。高 級和菓子への殺到、それは特に変わった光景ではなかったのでしょうが、そもそもそれほどの店もなければ、それほどの順 番待ちもないわが北杜市の住人からすると、これまた驚きの風景であったわけです。

 帰って小淵沢のICを下りると、そこに待っていたのは先にも後にもクルマのいない空いた道路です。「クルマがいないね〜」 と妻が。ICから家までの3qほどの我が家には、あっという間に辿り着きました。


〇 本屋の話(12月4日記)   

 かつては街中の商店街なら一軒はあった本屋さん。都市部では未だにそうなのかどうか分かりませんが、傾向としては商 店街の書店は減って、その多くは大規模商業施設内の一角にとって代わられているのが現状ではないでしょうか。都会住ま いの頃は、妻が買い物をしている最中に、そうした本屋さんで時間をつぶしては、求めてもいなかった本まで買ってしまったと いう経験は誰でもあることでしょう。
 さて、話はわが北杜市のこと。北杜市は面積にして東京23区から杉並区を引いたくらいの広さを誇るのですが、人口が5 万人足らず。この中に七つの町(行政区)が存在しています。しかし、ここが中心というほどの市街地を持たず、山野の広が る田舎にはよくある過疎の地域で、この中に本屋さんは2軒だけあります。そのうち一軒は、歩けば2分で尽きてしまう小淵沢 の駅前商店街にあるのですが、文豪具店を兼ねていて、置いてある本は雑誌が中心(しかし「文芸春秋」は置いていない)。 なので、もう一軒の長坂町商店街にあるS堂だけが、独立した書店ということになります。そしてこのS堂の分店が、市内で最 大の商業施設である「きららシティー」(スーパーの「オギノ」と何軒かの商店の集合施設)の中にあって、こちらの方が大きい 本屋ということになります。買物時には決まって立ち寄ってはざ〜っと書棚を巡るのですが、狭い店内のことなので、売れ筋 以外の本となると、探しても見つからないのが常です。

 つい先日のこと、私は南アルプス市にある歯医者に行った折に、隣接した薬局にその日持って出た文庫本を忘れてきてし まいました。帰ってから気付いたのですが、何せ高速料金¥1000余りを要するほどの遠距離なので、簡単には取りに行け ず、電話して次回受診日まで預かってもらうことにしました。そもそも、何故このような遠隔の市町村にある歯医者に通ってい るかというと、そこに、以前北杜市内で治療を受けていた歯科のA先生が転勤していたからで、こと歯になると極度に萎縮して しまう私は、この先生を頼って、わざわざ南アルプス市まで遠征しているというわけなのです。転勤先のA先生に予約を入れて の初診の時、先生からは「ご指名ありがとうございます」と、一瞬ここはクラブかと、病院らしくはない挨拶を受けました。それ はともかく、この本の読みかけた先を2週間も我慢して待つのはできそうもありません。それで再度同じ本を購入することにし ました。この本を購入した同じ「きららシティー」内の分店で再購入したのでは、昨日の今日でみっともないので、商店街の方 のS堂本店で買い求めることにしたのですが、そこではこの文庫本が見当たりません。因みにこの本は、待望の文庫本化が なったばかりの、横山秀夫の「ノースライト」という本。ハードカバーで登場した際は、本屋大賞の候補にも挙がったほどのベ ストセラーです。文庫が発売されたばかりの今なら、大体の本屋で平積みされているはずなのに、それが見当たらない? そ ればかりか、尋ねられた書店の老主人は、おぼつかない手つきでパソコンを検索し、当店には入っていないようで・・・と言い ます。その傍らで、奥さんも「何せ田舎の本屋ですから・・」と、大して悪びれもせずに、にこやかな表情です。仕方ないので、 再び先日買った同じ本屋で再購入したのですが、幸いなことに違う店員が対応したので、言い訳もせずに済んで早々とその 本屋を後にしたのでした。まあ、こんな処に、田舎の本屋事情が映し出されていると言えるでしょうか。

 この話はしかし、私自身のボケ具合が伏線としてあるわけで、実は本を忘れた同じその日、私はある施設のベンチに危うく ハンドバッグを置き忘れるところだったのです。常日頃から私のこうしたドジ加減を気にしていた妻が、手ぶらの私を見て「あ なたバッグは?」と訊いてきたことで、慌ててベンチに引き返し、今回は事なきを得た次第でした。その一声がなかったら、ベ ンチの上で置き去りにされたバッグ(財布もこの中に)は、文庫本以上の事態を引き起こしていたに違いありません。ですの で、田舎の本屋の話題は、私のドジが相俟って膨らんだ話となっている点は否めません。商店街の本屋の女主人が言った 「何せ田舎のことですから」・・・は、そんな田舎に16年過ごした私自身が、いよいよドジ加減も身に付いてしまった挙げ句の 話なのです。女主人の台詞は、私が口にしてもおかしくないものであったかと、今にして思うのでした。


〇再び"言葉〜メモ(11月19日記)  

 再び折に触れてメモしてあった"言葉"メモです。と言っても、今回は言葉と言うよりも”物事”メモが多いでしょうか。どちらに しても、折に触れてはメモしてきたことは、前回書いたときから3か月しかたっていないのに、こうしてメ拾い出してみるとたくさ んあるもので、そこからの連想の世界も、ときに意味深に、ときに他愛なく広がっていくものです。

◆ミョウガ(9月17日)
 今朝は久しぶりの青空! 9月で25度というのも久しぶりの暑さで、それだけ月初めは寒く雨天の多かった9月であった。 確か原村の友人宅では、朝ファンヒーターを入れた日もあったとか。朝新聞を取りに行ってデッキ下のミョウガを見て思っ た・・そういえば、この夏にソーメンを食べた日がいくらもなかったと思い起こすのでした。それほど今年の夏は、夏らしい日々 ではなかったということでしょうか。

◆朝日岳
 北アルプスの朝日岳は、いい山である・・そうな。山岳写真家の斉藤某?がこの山の虜になって通い詰めて久しい。富山県 に属して日本海を望み、朝日岳山荘は父を受け継いだ娘が経営している。富山の海の幸に舌鼓を打てる小屋の食事は名物 となって、女主人の人柄とともに、多くのファンが毎年訪れているらしい。その写真家によれば、年とともにこの山の良さが分 かってくるのだそうだ。いい山・・そう思う山は、私にもいろいろあるのだが、既に上登る気力・体力とも持ち合わせていない私 は、これをいかに解かせん・・・ではあります。

◆妻の一言(9月23日)
 私の妻は、時々短絡ながらギャフント言わせるような言葉を吐く。先に記した「私なんか生きて行くのが億劫だ」は、読者の 何人かが気に入ってくれたようなので、続編を少し。
→ 道路地図がいつも置いてあるはずの所を探し回ったのだが、ついに見つからず仕舞い。それが諦めてしばらくしてから、 その場所から出てきた。「ふっしぎだな〜」と呟く私に、「それが順当なの」と妻がダメ押しした。
→ 何かの待ち時間にスマホを取り出してしきりと画面を覗いていた私、自分の姿が若者とダブって見えたので、「若々しいで しょ」と横にいた妻に言ったら、返ってきた一言は、「馬鹿々々しい」 だった。

◆小三治死す
 10月7日、人間国宝だった落語家、小三治が亡くなった。享年81才、翌朝の新聞は随分とスペースを割いて、その死を悼 んでいた。私は、本棚から小三治の文庫本(「まくら」と「もひとつ、まくら」)の二冊を取り出して、暫くはテーブルの上に置いて パラパラと中身を拾い読みした。 本題の落語は元より、まくらでこれほど長々としゃべり、人を喜ばせてきた落語家がいなく なったのは、至極残念だ。「もひとつ、まくら」の方には、「笑子の涙」という長い一節が掲載されていて、何度読んでも涙を誘 う。

◆「空想の翼で駆け、現実の山野を行かん」
 松本清張が、石見銀山の若者に残した言葉だそうで、人生観をも左右する言葉の重みというものを感じた次第。

◆10月19日、TVで「懐かしの笑点」を観る
 20年前の大喜利のワンシーンが放映されているのを観た。先代の円楽が司会で、レギュラー陣も若く、その中には元気な 歌丸もいる。何よりも面白い、笑いの時間が濃密で笑への想像力も豊だ。それに比べて今は・・と思わざるを得ない。それは 「笑点」だけではなく、TV全体のこうした娯楽番組において言えることだ。随分とお手軽で薄っぺらな中身になったものだ、と 嘆かわしく思う。

◆日本人の若きアーティストたち
 10月22日、ショパンコンクールで反田恭平が2位との一報が! 加えて、10人のファイナリストには、4位にも日本人の名 が。のちにYouTubeで反田のファイナルステージでの協奏曲1番を聴いて、これは凄い!と唸った。それからややあった29日 には、ジュネーヴ国際音楽祭のチェロ部門で、上野通明が優勝した。
 近ごろこうした日本人の若手アーティストたちの活躍が珍しくなくなってきた。後日、こうした活躍の原点のようなところを、あ る発表会の場で目撃した。それはわが北杜市でのことで、ある先生一門の発表会だったのだが、そこに登場した10人余り の高校生の演奏ぶりが実に堂々と強かであったことだ。こういうところに、今の若い日本人ピアニストたちの活躍の基盤を見 る想いであった。
 昨今、クラシックに限らず音楽シーンで日本人の活躍ぶりが珍しくはなくなってきた。スポーツの世界での大谷翔平が象徴し ているように、若い日本人が世界に存在感を示すのは、嬉しいし誇らしいことである。ただその一方で、科学技術の世界にお ける日本人の存在感が薄れつつあるのは気になる。世界の大学ランキングを見ても、日本は最高学府の東大にして36位。 最近ではワクチン開発の実態にしても、研究開発の現場はどうなっているのか、と思わざるを得ない。工業技術然り、日本の 伝統的モノづくりの世界然り。日本の地盤沈下を心許ないと思うのは私だけではないだろう。

◆シェアー
 NHKの番組での話。進行役が次のように話す。
 「それでは〇〇さんに、そのやり方をシェアーしていただきましょう」
その言葉に突いて、紹介された〇〇さんが滔々と説明を始めた。
この場合、何故「〇〇さんにご説明願いましょう」と言わないのだろうか? 
このシェアーという言葉、SNS特にfacebookから来ているもので、Fbookではまた、「誰それが過去の思い出をシェアーしまし た」といった言いまわしも頻繁に出てくる。なんのことはない、過去の思い出に触れて投稿したという意味に過ぎないのだ。
 シェアー=shareは、通常(役割を)分担する、分け合う、同意する・・といった意味である。であるので、例えば誰かの投稿に 共感して、これをシェアーする(シェアーして取り上げる)、と言う場合は肯けるが、上のNHKアナの言い回しは、どの日本語 訳に照らしても不自然で、遠回しなもの言いではないか。こともあろうにNHKが・・・である。SNSに端を発するこの種の言葉 (外来語?)が、日本語の世界を次々と犯し続けるのであろうか。いやな予感がしている。

◆恋愛対象: 男性!?
 これは、ある投稿で見た女性の投稿本人の自己紹介欄に記してあった。この本人紹介では、性別とか、居住地とか、なに がしかのキャリアーを記入する欄があるのだが、この"恋愛対象"がどうのこうのという記入は初めてお目にかかった。そうい う時代になったのだろうか。因みに、私が見たのはいかがわしいサイトでは決してありません。

◆「おおよその 苦しむ元は わが心」
 あるお寺にあった張り紙だそうだ。Facebook上で紹介されていたもので、先の不思議な言葉使いに従えば、"〇〇さんが投 稿をシェアーしました" となるのであろうか。それは別として、さも、古びたお寺の壁に張り紙にありそうな言葉で、なるほどと 肯けた。

・11月22日記 〜本からピックアップしてメモした言葉〜
◆ 弥縫策(びほうさく) ・・・ その場しのぎで繕った策のこと。かの藤原正彦が、その場しのぎの政府によるコロナ対策を批 判して使った言葉。氏はそのなかで、肝心のワクチン開発には100億足らずの予算しか当てなかった政府は、その一方で、 GOTOトラヴェルには1兆3千億もの予算を投じたとして、政府の定見を欠いた姿勢を批判していた。
◆ 陶冶する(とうや) ・・・ "陶器を作る" から転じて"人の性質や能力を円満に育て上げること"・・・司馬遼のエッセイの中 に出てきた言葉で、私には馴染みの薄い言葉であった。

◆「小太り あとを濁さず」
 サンドイッチマンの初期のステージで出てきたギャグ。 ツッコミ役の伊達(小太り)に対し、ボケの富澤が言い放ちます。「そ この小太り、さっさとそこどいて」。そして付け加えた一言、「小太り あとを濁さず」・・・これにはドッと笑ってしまった。




○ ドラマティックな空の一日(11月3日記)

 再び空のことです。空を舞台に織りなす”雲”のドラマ!
 昨日(2日)は、日がな天空を見上げてシャッターを切ることの多かった一日でした。
それは、日の出前から始まって日没まで、秋特有の高い空と様々に表情を変える雲の織りなすドラマです。
言葉を弄すよりも一見に如かず。何点かの写真をお届けしたいと思います。

   
         日の出前、白み始めた東の空が巻雲を曳いて透き通るようです。
                                         そして6:20頃、日の出を迎えました。
   
陽がかなり上がった10:30頃、東の空一面を覆う巻雲が、うねりを伴って駆けめぐるよう。
                          同じ頃の西の空、抜けるような青を舞台に走る一筋の巻雲。飛行機雲の残像でしょうか。
 
短い午後の時間帯を経た日暮れ時。 買い物を終えてスパーを出ると甲斐駒が夕焼けの中に!
   
     
サンセットポイントは甲斐駒から少し右に(西に)すれた鋸岳の辺り。    家に帰って見た日没後の東の空はまだ色を留めていました。
    


〇 たまにはフィールのことを(10月16日記)

 このフィールドノート、冠のフィールドのことを暫く書いてきませんでした。これはいけないと反省しつつ、今回はまさしく
フィールドで出会ったいっときの空のドラマのことを書きたいと思います。

・ 空のドラマ
 この秋のビッグイベントであった水彩画展を終えたのが11日のこと。今回の水彩画展は、私と教室の生徒さんたちによる グループ展で、個展も含めて2018年以来、3年のブランクを挟んでの久々の展示イベントでした。私も11日間の長丁場を 毎日会場に顔を出して過ごし、ホッと胸をなで下ろしました。歳とともにこのしんどさは増すばかりですが、それ以上に作品を 通し、或は直にお客様と接して得られる手応えとか充足感は、そのしんどさを帳消しして余りあるものではあります。これは、 私のような絵描きばかりではなく、創作に携わる者全てに言えることで、むろん今回は会期中を共にした生徒さんたちも同様 に覚える感慨ではなかったかと思います。


 左にある甲斐駒ヶ岳から右手、最後の光を残して日が沈みま
す。





日没後ややあってから、上空に彩雲が現れました!
 さてその帰り道、もう明日からは会場に足を運ばなくて済むという安堵の思いでクルマを走らせていると、陽の傾きかけた西 の空が青から金色へのグラデーションを彩り始めています。それは、刈り入れを終えた田圃の向こう、甲斐駒から続く南アル プスの山稜がシルエットとなって広がる舞台上で、一服の秋のドラマの始まりを告げるものでした。思わずクルマを停め、外に 出てじっくりとこのドラマに立ち会うことにしました。もちろんスマホを手に、いっときも劇的変化を見逃すまいと腰を据えまし た。目の前に展開するこの秋のドラマ、西の空は段々黄金色に変わり、陽が沈むあたりに彩雲が現われました。一帯の高積 雲の縁が虹色を帯びてきたのです。彩雲というのは、太陽光が雲(水滴の塊)の中を回折するときに屈折率の違いで七色に 変化する雲のことを指すのでそうです。理屈はさておき(私も詳しくは説明できないので)、この雲は古来僥倖の徴とされてき たそうで、何が私にとって幸運なのか分かりませんが、どもかくも、一仕事終えてのご褒美のように私には映るのでした。この 先一々言葉を弄するよりも、写真でご覧いただければと思います。
 一面の秋の暮れ行く空に刻一刻と繰り広げられるドラマ! その一瞬に立ち会えたこと自体が幸運に思えたのでありまし た。


ひとひら、ふたひら・・と横に広がる彩雲・・・とても見事!




陽は更に沈み込んで、棚引く雲がシルエットに。彩雲はまだ残って います。



〇 言葉・・メモ (8月31日記)

 以下は、折に触れてはメモっておいた言葉です。多くは朝起きて血圧を測る際にTVから聞えてきた言葉や、友人とのメール 交信で出てきた言葉などの中から、ちょっと気になる言葉、調べてみたい言葉、記憶に留めたい言葉などをピックアップしたメ モです。それをちょっと披露してみようかと思った次第で、記載は日付順に拾ったもので、取り立てて仕分けや章立てをしたも のではありません。中には、一度このFノートの中で取り上げた言葉も入っています。

◆ '19年10月のメモ
  歳を取って増える三つの「シ」 ・・・「シミ シワ シクジリ」
  ・・・確かに。

◆ "20年2月、このFノートに初めて「コロナ」の文字が登場。
  因みに、この頃はちゃんと頭に「新型」と付けて書いていた。
  同じ年の3月には、感染者ゼロの県として、岩手、山形、鳥取、島根の4県の名が。

◆ 桜の季節の日本の美しい言葉 
  ・・「花隠し 花冷え 花曇り 花流れ 花嵐」

◆ '20年4月17日 初の「緊急事態宣言」

◆ ドイツ文化相の言 (4月22日の信濃毎日新聞)
 ・・・「芸術は生命維持装置である」 
 ・・・言葉だけでなく、ドイツはコロナで活動を中断されている文化事業に携わる個人、小規模事業者に、
  50億ユーロ(およそ6千億円)の財政支援を発表。
  vs 日本の政治家からは、今こそ文化の力を信じ、ともに乗り越えましょう・・  といった具体的な中身を伴わない発  信 ばかりであった。・・これ、前に書いたかも。

◆ 「オキシドシン」 ・・・幸せホルモンのこと
  電話で声を聴くだけでも増える。コロナ下の面会謝絶という事態に際して出てきた言葉。

◆ 8月ごろの記述 「ノブレス・オブリージュ」 ・・・ 貴族の義務 
  それは、いざとなれば率先して戦うこと ・・与えられた特権は、その裏返し。 

◆ '21年1月21日のメモ  サミュエル・ウルマンの箴言(シゲン=戒めとなる言葉)  
  「年を重ねただけでは人は老いない。人は理想を失うとき初めて老いる・・青春とは心の若さである」 

◆ facebook で目にしたあるお坊さんの言
 ・・・「魅力とは、与によって生じ 求(ぐ)によって減ずる」  ・・・これも確かに。

◆ 4月前後の何かのCMのメモ  ・・「意味なく群れるよりも 意思のある孤立を」  

◆ 小松原選手(フィギアスケート)が、海外に一人で武者修行に出るときに語った二つの心構え。
 ・・・ 「1 "死ぬ"以外はみんなかすり傷  
     2 心も筋肉でできている。鍛えれば強くなる」
   ・・ 凄い言葉、凄い決意!

◆ '21年8月ごろのメモに  「鯛だしまぜそば」 島田屋・・・とあります。
  何かの番組で好評価を得たものか、いつか食してみようとメモしたもの。まだ試食していない。

◆ 素敵な地名
  ・・「霧立峠」 宮崎県の山にある峠の名前
  ・・わが町でも 「町添え」なる粋な地名がある。

◆ 家内の言
  朝私が未だ布団の中にいたときに家内が"まだ寝てるの?"と訊ねた。
  "起きるのが面倒くさい"と私。そしたら家内が返した。
  「私なんか、生きて行くのが面倒くさい」 !! 
  ・・・これはメモしたものではないけど、最近のことなのでよく覚えている。
  
◆ 貝原益軒の養生訓
 ・・・ 「道を楽しむものは 命長し」
 ・・いい言葉です。

◆ ピカソの言葉 机の上を整理していたら、大分前の新聞の切り抜きが出てきた。
 朝日新聞の「折々のことば」で、そこにピカソの言葉が載っていた。これも以前書いたかも。
 ・・・ 「十歳で どんな大人より上手に描けた
       子供の ように描けるまで一生 かかった」

 言葉とは、ときに耳にしてから一瞬のうちに消え去り、ときに人の心をいつまでも捉えていたりと、いろいろです。そして、心 を捉えた言葉も、時がたつと記憶の彼方に薄れたり沈んでいたりするのは人の世の常でしょうか。考えてみれば、人間の生 の記憶とは、言葉の積み重ねと言えるのかも知れまっせん。動物の記憶が、視覚、聴覚、臭覚などの五感から成り立ってい るのに対して、人間のそれには”言葉”が加わり、言葉をもってして語られます。人間の人間たる所以でしょう。その言葉の断 片は一々取り上げるようなものではないにしても、ときにこうしていくつかを拾って並べてみると、自分の歩んできた時間がそ こに重なって見えたりもするし、そこの記憶が整理され、初期化されるような気にもなるのが不思議です。

 「鯛だしまぜぜそば」・・・ 改めてこれを探し出し、食べてみなければ・・・!


〇 コロナ禍と日常 (8月28日記)

 先日も書きましたが、何をしても、何を言っても、さてその一方で(・・・meantimeです)、コロナはどうなっているのか・・この一 事が付きまとう昨今、この状態がもう1年半に及んでいます。わが山梨県でも曼防重点施策が実施中のど真ん中。これが首 都圏となるともっと緊迫の度を増すのでしょうが、私などは、家にいるか家の周辺をぶらつくか、またはクルマで出かけて野っ ぱらをうろうろする限りは、いたって平穏な日々ではあります。それでも買い物にでるし、医者にも行きます。床屋などはもうと っくに行くタイミングなのに、むさくるしいままで散髪は先延ばししています。

・ 不要不急
 不要不急の外出は避けて・・という要請は十分認識してはいるのですが、やらねばならないこともあって、都度これは不要不 急かそうではないのか、自問も欠かせない毎日で、その一つが、水彩画のグループ展に向けての必要な準備です。このグル ープ展自体が10月1日からで、これはもう1年以上前から決まっていることです。現実はしかし、現行の重点施策がそれ以前 に解除され、会場が使えるようになるかどうか・・実にこの悩ましい問題を抱えての事前準備の最中というわけです。
 不要不急・・さしあたって必要か必要ではないか・・・引き合いに出される事例として、買い物があります。いつだったか、新 聞で読んだ一節を引用します。
食べるものがない、それがお米やパンだったら必要だから、買いに行かねばならない。 食べたいおかず・・肉や魚だったら、 その限りではない。
飲み物がない、それが水だったら必要だから、手当てをせねばならない。 お茶やコーヒーだったら、その限りではない。
しかし私たちは、(・・・とここからが大事なのですが)、おかずの魚やお茶があって、満たされる。美味しい、きれい、心地よい は、この文脈からは、全て不要不急となってしまうが、私たちを支えてくれているのは、こうした不要不急なことばかりなのであ る。

 その通りでしょう。私にとって当面の懸案事項は、この文脈から "私たちを支えてくれている不要不急なこと" として捉えた いところです。だから大目に見ていいとは言いませんが、思えば同じような想いで道を閉ざされ、日の目を見ないまま地団太 を踏んできた人たちが世の中に大勢いることは確かです。

・ 一日も早い日常の復帰を
 司馬遼太郎があるエッセイで、文化とは何か、について語っています。氏は文化を定義してみると、「それにくるまれていて 安らぐもの、楽しいもの」ではないかと書いています。合理、非合理で区別されることのない「居心地の良さ」・・それは慣習や 習慣と無縁ではないものとも書いています。
 日頃は取り立てて意識することのない、この私たちを!くるんでくれていいる文化・・・それは実に私たちの日常の中に根差 し、私たちの生きる糧ともなっているものなのです。コロナ下の制約は、こうした日常をどれほど蝕んできていることでしょう か。改めて日常というものの大切さに気付かされます。そして一日も早い日常への復帰を祈るばかりです。






  ジャズあれこれ・・その2 (8月14日記)

 さて、私が好きなジャズは・・・と来ると、いきなり音楽を言葉で表現する難しさに直面してしまいます。それを承知の上で書く と、ガンガンとうるさく鳴るジャズとか、独りよがりに没頭するジャズは苦手。聴く者の心にスッと入り込んでくる巧みな侵入者 のようなジャズが好きです。何とも抽象的に過ぎる説明ですが、頑張ってもう少し音楽風に表現すると、抑制の効いたクール 感とか、お洒落で気の利いた歌いまわしやフレージングが、私にとってのジャズの魅力ということになるでしょうか。どう説明し ても・・・でしょうか、という曖昧な語尾がつきまとう点はご容赦願います。まあ私のこうした好みは、ジャズだけでなく、広く広く 芸術全般に通じることではあります。
 一般的にジャズと言うと、jazzy〜華やかな、派手な、とか earthy〜土臭い、土俗的な・・といったイメージが先行しがちです が、ジャズには洗練された品の良さとか、リリックな表情が漂うジャズだって、たくさんあると言えるでしょう。そしてどんなスタイ ルにしても、私はやはり聴いていて歌を感じるジャズがいいな〜と思うわけです。ときにチャーミングな歌いまわしに出会い、 心地良いスイング感に浸れると、、私はもう幸せな気分になるのです。
・ピアノトリオが好き  

 演奏スタイルからすると、私の好みはピアノトリオです。ピアノトリオが、よく耳にするベースとドラムのリズムセクションとの組 合せとなったのは、いわゆるモダンジャズ(前にも触れたビ・バップ以降のジャズ)の時代になってのことと言います。時代を先 導したS・モンクとかO・ピーターソンたちが富みに有名ですが、'40〜'60年代を通して、ジャズ史をつくってきた著名なピアニ ストは、綺羅星のごとく大勢います。面白いですね、ここでもクラシックだと歴史を物語るのは作曲家の名前であり、演奏家と しては指揮者の名前が上がるくらいなのに対して、ジャズの歴史を物語るのは、悉く演奏家の名前です。誕生して百年余りと いう短いジャズの歴史は、あまたの演奏家たちの名前で綴られ、私たちがジャズを論ずるときも、この演奏家の名前から始ま り、演奏家の個性に及ぶのが常です。それが、ファンキーだハードバップだといった時代区分は、ジャズの歴史の流れを便宜 上整理しているだけで、演奏家の個性はそうした区分を越えたところにあるのは言うまでもありません。さて、ピアノに関しても う一言。私には、かつてバイエルを終えた辺りでピアノから遠ざかってしまったという過去があって、それが年老いた今でもピ アノへの未練といった形で残っています。そのせいもあって、ジャズに限らずクラシックでも、ピアノ演奏を伴う曲が好きです。 最近増えた駅ピアノ・・・あれをさりげなく弾く人を見ると、いいな〜、羨ましいな〜と思うわけです。"♪ もしも ピアノが 弾け たなら"・・・” で言えば、私はかつてはクラシックの例えばショパンの協奏曲の出だしなどであったのですが、最近はジャズピ アノ、それもトリオで自在に弾いてみたいところです。ソロではアドリブを格好良く歌い、ベースとのかけ合いでは気の利いた 合いの手を入れ、聴き手を魅了するようなジャズピアノを弾いてみたい・・・さらにできれば、ビル・エヴァンスの弾くように・・・。
 再三名前の挙がった私には神様の如き存在であるビル・エヴァンスの他、私が好んで聴くのは、演奏そのものもさることな がら、音楽的な創造力が魅力なジョン・ルイス、どこかリリシズムな雰囲気が漂うデューク・ジョーダン、素朴さと暖かみが滲み 出るバリー・ハリスなど、その他ここでは一々書き切れません。マイナーなところでは、知る人の少ない田村 翼(1940-1996)、 この人に備わった美しいピアニズムは、日本人にもこんな人が・・・!と嬉しくなるくらいです。そしてごく最近耳にしたドイツ人 の女性ピアニスト、ユタ・ヒップは、自然でふっくらとしたトーンと歌に満ちたフレージングが素敵! もっと聴いてみたいピアニ ストです。

 一方、当然ここで名前が上がって良さそうなキース・ジャレットとかチック・コリア、それにハービー・ハンコックといった現代 の巨星たちに関しては、勿論手持ちの音源を聴くことはあるのですが、上にあげたピアニスト達に覚えるほどのインティメイな 感覚はなかなか覚えられないままです。3人とも私と同年代と言って良く、41年生まれのCコリアは、今年の2月に没してジャ ズ人生の幕を閉じました。45年生まれのKジャレットは、昨年2度目の脳溢血に見舞われ、あの「ケルンコンサート」の輝きを 残したまま今や再起不能と言います。意外なことに一番年上であるのが40年生まれのHハンコック、この名手は未だ現役で 活躍中とか。あの名盤として名高い「処女航海」について、私は、世間の評価にまだ追いつけないままでいます。
・遅咲きの管への目覚め  

 私が聴くジャズにはもちろん、サックスやトランペットといった管楽器主体のジャズもあります。しかし聴き知っているミュージ シャンの数はピアノと較べると少ないので、多くを語れませんが、空気を震わせるあの金管の響きもまた、ジャズに欠かせな い魅力だとも思っています。ちょっと踏み込んで聴くようになったきっかけは、クリフォード・ブラウンのトランペットでした。それ も、あのヘレン・メリルとの競演、歌声が止んでから訪れた一瞬の間を割くように立ち上がったトランペットの音色とメロディー を耳にした瞬間、私はこの奏者に憑りつかれたのでした。何かが違う、これまで耳にしてきたトランペットとは・・・。それから他 の曲も聴きあさるにつれて、C・ブラウンの心のひだを振るわせるような演奏は、ジャズの魅力を深めてくれるかけがいのない ものとなりました。それだけに、25歳の若い才能を奪いさった交通事故とは、何と残酷であったことか・・・。
 サックスでは、スタン・ゲッツが好みです。というほど他にたくさん聴いてはいないので大きいことは言えないのですが、あの Jコルトレーンからはなかなか感じ得なかったゾクゾク感が、S・ゲッツのテナーからはさらりと聞こえてくるのです。と言いつつ も、Sゲッツが唯一絶対のサックスとまでは言えず、いろいろ聴いていくと、サックスの違った魅力は続々と現れてくるような気 がしていのも事実ではあります。余談ですが、あれこれ聴いているうちに、サックスのテナーとアルトでは、ts が as よりも4度 低い音域をカバーしていることも知りました。
 管の好みは人それぞれでしょうが、私はどうもサックスよりもトランペットの方に惹かれます。切々としたあの音色や感情表 現での膨らみの幅、ちょっと濡れた感じの音色がそう感じさせるのでしょうか。トランペットでは大御所中の大御所、マイルス・ デイヴィスがいますが、どこか聴く者の神経集中を要求するようなところが、私が苦手とするところです。最後にリー・モーガ ン・・・この人の19歳の演奏を聴いたときも、凄い才能に心打たれました。大のクリフォード信奉者であったという彼の吹く "I  Remember Clifford"、堪りませんね〜!

・余話   

 ジャズのアレコレについて、選曲をする際の試聴にYouTubeをよく利用しますが、便利になったものです。かつてそんなネッ ト上の利器がなかったころは、私たちはものの本によって演奏を想像し、ときにラジオやTVでふと耳にし、意を決してレコード の購入と相成ったものでした。音源を手に入れるという点で、他にはFMチェックという手段もあって、私の手元にも何本ものカ セットテープが残ったままです。あの初めてのレコードにカートリッジの針を下す瞬間のときめき・・・そんなものも、どこに行っ てしまったのでしょうか。それに替わって現在は、演奏を探すのも音を聴くのも、そして音源を入手するのも、さらに言えば、音 源を管理して、私がしたように、好みの曲を集めた個人的なCDを作成するのも、全てPC一つでできてしまいます。遅咲きの 趣味を効率よく充足させるには、ネットの利器があり難い存在ですが、かと言って、かつてのあのときめきを手にできるわけで はなく、そんなことに考えを巡らせるのも、この年齢故のことかもしれません。

 余談をもう一つ。こうしてジャズ演奏家のアレコレを知っていく中で、彼らの多くがドラッグに犯されていた事実にも改めて気 付かされます。このジャズの手記で挙げた演奏家の中だけでも、およそ半数のミュージシャンが、ドラッグに犯されて演奏活 動を中断したり、停止に追い込まれたりしています。あの神様、B・エヴァンスも例外ではありませんし、L・モーガンに至って は、薬、酒、女という三大誘惑に犯され、若くして非業の死を遂げるに至っています。もしドラッグがなければ・・と想像しても、 それがもっといいジャズを残してくれたものか、或はひょっとしてその逆となっていたか、想像は尽きません。アメリカはまた、 州によってはマリファナも合法化されていたりで、そういう環境のアメリカで生まれ育ったジャズには、負の側面もまた、ジャズ をつくりだし継承してきた要素のひとつであったと言えるのかも知れません。
   ジャズあれこれ・・・その1(8月10日)  
 
 コロナ下で在宅時間が増える中、私はいつものようにせっせと絵を描き、文章を綴ったりする一方で、いつもとはちょっと違 うことに時間を費やしても来ました。その一つは、以前このFノートでも書いた英語の歌詞を覚えること、いま一つはジャズを 集中的に聴いてみることでした。英語の歌詞では、オリンピック期間中にアメリカの選手が金メダルを取る度に、流れる国歌 吹奏に合わせて歌ったりできる機会を得ました。”♪ Oh say can you see by the dawn's early light ・・・” だからどうというこ ともなく、一緒にTVを観ていた妻が、また始まった、という目で見ているだけなのですが・・。
 ジャズに関しては、いつもクルマで聴ているSDカードの収録曲(これはクラシックも含めてCD70〜80枚分くらいあるでしょう か)の拡充を図らんとしていたときに、かつての遊び仲間とのメール交信で音楽の話が盛り上がり、それがジャズの話に及ぶ に伴って火が点いたと言う経緯もありました。そしてついには、私の選曲による "Jazz Selection" なるCDを作ったりするに及 び、その余勢を駆ってこの一文を・・・ということになったのです。ただ、実は私、他人にジャズを語るほどのジャズ リテラシー なるもの(この場合は、"読み書き聴き能力" と言うべきでしょうか)を持ち合わせているわけではありません。その意味で は、クラシックの方が語るに足るものを少しは持っていると思うのですが、ここは一つ、ジャズの自由さに免じて、齢80を間近 にしてこそ覚える感興のようなものを、自由に書かせてもらうことにします。

・ ジャズにあるのは名演のみ

 デューク・エリントンはかつて 「ジャズに名曲はない あるのは名演のみ」と言ったそうです。ジャズを一言で良く言い表した 言葉だと思います。それで改めて気付かされることがあるのですが、例えば名盤百選とかレコードを推薦する本にしても、クラ シックは作曲家別、作品別ときて、最後に演奏家が出てくるのに対し、ジャスは始めから演奏家別となっているのが常です。 ジャスのCDを物色する際、私たちは、曲名からではなく演奏家から入っていくのが普通です。例えばスタンダードの定番の一 つ "Stella by Starlight" を買い求めるというよりも、"Bill Evance" を聴きたい、Evanceのアルバムを物色して買い求めた い、・・となるわけです。そのアルバムにお目当ての曲があるかどうかは二の次の問題でしょう。

・ 優れたジャズの演奏家は、優れた料理人である

 私は直接見たことがないのですが、ジャズにも譜面(スコア)があります。クラシックの場合はこの譜面が曲を支配するもの で、あくまでスコアに従ってそれをどう読み、どう表現するか、というところに演奏の価値とか個性が出てきます。かたやジャズ の場合、スコアはひとつの基準となるものに過ぎません。料理に置き換えて言えば、クラシックの譜面は守るべきレシピであ るのに対し、ジャズの譜面は食材に過ぎないと言えるでしょう。これをどう料理するか・・仏料理にするか、中華とするか、或い は日本食とするかは、食材の取捨選択も含めて演奏家の自由です。だからジャズのプレイヤーは料理人、これをどう調理し ておいしい食べ物にするかは、演奏家の腕と個性次第ということです。そこが、ジャズにおいては、インスピレーションとアドリ ブが命と言われる所以で、優れた演奏からは、ジャズ特有の息遣いが伝わってくるし、聴く者の琴線に触れ、心を動かしても くれる曲想とリズムが生み出される、と言えるのでしょう。
・そもそもジャズって・・ 

 ・・・な〜んて、分かったようなことを書いてきましたが、一応このところのジャズ体験を通して色々腑に落ちてきた蘊蓄めい たことです。そこで今度は、教科書風にジャズとは何か・・改めてこの定義めいたことに触れてみます。検索した文の継ぎはぎ のようなものですが、おおよそ次のようなことでしょうか。

・・・ジャズとは、19世紀末から20世紀にかけて、米国南部で黒人の民俗音楽と白人のヨーロッパ音楽とが融合してできた音 楽、つまり、黒人音楽のリズムと白人音楽のハーモニーを受け継いだ音楽である。演奏形態は、最小だと2人のデュオから4 〜5人のコンボと呼ばれる編成、20人前後で演奏するビッグバンドなど様々。特賞としては、即興演奏(アドリブ)」と、オフビ ートの独特のリズム感があげられる。 その歴史の変遷の中で、ディキシーランドジャズ、スイングジャズ、モダンジャズ、フリ ージャズなど、さまざまなスタイルを生み出してきた。

 とまあ、ザっと言うとこんな風になるでしょうか。私がよく聴くジャズは、いわゆるモダンジャズの部類です。ではそのモダンジ ャズとは? と言うと;
"ビ・バップ以降のジャズをそれ以前のスイング・ジャズなどと区別してモダン・ジャズと呼ぶ。ただ、今となっては、モダンという 言葉のもつ本来の意味合いは薄れており、ビ・バップ、ハード・バップ、新主流派あたりを指すことが多い" 
ビ・バップとは? と言うと;
"30年代末から40年代初頭にかけて、スイング・ジャズに飽き足らなくなってきたミュージシャンたちが、スモール・コンボによ るジャム・セッションなどを通して生み出していったスタイル、もしくはそのムーブメントを指す。振幅の激しいフレージングや複 雑なコード進行などがその特徴。中心となった人物には、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、バド・パウエル、デクスタ ー・ゴードンなどがいる" 

  次から次へと、分からない言葉が出てきますが、こういう言葉とその意味するところ〜つまり先ほど触れたジャズのリエラシ ーは、別段なくてもジャズは楽しめますし、現に私は何も知らないときから、好きな演奏家とか好きな演奏というのはがちゃん とあって、蘊蓄を深めたからと言ってこれは変わるものではありません。しかし多少なりと知るようになると、それなりにジャズ を聴く耳も、少しは違ってくるとも言えるでしょうか。次には、このリテラシー云々は別にして、私の好きなジャズについて書き たいと思います。 <続く>





〇 この夏の不思議さ(8月8日記)

・ Meantime
 現役の頃、連日中海外とのメール交信が大事な仕事でした。表題のMeantimeは、in the meantime を簡略化した言葉で、" 一方で" とか "それと同時に" といった、話題を展開するときの慣用句で、日頃の海外とのメール交信の中で、必ずと言って いいほど使用したものでした。今の世相と言うか、私たちが置かれている環境は、どんな話題や出来事であれ、この  meantime が付きものとなっていると思うのです。"ところでコロナ禍は・・・"、"一方コロナ禍は・・・" といった具合です。これに オリンピックが加わって、身の周りの日常 meantime コロナ禍 meantime オリンピック、と三つ巴となってきたのがここ一月ほ どの状況です。
そんな中で、恐れていた感染爆発が日本中で発生しています。為政者は国民がコロナに慣れっこになってはいないか、深刻 な事態をもっと認識しなければ、と口を酸っぱくして警告を発します。確かにその通りですし、もっと腰を据えて臨まねば・・・と 思っている矢先に、誰それが金メダルだ! とか、バトンが繋がらなかった! とか、どうしてもそっちの方に目が向いて喜ん だり、落胆したり・・こうなるのは人情というものです。その一方で(・・meantimeです)、一日の感染者は過去最高という報に接 します。メダルの数と感染者の数、この双方が人々の日常の中で入り乱れる夏を私たちはともにしてきたのです。

・ 流れ開催だったTOKYO2020
 少し時系列が遡ります。開催の是非が侃々諤々と論議され、その収束先も定まらないまま開催となった今回のオリンピッ ク・・・私の友人が、この状況を評して"流れ開催" だと上手いことを言ったものでした。結局無観客となり、何一つすっきりとし ないまま日数を数え関係者が続々と来日、そしてあの割り切れない開会式。不満が尽きなくても、競技が始まればメダルの 行方に関心が向き、いつの間にか熱中して観戦している何千万という国民がいて、私もその一人です。そんな最中での恐れ ていた感染爆発と、理不尽というか推定無罪と言うか、何事もすっきりしないままで、明日はもう閉会式です。これこそ "流れ 解散" と言うべきフィナーレを迎えようとしています。そしてポスト五輪が始まり、おそらくはその総括の仕様もないまま、また また先の見えないコロナ禍に支配された日常が戻ってくるのでしょうか。いやいやその前に、まだパラリンピックというイベント もありました。これまた流れ開催に踏み切ることになるのでしょうか。

・ 束の間の普通の夏が
 この書き物を中断して一日が過ぎ、今日はオリンピックも最終日、男子マラソンが先ほど終わったところです。舞台が札幌、 それも北大の境内を走るということなので、珍しく朝から中継を観ながらの朝食でした。私は、普段は極力中継には拘わら ず、総集編だとかスポーツニュースなどで、あとで要領よく、しかも結果次第では入念にTVをフォローするという狡いやり方で 通しています。しかし今朝は、珍しくゴールまで観終えてこの書き物の続きにかかったところです。Meantime、窓の外から市の 防災課からの街頭放送の音声が聴こえてきています。"コロナ感染者が増えています・・各位外出は極力控え・・・" もう何度 も耳にしている放送ですが、幾分切迫感が増したようです。ちょうど台風10号がかすめ去り、空はどんよりと層雲が垂れこめ ています。昨日は、この空が青く澄みわたり、夏雲が山の端から湧き出ていました。そして、おやもう・・と目をとめたのは、飛 び交っているアキアカネの群れでした。季節は何があってもちゃんと巡り巡り、早くも秋の気配を運んできているようでした。

 昨日の茅野市の郊外、八ヶ岳は自ら生み出した雲)に覆われていました。




〇 スマホとわたし(5月20日記

・ 乾電池は要らない?
 つい最近、何の番組だったか、家庭内の乾電池の買い置き云々という話題の中で、若いタレントの一言が印象的でした。 自分たちは電池の買い置きなどしていないし、そもそも電池ってそんなに使うことある? といった調子で話していたのです。 なるほど、と私も気付いたのですが、かつて家庭内にあって、時折電池交換をしていた道具類の大半は、いまやスマホが代 替していると言えなくもないではあありませんか! 目覚まし時計、腕時計、タイマーとかストップウオッチ、電卓、懐中電灯な どなど・・・。スマホがあればとって足りるというわけで、その類のモノは考えればまだ出てくるかもしれません。そうか・・と納得 した私自身、かつては忘れたことのなかった左手の腕時計をしないまま外出していることしばしばです。そして朝寝床で、スマ ホを開けて気象情報をチェックするのも、ごく日常化しているではないですか。スマホに切り替えて2年、つい最近までは、若 者のスマホにくぎ付けになている姿を揶揄していた私が、いまこんな状態なのです。

 これはマズいではないか・・と、我が身を振り返ったもう一つのきっかけは、これまたTV番組で、近ごろは老人だけではなく、 中高年の間でも、人の名前が思い出せないといった健忘症的事態が増えているという話題に接してのことでした。その原因と して、スマホばかり見ているうちに、前頭葉のナントカという部位の機能が損なわれていく、云々・・・と言うのです。おまけに、 中高年でこの物忘れ症候群に陥る人は、のちに認知症になる確率も高まるというではありませんか。さもありなん、と思いつ つ、しかし待てよ、私は既に後期高齢者だから、この話の対象外ではないか・・などと、理論的にはおかしな思考まで頭を巡っ たのでした。

・ カメラとして
 私の場合はしかし・・とここからは言い訳じみてくるのですが、スマホでSNSやゲームに没頭しているわけではありません。メ ールのチェックだとか、ごくたまにはfacebookを覗いたりもしますが、辞書代わり、メモ帳がわり、地図帳がわり・・そして、冒頭 に触れたような道具の代用として、このスマホを使う機会が多いと言えます。特にカメラ機能、これは手にしたときから、予想 以上の優れモノであると感じつつ重宝してきました。私の場合は、HPやFacebookといったウエブ上に絵を公開している関係 上、四六時中絵の写真を撮ったり編集したりします。と言っても、撮影は照明とか反射板を使うといった本格的なものではな く、一番手っ取り早い自然光の下での撮影が常で、この”自然光の下で”という点で、スマホは明らかに一眼レフデジカメより も優れているのです。何故なのか? 確たる理由は分からないのですが、露出やホワイトバランスの計測と調整といった点で デジタルな設定が有効なのか、少なくとも一眼レフよりも生の絵により近い写真が撮れますし、カメラに備わった編集機能も 結構使えます。

・ 渇! を忘れじ
 何だかスマホ 賛歌のようになってきましたが、それが本旨ではありません。それどころか、今以て、若者世代のスマホの画 面しか目に入れていない光景は、醜いものと感じています。ではあるのに、私も時折・・例えば待ち時間などに、何をソウルで はなくてスマホを手にして見入っている自分がいるのです。何か、自分は決して退屈なんかしていないぞ・・と装っている向きも あって、それが卑しいい・・・ともう一人の自分が嘲笑しています。たかが通信機器、たかが道具に目を凝らし、世間と人に目 を凝らさないとは何事か! 自らを含めてそのように世間に喝を入れる自分を見失ってはならないと思います。今回のワクチ ン予約取り付け騒動でも、デジタル難民を置いてけぼりにする風潮は捨て置けないと憤るところも事実あります。かくいう私 メ、スマホを重宝する身分となったとはいえ、契約時の店員の説明はまるで念仏、IDだのナントカ認証だの、諸々のデジタル 用語に至ってはまるで音痴。未だに何故iphone になったのか? そして契約更改でもう少しいい機器を希望したら、最新のモ デルになってしまったのか? 理解できていないままで、デジタル難民と紙一重の状態なのです。周囲に若者がいないことも あって、スマホの使い方にしても未だ手探り状態という調子であります。重宝しながらも批判的でもある、この矛盾をうちに秘 めつつ文明の利器に追い回されている後期高齢者が私です。
 おっとそろそろ時間かな、そう思いながら、自然とスマホに手を伸ばそうとしている自分がいるのでした。



〇 我が家の春ショットをいくつか・・(5月16日記)

     左 ジュンベリー 右 ミツバツツジ

 もう5月、それもすでに中旬・・・毎年この辺りから季節の移行が駆け足になっていくように思えて仕方ありません。春到来の 劇的なサインを嬉々として感じ取っていた4月から、その春は急速に深まっていく5月は、木々の緑に象徴される通りです。そ そして田には水が張られ・・・となると、もう直ぐそこに夏が控えている、という感覚になるのが常です。だから春は駆け足。そ こら一面に咲き揃っていたタンポポの花が、全部綿毛になって風に揺れています。ほんのいっとき、この機を逃してはと新芽 を採取していたコシアブラも、すでに薄緑の大きめの葉っぱとなって、これまた風に揺れています。むろん当家の庭木も全て、 日に日に葉が大きくなりつつあります。足元を見れば、既に雑草の生い茂る様を見ていると、早くも草刈りへのプレッシャーを 覚えるようになってきました。
 とは言いつつもここは千bの標高、未だに朝晩の肌寒いときはエアコンを入れています。人間様は贅沢でか弱いものだか ら、ちょっとした季節の後戻りにも耐えられず、直ぐに文明の利器に頼るのですが、そこへいくと植物も動物も逞しい。我慢、 忍耐が骨身に浸み込ませているようで、多少のことでは堪えません。

 いくつかの春のショットを載せます。春はいつも引き留めたい気分で見送るもので、 I always miss you. ・・・が春なのであり ます。2021年の春を切り取るショットをいくつか載せます。

      
      庭のコシアブラ 3連ちゃん           ・・・収穫               ・・・・天ぷらにして一杯!
          
      カツラの若葉・・・     → 新緑へ(中央はお隣の同じカツラの木)                珍しくメジロがやってきた!



〇 最近の絵について(5月12日記)

 最近の絵とは、自分の創作活動、つまり自分が描く絵のことです。ここのところ、結構描いています。スケッチが多いのです が、その頻度といい、時間のかけ方といい、或はこれまでで一番と言えるかもしれません。どうしてなのか? これというドンピ シャリの答えはないのですが、いくつかの要因が重なってのことです。
 その一つは、昨今の世間一般の巣籠傾向につられて在宅時間が多くなっている点が挙げられるでしょうか。こんな方田舎 にしても外出を控えめにしているわけで、であるなら、もう開き直ったように絵を描いてやろう・・といった精神状態があります。
 もう一つ、最近の出来事として、例の安野光雅氏の死去が引き金になって、氏の絵についての検証・・・つまり、"こんな風に 描いているんだ" とか "どんな色づくりをしてどう彩色しているのか" などなど、私なりの分析を試みたことがあげられま す。そうすると、自ずとその分析を実験してみようという気が契機となって、スケッチの機会が増えているというわけです。
 そんなことが相俟って、結構制作への機運を高めているところがあるでしょう。それで実際どうなのか? つまりいつもより は濃密な絵の時間が、何かいい方向に作用しているか? そこが問題となるわけです。しかし、絵に限らず創作物がどう評 価されるかは、いつのときもそれを鑑賞する側にかかっているので、自己評価は控えておくことにして、Better than nothing  程度の効果は出ているでしょう。自分で面白がっている・・・ということは言えるので、それは創作意欲を高め、集中力をも高 めつという、いい方向にあるには違いありません。

 安野光雅の絵から触発された部分・・・という点について言及すると、絵を描くり口の部分で、例えば、氏ならこの風景をどう 捉えて描き進めていくか、自問するいっときが割っている点を指摘できるでしょう。描いている途中でも、色作りや色の選択と いう点で、やはり氏ならどうしているだろう、といった自問をしていることが多いかも知れません。といったところがあったのは 事実です。その結果、絵がどう変わったかの判定は置いておくとして、特に彩色の面で選択肢が増えていることは事実です。 そしてこれは多分に逆説的なことなのですが、そうやって絵を描き進めていく中で、自分流の再認識というか、根っこの部分 では改めて自分流への確信を深めたりもしています。こんな事々が創作意欲への好循環となっているとは言えそうです。けだ し、絵を描くのが楽しいというこの一点こそ、一番大切なことであるのは確かです。



〇 1年有余の歳月の中で(4月25日)
新種株の台頭、再々の緊急事態宣言・・と、私たちはすでに1年と2ヶ月、コロナ下の制約の中で過ごしてきました。先のこと を予測し得ない不安と用心を当たり前のように習慣づけて過ごしていると、今このときの方が日常のよう感じ始めている向き もあるのは私だけでしょうか。環境に適応してゆくのが生物の進化なら、これもまた一つの進化の過程なの
かとさえ思えてきます。1年前は違いました。私も大半の人達も、日常と非日常の間のギャップを感じる中で、失った日常とい うものが如何に大切で、温もりに満ちていたか、痛いほど感じていたはずです。商売で甚大な被害を被っている方にすれば、 何をほざいているかという話でしょうが、私のように、密とは縁遠い環境の中にいる者にとって、いまが日常とするフェイク感 は、なおさら強いのかもしれません。
 山梨県でも変異株の感染が増えくる中、北杜市では高齢者向けのワクチン接種が、漸く予約できる段となったのですが、こ の予約がままなりません。いずれ多くの人達が摂取できるとして、そうなると、先行き感というものも変わってくるのでしょうか。 ワクチン接種の先進国の例だと、それなりの期待は持てそうなのですが、後進組のわが国ではどうなるのか・・・一向に現実 感の高まらないオリンピックも含め、頭上の雲の行方を窺う日々がまだ当分続きそうではあります。

 我が家の庭、ミツバツツジが咲きカツラの若葉が輝く1年でベストな時期。

・それでも春をゆかん
 さて、そんな世の雲行きなどお構いなしに、季節の移ろいは留まるところを知りません。私の周辺ではいままさに春の盛り。 ヤマザクラも新緑も、私を誘うように日増しに鮮やかになっています。そして♪命短し恋せよ乙女・・・ではありませんが、こうし た春の輝きは、アッという間に過ぎ去っていくのが常なのです。その束の間の春が、皮肉にも例年以上に輝いて見えるので す。あれも描かねば、こちらも逃してはならじで、これから5月になるという頃合いは、毎年忙しないものですが、世の動向とも 睨めっこする毎日だと尚更落ち着かないものです。あ〜忙しい、私はときに逸り、ときに抑制を利かせ、季節とともに移ろって ゆくままです。

・個展開催のタイミングは?
 ずっと私の頭にから離れないのは、個展をいつ開催するのか、開催できるのか・・の一事です。月末からと決まっていた個 展を決行するか、先送りするか、悩ましい葛藤の中にあったのが、ちょうど1年前のことでした。ぎりぎりまで待ってキャンセル の止むなきに至ったのが、ちょうど4月末日のことでした。そのときは、1年もたてば安心して個展の開催が
できるようになるだところがあったのですが、それは日を経過するに伴って、ますます見通しのつかぬものになり、ますますグ レイ化して現在に至っています。ここまで待った以上は、満を持して確実に安心して開催できる個展としたいので、再びそのタ イミングを計っているところです。
 この間、地元「おいでやギャラリー」での水彩画展が、今年10月から開催となるのですが、こちらは作年から決まっていたも ので、栗原成和とそのスケッチ仲間による水彩郷展として開催の意向です。私の個展の方は、このグループ展との兼ね合い もあるので、タイミングとしては来春以降となるのでしょうか。次の個展は必ず伺うと言ってくれている遠方の人たちもおられる ので、お待ちいただいている皆様には、どうか今しばらくご容赦のほどを心よりお願いします。



〇安野光雅考(4月13日記)

 昨年12月に94歳で没した安野光雅は、私の好きな作家でした。作家というのは、主として画家という面と、こちらが本業な のかどうか、絵本作家としての面があり、加えて氏には興味深い言葉や文章を綴る著作物の作家という面もあります。私の 関心が深いのは、このうちの画家としての面であり、特に氏の風景画やスケッチにあります。そこには、ずっと以前から心惹 かれるものがあって、昨年12月に没したとの報に接してから、改めて何冊かの氏の著作を購入し、夜中
とか或は日中暇なときにパラパラとページをめくっています。この人の絵は、どこに魅力があるのだろうか? 自分の絵と違う のはどんなところか? 改めてそんな想いを下敷きにして見入っているのです・・・魅入っているところもあります。

★ "絵は、むしろ見えないものを描くものである"
 これは、「原風景の中に」(山川出版社)にある一文で、他の本にも似たような記述が出てきます。この本は、氏が日本のあ ちこちを回って、そこで残した風景のスケッチと文章を載せていて、出版年からして、おそらくは氏の最晩年に近いところで著 したであろう文章と絵だと思われます。それ以前に描かれたスケッチと較べると、ずっと大胆な筆致とか色遣いが見て取れま す。例えば、氏の絵には珍しい原色やそれに近い彩色を施したスケッチも見受けられ、こうした傾向は、
他の画家の晩年にも見られる同様の特徴と言えるかと思います。画家に限らず、人はその晩年を迎えると、どこか子ども帰 りをするのでしょうか、屈託のない無邪気さのようなものが、作品に現れてくることは珍しくありません。安野光雅然りで、この 本からはそんな印象をも感じ取りました。
 さて小見出しの一文、銚子かどこかに行ったときに風雨に見舞われて難儀をした話の中で出てきます。雨と霧、特に
後者は何も見えないから苦労するという下りがあり、しかし・・と続きます。"思うに絵は、見えるものだけを描くのではなく、む しろ見えないものを描くものである"。このように見た、このように見えた・・・それを描き出すのが絵である、という趣旨なので しょう。それは、風景から得るイマジネーションを具現化して描き出すのが絵だと言い換えられるでしょうし、逆に写実一辺倒 では絵とは言えない、という比喩でもあろうかと思われます。

★ 3冊の画集から
 安野光雅の絵を改めて眺めてみたくなり、私は3冊の画集も購入しました。一応絵描きという身分ながら、私は金を出して 他人の画集をいうものを買ったことが殆どありません。それはそうとして、以下の三冊です。
「津和野」(岩崎書店)
「安曇野」(文芸春秋)
「スケッチ集〜街道をゆく」(朝日新聞社)
 いずれも日本の風景を描いたもので、氏の代名詞でもあるような欧州の街並みを描いた本は、私には、多分に絵本の世界 に近いような要素が大きく思えるので、ここでは対象に入れていません。以下は私が気付いたことや感想などです。

 氏の風景スケッチは、良く見れば全体的に正確を極めたデッサンが元になっています。この時点で、省略はかなり見受けら れるのですが、特にデフォルメたとか、不自然な強調などは見当たりません。そしてこれは以前から感じていたことですが、特 に家とか街並みとなると、細かな描写で手抜きがない反面、自然の光景(樹とか山並みとか)となると、一つのパターン化され た捉え方で単純化されたタッチで描くことが多いようです。すでにこの段階から、写実一辺倒ではなくて、氏の捉えたイマジネ ーションが絵となっているのは明らかですが、それは、彩色を施した絵(スケッチの完成)になると、一層際立ってきます。氏独 特の風景の掴み方とか、全体の表現の仕方といった絵の個性が、より顕著になってくるという感じなのです。氏の絵心とは彩 色が進むに伴って、より顕在化されると言えるでしょうか。見えないものを描く・・・とはだから、主として色味と配色の面におい て、氏が独特な捉え方をしていると言えるかと思います。

 もう一点、この流れとの関係は別として、氏の絵を観察していて気付くことの一つに、陽射しの向きが絵の上からははっきり とは見て取れないという点があげられます。むろん、光の具合による濃淡はあるのですが、光線の位置や陽当たる向き、さら にはそれによってできるモノの影というところには、余り頓着していないように見えるのです。それは、私が常々言っている " 風景画は光と影の表現である" とは、少し趣を異にしているところです。だから不自然ということは一
切なく、氏の風景画が魅力的であることに変わりはありません。この省略という点もまた、写実一辺倒ではない氏の独特の絵 画観を物語っているとも言えそうです。

★ 「飛鳥を描いているのではなく、飛鳥で描いている」
  実はもう一冊、「絵の教室」という新書(中公文庫)があって、これは帯に書かれた "理想の授業" なるキャッチに惹かれて 買ってしまった本です。この本の中身はしかし、多分多くの読者が期待する、"どうやれば上手く描けるか"・・・に対する答え は、いくら読んでも出てきません。"絵を描く"という行為への様々な考察"・・・と言えるでしょうか、少なくとも教
則本では一切なく、むしろ随筆に近い本と言えます。元々、氏の話やTV番組やYtubeからは、こうした技術的なポイントは、い くら目や耳を凝らしても掴めないのが常なのです。ただ、実験的にこんなことをやってみたとか、風景に対峙する心構えとか、 先に触れた"見た通りではなく、自分流に捉えたものを描けばいい・・と言った趣旨のことに終始するのが常です。この本も然 りで、例えば、風景を描くときに一番大事にすることとして、風景を選ぶことは勿論大切ではあるのですが、それ以上に描く場 所を確保することである、と書いています。それは、一番いい観客席に陣取って、舞台上の芝居を観るのと同じだというので す。そこから続く一文を、これが氏の言いたい肝だと思われますので、少し引用してみます。
 "絵を描くとき、なるべく見えるとおりを描いてはいるつもりです。そこを写生しているというよりも、その場所を素材にして、自 分の絵を描いているといったほうがわかりやすいかと思います。飛鳥にきて飛鳥「を」描いていうというよりも、飛
鳥「で」描いているというわけです。・・・"
  示唆には富んだ言い回しではありますが、この本独特の抽象的な表現からは、上手く描くための具体論は出てきません。” 上手く描くためにどう手を動かすか”、ということよりも、”どう頭を働かせるか”ということの周辺に留まっているのが常です。

★ 番外編
  番外編的に私が意外に思い、興味深かったのは、氏が昔から数学に興味があり、数学者との対談をするなど、数学への 造詣が深いという点でありました。数学的な物事の捉え方、考え方、そして答えそのものよりも、それを導き出す過程が大事 なのだ、といった趣旨のことが書かれています。例えば"解答という言葉について、"解は答えを得るための解き方を見出すこ とであり、その後得られる答そのものはどうでもいい。スケッチ然り、”デッサンをとっていいる最中のあ
る段階で、これはいい絵になるという感触を得たら、そこで絵は終わっていいのである・・・" という具合です。哲学的か
つ数学的と言えるのでしょうが、数学と聞いただけで脳細胞が萎縮してしまう私には、ちょいと難解なところがあります。

 こうした感想のほかに、私はかねてより関心があった氏の色使いについて、画集を観ながら私なりの観察と実験を試みたり してみました。いくつかの作品のラフな模写から、色の再現を試みたり、デッサンや彩色のタッチを探ってみたりと・・・。ただ、 そこから解明した技術的な点は、ここで書くほどの大きな成果であったとは言えず、氏の絵を論じてきたあとで言及するの は、どこか野暮ったくもあります。ここではその試みの痕跡を示すワーキングシートの一枚を載せるにとどめますので、ご興味 のある方はご覧いただければ、と思います。

  



〇 冬の空もドラマティック (2月18日記)  

 空はドラマ、それは勿論冬でも同じことで、どんよりしていることが珍しくない冬でも、ときに劇的な装いを見せてくれます。特 にここ八ヶ岳東南麓は、晴天率の高い地域として知られていて、北西麓とは明らかに一線を画して、冬でも明るい空が広がる ことがとが多いのです。私は、季節を通して毎日のように、朝カーテンを開けると空を見上げます。お昼も夕方も、外を見ては 空をチェックし、これは・・と思うと即座にカメラを手にして外出。大体は家の周辺で撮影するのですが、場合によっては、クル マを駆って出かけたりもします。写す空とその下に組み合わせる地上の絵柄によって、どんな画角で撮るか、その場合は行く 先をどのポイントにするか、咄嗟に頭を巡らせて撮影に挑むのです。挑むというと大袈裟ですが、とにかく空は時間が勝負。 瞬く間にその表情を変えてしまうので、のんびりしてはいられません。時に空振りあり、時に遅きに失し、なかなかベストのタイ ミングに出会うのは難しいのです。それでも常に表情を変える空に誘われて、この時だけは重い腰も軽くなり、運動不足の身 体も俊敏になる、という次第です。
 この冬に撮った写真から何点かをピックアップして掲載します。

                        
   日の出前、東の上空には朝焼けの積雲が(2月16日)。         暮れなずむ西の空。上空に巻雲、中層に飛行機雲(2月14日)

           
  日中に運転中、北の低空に吊し雲が出現!(12月24日)        雨上がり、シラカバのはるか上空は、一面のひつじ雲(2月2日)


         
 南アルプス上空は雲の生産基地。巻雲と高積雲の競演(12月10日)。  これも南アルプス上空、飛行機雲が風に流れて広がる(1月6日)。


         
 昼下がりの南の空。高積雲が生まれては流れ・・・(12月7日)。       夕暮れ時は空のドラマのフィナーレ!(1月17日)。




〇 英語の歌を覚える(2月12日記) ♪♪

 以下は与太話の類です。コロナ下でのこの1年、私は大体は家の中でいつもと同じように絵を描いたり文章を書いたり、と きに友人とメール交換をしたり、スマホをいじくったりと、こういう時間は確かに例年よりは大分多かったと思います。余談です がこのスマホ、いじくっているうちに結構いろんな機能を発見、私にしては大分使途も増え、使い勝手が向上しました。この家 でしたことの中に、今回のテーマである英語の歌の歌詞を覚えるということがありました。今さら何のために? と訊かれると 答えに窮するのですが、一言で言えば "ええかっこし" ということになるでしょうか。人前で歌うことは皆無と言っていいのです が、ポピュラーな歌で最初のワンフレーズだけは歌えるのにその先が続かない・・・こういう歌は結構あるものです。そこを続 けてサーッと歌うと、オヤッと他人は思うのではないか。いや絶対思うだろう・・・という
下心があってのことでした。それで、今まで曖昧のうちに歌っていたり、メロディーのみをなぞって口ずさんでいたり、そういう 英語の歌詞をネットで拾い、簡単な歌詞メモを作って覚えたのです。覚えた歌を若干のコメントとともに並べて書いてみます。
・ Moon River
 映画 「ティファニーで朝食を」のテーマ曲で、映画の中ではヘップバーンが歌ったらしいのですが、私はアンディー・ウ
イリアムスの甘い歌声を覚えています。多くの人と同様、私も"Moon river ラーララララー・・♪"と出だしだけで終わって
しまっていました。ラララー部分からをちゃんと英語の歌詞で歌いたい・・・これは長年思っていたことだったのです。それを果 たしたという次第です。こうです。
 "Moon river wider than a mile, 
  I'm crossing you in style some day ・・・・♪" 
 と、続けて最後まで歌えます。格好いいでしょう?
・ Fascination
  映画 「昼下がりの情事」のテーマ。そもそもうろ覚えながら結構歌えたのですが、今回はちゃんとチェックしてみました。何か のCMで、美空ひばりがこの歌の二番の最初のフレーズを歌っている(それもさすがに上手い)のを耳にしたのがきっかけで す。
 "It was fascination I know. 
  Seeing you alone in the moon light above・・・♪"
・・・です。
・ Summertime in Venice
 これも映画 「旅情」のテーマ。キャサリーン・ヘップバーン主演で、一頃はあのピーナッツが歌って随分とラジオで(いやTV で、だったか)流れていた曲です。やっぱり歌詞はうろ覚えもいいところでした。
 "I dream of the summertime of Venice and the summertime.
  I see the cafes, the sunlit days with you, my love・・・♪"

 何だかあからさまに歳が分かる歌ばかり! でも我々世代が共有していたであろう、一種のセンチメントを覚える歌ばかり です。これらの他に次の二つも覚えました。

・ Memory   
 ミュージカル "Cats" のテーマ。これも、"Memory ララララ・・・♪"としか歌えなかった歌。かなり長い独唱の途中で、朗々と 切々と立ち上がる、アリア(ミュージカルの場合は何と言うのでしょうか)のような一節です。
 "Memory all alone in the moon light, I can smile at the old days・・・♪"
 美しい旋律、心温まる詩!
・ Happy Christmas(war is Over)  
 "So this is X'mas, What have you done
  Another year is over, and new one just bigun ・・・♪"
 ご存じジョン・レノンの歌、クリスマスソングの中では好きな曲です。むかし会社の同僚がさりげなく口ずさんでいるのを聴い て、私も・・・と思って20有余年越しで覚えたというわけ。

 そして、これらの歌とは別の理由で、ひとつは、このFノートでも書いたアメリカ国歌と、ついでに、私が駐在していたことのあ るオーストラリアの国歌も、この際リストに加えることにして、どちらも一番だけですが、歌えるようになりました。
・ The Star-Spangled Banner 
 ・・・アメリカ国歌は、世界中で一番誰もが知っているメロディーと言えるでしょうが、英語圏以外でこれを歌える人は殆どいな いのではないか。
 "Oh say can you see, by the dawn's early light ・・・♪"
 とくれば、オヤッと尊敬の眼で見られるのではないでしょうか。
・ Advance Australia Fair 
 ・・・オーストラリア国歌歌については、1977年に国民投票 があり、このときの対抗馬であったWaltzing Matilda を制して、 こちらが国家に選定されたという経緯があります。因みにそれ以前は、英の"God save the Qeen" を国歌としていました。
 "Australians all let us rejoice, for we are young and free ・・・♪"

 とまあ、だから何なのだ!という話です。因みにこれらの折角覚えた英語の歌詞を、人前で披露する機会は一度もな
いままです。でもやっぱり 、"覚えたい"、"知りたい"という欲求とは、年齢に関係なく・・・いやいや老齢だからこそ、と言うべき か、ささやかながらも生命維持装置を動かす原動力と言えるでしょうか。そうそう、格好を付けたいという欲求もまた、この原 動力に加えていいのかも知れません。そう思って読んでいただけたら・・と、これもまた、コロナ下であったか
らこそのトピックでした。




   久しぶりの降雪が明けた1月25日の朝、八ヶ岳の白いたおやかな稜線を見せていました。

〇 今冬のこと (1月31日記) 

 1月がもう終わろうとしています。コロナで家にいることが多い今年の冬、何だかいつもより月日の流れが早いと感じるの は、歳相応の感覚なのか、或は今冬に特別な環境故のことなのでしょうか、測りかねている毎日です。この冬は、ここ八ヶ岳 山麓では、ごく普通の寒さと言えそうで、むしろ12月のいっときの方が寒かったような覚えもあります。 

・水道事故
 こんな冬場、我が家では二つの水道事故に見舞われました。一つは庭の水道栓の鉄管部分にひびが入って、ある時いきな り噴水のようにそこから水が噴き出した事故。もう一つは、これは寒かった日の朝、室内の蛇口からお湯が出な
るという事故でした。どちらも当地に住んで初めてのことで、それほど寒さが厳しかったかと言えば、冒頭に書きましたように、 それほどでもない。どういうことだったかと言うと、前者は単に私が珍しく洗車をしたそのあと、蛇口の元栓部分を
閉め忘れていたためでした。その何日か後に寒い日があって鉄管が凍ってひびが入ったという、つまりは人災といえる
ものでした。もう一件の方は、お湯が止まった翌日になってから、お湯が出始めました。業者の方が点検・修理に来て分かっ たことは、どうやら給湯器から出て室内に入る配管部分に設置してある温度センサー(外気が寒いと配管部分を暖める)が、 効いていないことが原因とのこと。使用後16年を経ての故障と言うことで、目下部品交換の工事待ち状態です。この二つの 事故、いずれも老朽化が原因でした。一つは人間の老朽化による不注意が、もう一つはモノの老朽化による機能不全・・・  読者諸氏もお気を付けください・・・と言っては失礼かもしれませんが。 

・ 高齢者、後期・・・
 今冬は例年に比べてドライな冬で、降雪も3回ほどでいずれも申し訳程度に降ったくらいでした。これでは、折角新調
した冬タイヤが泣くというものです。SUVの大きいサイズのものは結構高いのです! しかしまあ、その威力を発揮するまでも ない冬であるなら、それは良しとすべきなのでしょう。何せ、ちょっとした雪かきでも、かなりゼーゼーと息を切らしてしまう昨今 です。仮に積もっても、一頃のように勇んで飛び出しては雪道を駆ける気も、すでに失せてはいるのです。
このクルマも今年は三度目の車検で、つまりは、この3月でまる7年にならんとしています。かつては新車を駆って雪道
を攻めては新しいクルマの性能を試したりもしたものですが(Fノートの2015年1月のところにその記述がありますが)、それ はまだバリバリの前期高齢者だった頃のことでした。あれから6年、後期高齢者にも拍が付き始めたいま、そんな元気はどこ へ行ったのやら・・・老朽化で水道事故も引き起こすくらいですから、何おか言わんや・・・です。 
  ← この話題とおぼろ月のカットは、
  関係がないようで、あるようで・・・
 
    → こちらは暮れゆく八ヶ岳   
  

 後期高齢者でも一つ思い出すのは、昨年師走に入った頃に甲府でやらかした交通違反に関してのことです。悪気があった 訳ではないのですが、横断歩道をこれから渡ろうとしている人がいたのに停車しなかったというもので、運悪くそれを対向車 線のちょっと離れた所にいたパトカーが目撃し、"ハイそこのフォレスター、左に寄って止まって"となったのでし 
た。それで違反切符〜罰金納入、やれやれと思って半月ほどしてから、県警から一通の封筒が。認知症テストの再試験を受 けろというのです。それで年内にと思って再受験をしてきたのですが、当日は頼んだわけでもないのに、と迷惑顔ながら殊勝 な反省顔が入り混じった同類の受験者が20数名、同じ試験を受けたのでした。もちろん、これをクリアーして
帰ったのですが、中には耳が遠い人や、係員の説明が一言では理解できない様子の人もいたようで、なるほど運転者として の適性を再試験の場が必要な現状が、納得できた一幕もありました。蛇足ながら、例の絵の記憶テストでは、いつ
もこのパターンと言われているのとは違ったパターンが出たのには、一瞬焦りました。 

 因みに、普段頻繁に出てくる後期高齢者という言葉、これは国民健康保険や後期高齢者医療などの制度によって、
65〜74歳が前記、75歳以上が後期高齢者として定められているのですが、この年齢区分は国によって異なるようです。 国 連では、60歳以上が高齢者、80歳以上が後期高齢者として定義、WHOでは夫々65歳以上と80歳以上で分けられていて、 つまりは、日本ではかなり早い年齢で後期高齢者扱いになるということになります。それがいいのか悪いのか、いずれにして も後期云々よりも、老いたかどうかを決めるのは自分自身の感覚ということになるでしょうか。アメリカの実業家で詩人でもあ るサムエル・ウエルマンの言葉、『年を重ねただけでは人は老いない。人は理想を失うとき初めて老いる・・・』(うけうりです が)が身に染みる冬であります。 
              
    珍しく登場したコガラ                   常連さんのヤマガラ         餌のお代わりを待機中

・我が家の野鳥たち
 寒さが本格化するにつれて、我が家の餌台にやってくる野鳥たちも、その種類が増えてきます。初冬から頻繁に出入
りしているヤマガラとシジュウカラは相変わらず常連さんですが、これにカワラヒワが加わり、時にアトリが加わったり。 最近 の珍しい新人さんはコガラ。シジュウカラから胸のネクタイを取り外した意匠ですが、これが結構可愛い。しかし、こうやって窓 越しに見ていると、このところその種類が一頃よりもずっと減っていることに気付きます。例えば結構頻繁に
見かけたシメとかイカル、アカゲラやエナガも飛来が稀になってきました。カケスに至ってはここ数年見かけていないし、ツ グ ミも見ていない。近くの森が更新のために伐採されたり、これが結構多いのですが、太陽光発電施設のために伐
採されているので、森の面積が減っていることが一因でしょう。それにかわって、最近は新築物件を多く見かけるようになって います。私が移住して16年間の間で、これほど新築が多くなった時期はなかったくらい。コロナ禍によるリモート
ワークの増加に伴って、田舎への移住や仕事場代わりの別荘などの需要が増えているためです。こうした社会現象と野鳥た ちの動静は、ちゃんと連動しつつ変化してきていると言えます。社会的ニーズの変遷、世の移り変わりに伴って、麓の景色も 変わりつつあり、先住民の私としては、現状を憂うる気分も拭えないこの冬であります。


〇 2021年、明けましたが・・・(1月12日記)

 新年はもうお正月も過ぎ去り、坦々と冬の日々が通り過ぎていっております。いつもと同じようでいて違うのは、依然と
して私たちが等しくコロナ渦という得体のしれない呪縛に取り憑かれたままという事実です。それどころか、その底がな
かなか見えない苛立ちと不安。もう1年近くになるでしょうか、私たちは皆、ありふれた日常が如何に大事なものだったか、今 は忌み嫌われている三密が、如何に温もりと暖かな生活の潤滑油であったことか・・・この二つのことを、噛み締めてきたと言 えるでしょう。私のように八ヶ岳南麓という平和で過疎な場所に住む者にとっても、同じような感覚を覚えつつ日々を過ごして いることころです。

・ 海の向こうの異常事態
 そんな新年の初めに、耳を疑うようなニュースが海の向こうから入ってきました。アメリカのトランプ支持者による国会議事 堂乱入という事態です。アメリカの分断はここまで来たのかという想いとともに、あのアメリカのリーダーの狂乱振りが、我々 の想像を超えてなお測りがたいものであったかと、呆れて言葉もないほどでした。同時に、この言葉による扇動とは、ヒトラー のそれと重なって、どこか嘘寒い想いを禁じ得ないところもありました。特に私は、このFノートでアメリカの国歌について書い たばかりだったので、この一事は余計印象深かったのかも知れません。

・ 二つの側面
 こうした事態の中で、私は理念を欠いた政治と言葉という二つの側面を想起しました。
 この前代未聞の事態が起こった同じ日だったか(その翌日のことだったか)、全米でのコロナ感染による死者数が、一日で 3998人に及んだとの報道がありました。この数字、日本のコロナによる累計犠牲者数である3930人(9日現在)とほぼ同 じなのです! これ自体、異常な事態です。アメリカのコロナ対応の間違いは、そもそもこの大統領のいわれのない無神経さ に始まっていると言われています。改めてこんな大統領を選んだアメリカという国を考えざるを得ませんで
した。アメリカは広い国です。面積が日本の26倍、人口は2.6倍、人種も宗教も多様、内陸と沿海部では風土のみならず住む 人の気質の面でも大きな違いがあります。人種差別や銃規制問題などの病根も同居しているこのアメリカ合衆国で、”アメリ カを再び偉大な国に”を謳い文句にするトランプ支持者が多数いることは肯けます。しかし、問題なのは、そ
のかけ声から繰り出されてきた政策は、悉くビジネス的損得勘定と、周囲を顧みない独善と保身から来ているもので、その根 底に政治理念、ひいては民主主義の理念の欠片もなかったことが、何より問題だったのです。それがアメリカの分断を深め、 今回の事態を誘発した根源であったと言えるでしょう。
 こうした中で、アメリカ国内ではいよいよ自浄作用が働き出したようですが 私が印象深く思ったのは、今回の民主主義を冒 涜するような事態にいち早く非難の声を上げたのが、イギリスでありフランス、ドイツという欧州各国であったことです。これは 内政干渉といったレベルの話を越え、民主主義という彼らに共通する理念と価値観に対する危機意識を反映するものでし た。しかも、そうした声を上げた国々は、現在コロナ下で我が国以上に非常事態下にある国々です、この緊急事態下にあっ てもなお、民主主義への尊厳はいささかも傷つけれられるものではなかったという証明を見せられたと言い換えても良く、そこ に私は、何か救われる想いを感じたのでした。その点、日本政府は何か声を発したのでしょうか? 何かを憚って無言を通し たか、或は欧州諸国が持つ価値観まではわが国が共有していなかったのか、少なくともそのどちらか、或はおそらくその両方 があって、実質的には無言で通したのではないかと、思わざるを得ません。

・ 政治と言葉
 政治家の言葉という点では、昨今日本の政治を見ていて、その貧困さを情けなく思うのは私だけではないでしょう。ドイツの メルケル首相のような、イギリスのジョンソン首相のような、言葉の裏側にある理念とか良心という個人の資質が、日本の政 治家からは感じられないのです。声明文も答弁も、官僚が用意した原稿をなぞるだけでは、言葉は届きません。言葉に重み がない、切迫感が伝わってこない・・・こういうもどかしさは、このコロナ禍の一年で、なおさら強く感じ続
けてきたことでした。例えばニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相のような民衆との距離感を感じさせない言葉、メル ケル首相のような心底から発する嘘偽りのない言葉には説得力があります。そういう言葉が我が国の政治家たちから聞こえ てこないのは、何故なのでしょうか。政治と言葉、ひいては政治と人間性という相関関係の中に横たわる溝というか無味乾燥 の距離感、これは一体いつになったら縮まっていくのでしょうか。

 このFノートでは、本来政治向きのことは極力避けているのですが、今回はその趣旨を違えて書いてしまいました。私
にとって、アメリカはかつて仕事上の相手国であり、私自身がそこに半年暮らした経験もあることから、この国への親近感は 人並み以上のものがあるのです。特に、多民族国家ならではの大事にしていたフェアネスという概念は、私がこの国を評価 する一つの要素でもありました。フェアではない・・という責めを恥じるのは、アメリカ人の美質であったかと思うのです。しかし これも、いつの間にかトランプ支持者達に代表される、独善主義の台頭によって、消えかかっているかに見えるのも気になっ ています。
 
 再び日本の政治シーンに戻って、これもコロナ渦という異常事態の下にあって、せめてもそのリーダーシップをとるべ
き政治家の言葉が、我々の得心のゆくものであって欲しい・・・そんな願いは尽きないものがあります。ご一読多謝です。


〇 音楽の話(12月16日記)  

 師走も半ば、今年を振り返る頃合いですが、あれをやった、これをやったという前に、誰もがコロナ禍の重いヴェールを拭い 去ることのできない年であったことは間違いありません。八ケ岳山麓という過疎の高原に住む身にして然り。都会で暮らす人 たちにとっては、いかほどこのヴェールの厚さを感じていたことでしょう。そんな中で、自然発生的に昔の仲間とのメール交換 が盛んになり、会話の中で私にとって嬉しかったのは、音楽談義に花が咲いたことでした。それも、普段当地の交遊仲間の 中では触れる機会が殆どないクラシック音楽の話で、これは今でいうハッシュタグ付きの想い出となるものでした(このコトバ、 実はごく最近までちゃんと理解していなかったのですが・・)。

 メールでの音楽談義

 さて、かつての仲間とは会社時代の同好の士で、現在は後期高齢者とその前くらいになった男性3人と、約ひと回り以上若 い年齢の女性2人です。現役時代に一緒に山に行ったりしていました。このうち音楽的なバックグランドを持っているのは先 輩格の男性一人、他に私は単に趣味として、女性二人はほどほどの親密感を、男性一人はこれまで門外漢であった・・といっ たほどの面々です。それが30ウン年前のある光景の中で流れていた曲が、あの「ゴルドベルグ変奏曲」
の一節だったというところに端を発し、話が展開していったのです。因みにグレン・グールドとこの「ゴルドベルグ」は、私が想 像していた以上にポピュラーであったらしく、先の女性陣二人ともこのCDを親しく聴いていたことが判明したことも、談義となる 一つのモチベーションとなったと言えるでしょう。門外漢だった男性も、これを機にクラシック音楽という彼にとっては未知の領 域に踏み入らんと、たまたまピアノをたしなんでいる息子さんのアドバイスを得て、「至高の音楽」という百田尚樹の本を紐ど いたりもしたのでした。そして何よりも、残る私を含む二人が、バッハは神様、グールドは麻薬・・といって憚らない二人であっ たことが、この談義の推進役となったのは当然の成り行きでありました。と言うよりも、したり顔で蘊蓄を傾けられる機会を楽 しんだ、と言うべきでしょうか。他の3人はどうだったのか、そこはいまひとつ確信は持てません。大体他人の蘊蓄なるもの は、聞く側はどこかでリミッターを働かせるのが常なのですから。話題の断片を拾ってみると・・・グールドの「ゴルドベルグ」に はセンセーショナルなデビュー版となった1955年の録音がまたいい。この歳で聴くと今さらながら、こちらの演奏の歯切れの 良さや弾力性が胸を打つ・・・他にも魅力的な演奏が目白押し・・・NHK日
曜夜のクラシック音楽館でこんな演奏に接した・・・これからどんなCDを聴くといいか(これは3人目の初心者男性からの質問) などなど。特に最後の話題では、自分ならどんな曲を推薦するか?そこに想いを巡らせる時間を持てたのでした。

★ 音楽体験と言えるほどのものはなく・・・
 
 私は絵を描きますが、一般的に美術への関心が深いかというと、関心はむしろ音楽の方が深いという処があります。ここで 書き出すほどの音楽体験はないに等しいのですが、少年の頃から音大に行っていた姉のピアノを耳にしていたことや、自ら はちょっとバイエルとかじったことくらいでしょうか(因みに、ピアノへの関心は、高校に入ると他のことに向いてしまいました)。 昔からクラシックに限らずいい音楽はいい・・ という主義で、クラシックの地位を貶めたようなクラシック至上主義にはむしろ反 感を持っていたくらいです。ジャズやポピュラーも割合身近にしていたのですが、ジャズに芽生えたのはここ20年来のこと。そ れから、いっときオーディオに凝っていた時期もありました。こちらはしかし、LP全盛の時代にある御仁から、結局録音してい ないレコードの溝に針を落として音が出ないほどいい装置ではないか、と言われていたく納得し、次第にオーディオから音楽 への復帰へと道を辿った経緯もあります。最近は専らカーオーディオで流れてくる音楽を楽しむ時間が多くなっています。何 せクルマ社会、ちょっと買い物とか病院へという際は、往復60キロとか70キロのドライブはざらなのですから。なので、私のSD チップにはCD70枚分くらいの曲が入っていて、そこから好きなものを選択するとか、元々気に入っている曲ばかりなので流 れ出るに任せて聴くというのが現行の主たるスタイルです。このSDチップには、大まかに言ってクラシックとジャズがほぼ同じ 枚数で全体の8〜9割、残る1〜2割がポップスとかサンバとか日本の歌謡などです。聴く時間が長くなるのは、やはりバッハ のピアノ演奏が一番、他にはモーツアルトのコンチェルトやロマン派以降のピアノ小品集、ジャズではピアノ中心のモダンジャ ズが大半で、ビル・エヴァンスやジョン・ルイスが大のお好みです。

★ 推薦したいCDは?・・・

 先に入門者の立場から、どんなCDを推薦するかと尋ねられたと書きましたが、このついでに私の答えの中身をちょっとだけ 披露させてください。星の数ほどある推薦版を絞るのに苦労したのですが、これまた幸せなひとときでした。余計なお世話な どと言わずに我慢してお読みくだされまし。
・・・まず自然の光景が思い浮かぶ曲として、グリーグの管弦楽小品集、スイトナーとシュターツカペレ・ベルリンが絶品。
・・・美しい曲想で初心者にも聴きやすい曲として、ドヴォハチことドヴォルザークの交響曲第8番(いろんな指揮とオケの録音 あり)
・・・モーツアルトのピアノ協奏曲は数多くの録音があるが、私の推薦は第20番・21番のカップリングで、名盤として定評
あるグルダ(p)・アバド指揮・ウイーンフィル。
そして第23番と19番のカップリングで、ポリーニ(p)・ベーム指揮・ウイーンフィル。何と言っても名手ポリーニがベームおじさ んの懐でゆったり目のテンポで演奏している23番がチャーミング。
・・・グールド/バッハでは、ゴルドベルグ以外にも推薦版が目白押し! 私が好きなのは「インベンションとシンフォニア」、シ ンプルな楽曲で構成される元々は練習曲集をグールドが結構歌っているところがいい。
・・・長い目で見ると、やはり1枚手元に置いておきたいのが、「平均律クラヴィア曲集」(第一巻の方だけでも)、こちらは選択 あまただが、グルダ、グールド、ロマンティックな演奏のリヒテルなどがいいかも・・。

 ・・・といったところでした。読んでいただいて多謝です。そしてやっぱり、と言うべきか、このアドバイスがどれほど聞き入れら れたかは別として、一番楽しんだのは書いた本人であったのは言うまでもありません。

 来年こそポストコロナの日常復活を、皆様とともに祈りたい年の瀬です。
どうかよいお年を迎えられますように。




〇アメリカ国歌のこと(12月7日記)  
 
 どういう風の吹き回しだったか、アメリカの国歌の歌詞を調べてみようという気になりました。国際競技や他のセレモニーな どの場でよく流れている曲、そしておそらくは他のどの国の国歌よりも耳に馴染んでいるこの曲は何を歌っていのだろうかと 日頃気にはなっていたのです。いくつかのエピソードもありました。

 ひとつはずっと時代を遡って1964年の東京オリンピックでのこと。当時大学4年生だった私は、親が手に入れてくれたチケッ トで国立競技場の席からトラックを見下ろしていました。アメリカ選手の金メダルを称えた表彰式では、吹奏楽による国歌が 流れるのですが、それは曲の前半部分で打ち切りとなり、後半の曲想が変わって盛り上がる部分が常に割愛されていたので す。この日もそうでした。それで、私から10メートルといない場所にいたアメリカ人(とおぼしき)が、国歌
演奏が打ち切られるたびに、やおら立ち上がっては手にしたトランペットで続きを高らかに吹き鳴らすのでした。周りの
観衆もおそらく同じ気持ちだったと思いますが、私も国家のいいところが割愛されることに同情を禁じ得ず、このアメリカ人に 拍手を送っていたものでした。
 もうひとつは、私の教室の生徒さんにアメリカ人の夫に先立たれた方がいて、ある時この方にアメリカ国歌を歌えるか?(歌 詞を歌えるか?・・の意味) と訊いたことがありました。答えは "歌えない"、その理由は、"私は星条旗に誓いを立てたわけ ではないから" というものでした。なるほど、アメリカ国歌は星条旗に誓いを立てた国民が歌う歌であったかと、改めて国家 の意味を思い知ったのですが、国家への誓いなどという概念、日本では考えてもみなかったことでことでした。そして同時に、 アメリカの大統領選をめぐっての事情や、国民の分断といった昨今の社会問題が、ダブって頭を過りました。
 
 そんなことも重なって、元々何を歌っているのか、皆目分からないままであったこともあり、せめて調べてみようという
気になったわけであります。正式には「星条旗」で、"The Star-Spangled Banner"が歌の題であることが分かりました。
一口で言うと、星条旗を讃える歌で、つまりは国旗と国歌は一体となってアメリカという国を象徴しているのです。それで歌詞 をなぞって歌ってみると、音節と言葉がよく合わす、これがなかなか難しいいのです。何度かYou Tube で聴いて歌えるように なってから、今度は歌詞の中身そのもの辿っていって見ました。かいつまんで言うと、闘いの中でもどんな荒
天の中でも、自由と勇者のこの地に翻る星条旗を讃えん・・といった星条旗を讃える情景描写ばかりが沢山盛り込まれてい て、特に起承転結のある内容ではないのですが、これが実に4番まであるのです。これを全部そらんじて歌える国
民はいるのだろうか? とさえ勘ぐってしまいます。乱暴な言い方ですが、我が国の大学校歌に例えると、雄々しくこの
旗をたてんと情況描写を歌い上げる慶応校歌的で、都の西北から心意気までに触れる起承転結を伴った早稲田の校
歌的ではない、といったところでしょうか。それはいいとして、本来アメリカという多民族国家は、それほどに求心力と愛
国心の共有を必要としなければならない国であっかと、改めて思い知らされるのでした。

 翻って再び日本の国歌のことです。「君が代」はなんとも対照的でシンプル、中身も単純明快というか、殆どメッセージ性の ないものであることでしょうか。日本の置かれている島国で単一民族という状況からすれば、特に国歌を以て求心力を高める といったニーズは本来あまりないことでしょうし、これが過剰となって陥った苦い過去がトラウマとなっている
国でもあります。ならばこれでいい、とも言えそうですが、私はかねてより「君が代」の物足りなさとか、盛り上がりを欠いて、こ れを高らかに歌い上がる場にはなんとも相応しくないと、常々思い続けている一人です。大体君の代ではなくて、
私の代、私たちの代"を歌うべきです。国歌「君が代」はそのままにしておいて、別にニッポン応援歌のような歌があっていい のではないか。そんなことまでも考えさせたアメリカ国歌でした。










○ 田舎暮らし〜改めて田舎とは(10月7日記)

* クマが出ました! 
 9月下旬のある夕刻、防災北杜の有線放送(電柱の上に設置されたスピーカ
ーからの声)でこんなアナウンスがありました。

身近にあるクリの実
  ピンポンパーン・・"小淵沢支所地域振興課からのお知らせです。今日、宮久保付近でツキノワグマの目撃情報がありまし た。クマは早朝と夕刻に活動が活発になるので、遭遇にはくれぐれもご用心ください"

 害虫駆除の情報とか、罠(シカなどの頭数制限で)を仕掛けたのでご用心とか、そういったアナウンスはよくあるのですが、 クマの出没情報は珍しいことです。元々八ヶ岳の山腹には、クマの餌となるドングリの実のなる木は少ないので、八ヶ岳には クマは生息していないとされてはいたのです。しかし、中腹辺りでの目撃情報もかつてあったりで、クマはいな
いとは断言できない・・・という認識に変わったようには思われます。しかし、クマが里に出没するという事態は、八ヶ岳からで はなく、南に対峙する南アルプスの裾野から釜無川を渡り、川沿いの七里岩の森にしばし忍んでから、八ケ岳山麓を上がっ てきたのではないかと推測されます。いずれにしても、クマが出たとなると穏やかではありません。その場所は我が家からは ざっと5,6`下った田園地帯です。途中には中央本線の線路があり、中央高速も走っているので、そう簡単にはこれらを横切 って上の方に移動するとは考えられないのですが、それでも夕刻の外出はちょっと躊躇されます。
 さて、こんなことを書く気になったのは、都会の仲間とのメール交信中に、私のいる地区での行事のことを書いたら、
結構興味を持たれたのがきっかけです。このFノートの読者諸氏の中にも、改めて当地の生活環境については、それなりに 関心をひくのかもしれないと、このとき思ったのでした。特に昨今はコロナ禍における田舎でのリモートワークが現実味を増し てきいますし、不動産物件の引き合いもかなり増えているという状況です。改めて田舎論について書くのも一興かと・・・。

    
   撮影中にキツネが!・・・             我が家もロングショットだとこんなに自然の中

* 獣の出没と田舎度のモノサシ
 思い返せば、私らが当地に暮らし始めて驚いたことの中に、獣の存在を身近にしたことがありました。うちの庭をキジの親 子が歩いている! 直ぐそばの牧草地にシカの群れがいる! そしてあるときは、踏切を渡ると線路上をキツネの歩き去る 姿が! こういう体験は少なからず驚きとともに、自然の近さを思い知るもので、ここは山の中なのだ、という実感を強くした 一幕でした。いまはそうした光景には慣れっこなっていて、取り立てて話すことでもないのですが、都会から来た人達が示す 驚きに接すると、私らの暮らす田舎の現在地を改めて知らされるものです。例えば訪れていた姉を乗せて、夜に家のすぐ下 の道路を通ると、目の前を立派な雄ジカが横切ったことがありました。助手席にいた姉が "何々あれは"、と尋常ならぬ驚き の声を発したことがありました。そしてやはり訪問客を夜駅まで送って行ったとき、直ぐ道路脇にあった白い馬の姿にのけぞ って驚いたことがありました。こちらは、乗馬クラブの入り口にあった馬の木像で、これには大笑い。しかしそれが生きた馬に 見える夜の暗さ、というところが田舎度を表わすモノサシだったと言えるでしょうか。近所で飼っているニワトリがハクビシンに 殺られたこともありました。少し下った田園や畑の広がる地帯では、サルが野菜畑を荒らす常習犯です。こうした獣類の出現 は、この辺りがかつては山であり、森や草原があり、彼らの棲み処であったわけですから、彼らを一方的に怨むのも筋違いで はあるのですが、それにしても・・・です。気候変動が山や森の生態系に影響を及ぼし、こうした動物にとっては我々の想像以 上に死活問題となっているのでしょう。それが我々人間村に巡り巡って影響をもたらすという因果応報の世界が、いま改めて 目の前に展開されているという次第です。
 こうした攻めぎ合いの形跡があちこちに見られます。私どもが移住して15年間で目につく変わった光景に、張り巡らされた 電柵の長さというのがあります。現在、畑の多くはこの電柵に囲まれています。かつては気軽に足を踏み入れるこ
とができた森や林の多くも、いまは電柵のために我々人間も侵入が出来ません。以前書いたことがありますが、釜無川の川 辺に行こうとすると、いくら川沿いを走っても、電柵の途切れるところが見つかりません。これは些末なことながら、私らが絵を 描いたり写真を撮る活動領域はかなり限定されてきたことも否めません。釣り人や山菜とかキノコ採り然りで、残念ですが、" 仕方ない"、と受け止めているのが現状でしょうか。
       
     1月のどんど焼きは地方ならではの行事             長坂ICを下りると”一流の田舎町”の文字が!?

*"一流の田舎町"(?)
 これは笑い話ではなく、現実にこういう書き物が堂々と存在しているのです。それは、中央道長坂ICの料金所を出て直ぐの 左手、道路柵を白抜きして大きくこのように書かれているのです。これを目にして恥ずかしい気持ちになったのは私だけでは ないでしょう。しかしこのように公共の場所でのことですから、誰かが勝手に書いたわけではなく、市のしかるべき部署が、宣 伝文句として表したものです(恥ずべきことながら、証拠写真を掲載します)。確かに、前市長時代だったか、北杜市を以て一 流の田舎町にする(或は、である)という謳い文句があったかに記憶しています。そもそも、"一流の田舎町"とは何なのでしょ う。田舎度が並外れて一流ということ? 或は、田舎なのに一流の都会的環境を有しているということ? この場合の一流と は何なのか、はっきりはしません。仮に一流として威張れるところがあったとして、一流の人が自らを一流と称することは先ず ないでしょう。そのように自称する人に限って、二流三流と目されても仕方ないと言
えます。であるので、この浮き文字は恥ずかしい限り、即刻消し去るべきです。消し去るとは、看板文字だけでく、行政の姿勢 の中からも消し去るという意味でもあります。

    
   野辺山に行くとこんなに広い空間の中!              人家と木々と畑が隣り合わせに。

* 価値観の相違ということ
 さて、この問題は別として、田舎という言葉のイメージさせるところとは、どんなところなのか・・・改めて考えて見ると、
否定的な意味合いでは、さしずめ"田舎者"という蔑称があげられるでしょう。肯定的には、昨今ますます注目度が上がってい る"田舎暮らし"の憧れの的としての響きがあるでしょう。両者を仕分けする要素とは、人や情報の密度、買い物
や娯楽といった生活の便利さ、雑踏や騒音の大きさ、人と人の距離感・・・そうした要素の多寡によって、都会的か田舎的か を表す指標たり得るのでしょう。しかしもっと大事なことは、夫々の環境の下で育った人間の持つ価値観の違いという要素で はないでしょうか。都会暮らしで育った私が、当地に移住して感じた大きな違いは、先ほど書いた自然との距離感に加えて、 この価値観の相違ということでした。ごく平たく言えば、何を欲しているのか、何をもって心地よいと感じる
のか(これを文化と言い換えてもいいのですが)、といった面での相違として括れるでしょう。
 例えば、環境問題といった場合の"環境"、これを自然環境と絞って言うと、この言葉に対する田舎の人のセンサーは、
我々が想像する以上に鈍感と言わざるを得ません。それかいいとか悪いではなく、そもそも都会人が問題視する自然
環境というものは、彼らが生まれてからずっと暮らしと同化してしまっているので、ことさら切り離して問題視するところではな いのです。中部横断道の建設を巡って県下で大論争となったときも、移住組の私らは先ず環境破壊を問題視してこれに反対 し、地元組の人たちの多くは、海や他県とのパイプを太くすることを重視して賛成するといった図式が対立軸となりました。田 舎の人たちには、外の世界への憧憬というものが刷り込まれているらしく、そもそもは、若者たちが都会
に将来をかけることや、更にはその背景として、子や孫の世代までが暮らしてゆくに足る仕事や雇用環境が田舎にはないと いった問題があるでしょう。ここのところ論議の絶えなかったソラー発電施設の建設にしても、争点となるところは同じでした。 結局のところ、両者の主張は、皮肉を込めて言えば、それぞれのないものねだりであり、その源となるこの価値観の違いを埋 めるとなると、落としどころはなかなか難しいのが実状です。

 ちょっと難しい話になった来てしまいましたが、よく希求されている地方の時代とか、一極集中の緩和とか、あるいは近い将 来の消失集落や消失町村といった問題への対応には、必ずこうした価値観の違いを克服する手立てが必要となってきます。 さらには、近年見直されつつある子供の教育環境とか、ますます高まっているシニア世代の田舎暮らしとか、昨今はポストコ ロナの仕事や生活環境の転換なども加えて、いろいろな要素を上手く絡めとったソリューションが見出されないものか・・・この 先となると、私の頭脳は追いかけてゆけないので、話はここらで打ち止めにしておきます。



○いまは、もう秋・・・(9月15日)

 ・・・誰もいない海♪ と続けて口にする世代は、随分少なくなっているかも知れません。ススキの穂が密に出揃い、畑や人 家の一角にコスモスが咲き乱れ、そして稲穂が垂れて収穫間近になると、もう本格的な秋の幕は切って落とされた感のある 今日この頃です。林縁では栗の実も落ち始めています。暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったもので、今週の空気はひところの 暑気が抜けて、初秋のそれと入れ替わった感があります。今年は大型台風の襲来が相次ぐようで油断
なりませんが、季節の移ろいに伴って、何の脈絡もいのですが、コロナの影も薄まるような気がするのは、頃希望的観
測ならぬ切なる希望というものでしょうか。しかしやっぱり・・・抜けるような秋の空にコロナは似合わない、できるならい
つもの秋を味わいたい・・それが万人の思うところでしょう。

 さて、誰もいない海ではなく、上空に展開される空のドラマの話です。
「行き合いの空」 という言葉があるそうで、これは、夏から秋へと移り変わる頃の空、夏と秋の暑気と冷気が行合う空・・の意 味だそうです。古今集から来た季語となているようで、季節に敏感な日本人ならではの美しい響きを持ってい
ると思います。それは例えば、積乱雲とその上空の巻雲や層雲が同居しているような空でしょうか。こういうものが「行き合い の空」だろうか?と思われる空を撮影したので、ここに掲載してみます。ついでに・・と言っては何ですが、ここのところずっと 雲への興味から空を見上げては撮っている写真の中から、8月から9月上旬にかけて撮った何点かを並べて
みました。夏から秋へ。空はいつもドラマティック。雲は表現力豊かな名優です。
 写真は、いずれも我が家周辺で撮影したもの。空の高さ、空気の透明感は千メートルの高原ならではのもの。当地に移り 住んで良かったことの一つが、こうした空のドラマと対面できることです。
      

8月12日 南の空、活発な真夏の積乱雲。上空には巻雲が。

  
   9月4日 北の空、八ヶ岳上空に秋を告げるひつじ雲が。

9月5日 東の空にポッカリと浮き雲。地平には積乱雲の卵も。

9月5日 東の空、左の積乱雲の卵は、モクモクと成長。


9月8日 暮れゆく西の空、ひつじ雲やうろこ雲、これに
飛行機雲も加わった、これぞ行き合いの空だろうか。

9月11日 南の空 積雲の上空にうろこ雲が。

9月14 南の空 ちぎれ雲と上空にはうろこ雲、これも行き合いの空?

9月14日 原村の南西上空、刷毛で掃いたような巻雲の棚引きが。



○ 猛暑とコロナの夏(8月21日記)

 雨ばかりと嘆いていたのは3週間前の話、その後はずっと日本列島は連日の猛暑に襲われっ放しで8月も早や下旬にさし かかろうとしています。お盆も終わり、球児たちの夏も終わり、そして考えてみれば、本来東京オリンピックもとっくにその日程 を終えて、これからパラリンピックが始まろうという時期なのではあります。

・ イベント中止相次ぐ中で
 この、どこか拠り所を見失ったような月日の時間的感覚は、全て新型コロナのなせる技と言えるでしょう。コロナ禍は、人々 の日常に否応なしに入り込んで、普段なら覚えるであろう生活感や季節感、そして人との距離感とか、イベントなどがつくりだ す一体感など、そうしたすべての感覚をどこか狂わせてしまっています。コロナ禍を警戒するあまり、日常なら目を向けるであ ろう様々なことへの視線や聴覚を、人知れず奪ってしまっているわけです。
 イベントの中止に関しては当地区においても例外ではありません。秋の文化祭とか運動会、開拓祭や敬老の集いなど、軒 並みに中止か規模の縮小が相次いでいます。私自身も6月の個展が中止となり、それだけならまだしも、次なる
機会をなるべく早くとは思っているものの、先行きの見通しが得られない中で会場の予約にも踏み切れずにいるままです。
 全国的に見ても、夏を彩る花火大会や、夏本番の地域を盛り上げる日本の祭の数々も、中止を余儀なくされています。私 は,こうしたイベントにあしげく通うタイプではないのですが、それでも一日本人として残念に思います。何故なら、ねぶたや竿 灯まつり、七夕や大文字焼、阿波踊りなど、数々の日本のお祭りに注がれるエネルギーは、人々の血の中に受け継がれてき たアイデンティティーの起爆装置であり、それはつまりは生命維持装置のようなものだからです。これらのイベントはまた、長 らく標榜されている地方の時代を象徴する存在として、地方を活性化させる起爆装置でもあると言えるでしょう。東京への一 極集中は、その弊害が指摘されて久しいものの、ダイナミックな都心の変貌ぶりを見ていると、今後一極集中はますます高ま るばかりに見えます。私は、直下型大地震などのカタストロフィーに備えるべき最も重要な選択肢は、一極集中からの解放、 人や機能の分散であると考えています。経済合理性ばかりを追求してきた今の状況を変える手掛かりは、政治に求めるしか ありません。なのに・・・・と、話がどんどんスライスしそうなので、この辺で
元に戻さねばなりません。
 せめて私たちはそれらイベントの中止がもたらす空白に改めて心を寄せ、そこにポストコロナの文化の継承と地域の創成を 促す思いとエネルギーを蓄積しておきたいものです。お祭りばかりではありません。芸術・文化を披瀝する舞台
の復活も、人と人の密なる距離感の復活も然り…ポストコロナが人々の心のルネッサンスとして大きなうねりとならんこ
とを祈るばかりです。

     

・ おわら風の盆・・に寄せて
 私が先のようなことを書く気になったたのは、今年のおわら風の盆もまた例外なく中止となったことを知ったからでした。私 は数年前までは、ほとんど毎年おわら通いを続けていました。9月の声を聞く頃になると、あのおわら節がどこか
らともなく聞こえてくるようで、それは事実頭の中に流れてはいるのですが、私の心はあの八尾の町並みの中に飛んで
いました。やっぱり行ってみよう!そうやって私は一人八尾への道をひた走っているのが常でした。しかしそのエネルギーもさ すがに薄れて、いつの間にか私はあの暑い中を歩き回り、人の群れをかき分ける体力が失せている自分を自覚し、おわらは 記憶の中に留めるだけのものとして折り合いをつけてきたのでした。その後も8月も終盤になると、もう前夜祭が始まっている 頃だな〜と思います。おわら節が遠くで鳴っているのが聞えます。その場に行かないまでも、想いを
馳せるだけにしても、おわらはやはりやっていて欲しい。踊り手の中には茶髪も交じった若者たちが、あの若さを網笠
の下に隠し、伝統的な情緒の中に秘めて踊る姿は、何時までも続いて欲しい。来年はもっといいおわらを、そう願うの
は私だけではないでしょう。
 立春から数えて二百十日の風を治め、今年も大過なく豊作をもたらしてくれますように・・・そんな祈りを込めたおわら
風の盆。或は中止となったこんな年にこそ、八尾の人々は内々に静かにおわらを謳い、踊るのかも知れません。そしてそん な姿こそ、おわら本来のあり様と言えるものであるなら、我々部外者はこの際遠くからおわらを慕い思い浮かべて
みる・・・そんな年もまたあっていいような気もします。そんなおわらなら、この際ゆっくりとやっていて欲しいとも思うのです。


○ 本当によく降り、どこまでも続く今年の梅雨(7月27日記)  

 もう北海道民以外の日本人が、皆そのように思って溜息をついているのではないでしょうか。ルール違反じゃない
か!などとボヤいてみても始まらない。これも異常気象、地球がこんな風になってしまったという範疇の問題だとすると
それこそ気象のパラダイム転換を物語っているのかもしれません。この鬱陶しさは、特に今年はコロナ禍の中で倍加されて います。TVを付けると、どのチャンネルを回しても、これまた鬱陶しい話題ばかり。ですから、たまさかの梅雨の晴れ間では、 空がこんなに青いものだったかと、うっとり見上げてしまいます。そこに浮かぶ雲にしても愛おしく、姿かたち
を変えつつ演舞を繰り広げているかのようで、天空は実にドラマチックなものだと気付かされます。
 今日もまた雨の一日でした。元気旺盛なのは、樹と草たちです。当家の庭木も、今年はかなり剪定をしたのですが、
そんなことはなかったかのように葉が生い茂っています。草も伸び放題。我が世の春ならぬ我が世の梅雨時を謳歌している ようで、確かに例年よりもその伸び方は大きいと言えます。それでもこの夏草、当HP上にアップした夏の作品(「夏
草の賦U」)のように、いま人間社会で大敬遠されている"密"の象徴のようなものですが、しかし逞しく、躍動感に満ち、夏を 歌い上げているようです。凄い!と思う気持ちを込めて描いたのが、この作品です。Uとしたのは、昨年も同じよう
なモチーフで描いて同じタイトルを付けたものがあったからです。

・梅雨明け間近?
 さて、そんなことを書いていた最中、居間のTVから"いよいよ今年の梅雨明けが・・"と報じている気象情報が聞えてきまし た。画面に見入ると、今週は西日本から暫時梅雨明けとなってくると伝えているではありませんか。我が甲信越は
来週初めが梅雨明けとなるか? ともかくも、太平洋高気圧・・・イヤイヤ待ってました、このコトバ!・・・がようやく張り出して (この"張り出す"という響きもイイ!)、梅雨前線を押し上げ始めているのです。ともかくも、この長かったこの梅
雨も、漸く明けようとしているわけで、安堵感を覚えます。蛇足ながら、このニュースを報じているのはテレ朝で、関東圏の都 市毎の天気予報では、春日部のところにクレヨンしんちゃんの顔マークがあるのです?  何かの間違いかと思ったら、その顔 マークは間もなくしんちゃんの母の顔に変わっているではありませんか。他の都市には何のマークも付いて
いないので、普通のお天気情報の画面に細工したご愛敬なのでしょうか。思わず笑みがこぼれたのでしたが、これって誰の アイデアなのか? ・・余談でした。
 梅雨が明ければ俄かにあの夏の暑さが来襲するのでしょうが、雨天の鬱陶しさよりはまだマシでしょう。遅まきながらの本 格的な夏到来、豪雨の被災者の方々にはまた台風の心配もあるでしょうが、ともかくも季節は一歩前に進むわけ
です。とはいえ、コロナ禍の問題は停滞したままで夏を迎え、そして遠からず夏も去り・・・コロナの終息については確答を得ら れないまま、当分はそんな季節の移ろいと付き合って行かねばならないのでしょう。
   「夏草の賦U」→ 

・そして再び絵を・・・
 そんな中で私ができることは、絵を描き続けることしかありません。それで思い起こすのは、文化・芸術は生命の維持装置 と言ったかの国ドイツの政治家のことです。それが文化相だったか他の誰かだったか、ともかくもこの国の文化相は、コロナ 禍の下で国家的な諸規制が始まるのに際して、活動休止を余儀なくされる芸術家やイベント関係者たちに向けて、文化・芸 術は良き時代にあってのみ享受される贅沢品などではない・・今回の事態が小規模の文化施設とフリー
ランスのアーティストの方たちに深刻な逼迫をもたらすことは重々理解している・・皆さんを見殺しにするようなことはしない!  とスピーチして直ちに救済策を講じたのでした。何という国でしょう。このスピーチは、他人が用意した原稿を読んだもので はなく、文化相自身のうちなる資質、心情から発せられたものに違いないのです。そういう言葉を持っている政治家がいて、 そこから勇気を得る国民がいて・・・・日本との大きなギャップに改めて衝撃を受けぬわけにはゆきません。何を言いたかった かと言えば、私もこの言葉に感動し、勇気づけられた一人だった、ということです。絵を描く、描き続けるということは、私にし てはごく自然に、かつ充足感を覚えつつできることなのですが、そうした私の行為が観る人たちにとってささやかながらも心の 栄養となるようなら、それがどんなに創作のモチベーションを高めるものか。一人俄ドイツ人になったような気分で、そんなこと を考えるのでした。



   我が家のジューンベリー

〇 梅雨の晴れ間(6月25日記)

・"日々旅にして旅を住処とす"
 雨空の一角がちょっと明るくなり、雲の層の上空に太陽の存在が窺えると、気分は少し晴れやかになります。束の間でも人 は光を欲しているということを、梅雨空は改めて教えてくれます。一筋の光明、そのありがたさを人々は追い求めている、特に 今はそういうときなのでしょう。事実、何を書いていても、話はそこに向かってしまうのは、我ながら情けな
い処ではあります。そんな中でしかし、都道府県をまたがる移動の自粛が緩和されると、気持ちは自ずと旅の空に開放される ようで、「奥の細道」ではありませんが、それは元来、人間には"日々旅にして旅を住処とする"習性があるからなのでしょう か。そうではなくて、閉じこめられていた日々から解放されると、自ずと飛び出したくなるのは、単なる反動の
力学に過ぎないのかも知れません。いずれにしても人間というもの、旅に出たくなるのが人情ならば、終の棲家を求めるのも また変わらぬ心情と言えるでしょう。その二つ間を行ったり来たり・・・それをごく自然に繰り返していたのが日常というもので あったかと、改めて思ったりもします。

・わが漂泊の想い
 ふらっと旅に出たい・・いずれにしても、こんな気分は今どき大なり小なり誰もが共有しているのではないでしょうか。
私もまた、八ヶ岳山麓でこの上なくいい空気を吸いながらも、違う空気も吸って見たくなったりしています。その場所ならでは の何か美味しいものも食べたいし、見慣れた風景とは違う景色にも出会いたい。さらに言えば、久しく会っていない人たちの 顔が見たい、話をしたいなるのですが、そうなると、旨い酒、尽きない会話・・・となって、それはつまり夜の一
席に繋がるわけで、そうなるとやはり、もう少し先送りすべきなのか。何にしても、アクリルだのビニールの仕切り越しとか、空 間を置いた会話だとか、こういうのは懐かしい人たちとの再会には似合いません。嬉しい再開のシーンには、"蜜"が付き物と いうものです。
 そんなことを考えつつ、とりあえずは近場でもどこでも出かけてみるかということになります。実は山梨県内でも、移住して1 6年経つのに行ったことのない場所がたくさんあります。お隣の長野県にしても、私はまだ、いわゆる信州の味わいを十二分 に汲み取ってはいません。そうか、中部横断道の南側は殆ど繋がっているので、ここから近い駿河湾のど
こかに行ってみるのも手です。そうです、海を見る・・ただそれだけでも直ぐしてみたいという気は、何時だってあるのです。そ う考えてみると、最近海を見たのは昨年11月の初め、そこからまだいくらも経ってはいないのですが、海という響きには格別 なものがあります。もちろん、美味しい海鮮は、何時だって大歓迎。その海も、もっと言えば、我が郷里と言っていい房総の海 ならなおいいのですが、これを言い出すとキリがなくなります。何と言っても、年齢とともに里心も増すこの頃、この先は語り出 すと止まらなくなりそうなので、一応この辺でストップです。続きはまた、別の機会に譲りたいと思います。

  絶えることなく打ち寄せる波・・・




〇 お隣の県という意識(6月10日記)

・ 県境を越えると
 何故こんなことを書く気になったかと言うと、お察しの通り新型コロナ感染防止のための、県をまたがっての移動制限や自 粛という社会的制約下故のことです。

 私の住んでいるのは山梨県北杜市、その西端に位置する小淵沢町です。うちから西に2`と行かないうちに県境が
あって、そこは小さなクリークが境目となっているのですが、走っていると何の目印もないので、いつの間にかお隣の長野県 に入っています。そこは富士見町です。最初に葛窪と言われる良くスケッチをするス地区を横切り、さらに西進す
ると八ヶ岳南西麓の広い裾野を突っ切る県道を辿って富士見町の中心市街地に出ます。私たちはそこにあるスーパーを中 心にした商業ゾーンとその周辺によく出かけます。そこで買い物や食事をしたり、富士見高原病院で診察を受けたりと、この 辺はだから、私たち北杜市民にとっては生活圏の一部と言えます。そこに山梨県ナンバーで駐車していても、ことさら目を引く ことはありません。同様に、北杜市側ではよく諏訪ナンバーのクルマを見かけますが、これまた我々に
とっては、ごく日常的な光景です。因みに、私たちはそこからさらに西進して、茅野や諏訪方面にも足を伸ばします。諏訪は甲 州街道のバイパス沿いに続く商業施設で、買い物や食事と、こちらでは少し非日常を楽しんだりもします。

 北杜市の北側は、国道141号線を北上すると県境の標識がありますが、普段は見慣れていて気にかけることはなく長野県 の南牧村に入り、やがて広やかな野辺山高原の中央を走っています。視界が開けて草原とレタス畑の広がる
先に西側には八ケ岳がかなり迫り、東側は川上村の空間を隔てて秩父の山並みが連なっています。確かに、北杜市
の景観とはかなり趣を異にして、一層広やかで、一層空が近づいた感があります。私などはよく絵を描いたり写真を撮ったり で、野辺山高原には日頃から親しんでいるのですが、ここは冬ともなると一変。寒さと厳しさは、北杜市とは別物
で近付きがたいものがあります。こうした自然風土の違いは、隣の県に入ったという感覚をもたらすもので、それは日
頃染みついている皮膚感覚と言えるものです。
    
    小淵沢を出ると直ぐの葛窪             野辺山高原はレタス畑の向こうに八ヶ岳

・ 先日体験したこと

 コロナ緊急事態宣言以後はしかし、この野辺山高原では県外からの移動は自粛して欲しいと書かれた横断幕を目にしま す。尤もこの横断幕は、都会からの観光客を敬遠する意味合いがあってのことなのでしょうが、これを見ると改めて自分らは 他県民であり、自分のクルマは山梨ナンバーだったったと自覚させられます。改めて県境というところに意識
を呼び覚ますのも、昨今の風潮と言えそうです。
 さて、そんな中で先日、お隣の富士見町に行って、オヤッと思ったことがありました。それは、例の商業ゾーンで買い
物をした折に思ったことで、コロナへの警戒感という点で、ここは山梨県とは明らかに違って、それが薄いというか大らかと言 うか、そんなところがいくつも見受けられたのです。例えば、店舗の出入り口に置かれた消毒液、これが薬局で
は見当たらなかったし、スーパーでもどこに置いてあったものか、私の眼には入りませんでした。少なくとも消毒液を手にかけ ている光景を見受けなかったように思います。レジの順番待ちの位置を示したテープも、わが北杜市のスーパ
ーのそれよりはずっと間隔が狭いものでした。マスクをしている人も北杜市よりは少なそうに見えます。そうした環境の中で 人々がごく自然に振る舞っている様子を目の当たりにして、初めて自分は他県に来ているのだという、かつてなかった感覚を 覚えるのでした。先ほど書いたほとんど同じ生活圏と言っても、この警戒感の薄さは、山梨県人である私には明らかに違和感 があるのです。この差は長野県における感染者数の少なさ(人口比で)によるものなのでしょうか。
そんな経験をして改めて気付かされたのは、日頃接している長野県の友人・知人達もまた、我々北杜市民よりはコロ
ナへの警戒感という点で、ずっと大らかであったかということです。おそらくその違いは、県民性ということよりも、一つ
は大密集地である東京との距離感の違いによものではないかと考えたりするのですが、或は、自己責任という観念の
濃淡があって、そこに起因するのかもしれません。

 こんな具合に普段はさほど意識していないことに思考が及んだりするのも、コロナ禍去りやらぬ社会事情下であって
のことではあります。






〇もう6月・・・で思うこと(6月2日記)

・今年も早や6月に・・・
 改めてそう自覚してみると、今年はこの月日の流れに対する感じ方が常とは大分変ってきていることに気付かされます。新 型コロナという、戦争以外では経験したことがないと言われる事態の中で過ごす緊張感とか切迫感といったものが、いつもの 時間感覚を変えてしまった、と言うべきでしょうか。そのことに改めて気付かされます。もうこんなに月日が流れたんだ・・・とい った感慨は、紛れもなく平常時において覚えるもののようです。普段、人はそれぞれの日常を送る
中で、その人なりのルーティンとか物事への対応や、その緩急といったいわば人それぞれのリズム感というものがあって、そ うした生活のリズムをベースにして、ときの経過を認知しているのだと言えるでしょうか。それで、ある時ふと気付けば、もうこ んなにときが流れたのだという感慨を覚えたりするのですが、今年は先ず、そうしたリズム感を欠いて、ふ
と振り返る余裕などないまま、大方の人は過ごしてきたのだと思います。人々はまだ、新型コロナへの警戒と闘いを余儀なく されていて、そこからいつになったら解放されるのか、誰もまだ分からない状態です。ときの経過への知覚とか感慨、つまりは 心のゆとりあっての感情は、まだ暫くは封印されたままと言えるでしょうか。

・非常時が続いて
 年月を振り返って覚える感興はまた、"何もない日常が如何に貴重なものだったか"と気付かされるのと、同じ精神的土壌 にあってのことでしょう。こんなゆとりが、生活のどこかに潜んでいた日々が、如何に貴重であったかを改めて知らされるので す。そして更には、"心のゆとり"・・それこそが、人の優しさとか、感謝とか、寛容な社会の原動力であった
のだと、こうした機会に思い知ることは、せめてもの救いではないかと、私は考えます。
 こうした感想は、つい先ごろアメリカで勃発して現在も進行中の、人種差別への深刻な抗議デモの状況をTVで見てなおさら 強く抱くことです。アメリカでは、新型頃の感染者やそれによる死亡者の数は、黒人において顕著にその比率が
高いと報じられています。貧困と三密は比例する関係にあって、それはニュースを見ている限りブラジルでも同様です。貧困 とか差別が人々を逃げ場のない瀬に追いやっている状況、それはコロナという緊急時代の中ではより人々を追い詰めて、 人々の日常を、そして何よりも精神的ゆとりを奪い去っているのです。そこを顧みずに、強権発動をするのみ
のかの大統領とは、一体何者なのでしょうか?

・日本人と新型コロナ
 外国の例はともかくも、再び日本に戻って現在の状況を顧みると、感染による死亡者数が、欧米と比べてかなり低いレベル にとどまっていて、いまやこれは世界から不思議がられていることです。その背景に、山中教授は遺伝でも免疫記憶でもない 日本人の持つ未知のXファクターがあるのだと言いますが、このXには一体何が含まれているのでしょうか? BCG接種に伴 い、自然免疫が活性化されたとする説はひとつの有力な手掛かりのようです。これには、公衆衛
生への取り組みという歴史的な経緯が関係しているようですが、詳しい説明は私には出来ません。 このファクターの
解明は今後の課題となっているようですが、私はこの"X"の中に、日本人特有の生真面目さや衛生観念、勤勉さといったファ クターが入って然るべきと思っています。ある意味、没個人への耐性と言いますか、褒められたことではないのですが、ときと して個人が大勢の中に埋没してしまう事態への耐性とか我慢と言えばいいのでしょうか、そういう特性もまた、今回のコロナ 対策に生かされているとも言えるかもしれません。

     

・新型コロナと私
 私が暮らしているのは、八ヶ岳の南麓、標高千mちょっとの所です。今は夏の陽光を浴びた木々や草が蒼々と茂って家の 周りはグリーンに囲まれているような状況です。日々カッコウの鳴き声が聞こえてきて、世間の三密とはおよそ縁
遠い環境の中にいると言えるでしょうか。それでも買い物や病院に出かけたり、人と話したり、時に私の場合は休講中の水彩 教室の代わりに、何人かで連れ立って戸外でスケッチをしたりで、そういうときはコロナへの警戒は怠りません。
 因みに、わが北杜市は東京23区とほぼ同じ面積ですが、そこに住んでいるのは東京23区の960万人に対して4万
6千人。1q平米当たりの人口密度でいうと東京の1万5千人に対してわずか78人! 東京とは較ぶべくもない低密度なの ですが、それでもこのウイルスは神出鬼没、そんな田舎町にして、確か感染者が3人は出ているはずなのです。油断も隙もあ ったものではありません。それでも普段とはあまり変わらない生活を送ることができているのは、こんな田舎に移住したメリッ トだとありがたく受け止めています。その一方で、三密にさらされた都市部の人たちを気の毒に思いますし、やはりみんなが 幸せであってこそ自分もまた安心して幸せでいられる、そうした心境に越したことはありません。
 先日国立博物館が久しぶりにリオープンし、訪れた一人が取材に答えて "この日を待ちかねていました。ここは精神のビタ ミンになるような所ですから"とコメントしていたのが印象的でした。同じ日だったか、山梨県では県立美術館が再開となり、待 ちかねて訪れる人達には、同じような安堵感というか、束の間の心のゆとりが表情がうかがえました。文化とか芸術が、人々 の心のビタミンとなっていることを、改めて思い起こさせてくれるシーンでした。私も及ばずながら、自分の描く絵が人の心へ のビタミンとなってくれればいいと、これまた改めて思うのでした。



○ 5月点描(5月12日記)

 5月の陽光を浴びたショットを何点か。
 それから印象的だった空のページェントも。
 5月の空はこんなに高かった?ちょっと秋のような空と雲ですが、これが高原の空、とも言えるのでしょうか。
  

朝陽に透けるシラカバの新緑

この新芽は何?  →

→ コシアブラでした。
 山菜では最高に美味!

朝、東の空は、ひつじ雲が棚引いてました。

同じ日の昼近く、八ヶ岳上空の
ひつじ雲(高積雲)

これは別の日の空に現れた巻雲
 その巻雲、西よりの一角ではこんな感じに。毛状巻雲というやつか。



〇 今年のGW徒然に・・その2(5月1日記)

・薄っぺらい新聞
 今朝朝刊を手にして驚きました。こんなに薄い新聞は初めて・・なんと! 20ページしかありません。折り込み広告も
申し訳程度に2点だけ。新型コロナ緊急事態下のGW、世の中が活動を自粛して息を潜めている様子が、この新聞の
紙面からも伝わってきます。

・オキシトシン
 ハグやボディータッチすると幸せな気分になるのは、オキシド心という幸せホルモンが体内で作られるからです。これ
は医療にも生かされていて、特にスエーデンが先駆者です。・・・以上はTVから仕入れた情報です。この幸せホルモン、三密 を避けねばならない今は出にくい状況なのですが、電話で相手の声を聞くだけでも、オキシドシンが出ることも分
かっているのだそうです。このご時世、オンライン飲み会なるものも流行っているそうで、これなら十分なオキシドシンガ期待 できるのでしょうが、我々SNS後進国世代にとっては、何か落ち着かない飲み会となりそうです。電話なら簡単、
こういう機会ですから、久しぶりの友の声を聞くのも良し、友以外でも然るべき人の声であれば・・・ということでしょう。ど
ういう人かって? まあそこは、人それぞれでいろいろあるかと思いますよ。異性でなくてももちろんいいわけで、ハイ。

・人の動きが見えない
 通りも観光スポットも、今年は閑散としたGWが始まっています。と書きましたが、本当にそれが始まったのかどうかさ
え定かではない、というほど静かな毎日です。ここ小淵沢で一番賑わう一帯で、開いているレストランは三軒に一軒くら
いか。店内はclosedでも、"お弁当あります""テイクアウトできます"の看板はたくさん目につきます。それでも店頭のクルマの 数は少なく、人影もまばらです。ちょっと走って観光スポットで目につくのは"臨時休業中"とか"立ち入り禁止"の看板ばかり。 GWとお盆という二大かき入れシーズンのひとつがこれですから、観光で食べている人たちは大変だ!

・田起こしが始まった!
人の姿が見えないと書きましたが、ちょっと田園地帯を走ってみると、そこで目にするのは、野良で立ち働いている農
家の人たちです。暫く来ていなかったスポットに行ってみると、もう田には水が張られていたりして新鮮です。トラクター
が田起こしで動き回っていたり、田起こしのあとが水面に残っていたりで、それだけ見ているとコロナ騒ぎが嘘のような、いつ もと同じ山麓の光景です。いつもと同じように、春はいつの間にか終わって、初夏がすぐそばまで来るのでしょうか・・・そんな 感じもするここのところの暖かさです。
             
  たった20ページの朝刊!     ”臨時休業中””立ち入り禁止”は今年のGWのシンボル?     野良には立ち働く人影が。 
       
   田に引かれる水音が。     水田と八ヶ岳                      新緑とヤマザクラ、一番美しい潤いの季節なのに・。



〇 今年のGW、stay home点描(4月26日記)

 一昨日から長い人だと11連休という春の大行楽シーズンが始まりました。しかし今年は緊急事態下、都知事はStay Hpme  週間といい、ある局アナはGaman Weekこそ今年のGWに相応しいと言い、ともかくも、どこにも出かけないで家の中に留まっ て、との呼びかけが日本列島全体に蔓延しているのが今年のGWです。そう言えば、11連休などという言葉、今年は余り口に されていないようだし、余り聞こえても来ないのも、この異常事態を物語るものでしょうか。

・ソーシアル・ディスタンス
 ここ八ヶ岳山麓は、遅い春がいつものように輝き始めています。私の住む標高千m一帯は、そろそろサクラの散りどき、 木々の芽吹きが始まり、梢がうっすらと柔らかい色を帯び始めました。いつもの春、ただ違うのは、めっきり人影が絶えて静 かなことこの上ない春です。"家にとどまって"と言っても、私の場合は、何時も大体家の中にいて絵を描いて
いることが多いので、さほど違和感のある事態とも受け止めてはいません。加えて家の周りにしても、ちょっと出かけても、 元々人口密度が低い山麓のことですので、買い物でもしない限りは、人との接触は極めて稀なことです。まあ2mのsocial  distanceというのも、よほどのことがない限りは意識しなくても守れているのです。買い物ついでに言えば、マスクを除けばモノ 不足といった事態はなし、田舎のいい処が改めて実感されるこの頃です。

      
  サクラが咲いている我が家近くの別荘地    これも我が家近く、良く散歩で通る小径はユキヤナギが咲き誇っていました。

 ですので、当地から甲府の中心部に行くとなると、なかなか抵抗感があります。しかし先日は、眼鏡を紛失してしまっ
たので、これを新調するために出かけざるを得ませんでした。昭和町という県下では地価も人口も毎年上昇し続けている商 業地帯です。いつもは渋滞に遭ったりする幹線道も、この日はガラガラ。クルマですから、眼鏡屋さんの店員を除
けば人との接触もないのですが、人間とは恐ろしいもので、一旦そういう地域に入り込んでしまうと、いつの間にかそこの空気 に慣れるというか、気が緩むようで、その日は眼鏡屋の前にあった床屋チェーンの店が目に入り、伸び放題だ
ったこともあって、せっかくここまで来たのだからと、立ち寄って散髪をしてもらったりもしました。ちょっと反省も。お客は普段 の2〜3割だそうで、こういう時節柄なので顔の髭剃りはしていません、とのことでした。ランチは帰りしなにマックのドライヴス ルーでtakeout。こちらの方はいつにないクルマの列でした。

・山麓は静か
 さて、八ヶ岳山麓のことです。例年だとこの一帯は、GWに入ると人とクルマで俄かに沸き返るのですが、今年はさすがに静 か、ただ静かです。別荘地にしても、例年の俄か人口増と較べると、いつもよりは多少人の気配が増している程度です。小淵 沢の道の駅も写真の通り。週末でこんなに空いているのは初めて。数少ないクルマはどれも県ナンバー
ばかりでした。週末にはまた、野辺山方面の季節の進行具合をチェックしに出かけたのですが、このときも途中通り過ぎた清 里は閑散として、まさにゴーストタウンといった案配。ホテルやレストランなどの観光施設は既に休業入り、観光
スポットの売店も29日を以てclosedとなるそうです。この静かさは、地元民としてはある種快適でもあるのですが、観光地にと ってのドル箱シーズンに何の営業もできないという現実が、まさに目の前に展開されている様には、同情を禁じ
得ません。ざっと垣間見た限りは、stay homeはよく守られているという感じを受けました。かく言う私自身、そんなに出歩いて どうなのか、とお叱りを受けそうですが、外出は決まってクルマ、出向く先は、女房を伴っての買い物以外は、自然の中のス ケッチポイントですから、人間どうしのsocial distannceも何もあったものではありません。Very close distannce to nature なの であります。

   
 小淵沢の道の駅 週末でこんなに空いているのは初めて。クルマは全て県ナンバー。        私がよく出かける先は、こんな感じの所

・家の中で思うこと
 さて、家の中となると、何時も絵を描いてばかりではいられないので、TVも良く見ています。しかし何と言うか、どのチ
ャンネルを回しても新型コロナ。これにはいささか辟易状態であるのは誰しも同じでしょう。こういう状況になって思うのは、や っぱりスポーツ番組というのは貴重だった、ということです。自分ではやらずとも、人が身体を動かし、アスリートとしてのスキ ルを目いっぱい駆使して競い合う・・・そういう様を見るのは面白いし、心躍らされるものがあるのだと改めて知らされます。逆 に言えば、彼らはその演じ手として生き生きと人の心を捉えるのであって、例えば今のような特殊な事態の中で画面に登場 し、視聴者へのエールを送ったりするのは歓迎すべきこととして、じっとしている状態での露出に
は限度があるでしょう。餅屋は餅屋、こういう折にこそ、文化・芸能とか芸術に携わる人たちは、その力を発揮して欲しいもの ですが、こういう時節の中で、画面に登場したところで、いささかの賞味も感じられないタレントとか芸人と称する輩が如何に 多いことか。TV業界全体が経営的に苦しいとはいえ、こうした安上がりの雛壇芸人がTVの多くの時間を埋めている現状もま た、改めてあぶり出されている現実と言えるでしょう。放送側に限らず、私たち視聴者もまた、価値のある芸とか技、心を豊か にしてくれる表現にかかるコストを、ともに負担していく文化をもっと醸成していくべきでないのか・・・これもまた、こんな折に思 うことの一つです。
 再びドイツの話ですが、この国では芸術文化に携わる個人や小規模業者に、50億ユーロ(およそ6千億円)の財政
支援を講じたといいます。担当大臣は、芸術文化は、生きていくのに欠かせない、いわば生命維持装置だとさえ言っていま す。一体何という国なのでしょう、今回の事態の中で、ドイツ国民は幸せだと、私は度々思わされるのは、こんな現実を知るか らです。心を豊かにすること、豊かにしておくこと、それがどんな場合でも大事だというこの価値観は、かの
国やその周辺の欧州各国においても共通したところがあるのだと思います。そこにいくと、わが国はどうなのか・・・現実は気 落ちするのを禁じ得ません。
 TVから始まった話でしたが、この際みんな読書に勤しんでみては如何でしょうか。TVもSNSも、どこか限界が見えているよう なこの事態の中で、本を読むという行為は改めて見直されていいことだと思います。こういう空気もあってか、最
近激減している新聞広告の中にあっても、本関係は比較的堅調のように見受けます。読むという行為は、TVやSNSでは得ら れない想像力を刺激するものです。別に教養本である必要などさらさらなく、小説でも絵本でもいいのだと思います。漫画は どうなのかとなると、私的にはいささか疑問符が拭えませんが。こんなことを感じたこともあって、私はかつて熱中して読んだ 藤沢周平の小説に目を向けています。文庫本の目録を手に、自分の本棚と睨めっこをしてまだ読んでいない本を探し出すの ですが、現物が本棚に見当たらなかったり、大体読んだ本の筋書きを殆ど忘れてしまっている
状態なので、この作業は案外と難しいのです。それでも現在、3冊の本を仕入れました。今読んでいるのは「風の果て」(上・ 下)。やっぱり読ませます!久しぶりのこの藤沢節。この人のきれいな文章に接しているだけでも、結構ハッピーな気分にな れるというものです。



○春続く(4月17日記)

 それでも春・・の続き、コロナ絡みで家にいることが多い中での雑感、といったところです。

・ 絵心は移り気ではない?

 4月半ばとなって、我が山麓にも桜前線が上がってきました。現在は、800〜900bあたりが満開となっています。
この桜前線、実は私の住む小淵沢からお隣の長野県、富士見町になると、開花のスピードは少しずつずれて遅くなっていま す。昨日スケッチに行った甲州街道沿いの蔦木宿は標高723bとあり、今が満開のピークといった感じでした。それにして も、ここのサクラは古い家並みに美しく映えます。サクラは、都市のビルなどの近代建築よりも、古い建物や由緒ある構築物 とのマッチングが際立つようで、それはやはり日本の花という既成概念が、広く日本人の心に染みこんでいるからでしょうか。 余談ですが、このときのスケッチ(→春のスケッチ)、当日行って"描くポイントは、ここにしよう"と陣取って描いたのですが、そ のときは、どうもこの構図は以前描いたことがある絵の構図と似ていそうだという気はしていたのです。それで帰ってからチェ ックすると、なんと9年前に、殆ど同じ場所から殆ど同じ場所で同じように風景を切り取っていたことが分かったのです(→20 11年9月の個展)。作品のコメントでも書きましたが、どうも絵心というものは、同じような場所やシーンに出会うと、それが何 年ぶりの出会いといえども、自ずと同じように湧き出るものらしく、それを立証したのが今回のスケッチという次第でした。

・ 逆境平然

 友人からのメールに、近所のお寺に掲げてあった一文が紹介されていました。
   「逆境にあって 平然、順境にあって 淡々、これ人生達人の極意」
詰めて書くと、"逆光平然、順境淡々" ・・・なかなか染みる言葉として、私のメモに加えました。今は、人々おしなべて
逆境の中にあるわけですが、ここは平然と自重し、平然と臨むべし、ということでしょうか。同時にいまが、淡々と臨んでいた 平素が如何に大切なものであったかを噛みしめる時、という意味合いをもあるように思えます。
 TVで見ていたある動物園の動画配信で、関係者が話していたコメントも印象的でした。動物を観るという行為は、好奇心か ら発するもので、こうした事態の中にあって、せめて動画だけでも観てもらって、その好奇心を満たしてもらいたい。好奇心は また、生きていく力ともなるものだから・・・というのです。素晴らしいコメントだと思いました。私はこのHP
やfacebookで、さらには個展の会場で、私の作品に接した多くの方から "癒される"といった言葉をいただきます。私自身は 人を癒そうという意図で描いているのではないのですが、これも褒め言葉と受け取ることにしています。癒しがまた生きる力と なるなら、絵描きとして嬉しいことです。

・ 人が減った、インバウンドが激減した・・・それがどうなのか!

 最近の報道で良く目にする見出しです。特に経済効果という観点から、3月は外国人の入国者数が15万人と、前年同期比 で90%減ったと、報道されています。それは、日本経済にとっての大きな問題だと言わんばかりですが、私はこういう報道に いつも違和感を禁じ得ません。何事に付けて経済効果を最優先しているような現政権下、例えばIRと称する賭博施設の開設 問題も然り、また延期されましたがオリンピック問題然り、余りにもインバウンド効果を金科玉条の
課題とし過ぎているように見えるのです。経済効果の前に、人命と健全な生活の保証があるべきで、それあってこその経済で はないのか。今回の緊急事態宣言の発動にしても、最後まで足を引っ張っていたのは、与党の経済優先の一派だと言いま す。関連して思い出すのが、あの羽田空港への進入路の問題。あんなに危険な都心上空を進入路として認めてしまうのも経 済優先、人命軽視という価値観が政策に反映されている査証と言えるでしょう。
 そこにいくと、メルケル首相率いるドイツは立派ですし、羨ましくもある。首相自らは、政府の強権発動は自分の民主主義の 信条に反する、と前置きをしながらも、今回の重大局面で命を守るための緊急手段としてその強権をいち早く宣言し、同時に 手厚い補償を約束したのです。経済への影響は次善の策として考えるべきこと・・・こういう価値観というか民度というか、それ を国民が支持し実行するのは、双方が同じ哲学を共有しているからなのでしょうか。環境問題への対応も然り、原発ゼロへ のソフトランディングを、他に先んじて実践に移したのもドイツでした。残念ながら日本では期待できそうもない羨ましいことだ と感じ入った次第です。

・ 少し癒される写真などを
 お口直しに山麓の春を映したホッコリ写真を少々。
        
  サクラの梢越し、上空には巻雲が。             庭のタンポポ一輪         せせらぎの傍にカラシナが咲いてます。

      
 シジュウカラ・・背景の黄色はダンコウバイ     ヤマガラ・・手前の芽吹きはジューンベリー



○それでも春到来(4月5日記)

 見出し通り、新型コロナがもたらした不安の中、それでも春が来た! という感覚をどなたもお持ちではないでしょうか。私 はこんな心境を忘れさせてくれる時間は、絵を描いているときです。だから、このところ、随分と描き上げていて、少しずつお 目見えさせたいと思っています。それでもやはり、絵を描いてばかりはいられません。どのチャンネルを見ても憂鬱になるだ けでもTVは習慣化しているのでやはり見てはいます。それから、外出を控えていると言っても、たまに
は散歩もします。絵の取材やスケッチにも出かけます。そんな折に春を体感し、新しいモチーフをゲットしてきます。そう言え ば、外出するといつも以上に戸外で作業をしている人を見かけます。"Stay home と言っても家の中にばかり閉じこもっては いられるか" という御仁が相当多いのでしょう。そして、コロナ騒ぎをよそに、サクラはこの山麓でも徐々に綻び始め、春は刻 一刻とその様相を色濃くしています。それで私は今、こんな風に文章を綴ったりもしているというわけです
  ここ1週間ばかりで目にした春の絵柄を、かいつまんで載せてみました。

                
 我が家の北側にもフキノトウが。     ダンコウバイはもうすぐ満開に。     庭に植えたアサツキは毎年芽を出しては摘まれて食卓に。


 クリスマスローズはずっと以前からきれいに咲きそろっています。



○ "昔見た映画"の後日談

 たまに、このFノートを読んだと言って、なにがしかの声を寄せてもらえるのは嬉しい限りです。以下は"昔見た映
画"の後日談です。これを読んだ流れで、差出人を吉永小百合としてメールをよこした人もいました。私は返信に"高倉 健" と記しました。もう一人は石原裕二郎としてメールをよこしたそうです。吉永小百合は、学生当時、他の学部でしたが新入生と して入ってきました。一度こっそりと見分に行ったのですが、殆ど当人とは気付かせないほど目立たないい
でたちでした。私もサユリストの端っくれではあるのですが、俳優としての彼女にはさほど魅力を感じていなかったので
映画自体はそんなに観ていません。 裕二郎はデビュー後のまだ初々しかった頃、主役を演じた「陽のあたる坂道」、
これは光ってました!今までになかったような俳優というか青年を見たという新鮮さも覚えました。尤も私は、助演の芦川いず みがそれ以前からタイプだったので、こちらの方も熱視線を向けていたのですが・・・。


「陽の当たる坂道」の芦川いずみ
スミマセン、裕二郎じゃなくて・・。


ご存じ用心棒の三船敏郎
右は「椿 三十郎」の一シーン


 ジョン・フォードの西部劇や黒澤 明の用心棒シリーズが好きだったと言ってきた御仁もいました。これは同感・・・と言って も、J・フォードの方は、"昔観た映画"の昔より遡って殆ど少年の頃観た映画、黒澤明の方は、時代的に少し下った辺りの作 品だったでしょうか。用心棒三部作の中では、「椿 三十郎」が一番好きな作品です。黒澤作品のカメラワーク
もいいですよね! 先にウイリアム・ワイラーのカメラワークが絶品と書きましたが、これに匹敵するほど。特に「赤ひ
げ」のカメラは印象的! 私は映画を観ていた当時は、ずっと絵から遠ざかっていた時代でしたが、それでも無意識の
うちに映像を一幅の絵のように捉える傾向が、人よりは強かったのかもしれません。
 また、この御仁があげてきた西部劇は、その殆どを少年時代に熱心に観てました。ジョン・ウエイン主役の作品は、
見終えるとみんながJ・ウエインになって肩を張り、眉間に皺を寄せて映画館から出てきたものです。そうでした、当時
はTVなどなかった時代、映画と言えば、地元の映画館に足を運ぶしかなかったのでした。「シェーン」も良かったな、"Shane,  Shane,. Come back" ・・・スミマセン、またまた勝手な映画評論でした。

     
      西部劇の顔 J・ウエインと西部劇の金字塔 「駅馬車」                    シェーン Come back!



(3月17日記)
 新型ウイルスで世間が閉塞状態の中、私もせっせと家で絵を描いています。それでも集中力には限界があり、とみに最近 はこれが顕著です。そうなると、TVを見たり、本を読んだり、一応スマホを覗いてみたり、こうして文章を書いたりと、家の中で はいろいろやっています。当家のTVは録画機能内蔵型なので、これまで撮りためた番組一覧から、観た
いものを引っ張り出して観るということもしばしばです。一覧の中一番古い方に、「ローマの休日」がありました。そこを
手がかりに、映画の話をひとくさり・・・・。もしも、私同様、時間を十分持ち合わせている方には、ご一読下さい。

〇 昔見た映画の話を少々(3月17日記)

 説明するまでもなく、「ローマの休日」は、若くてチャーミングなオードリー・ヘップバーン演じるアン王女が、グレゴリー・ペック 演ずるジョー・ブラッドレー駐在記者と繰り広げる大人のフェアリーテールといった映画です。ヘップバーンの初々しさ、チャー ミングな存在が、この映画の全てとも言えそうですが、記者会見の最終シーンにも、この映画が集約されていたかと思いま す。ここでアン王女はローマの一日を共にした相手が新聞記者であったことを初めて知るのですが、どの都市が一番印象的 でしたか? という記者団の質問に対し、アン王女は"Each in its own way was unforgettable ・・・と外交辞令を言いかけてか ら、記者団の中にいるジョーと目が合い、前言を翻すように放ちます。
  "Rome! by all means Rome.
   I will cherish my visit here in memory as long as I live"
二人にしか分からないやり取り。そしてアン王女はステージから降りて記者団と接見。束の間の再会が終わり、振り向くことな くステージを去る王妃。最後の一人になるまで見送ってから会見場をあとにするジョーの姿をズームアウトしなが
ら映画は終わります。
 なぜこんなセリフまで覚えているかというと、この映画の台本を買って持っていたからです。もうひとつ私が持っている台本に は「カサブランカ」があります。これも何回観たことか、そして要所要所の台詞を私は覚えています。シャンパングラスを差し上 げ、ボギーことハンフリー・ボガードがイングリッド・バーグマンの眼を見ながら発するちょっと分かったようで分からない一言。
  "Here's looking at you, kid"
これを翻訳家の高瀬 鎮夫が、 "君の瞳に乾杯" と訳してスーパーに入れた話は有名です。

 何を一人で悦に入っているのかと言われそうですが、同年代の諸氏には、こうした名画のいくつかに抱く懐かしさを
共有しているのではないでしょうか。私は語るに足るほど映画通ではなかったのですが、高校時代から、期末試験が
終わると、さてこれはと決めていた映画を観に映画館に行くのが唯一の楽しみでした。今と違って、娯楽と言ってもさほど選択 肢がなかった時代です。大勢の若者が同じような経験をしているでしょう。私にはそうした時代が大学まで続い

いたと思います。映画で言うと50〜60年代の作品が中心となるでしょうか。「カサブランカ」だけは、なんと私の生まれた年に 作られたもので、私がこの映画を初めて見たのが40台になってからだったか。時代的にはちょっと例外的なも
のです。今にして振り返ると、当時は感動的な映画、文句なく面白い映画、人間味あふれる映画がたくさんあったように思え ます。大画面の迫力とかCGや特撮などのヴァーチャルな技術が確率されていなかった時代です。それに、現代の人間社会 のように複層化して陰鬱な面は少なかったように思えます。いい監督が撮る映画は決まって面白かった。時
にオシャレで時に涙を誘い、時にくすりとさせる・・・こういう感覚を一言で言い当てるのは難しいのですが、"粋であっ
た"というのはかなり近い感覚のように思えます。映画を観ることが、美味しいお酒を飲んでいる時間と似たような、そ
んな"粋"な映画など、最近お目にかかることはなくなったように思えるのは私だけでしょうか。
 
         
     記者会見のラストシーン             西部の荒野を眼下に主演の2人(ジーン・シモンズとG・ペック)

 さて、上に書いた「ローマの休日」は、名匠ウイリアム・ワイラー監督によるものです。この監督作品で他に私の好きなもの は「大いなる西部」があります。これまたG・ペック主演でしたが、ワイラー監督はこの俳優がお気に入りのようです。それまで の西部劇にはなかった状況の設定や登場人物、ストーリーの展開があって、そこが新鮮で観る者を引き
込ませました。特にあのカメラワークは絶品! 当時主流となりつつあった横長画面の利点をこれほど引き出した映画はなか ったのでは・・とおもえるくらい、文字通り大いなる西部を感じさせるものでした。新人として登場したチャールトン
・ヘストンも好印象。
 W・ワイラーとちょっと紛らわしい名前の監督がビリー・ワイルダー。この人の映画ほど粋という言葉が似合う映画はないかも しれません。「昼下がりの情事」はその代表格。これまたヘップバーン演じる音大生とゲイリー・クーパー演じる渋さ満載のプ レイボーイのラヴコメディーで、解説やコメント抜きでただ観て楽しめばいい、そんな類の映画でした。
"ファッシネーション" の甘いメロディーも印象的。ビリー・ワイルダーは他にも名作がたくさんありますが、「翼よ あれ
がパリの灯だ」も文句なく傑作。映画の大半が狭い単発機"The Spirit of St.Louis"号の操縦席という設定で、そこで
演技するジェームス・スチュアートも絶品。 観客は主人公のリンドバーグと2時間余りをともに過ごした気分となるので
した。渋くていい男優が大勢いたのですね、当時は。「アパートの鍵貸します」や「お熱いのがお好き」なんていうのもあ

ました。

      
   発車直前のホームでのラストシーン      J.スチュアート演じるリンドバーグとSt..ルイス号の操縦席

 両監督ともモノクロで普通サイズの画面がまだ主流だった時代に、絶品とも言える作品を残している一方、シネマスコープ に代表される大型画面が幅を利かせる時代に入ってからも、その味を引き出した名作を残しているという点で、名手としての 力量には共通したものがあったと思います。
 監督で言うと、この二人に次いで私があげたいのがジョージ・ロイ・ヒル。時代は少し下ってからの「スティング」とか「明日に 向かって撃て」(後者の原作名は、"Butch Cassidy and Sandance Kid" )が逸品でした。両作品とも面白い、の一語に尽きる と言っていい娯楽映画なのですが、映画全体にまた旨い出汁が効いている上等な演出を指摘しておきたいところです。その 味気を分析すると、やっぱり滲み出る人間臭さというところでしょうか、いやだからこそ面白いと言い換えていいかもしれませ ん。両作品で主演しているポール・ニューマン、さすがですね〜。

     
      Butch と Sandance             回転する宇宙ステーションとそこに接近する宇宙船

 番外編として、ハワード・ホークスの「リオ・ブラボー」、スタンリー・キュービックの「2001年宇宙の旅」をあげておきたいと思 います。前者は全編に隙間なく西部劇の面白さを盛り込んだ映画。後者は一種のショックを感じさせる近未来のSF映画でし たが、もうSFというジャンルを越えた名作と言えるでしょう。アーサー・C・クラークの原作も十二分に面白いものでしたが、そ れを超える魅力を映像化して見せた点が特筆ものです。あの人類の祖先が戦いに勝って空高く放
り上げた武器、そこから画面が一瞬宇宙に転じ、武器の回転が宇宙ステーショの回転に変わるあのシーン! これぞ
映画映像としての白眉と言えるもの。背後に流れ出した"美しき青きドナウ"も、人類史の大きな転換点に詩情を添える心憎 い音響効果でした。

  結局のところ私があげた映画はすべてハリウッド映画です。ヨーロッパの映画にはある種ほの暗い雰囲気があって、私は そこに浸るまで大人ではなかったのかもしれません。日本映画となると、こうした作品以前の小・中学校の頃
に観た木下作品などを思い出します。むろん時代がぐっと下がっての黒澤作品は言うまでもありません。
 アメリカ映画は、かつて海の向こうの世界への憧れもあってか、そこに観ていたものは現在とはまた違ったものであったし た。今よりもずっと大らかというか,アメリカ人特有のフェアネスとかフランクな精神が描かれていたと思えるし、つ
まりはそこに、古き良きアメリカを若い自分は観ていたと言っても過言ではないでしょう。あれやこれやと、勝手に書き
連ねてくると、"ああ、映画って本当にいいものですね" と言ったかの評論家の言葉を思い出します。繰り返しますが、
私は決して映画通を自認するほどたくさんの映画を観てきたわけではありません。それに、社会人となって以降は、殆
ど映画館に通うこともなくなりました。たまに映画を観るといっても、それはTVでという調子できています。にも拘らず、
当時の映画を振り返っていると、やっぱり映画はいいもの、いやいいものだった、輝いていた・・・と同じセリフを持ち出
さないわけにはいかないのでした。



〇 "春よ来い"の続き(3月6日記)

 上のように書いていた矢先、わが身辺にも影響が出始めました。先ごろの学校全面休校に続き、北杜市は総合会館や資 料館、図書館なの施設を一斉に臨時休業としたのです。20日までの措置、その後はどうなるか誰も知る由がありません。私 が教室に使っていた場所がクローズということなので、冬期の水彩教室も自動的に暫時休止となりました。
さてその先、まだ時間はあるのですが、個展の期間である5月末からの状況がどうなっているか、気になるところです。これま た不透明ですので、当面模様眺めしかないのですが、個展となるとその準備に踏み切るタイミングもあるので、
4月の中頃までには趨勢が見えていないと困ることになります。場合によっては見切り発車で準備を勧めざるを得なく
なるのかも・・・。ま、仕方ないか、せめて作品だけは描き続けねば、と思っているところです。
 こんな社会情勢なのに、サクラの開花は今年もまたやってきます。9年前の大震災後のことを思い出します。あのときも自 然は酷極まりない面を見せる一方で、希望の光も見せてくれます。今年の開花、東京では早ければ15日頃とか。寒冷地たる 当地の開花となると、そこから2週間ほど遅れますから、4月に入って直ぐという感じでしょうか。その前に
冬枯れの森に白いコブシが・・・例年だと、ああ春だ〜という嬉しい気持ちが膨らむのですが今年は複雑。こんな事態
の最中で、暖冬による記録的に早い開花とは皮肉としか言えません。"春よ来い"は、新型ウイルス終息のサインこそ 
"早く来い" となるのが、全国民に共通した願いだと思います。サクラやコブシの開花が、そんな希望をつ告げてくれる
ものだといいのですが・・・。



 "春よ来い早く来い" の季節なのに(3月1日記)

 一つ前のノートに書きましたが、このウイルスの切迫感は、以後10日間を経て、こんな山の中でも他人事にしていて
はいけないのか、などと思い始めています。いろいろ言われていることに対して、私は定見を持ち合わせているわけではない のですが、一体世の中、何が正しくて何が見当違いなのか、一向に見極められないままです。しかし、それなり
の視点というものは持っている積りです。
例えば;
 ・政府の危機管理能力というものがこの国ではこんなレベルだったのか・・・
 ・未だに省庁横断型の危機管理体制が引かれていないのは何故なのか・・・
 ・どんな情報も悉く取り立てて囃し立てるようなマスコミ報道は冷静に接するべきでは・・・
 ・この危機的状況下で、議会は何をしていたのだろうか、これは与野党ともに大いに責めを負うべき問題では・・・
 などなどで、わが身に振り替えれば、自己管理をちゃんとしていたかという反省を戒めとして、手洗いとマスク着用は
心して実行せねばと言い聞かせているところです。
 わが山梨県においては目下のところ感染者ゼロなのですが、これは検査能力に限界があるためかもしれません。大体にお いて医療も先進レベルのはずのこの国で、検査能力が低いレベルにあるという実態とは何を意味しているので
しょう? あるいはまた、保守的な厚生行政が壁となって、海外や民間からの技術活用を十分になし得ていないという
指摘がありますが、この通りなのか、疑念と同時に落胆を禁じ得ません。

 再び我が身を振り返って書きますと、幸いこの北杜市には満員電車はなく、長時間の混雑に身を晒すといった状況は、何 かのイベント以外は通常あまり存在しません。何しろ、東京都の23区といくらも変わらない面積に、住んでいるのが5万人とい った極めて希薄な人口密度です。スーパーに行ってもマスクをしている人の方がはるかに少ないといった
状態で、だからいいのだという訳ではありませんが、どうも切迫感には欠けます。唐突な号令で公立の学校は春休み
突入となりましたが、他には本件に関する市からの伝達は特になく、世の中これからどうなっていくのか、まだ様子見というの が実態でしょう。ただ、甲府の県立図書館は3月20日までの臨時休業をすることになりました。わが北杜市でも市立図書館 はクローズしていると聞きますが、これが市のHPでは何の告知もない(何故なのか?)ので確かめようがありません。私として は、まだ先の話ですが県立図書館の休業がずっと続くようだと、5月末からの個展開催も危ぶまれ
てきます。もひとつ、現在進行形の冬期水彩教室について、現状では会場たる市営の総合会館には使用を制限するような動 きは皆無ですし、そもそも7人という少人数で、使用する会議室は広くて常時換気しているし、あと二回で終わるし・・・というこ とで、目下のところこのまま続けていく積りではいます。
    
 そんなこんなで、そろそろ春の兆しが漂い始める時節なのですが、どうも"春よ来い、早く来い♪"と言ってもいられない、と いうのが山麓住民に共通した心情でしょうか。


〇 2月はなかなか気が晴れません(2月19日記)

 2月、今年は閏年なので 29日まで。この2月というのは毎年どこか鬱陶しく晴れ晴れした気分でいられないのは、私だけで しょうか。それは冬最中といった理由ではないのです。ごく個人的には、結婚記念日とか妻の誕生日とか、微妙
な記念日がこの2月に集中しているし・・・。それに何と言っても、確定申告をしなければならないという煩わしさ、これが結構 プレッシャーとなるのです。ここ数年はネット申告にしているのですが、じれは便利な反面、ネット上でのトラブルは私に遭遇す ると私などには手に負えなくなり、これだけでストレスが溜まります。もうかれこれ20年以上、私は青色の
事業申告をしていて、それは私が絵に係る仕事をしてきたからで、昨今はこの仕事も事業と言うにはほど遠くなってき
ました。節税を期すだけの事業所得があるわけではなくなったのですから、こんな手間とも今年を以てもうオサラバしたいと考 えているところです。
 私は去る2年間、どういう風の吹き回しか、2月には結構長期の手術入院をしていました。入院の原因となった疾患
は概ね取り除かれたので、その意味では今年は解放されて晴れ晴れと過ごせたわけではあったのですが、今度は世
の中、あの新型コロナウイルス騒ぎです。これがどうにも人々の不安を煽り立てています。それは山梨の片田舎と言っていい 当地にしても然りで、このパンデミックは大きな壁となって、人々の安んじたいという気分の前で立ち塞がってい
ます。一刻も早いウイルスの終焉を期待するしかありません。

 こんな事態が進行中の2月、当家ではエコキュートの調子がおかしくなるという、ちょっと厄介な問題も生じました。ど
ういう理由か幸いまた動き出したので、事なきを得たのですが、チェックしに来てもらった業者曰く、この設備は2004
年製で、もう部品もないとのこと。故障したら設備を入れ替えるしかなく、取り換えるまでの期間、お湯は出ない、お風
呂もダメという、寒冷地にとっては一大事になりかねないというわけです。ここ小淵沢に移住して15年、この間私ら夫婦はもう 喜寿を迎えていろいろ思うに任せない年齢となりました、しかし疲れてきたのは人間だけではなかったのです。つい先日は、 合併浄化槽のポンプがダメになって、これまた部品がないのでまるごと新品に取り換えたばかり。建物の外装を手直ししたの が2年ほど前だったか、ウッドデッキも何枚かの板を張り替えねばならなくなっています。15年ね〜、そういう歳月ではあるわ けです。

 まだまだ続く2月ですが、今秋は絵の方では冬期教室が始まります。絵に関連しては、ある会報への記載とか、初めての新 しい引き合いをもらったりで、新しい動きもあったりしています。そしてまた、5月末からの個展を控えて、新作への取り組みに も熱を入れねばなりません。そんなこんなで何だか結構忙しい・・・。だったらこんなこと書くな、と言われそうですが、これもま た気分転換。お付き合い下さり、ありがとうございました。

ps. @ 結局は、エコキュートの設備をまるごと新品に入れ替えることにしました。トホホ、金かかる〜〜。
    A 確定申告はある数字待ちで、それが出次第、即手を付けねばなりません。



〇温暖化の話題をちょっと(2020年1月19日記)
 
 暖冬と言われていますが、その傾向は顕著で、もう大寒だというのに、今冬は身の切れるような寒さはやってきてい
ません。雪は降るものの、これまでのところはさほど積もらないまま。こんな冬なので、スケッチは結構ドライな感じの絵が多く なっています。雪景色の絵ということになると、どうしてもこれまで撮りためた画像の中から選んで絵に描き起こすことになりま す。例えば、昨日アップした「八ヶ岳日和」、これは2012年に撮影したものがベースです。過去の写真をあさっていると、雪景 色を結構ふんだんに目にして、これが冬の姿だと改めて思わされます。県下に限らず、各地のスキー場でも雪不足が顕著の ようで、関係者は大変だ。しかし、本当に懸念されるのは春以降の水不足という問題です。大
陸の高気圧の押し出しが、日本海を渡って対馬暖流に温められ、日本海側に大量の雪を降らせる・・・とこれは日本の水が めを潤してきたメカニズムなのです(受け売りですが)。このメカニズムを狂わせている原因は、昨年から観測されているイン ド洋西域での海水温上昇という異常現象にあるといいます。これが偏西風の流れを押し上げ、日本への寒
気の押し出しを弱めるとともに暖気の押し上げをもたらし、日本に暖冬をもたらす一方で、この地球規模での大気の対流の 変化が豪州での異常乾燥を招いていると言うのです。このまま往くと、日本では雪解け水もまた乏しい事態となると、美味しい お米もお酒ももちろんのこと、日本人の生活全体を脅かす事態ともなりかねません。

 異常乾燥に見舞われているオーストラリアはどうなっているのか。TVを観ていると、これはもう信じ難い光景と言えます。私 は4年ほどシドニーに駐在した経験があり、仕事上小型飛行機を利用することが間々ありました。夏だとシドニーから内陸に 向かう機上からは、見渡した風景のどこかで必ず煙が上がっていたものです。ユーカリは油分を多く含む樹で、夏場は樹がこ すれて摩擦熱が山火事を誘発するのは日常茶飯事です。焼け跡からは新しい草木の芽吹きが促されますので、山火事自体 は森の更新を図る自然現象なのです。しかし、たまに都会の近郊とか生活圏に火の手が及
んだりするとTVの映像などでその恐ろしさをまざまざと見せつけられたリもしました。それが豪州全域に及び、日本の
半分に当たる面積を焼き尽くしたとなると、これは尋常ではありません。消化活動も限界を超えていることでしょうし、気象衛 星で煙が太平洋を越えて南米にまで流れる映像を見ると、まさしく想像を絶するものがあります。そんな最中、豪
州の首相は海外で遊んでいたとか。どこかの県知事を思い出させるような失態は、よその国ながら失笑を通り越して
憤慨を禁じ得ません。コアラやワラビーなど小動物の大量死も悲惨です。どうにかならないものか、他人事とは思えな

異常気象です。

〇いろいろな高原の朝です。
 暖冬とは言え、冬は冬。この辺で冬の日の朝の表情を何点かご紹介させてもらいます。冷え込んだり、朝焼けがあったり、 降雪明けだったり、どピーカンだったり・・・・高原の朝はバラエティーに富んでいます。むろん、どんより雲のたれ込めた朝も ありますが、そういうのは写真に撮らないので、ここには載っていません。それと、毎日早起きとはほど遠い生活習慣上、朝 の写真と言っても、かなり遅い朝のものが多いことをお断りしておきます。

   
  
  
  12月23日、今期初めて行きらしい雪が
  積もった朝、餌台や梢にヤマガラが
  やってき  ました。
 

 1月8日は一面の霧が徐々に消えて雪
 いつもの光景が浮かび上がってきました。

   ←
   左2点は1月11日。早くから快晴の空に薄く
   刷毛で掃いたような巻雲が。右の写真は
   我が家上空の空。
   この雲は天気が下り坂になる前兆とかで、案の
   定、昼過ぎには暗い空に一転しました。


 
 左右2点は1月12日
 
 ←
 東の空はきれいな朝焼け。
  →
  南西の甲斐駒ヶ岳は、朝陽
  を受けて徐々に白く変化して
  ゆきます。


  ← 1月19日
  山は雪だった朝、八ヶ岳が
  一段と白く輝いています。

  → 1月22日の朝
   上空にうっすらと高積雲が。



  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



〇 振り返る‥というほどの2019年でもありませんが(12月31日記)

 振り返る? と言っても一々振り返っては反省し来るべき年に期す・・・かつてずっと以前までは、そんな趣旨で年末が来ると 一年を振り替えたりもしましたが、ここに記すことは決してそんな調子のものではありません。まあ何とはなし、何歳になっても 大晦日は年の区切りではありますので、強いて言えば、書いておかないと忘れてしまいそうだから書く、といった程度のことで しょうか。

 前置きはこれくらいにして、我ながら笑ってしまう話からです。つい昨日のこと、このHP冒頭で"来年(2020年)は喜寿
を迎える年なので、久しぶりに個展を開催する予定です"といった趣旨のことを書き入れました。それで今ふと思い返すと、い や待てよ、今年(2019年のことです)喜寿になったのではなかったか? という疑問が過ったのです。そう言えば、11月の高校 時代のクラス会の案内に、"喜寿を記念して集まりましょう! と書いてあったぞ! 念のため一歳年下の
妻に確認すると、これまた一瞬考えて、私はいま76才よと言います。そうでした、私は去る5月に77才になったのでし
た。だから来年は喜寿でも何でもない78才・・・う〜んそうか。何だか損をしたような気分で、慌てて冒頭の一文を書き換えた 次第です。

 最近はこの1年と言っても、そこに何があったのか、"あのこと"は今年のことだったか? と確信が持てなくことも多い
のですが、やはり手術をしたことは忘れがたいエポックであります。一昨年のペースメーカー挿入に続き、今年の2月には白 内障と緑内障の手術を両眼とも受けました。2週間の入院というのは、さすがに記憶が薄れることのない経験で
す。他人から画家は眼が大事だからね〜、とよく言われますが、いま振り返ると、目の手術をしたから絵が描き易くな
ったかというと、どうもそんな調子ではないのです。先天的な問題と年齢という問題もあったので、私の場合は手術をしたから と言って、劇的な見え方の変化があったわけではありません。術後も依然として眼鏡は欠かせませんし、まあ、
遠くを見るときに、手術前はメガネでもすでに度が出得ないところまで来ていたこからすれば、術後はメガネで一応人
並みに近い視力を得たということはあります。だから絵が描き易くなったかというと、それはある程度そうだとしても、だからも っといい絵が描けるようになったかというと、それは素直には肯定しねるところです。それよりも・・・とここからの
方が大事なのですが、手術を挟んでひと月余りは、術後に絵がちゃんと描けるようになるか?といた不安があった分、それが 取り除かれると自然とエンジンがかかったという部分は大いにあります。見え方が変わったと言うよりも、とにか
くエンジンがかかったのです。ですので、結構意欲的に制作を続けられました。来年の個展(5月30日から6日間)は、
主としてそんな期間に手掛けた作品が多数入ってくる予定です。何が言いたかったかというと、目が良く見えることといい絵が 描けることとの相関よりも、やはり気分というか気力のあり方と、絵心を触発しそれを掬い取る神経回路との相関の方が大き いということでした。

 先述の手術とも関連して何かと医者に通うことが多かったというのも、この1年のことだったでしょうか。眼に続いて歯
とか鼻とか、服用している薬の数とか、Pメーカーの方はい未だに定期検診もあって、年寄の集まりというと、診察券の数を競 い合うといった半分冗談のような話が、まさしく現状でありました。同年輩でも私よりははるかに少ない診察券しか持っていな い人を見ていると、私ももうちょっとましになりたいと思うものの、妙案はないままです。身辺に限らず、TVなどをみていると世 の中健康ずくしといった感があり、健康ケアー総覧といった風潮がますます強まっています。日本
ほどこの健康問題に神経をとがらす国はないようで、健康増進・改善のための秘策はTVでは引きも切らさず放映され
ます。こういう番組を担当している関係者たちが、放映する通りを実践しているなら、彼らには健康問題など存在しないという ことになるし、視聴者もTVを神のようにあがめて健康法を実践したら、最早この世から消えてなくなるのではないか。そのよう にも思われるのですがしかし、世の中どうもそのようになっている風でもでもありません。海外で先端の西洋医学を学び、のち に漢方を研究してきた偉い医師が、"病は気から"に言及していた文芸春秋の下りが印象的でした。英語ではこの"気"に当 たる言葉がないそうで、しかし結局、この"気"の大事さというところに帰着する問題がいか
に多いか、そのことを改めて強調していたのでした。そう言えば、周りを見ていても、健康などどこ吹く風、とやりたいこ
とに熱中している人ほど健康だ、という傾向は確かに指摘できそうです。

 確かに、身体のことにあれこれ気を遣っている分を、やりたいことに嬉々として注入している方が、心身相俟って健全である ことは確かでしょうす。先に触れた絵心、これに気を注ぎ続けていられる年を送りたい・・・どうもそこに、言いたいことは帰結 するようです。

 もっといいことを書きたかったのですが、どうも内容の伴わない愚痴っぽい話ばかりでした。
 これをご覧の皆様には、どうか2020年が健やかでよい年でありますように。






〇 二つの遠出(12月13日記)

 12月に入って県外への遠出の機会が二度ありました。一度はかねてより計画されていた伊豆への一泊旅行。もう一つは 先月も立ち寄った伊那、そこで他界した地元友人の奥様のお参りをするためでした。旅の目的は別にして、以下は遠出の際 の印象記です。

・伊豆

 伊豆と言っても一拍だったので、伊東から修善寺辺りにかけての地域限定旅行。河口湖経由で伊豆半島に入ったのです が、途中フロントガラス越しに広がった富士山は圧巻でした。考えてみると、いつも富士山を見るのは山梨県北西部の隅、千 メートル前後の高い標高の所からです。直線距離にして80`くらい。それでも御坂山塊の上からかなり立ち上がった姿で、 人間で言うと膝から上が見えるといったところでしょうか。だからかなり裾野をひいてゆったりとは見えるのですが、河口湖畔 に出るとこの大きな富士山! もう裾野である足元から全体が眼前に広がっています。積雪の境目もはっきりとしたコントラス トで、やっぱり富士山は日本一の山という、もう否応なしの感慨を新たにします。
 そこから強羅、御殿場経由で伊豆半島の東岸に出て、実に久しぶりに海を目にしました。ちょうど1年前の12月に福井県で 海を見て以来。ここが山梨県人たる所以で、以降ずっと内陸を行ったり来たりしていたわけです。この日の海は凪いでいて、 駿河湾の向こうに三浦半島、さらにそれに重なるようにしてうっすらと房総半島の山並みが水平線状に浮かんでいました。1 2月の海と言っても、これといった装いは認められるわけではないのですが、伊豆の海岸線を覆う森や山間には幾分秋が宿 っています。幾分というのは、常緑樹が多いせいもあって紅葉というには憚れるくすんだ茶や緑の色相という程度の秋で、そ れが伊豆の海岸線を縁取って続きます。心配された風も穏やかで、伊東のヨットハーバー外周を散策したときなどは、12月 を忘れるほどの穏やかな陽射しでした。


河口湖を過ぎた辺り、車窓一杯に富士山が。


駿河湾は凪いでいました。
 伊東で一泊の後、修善寺へ立ち寄りました。南国伊豆とは言え修善寺は半島の内陸、ここまで来ると周りの山肌も幾分色 づいているようでした。と言ってもやはりくすんだ黄茶系。私は幼少の頃房総半島に住んでいて、そこで何回かの秋を過ごし てきたのですが、どうも黄葉とか黄葉という印象は残っておらず、海沿いの秋とはこんなものだったのかも知れません。それ でも修善寺の中心部を縫う流れ沿いや修善寺境内はモミジが彩を添えて、初めて秋の最中にいるという感じを抱きました。


修善寺の川沿いの遊歩道は紅葉が見事
修善寺の鐘楼は背後に竹林、手前に紅葉 →

 昨今どこに行っても観光地は外国人だらけと言いますが、ここ伊豆の代表的観光地と言っていい修善寺では、外国人は多 いもののさほど気になるほどではありません。しかしここでも、あの竹林の中の遊歩道では、中国人一行が平気で竹の柵をま たいで中に入り込み、写真を撮っている光景をみかけました。京都はこんなものではないようで、つい先ごろ京都に行ってい た同行した夫妻によると、京都の観光客は7割が外国人、その7割を中国人といった感じだそうで、彼らの目に余るマナーに は気分を害するそうです。文化の違いもあるでしょうし、観光会社もそれなりの対策を払ってはいるのでしょうが、こうした光景 を目にするにつけ、政府の観光政策(2020年4千万人、8兆円のインバウンド効果)はこのままでいいのだろうか? という 疑念を禁じ得ません。経済面のみを念頭に、おもてなし云々を囃し立てるイケイケどんどんは、成熟した文化国家のやること なのか? 想いはそちらの方にも飛んでいくのでした。

・伊那

 ♪風か柳か貫太郎さんが・・・。伊那と聞いてこの歌が思い浮かぶ世代とは、私などの世代が最後くらいでしょうか。その伊 那に山菜やキノコ採りに通い詰めたのは、もう30年ほど前から二十数年ほど続いたでしょうか、そこで知り合った地元のKさ んは、後に山菜の師となり、私の仲間ともども毎年春には伊那の山野を楽しんだものでした。先月他界されたKさんの奥様の ご霊前にお参りをするため、妻と伊那を訪れました。いつも中央高速で岡谷のジャンクションを過ぎ、南下するにつれて左右 に広がってくる伊那谷と、その両サイドにせり上がった二つのアルプスの峰々は、ああ伊那にやってきた、という感慨をもたら してくれるものでした。その同じような感慨に浸りながら伊那のICに近づくと、左手天空には甲斐駒から千丈にかけての南ア ルプスの秀峰が近づいてきます。所々雪の沢筋を伴って、それらは右側に見えてくる中央アルプスのこれまた雪を頂いた 峰々とゆったりと対峙して伊那谷の広がりを形作っています。こうした地形は山国長野県ならではのもので、信州人の暮らし と風土を築いてきた要素と言えるでしょう。長野県に足を踏み入れると、いつもこういうことを感じずにはいられません。

 束の間の旧交を温め、故人を偲んでから、私たちは足早に伊那を後にしたのですが、帰りしなに農産物直売所で新装なっ たグリーンファームに。ここは高台にあって伊那谷を見下ろし、対岸の南アルプルの山々を見渡せる場所で、伊那と言えばこ の風景ともうすっかり私の中で定着している所です。この日も秋晴れの空の下に名だたる山々が鎮座していました。これを読 まれている方の中には、もう辟易とされている向きもあるでしょうが、性懲りもなくそれらの秀峰を左手から連呼すると、甲斐 駒ヶ岳(信州では東駒ケ岳)、仙丈ケ岳、その右斜面にチラッと北岳、それに連なる間ノ岳、農鳥岳、右手方向にやや距離を 置いて塩見岳、さらに南にうっすらと、これは東岳とか荒川岳、そして赤石岳・・・。それらの雪を頂いたピークが居並んでいる 様を一望できるのです。それが伊那! いいですね〜。私は山登りとはもう縁がないものの、こうして山を同定して名前を言う のが大好きで、それは昔のアルバムをめくって友の名を言い挙げるのと似た感覚です。今名前をあげた山々は甲斐駒を除 いてすべて3千メートル超の高峰。日本の屋根とはこちら南アルプスの方がそれに相応しい気がします。

伊那谷を挟んだ対岸に横たわる南アルプス。左手
一群のピークの中に甲斐駒、中央に堂々と千丈岳、右
手に北岳、間の岳、農鳥岳と続く白根三山が。


 "天空に 雪の峰あり 伊那路かな"

先輩である友人がずいぶん前に詠んだ句で、伊那と言えば思い浮かぶことのひとつです。故人を偲んだこの日に重ねて、何 だかいろいろ思うことの多い伊那行でした。



〇 往く秋点描(11月23日記)

 11月も下旬にかかり、庭の樹々には枯葉が僅かに残るだけとなりました。ここにきて氷点下の朝も増えてきて、もう冬タイヤ 装着のタイミングを計る頃合いです。鮮やかだった紅葉が残像化していくにつれ、長い冬の足音が増してきます。師走という 言葉を聞くのが嫌だという友人もいて、確かに往く秋と老人の心は、どこかもの哀しくシンクロするようで、同じ年齢として私も よく分かります。そこにいくと、若いもんは師走と言えばクリスマスのときめきなんかとシンクロしたりするのだろうか。そう言え ば、もう死語となったかもしれない"女心と秋の空"、その女心は師走になるとやっぱりクリスマスの華やぎに心惹かれるので しょうか。何を今さら老人がほざいているのやら、と言われそうですが、最近は若くてこもりがちな人も増えているようだし、み んながみんな同じように浮かれた心持とは言えない世相というものもまたあるのでしょう。まあどうでもいいことではあります が・・・。
 以下、何点か高原の往く秋点描です。全てスマホでの撮影です。


秋によく見られる巻雲、この日は一筋
空を仕切るように浮かんでいます。
11月18日




新しい餌台に今期初めてやって
きてくれたヤマガラ。
11月13日

←キツネも餌を探しに人里に。遠くから
 カメラを向けると、いっとき警戒してから
 走り去っていきました。 11月6日

我が家西隣の畑地も耕起を終えて
冬支度。コナラも色褪せてしまいました。

11月16日

坂の上のコナラ、黄葉が最後の
輝きを放っていました。 11月17日

甲斐駒は既に晩秋の色に。
11月21日
  八ヶ岳が茜色に染まる日暮れ時。  11月15日



○今年の紅葉は冴えず、それでも秋点描(11月2日記)

 一言で言うと、今年は冴えない秋でした。毎年同じようなことを言っている気がしたので、このFノートを遡って読み返してみ ると、紅葉が鮮やかだったのは2015年の秋で、それ以降は秋口の長雨とか、10月に入っての台風や日照不足などの天候 不順で紅葉が遅れたり、やってきても冴えないといった記述ばかりでした。それでも昨年は少し好転したようで、10月末に行 った瑞牆山周辺の鮮やかな紅葉は印象的でした。それで今年は、と言うと、複数の台風襲来による記録的な降雨量をはじめ とした異常気象の影響で、かなりのところ壊滅的と言っていいほどの状況です。色付く前に枯れたり、色付いても冴えない色 調だったりで、紅葉を愛でるといった日本古来の風習が、この分だと相当程度薄まっていくのではないか・・・そんな危機感さ え覚えるこの秋です。さはさりながら、例年のごとく写真を撮ったり絵にしたりと、私は執拗に秋を追い求めている昨今です。 ここだけ見れば秋・・といったスナップを何点か載せてみました。




施設内で見かけたガマズミの実、よく
手入れされているらしく深い赤味です。
(10月22日)


当家の庭にあるジューンベリー。
(10月23日)


当家西側の畑地にあるシラカバ。茶がかった
黄葉でスガ、空だけは秋晴れ!(10月25日)


ツタウルシはいつもの様な色づき具合。
(10月28日)


野辺山高原の空。空だけはいつもの
秋のうろこ雲(10月30日)


野辺山のふれあい公園。一番綺麗な所を撮影
(11月1日)
**上の写真は全てスマホで撮ったものです。スマホ独特の絵ハガキ的な彩度と目鼻立ちのはっきりした写真となっています。



〇 秋の伊那路へ(10月25日記)
 21〜22日、秋の伊那路を訪れました。友人夫妻と南アルプスや中央アルプスの雄大な展望を大いに期待してのドライブ 企画でしたが、二日間とも天候思わしくなく、また10月下旬になっても秋の深まりはまだ先のことで、台風19号の爪痕も残る 伊那路でした。ですので、食や買い物主体のドライブとなってしまいましたが、今回はそれなりに発見も多く、伊那地方の奥深 さを垣間見たドライブ旅でもありました。
 一日目は杖突峠を越えて高遠から長谷村へ。その先は国道152号線を南下して大鹿村へ。そして中川村経由天竜川を渡 って、この日の宿のある駒ケ根へというルート。二日目は駒ヶ根〜伊那市一帯をうろついて、郷土の土産物を物色するといっ た旅の粗筋です。

 その一日目、大鹿村への国道自体が狭い山道ですが、途中いくつかの林道に入ってみることが目的の一つでした。それで 鹿嶺高原への林道、南アルプススーパー林道方面への林道と、二カ所を試みたのですが、どちらもが台風19号による土砂 崩れや林道自体の崩壊のために途中で行き止まり。いずれも入口にあった通行止めのたて看板が道路わきに置いてあった ので、入れると思っての試みでしたが、車窓から見かけたダム湖や国道沿いの川には流木があちこちに散らばっていた様子 から、この日の林道ドライブは諦めざるを得ませんでした。周囲の森はちょっとだけ色づき始めた程度、紅葉には早かったよ うですし、この先は事前にチェックしておいたスポットを含めての行きあたりばったりのドライブとなりました。以下、順番にちょ っとだけ触れます。
・分杭峠
 ここはゼロ磁場として有名なパワースポット。狭い道を辿った山中なのに、中には団体客もいたようで結構大勢の人が訪れ ていました。ゼロ磁場による気場?・・・なぜこれがパワーとなるのかは分かりませんが、熱心にパワーを浴びたがって人がな んと多いことでしょうか。私たちは感心しつつただ走り抜けるだけでした。

・中央構造線の露頭
 国道沿いに北川露頭という表示があったので、地質好きの私としては是非とも一見と立ち寄ることに。駐車場から3分ほど 下った川べりの土手にその露頭が見えました。写真の赤茶けた所から左手が内帯、右側の黒い所が外帯。日本列島が未だ 大陸の一部であった頃、南からせり上がってきたプレートが大陸に衝突したその断面が中央構造線と称する断層で、その境 目から大陸側にあった部分が内帯、あとで引っ付いた部分が外帯というわけです。日本海ができるはるか以前、1億年前と いう地質スケールの変動を刻んでいる場所ということで、こういうところに地質のロマンがあるのでしょうか(とか言って、私は 本でかじっただけのファンに過ぎないのですが)。
      
 国道沿いの河川には流木が一杯        中央構造線の北川路頭 赤茶けた色の部分右側に沿って中央構造線が。

・大鹿村のお蕎麦屋さん
 かねてより行きたかっ農村歌舞伎で有名な村。ここから鳥倉林道という道を上って紅葉と赤石岳などの雄姿を堪能すること が初期の目的でしたが、天候と道路状況からして今回はこれを断念。村のどこかで昼食ということに。道の駅で知った村の鹿 塩地区の山中にある"するぎ農園"という名前の蕎麦屋に行ってみると、これが大当たり!天井まで吹き抜けの民家で供する 豆腐や山菜、キノコなどを調理した小鉢のどれもが美味!お蕎麦は訊けばまだ新蕎麦ではないとのことなのにこの旨さと来 たら・・・! この店は国道から幾く曲がりも上がった山中にあるのですが、辿り甲斐があること請け合いです。この地区は昔 から塩の産地として、また鹿塩温泉としてもファンが多い所のようで、私らも時間があればゆっくりと留まりたかった場所でし た。ここでインスタ映えのするお蕎麦の料理の写真が載るところでしょうが、スミマセン、その用意はありません。
  
 大鹿村のお蕎麦やさん「するぎ農園」     中川村の片桐農園 台風で倒れたリンゴの木も。

・中川村にある果樹園
 大鹿村から天竜川に下る途中、中川村の片桐農園という事前にチェックしておいたリンゴ園に立ち寄ることに。辿り着くのに 苦労したこの農園、それらしき場所にはリンゴの樹々が茂っていたのでここと断定。電話をして家から出て来てくれた農園の 方の案内で食べ放題のリンゴ狩りをしました。食べ放題と言っても先ほどの旨いお蕎麦で満腹、夜はバイキングで好評価を 得ている宿の夕食が待っているので、もいだリンゴ(赤い宝玉)を一個だけ四等分して食しただけでしたが、その美味さに感 動。信濃ゴールドや信濃スイーツも織り交ぜて結構な量の土産を買い込む羽目となりました。

 そんなこんなで駒ケ根の宿に辿り着いたのですが、途中山中では何箇所もの治水工事の現場脇を通り、何台ものダンプカ ーとすれ違いました。台風のあとということもあったのでしょうが、治山治水にかけるエネルギーは膨大なものがあると実感、 TVで目にしていた災害の状況も重なって、これが山国日本の宿命かと思い知ったのでした。

 そして二日目、予報では終日雨だったので、この日はどこか屋内で楽しめる施設巡りしかないと思っていたのですが・・・。ち ょっと箇条書き風な旅の印象記です。

"駒ケ根リゾートリンクス"での食事
 ここのバイキング形式の夕食と朝食がまた絶品!これがこの宿を選んだ理由でしたが、料理だけでなくスタッフの対応も印 象的でした。エピソードを一つ。夕食時の最後に私はお茶漬けを食べたかったのですがそのオプションが用意されていませ ん。ご飯とお新香だけの茶碗を片手に、もの欲しそうにして立ち止まっている私を厨房から見かけたらしい一人のスタッフが やってきました。私の存念を伝えると、「お茶ですか、それともだしで?」との問い。私が「だしで」と応じると、それでは作ってき ますのでお席でお待ちくださいというではありませんか。この対応に私はすっかり喜んで、持ってきてくれただしをかけた茶漬 けが旨かったのは言うまでもありません。食事を終えた私は、厨房に"ゴチソウサマデシタ"と声をかけ、親指を突き上げたガ ッツポーズをしてその場を去ったのですが、明くる朝のこと。朝食を終えてから昨夜お酒をついでくれたフロアマネジャーらしき 人を見かけたので、「昨日はお酒、美味しかった」と声をかけると、嬉しそうにして「今朝は、お茶漬けは?」と返ってきたので す。スタッフ内で話が伝わっていたのでしょう、この一言にまたまた感心して、「このホテルは食事に関しては満点」と褒める と、彼も大いに喜んでくれたようでした。ただし、私は「食事以外は若干問題もありますが・・」と付け加えるのを忘れませんでし た。不満な点はあるものの、しかしそれは彼の守備範囲外のこと。そんな指摘をする私は、なんだか自分が三星なんとかの 隠れ調査員のように思えたりもするのでした。ここでも料理の写真掲載は用意していないので悪しからず、スミマセン。

・初冠雪の峰々
 この日は終日雨の予報だったのに、朝窓を開けて垣間見えた宝剣岳が雪を被っていた光景は印象的でした。出発後は幸 い雨も止んで空が明るくなっているようです。昨夜来の雨が山上では雪だったようで、この日は南アルプスも雲の切れ目から 白い秀峰が覗草間を見られたのはラッキーでした。赤石岳も光岳も白い姿で、どのピークも初冠雪だったのでしょうか、その 神々しさにすっかり魅せられてしまいました。帰ってからこの22日が富士山も甲斐駒ヶ岳も初冠雪であったことを知りました。 こちらの方は何点か写真を載せます。
  
 ホテルの窓から雪の宝剣岳が      雲間から赤石岳の勇姿が。大きな山です。    お昼頃には宝剣岳もくっきりと

・駒ヶ根から伊那へ
 この日訪れたのは、駒ケ根の養命酒工場とシルクミュージアム。そのあとは、伊那の市内へとへと農道を北上し、かつて遊 んだ小黒川の上流域やよく買い物をした野菜などの直売所であるグリーンファームに立ち寄りました。小黒川では、暴れ川の 本領を発揮するような激しい水量を横目に上流を目指すと、ここもまた土砂崩れによる通行止め。諦めて引き返し、向かった グリーンファームは、その変貌ぶりにビックリ! 聞けば今年1月からの新装オープンだったそうで、店の面積は倍増、小動物 に触れあえる一角も設けられ、相変わらず大勢の人が訪れる賑わい振りでした。
 伊那は北杜市からさほどの距離もない所ですが、訪れるのは何年ぶりのことだったか。かつて横浜にいた時代は毎春欠か さず伊那に行っていて知人もできたほどの土地なのですが、近くになってなかなか行く機会を逸していただけに、久しぶりの 光景が懐かしく目に映るのでした。

 新装なって大きくなった伊那のグリーンファーム



〇秋らしくない秋、進行中(10月18日)

 ここ2,3日、山麓では気温が下がって、当家でも今季初の電気ストーブを持ち出して使っています。10月半ばはこん
なものだったか、冷え込むのはちょっと早いような気もしますが、その割に秋が深まりつつある気配がとても薄いのです。富士 山の冠雪も、今年はいまだに観測されていません。例年今頃になると朱赤の実をたわわに付けた柿の木が目につくのです が、今年はどうも実は小ぶりで色もくすんだ感じのまま、柿は不作のようです。10月に入ってからはまた、大きな台風が続きま した。19号は市全域で一時避難勧告は出たものの、さほどのこともなく過ぎ去ってくれました。昨年同じ頃に来た24号のような 倒木や停電には至らなかったのは幸いでしたが、全国広範囲に河川の氾濫や決壊が続出して、改めて自然の猛威を痛いほ ど感じます。それとともに、これまでとは次元の異なる自然災害が常態化しつつあるという感はますます現実味を増したと言 えるでしょう。
 そんな中、一昨日は所用で甲府界隈まで出かけた折に、車窓から南アルプスや八ヶ岳の山腹を垣間見みると、おそらくは 千数百メートル辺りから上がやや黄ばんだ感じとなっている様子がうかがえました。何のかのと言っても、秋はすぐそこまで下 りてきているわけで、もう十日もたてば私たちの生活域周辺も秋の色味を増すようになるのでしょうか。こ
ういう時節は、外に出ても風景は中途半端なので、ついつい敬遠しがちとなってしまいます。良く見ればしかし、秋はそこここ にやってきているわけで、我が家周辺でも、栗の実は既に落ち切った感がありますし、サクラの梢もわずかに色づいていま す。我が家の庭でも、ヤマボウシの実が赤くなり、一番黄葉が早い部類の我が家のカツラの木は、既に黄
色く染まって、最近の台風で随分と葉っぱが落ちてしまいました。季節は早かれ遅かれ巡り巡ってくるという、ごくありふれた 結句となってしまうわけですが、その季節の巡り合わせをあと何回経験することやら・・・そんなことも頭を過るこの頃でありま す。



○ 八ヶ岳高原の空(10月7日記)

 この夏から秋口にかけて撮影した雲の写真を抜粋して載せます。
どれも、八ヶ岳高原の空に展開された雲のページェントです。
(写真に期した雲の名前はどうも自信がないのですが・・・。
  、

8月22日 薄日射すこの日、南アルプス上空を
覆う高積雲(・・・か?)

 8月29日 我が家上空
 に広がるこれは巻積雲?

9月3日 ソバ畑も花が咲いて白くなりました。
上空、山沿いに積乱雲の卵が並び立ちます。

9月3日 明野の田園地帯、色づき始めた稲田の向こう、
八ヶ岳は積雲に包まれて姿を見せず。

9月10日 この日は ドラマティック。
午前中はうろこ雲になりかけの巻積雲が。 

9月10日 お昼頃には一転、我が家南側の空は俄に
に騒がしく、モクモクと不気味なほどに積乱雲が湧き上がります。

9月10日 そして昼下がり。甲府盆地方面の
上空には今期最大級の積乱雲が出現!

9月12日 かなり秋めいて上空高く巻雲(すじ雲)が。

9月19日 もう刈り入れ間近の稲田。その向こう、
富士山上空には高層雲のたなびきから高積雲へ。

10月2日 日の出前、茜色に染まったひつじ雲(高積雲)。



○ 見上げてごらん、空の雲を(9月12日記)

 ここのところ、空が気になります。そこに浮かんでいる雲が気になるのです。秋の到来を告げてくれ留雲の表情、まだまだ夏 が終わった分けじゃないと言った雲の表情、そのどちらもが季節の移り変わりを雄弁に物語っていて、これも面白いのです。
 昨年の夏に友人らと、「最近は子供の頃に良く見たあの入道雲を見ていない気がする」と会話したことがきっかけで、ことあ るごとにそれらしき雲の出現にはカメラを向けるのが殆ど習慣化してしまいました。そうやって良く雲を眺めていると、いろいろ な雲の名前を知りたくなり、ネットで調べたりもしました。雲の名前と種類を記したサイトはたくさんあって、そのどれもが"小学 校の時に教わった…云々"と記しているのですが、どうも私にはそんなことを教わった記憶はなく、しかしそこにある雲の名前 は、結構耳にしているものが多くあります。例えば、レンズ雲とか鱗雲、羊雲とか、鰯雲、確かにそうした呼称は耳にしている 一方で、それらを系統立てて、どんな高さでどんな時にできる雲か、山にたなびいているのは何雲なのか、まあ積乱雲以外に は、それらをちゃんと説明できる知識を持ち合わせていなかったことに改めて気付かされるのでした。名前など知らなくて も・・・と思うのですが、そこが人間、花や樹の名前然り、山の名前だって同じことで、知りたくなるのは人情というものです。千 差万別の雲は、その気になって調べると面白そうではあるのですが、そこまでの意欲もないので、知り得た雲についての概略 を書いてみます。自分の頭を整理する意味があってのことです。

 まず、雲の形状には基本的に積雲と層雲の二種類がある。積雲は雲が重なってもくもくとなっている雲でいわゆるわた雲。 層雲は箒で横にサーっと払ったような層をなしている雲。
雲の名前は、基本的にはその形状と出る高さによって次のように決められています。

・一番高い所(上層 5〜13千m)に出る雲が3つ。
〜最も高い所に出るのが「巻雲」(すじ雲)。秋の空が澄んでいるときに見られる。
〜形状と高さの組み合わせで命名される雲は、「卷」が頭に付いて「巻積雲」(うろこ雲とかいわし雲)と「巻層雲」(うす雲とか かすみ雲)。後者はどこか白っぽいヴェールで覆うように出来る雲。
〜ここまではどれもが小さな氷の粒が集まって出来ている。

〜これ以下の高さに出る次の雲は、全部小さな水の粒で出来ている。
・中くらいの高さ(中層 2〜7千m)に出る雲は、「高」が頭について「高積雲」(ひつじ雲)とか「高層雲」(おぼろ雲)。後者は空 一面を乳白色に覆う雲。これ以外に;
〜「乱層雲」(いわゆる雨雲とか雪雲)は雨を降らせる雲。

・低い所(低層 地上〜2千 m)に出る雲は、頭に何もつかない「積雲」(わた雲)と「層雲」。後者は曇り空を覆おう雲。山の端 にかかる雲もこれ。
〜両方が合わさった「層積雲」(くもり雲とかうす雲)は別名「うね雲」、言葉通り細いうね状に並んだ雲。
〜積雲が発達するとご存じ「積乱雲」となって10千メートル以上にまで達することもある。
〜これらの他に、特殊な雲として「レンズ雲」(傘雲、つるし雲)とか波状雲、ひこうき雲などもある。etc. etc・・.。

 こういう整理となるのですが、では実物を見てこれは何雲?となると、そう簡単には判定できないことが多いのです。幸い当 地は山があるので、それが高さを知る助けとはなるのですが、中天に浮かんだ雲だと高さは簡単には分かりません。大体に おいてその形となると、積雲とも層雲とも判断しかねる場合も多かったりします。さすが雲だけに、ときに雲を掴むような話とな るのです。しかしいずれにしても、空に浮かんだ雲とは千差万別でときにダイナミックな天空のドラマを演じてくれます。あらゆ る人の上空で分け隔てなく展開される空のドラマ、雲はその演じ手ですから、その名前やストーリーを知ると、また違って見え て面白いこと請け合いです

 後日まとめて写真を載せたいと思います。




○ 雲の葬列(8月12日記)

 暑い最中に上京してきました。友人の葬儀に出るためで、上京はもとより、クルマで行って帰ってのトンボ返りと言うのも、随 分と久しくやっていないことでした。それで、今回久しぶりに味わった都会のストレスについて書きます。

・ 高密度社会
 行きがけは朝の時間帯のラッシュというのを甘く見ていて、中央高速の国立IC辺りから高井戸の出口までの最後の区間で 渋滞につかまってしまいました。この渋滞を抜けるのに60分!そんな表示を見て、あ〜もう間に合わないという絶望感に駆ら れたあのとき、前方見渡す限りの車列がピタッと動かなくなったあの逃げ場のないイライラ感をいやというほど味わったのでし た。こういう事態は、わが山麓では起こり得ないことです。長い間忘れていたかつての記憶(と言うか悪夢)が蘇るようなひとと きでした。幸い時間が経過するにつれて渋滞は緩和の方向にあったようで、一時は葬儀に間に合わなくなった言い訳まで考 えたほどでしたが、高井戸のICを出たときは、このまま無事にゆけば葬儀の途中で辿り着ける見通しとなりました。ところが 一般道では環八を離れて小田急線の経堂駅近くの目的地付近で、またひと汗かく羽目になりました。駅近くの商店街を通過 するのですが、この道の狭さと来たら一体何なのでしょう。途切れることのない通行人との接触を避けながら徐行するこの感 覚、これまた逃げ場のない窮屈感が蘇る想いでした。さらにもうひとつ、道を間違えて逆方向に迷い込み、這う這うの体で引 き返して商店の人に会場(ある寺のセレモニーホール)の場所を訊ねたときのことです。これまた信じ難い反応で、お寺の名 前は知らないらしく、暫く地図を睨んでから、そう言えばそこの角を右折するとお寺があったからそこかも知れない、と言うの です。結果的にはその言に従って、直ぐ先に見えていた細い道へと右折し、目的地に着くことができたのですが、先ほどの商 店とこの場所は、多分200mと離れていないはずです。そんな近くのお寺について、その名前と場所が認識されていないという 状況とは、これまたどう解釈したらいいのでしょうか。どれもこれも、わが山麓では絶対にありえないことです。

・ ボーっと生きてんじゃねーよ!
 この日の体験は、クルマと人と建物の密集、つまり都会ならではの超高密度社会というものを改めて想起させるものでし た。生活と仕事、人と社会、それらを繋ぐインフラも、全てを支える情報もまた自ずと膨大で高密度なものとならざるを得な い・・そこが都会を象徴するところなのでしょうが、その極度に密集して詰め込まれた世界であるが故に、お互いの関わり合っ てなどいられない、という自然の摂理なのでしょうか。これは田舎の低密度社会を考えてみるとよく分かることで、例えば、田 舎では200bの範囲内に何があるか、にどういう人が住んでいるのか、そうした自ずと密にならざるを得ない関連性の上に 人々は暮らしているということです。都会とは全く逆の摂理と言えるでしょう。
 とまあ、少し堅苦しくなってしまいましたが、これは八ケ岳山麓という片田舎に十数年暮らしてきた者の実感です。
"ボーっと生きてんじゃねーよ!"とチコちゃんに叱られそうですが、確かにボーと暮らしてきたからこそ覚える違和感に違いあ りません。都会人はこんな状況下で生きているんだな、と決してオーバーではなく感じたこの日の体験でしたが、それはまた、 私自身がすっかり田舎の人となっていた証であるとも言えるでしょう。

 帰りしなには甲州街道を走ったのですが、ここでもまた昔の感覚を呼び覚まされたのは、この街道特有の狭いレーンです。 そこをかなりのスピードでクルマ同士肩を寄せ合うようにして走るのも、田舎では決して経験することのないストレスというか、 スリリングなことでもありました。都会人にしては当たり前の状況を、この日何度目だか昔の記憶からたぐり寄せるようにして 経験した次第です。ただ、この甲州街道、走っているうちに段々昔の感覚が蘇り、一端の都会っ子のようにスイスイと走って いる自分がいました。結構捨てたもんじゃない、高齢者の免許証返還などどの世界の話だ!・・・この日珍しく前向きな気分を 味わったのですが、その反面、いやいや油断大敵、何せ77歳なのだから、とたがを締め直す自分もまたいるのでした。

・ 雲の葬列
 葬儀のこと自体は割愛しますが、距離を隔てて暫くは顔も見ていなかったものの、親しい友人の死は、やはり寂しさを禁じ 得ません。お別れの場がまた旧交を温める場ともなるのは、こうした葬儀の常なのでしょうが、この日の告別式もまたそのよ うな機会でもありました。懐かしさと哀しさに包まれ、かけがえのない友である遺族に心を寄せ、最後は葬儀場を出る車中の 遺影に手を振ってお別れをしてきた次第です。
 葬儀の後に多摩墓地に寄って、忘れかけていたほどに久しぶりだった墓参りをして帰路につきました。この日は一日中猛 暑で、東京は勿論、中央高速で笹子トンネルを抜けると、甲府盆地もまた猛暑の大気に覆われていました。激しい上昇気流 がつくる積乱雲があちこちに立ち上がって、盆地を取り囲む山塊の上空はすべて積乱雲の壁でした。ことあるごとに雲の写 真を撮っているので、このときも双葉SAに立ち寄り、何枚か写真を撮りました。茅ヶ岳から秩父の山塊にかけての上空に、西 から次々と生まれる積乱雲を見ていると、この日の出来事が重なって、それがまるで雲の葬列のようでした。写真を何点か載 せます。


甲府盆地の北側、山沿いの上空に西(左)
から次々と生まれ発達する積乱雲の群

盆地南側の上空には巨大な
積乱雲が立ち上がっています。

甲府から笛吹市上空にも巨大な雲の塊
が。真下に雨柱のような影も。夕方、この
一帯には短時間大雨警報が出されました。



○「子どものように描けるまで一生かかった」(7月30日記)

 改めて言葉とは人の気持ちを動かし、心を響かせ心に残るもの。そういうことを実感したのは、妻が「これ読んだ?」と指さ した7月27日付の朝日新聞のコラム「折々のことば」でした。この日は、彫刻家である飯田善國が著した「ピカソ」の中で語って いる言葉が引用されていました。 次の二行です。

   十歳で どんな大人より上手に 描けた
   子供の ように描けるまで一生 かかった

 コラム全体の趣旨は、「ピカソが生涯求めたものは、文明の外に出ることで、本来の野生的な生命力を描き出すことであっ た」という下りに言及し、コラムの筆者は、安住を嫌ったピカソの休みない追及、そのじっとしていられないという子供の真骨 頂に通じる特性こそ、ピカソを動かしてきた原動力ではなかったかと結んでいます。

・改めて自分の画歴
 "がれき"で変換したら"瓦礫"と出てしまいましたが、まあ私の画歴はそのようなものかもしれません。それはさておき、私の 心を先ずズシンと捉えたのは、最初の二行でした。思わず私自身のことをフラッシュバックしていました。私は物心がついたと きには絵を描いていました。そして小学生の頃になると、周囲の皆が同じようには描けないことを知り、その周囲には大人た ちもまた含まれているという認識を強く持つに至りました。その後いっとき・・・と言ってもものすごく長いいっときでしたが、私は 絵に対する興味を失い、絵筆も遠ざける中で大人になっていました。また描いてみたいと
思い出したのが、もう五十才を回る辺りのことで、私自身がかつての自分が居たような場所を見つけ出すまで、かくも
長き不在は〜小説のタイトルみたいですが、実に40年ほどに及んだことになります。

・子供のように描くということ
 絵を再開して四半世紀、私はずっと描き続けています。と言っても、求道者のようなひたむきさには欠けるのですが、描くこ とについての自己開発欲とでも言いましょうか、もっといい絵が描きたいという想いだけは、この間ずっと持ち続
けています。ただ・・とここからが今回のテーマとなってくるのですが、私のもっといい絵を"という想いの中には、もっと上 手い絵を" という想いがいまだに大きいのです。そこが表現者として、特に私の年代にしてどうなのか、そんな自問も繰り返し つつ描き続けているのが現状と言えるでしょうか。今日このコラムを読んでハッと思ったのは、この"子供のように描く"という 一事についてでした。
 子供のように描くとは一体どういうことなのか。確かに子供のイマジネーションは面白いものだし、とても大人が真似
のできない純粋さが下地としてあります。子供に戻ってものを見、思うがままに表現すること。つまりは作為というもの
から開放され、感じたままを描き出すという自然体の表現こそ、本来求めていくべき姿なのかもしれません。ピカソはそこを目 指し、そこに辿り着いて独自の境地に至るのに一生を要したと、かの著書は語っているのです。
 そう言えば・・とここで思い出すのは、105歳で他界した日本画の小倉遊亀の絵です。歳を経るに従い、彼女の絵は一切の 作為から抜け出して、シンプルな色彩と造形で描かれていて、そこがまた観る者を惹きつけます。歳を経て子供帰りするのが 世の常であるなら、絵の世界もまた子供への回帰が一つのキーワードとなるものなのでしょうか。

・どこに向かう?
 ならばここで、"いい絵"から"子供のような絵"に、方針転換をしてみてはどうか、そういう声も聞こえてきそうです。つまり は、作為を取り払って純粋無垢の境地を追求してみてはどうか、ということになるのですが、ピカソにして一生を要
したこの道は、そう簡単に求めて開いて行けるものではありません。邪念を取り払うには修行僧だって相当な年月を要しま す。大体において、絵の道を修行と置き換えるほど、私は切羽詰まった状況ではないのです。先ほど触れた上手く描きたい の裏返しとして、上手くいかなかった、その原因はどこにあったのか、といった分析を未だに繰り返しているのが現状です。ピ カソの言に心打たれる一方で、そもそも子供のように描きたいという素直な心境は、まだ私のものとはなっていないのだと改 めて気付かされます。あるとき、ある年齢になって、自然とそんな境地が芽生えるということはあるのでしょう。いずれそういう 方向に転換するものなのか、いやそうではなくて、表現の根源とか描く動機とかは人それぞれ、私には私の動機づけがあっ て、目指す処は違って当然と考えるのか。そしてどこかで二つの方向が交わるのか、ずっと平行線のままなのか、それは今 は定かではないと言うしかありません。

・日常、そして言葉について
 以下は自己分析の続きとして繰り返しになりますが、安住を嫌った休む間もない追及とか、一刻もじっとしてはいられない子 供の好奇心は、私自身の目下の日常的な意識からは随分と遠いものと言わざるを得ません。休息はいつも甘
い囁きですし、安住もまたどこかに潜んで消えることのない願望です。つまりは凡人の域を出てはいない私が、何もピ
カソみたいにならねばならないということはないじゃないか・・・これだけ書いてきて結論はそこか、と叱られそうですが、これも ひとつの結句たり得るものです。ただしかし、この短いコラムに接して、私にはピカソを見直し、ピカソが私自身を眺め直す鏡 ともなったのでした。
 それとは別にしてもうひとつ、言葉というものの持つ力、それが人の心を動かすというごく当たり前の事実に、はたと
膝を打ったのもこのコラムだったのです。
 言葉・・・それは人間が人間たりうる証です。人の想いや感情、考えを映し出す道具です。故に言葉は文化や芸術を醸成 し、政治や社会構造をつくり出す根っこともなってきたと言えるでしょう。その言葉が、どうも昨今は浅薄でおざなりな傾向に陥 ってはいないか。そんなことに思いを馳せたりもしました。殺伐とした世相、無毛な政治のシーン・・・そこで耳にする言葉と は、ネット社会の"イイね"に集約される安易さや、無人称の発言者が発する無責任さにどこかで繋が
っているように思えてなりません。私自身がそんな状況に慣れっこになってはいないか。改めて襟を正してくれた今朝のコラム でもありました。




○気が付けば夏たけなわ(7月23日記)
 
 日照不足が続き野菜が高騰。日照時間は何でも平年比で2割とかなんとか、くる日も来る日も曇りか雨模様、まこと
に鬱陶しい気候が続いてきました。それが、今朝は窓の外に青空が! そんなに広がりを見せてはいませんが、それでも外 で直射日光を浴びると一端の暑さです。それで今日は物置からパラソルを取り出してデッキに立てました。日影が気持ちいい という感覚もまた久しぶり。空を見上げれば、あの青色というのは実に透き通っていて、積乱雲のなりかけのような白い雲が 湧いています。あ〜夏はこういうのだった、という感覚が何やら懐かしくもあります。でも考えてみれば7月もすでに最終週。梅 雨明けも間近でしょうし、来週はもう8月という頃合いなのです。それが今頃になってパラソルはじめ、簾もよしずもそろそろと 夏備えを始める有様なのですが、遅まきながら夏を体感する日々の到来を、今年はこうして懐かしみを覚えながら迎えている 状況です。ここは高原なので余計そう言う感覚なのかもしれませんが、大なり小なり各地で同じような感覚を覚えている人々 が大勢おられることでしょう。これで野菜の高騰も終わってくれれば、と期待しますし、今いちだったモモの甘さも戻ってきてく れるだろうと、生産者ならずともホッと安堵する次第です。
 さて、絵の方は、先日アップした「ひと雨」に続き、少し季節を先取りして「野辺山高原 夏日」というのを載せました
(→「野辺山高原 夏日」)。この絵のように夏の太陽が降り注ぐ光景自体は、むろん過去のある夏日のことですが、今年も遅 まきながらその季節がやってきました。

<追記>
・積乱雲〜災害警報
 こんなことを書いた日の夕方、南西方面の空を見渡すと絵に描いたような積乱雲が立ち上がっています。これは真夏でもあ まり見られないモクモク度と言いましょうか、うちにエネルギーを秘めた立派な積乱雲です。ちょうど雷警報も出ていた日です から、あの雲の下はさぞかし荒れ模様では? などと思いながら何枚か写真を撮りました。ちょうどそんな雲を見た前後のこ と、スマホが聞いたことのない警報音(のような)を出しました。何せスマホにしたばかりで、一瞬何事かと思ったのですが、ス マホを開けると県からの臨時警報で、北杜市に土砂災害警報がでたとのこと! 北杜市と言っても何せ東京都なら23区にせ まるほど広いし、私らの住む場所はどう考えても土砂災害など起こりそうもない土地柄なので、一体どこのことかと思っていま した。その後の速報やTV報道によると、土砂災害警報のレベル4ということで避難勧告が出ているとのこと。場所は須玉町 の西小尾ということで、これに私はピンと来たのでした。あの積乱雲をもう少し左に辿ると、まさにその地域に当たります。須 玉町は塩川沿いにずっと上流に遡った増富方面で、あのみずがき湖がある場所。それに、西小尾とは御門とか神戸とか私も 何度も絵にして親しみを覚えている山間の集落がある所です。その日の気象情報では、確かに県の北部、秩父山系に接す る一帯に集中豪雨をもたらす雨雲が停滞する様子がレーダーに映っていました。警報の地域はこの一帯の西の外れ辺りで す。164戸に避難勧告が出ているとのことでしたが、あの辺りは空き家も多くお年寄りばかりの山間集落です。何事もなけれ ばと念じていたのですが、その後の報道ではこれと言った災害を起こすことはなかったようで、私の胸騒ぎも収まったのでし た。
 その積乱雲、撮影したうちから下記2点掲載します。
  
  夕方になって南西方向の空に姿を現したエネルギッシュな積乱雲。久しぶりに見たモクモク感です。




○ 緑深まる八ヶ岳(6月26日記)

 そろそろ本格的な梅雨入りとなりそうだったので、晴れたこの日(6月25日)久しぶりに八ケ岳を一周してきました。むろん いつもの取材を兼ねたドライブで、あわよくばスケッチの一つや二つはものにしたいと思ってのこと。茅野方面から奥蓼科を 経て麦草峠へ。その先は八千穂高原に寄り道し、今回は稲子湯温泉経由で松原湖へ下り、あとは国道141号線を野辺山経 由で帰ってくるという、およそ100kmの八ヶ岳一周のルートです。数年前の秋に同じルートを走りましたが、夏の季節ではどう だったか? ともかくも、これは遅ればせながらもその時の印象記です。
本文記述にはありませんが、これが最初に様子を見に
行った茅野の竜神池。縄文の尖石遺跡や三井の森別
荘地の近くにあります。近所の散歩人以外には殆ど会
う人がいません。




・「緑響く」
 これは東山魁夷が一連の作品に付けたタイトルで、その一連の作というのが青緑の色調の森と池を舞台に、白い馬をモチ ーフに配した作品群です。この作画を着想したのが、奥蓼科の山中にある御射鹿池です。池と言っても、下方の田畑に水を 引くための溜池で、ほぼ四角い形状をしたその一辺が人工の土手となっていて、その端の切れ目から溜まった水が下に続く 水路に流れ出ています。土手の部分を見る限りは風情も何もないのですが、道路から池越しに見る対岸の静けさと緑の潤い に満ちた佇まいが、何とも言えぬ風情を湛えていて観る者を惹きつけるのです。「緑響く」というタイトルが如何にも‥という感 じなのですが、私はかつてここの夏の風景を描いていて、そのとき絵に付けた題名は「緑滴る」でした。
 現在御射鹿池はすっかり観光スポットとしてこの辺を巡るバスツアーには欠かせない立ち寄り場所となっているようです。賑 わいは覚悟の上でしたが、この日の人出はマアマアと言ったところ。道路を挟んできれいに整備された二面の駐車場は空い ていましたし、出会った観光バスは二台だけ。そんなことはともかく、池は相変わらずの緑滴る佇まいでそ
こに待ってくれていました。やっぱりここの風景は夏が似合うようで、夏と言えば平地だと独特の重ったるい緑に覆われるの に対し、ここの緑はやや浅く瑞々しいので、やっぱり私には緑が滴るように映ります。何せ1520メートルの高地ですし、池の底 には苔の仲間の植物が繁茂しているとかで、それがまた独特の湖面の色調をもたらしているそうです。東山魁夷がこの池に 巡り合ったのは、もっと手つかずの自然の中だったでしょうから、初めて接したときの印象がどれだけ鮮烈だったことか、想像 に難くありません。私は以前、この御射鹿池の夏の景色に加えて紅葉の秋の池も描いています。また、昨年の夏にもスケッ チに来ましたが、今度はもう一度御射鹿池の夏を描こうと思っていて、以前もそうだったように、この緑の風情をどう画面に掬 い取るか、そのことをずっと頭の中で巡らせながら、池を見つめ撮影もしてきました。
  御射鹿池、駐車場から出てほどなく出会う最初の池の景色。
  この日は風がなく、水面は鏡のように緑を映し込んでいました。
  対岸中央左手のこんもりした樹形の木は、風景のモチーフと
  してよく写真に登場。



・峠を越えて
 御射鹿池のあとは麦草峠を越えて松原湖方面へ。麦草峠は標高2127mとあり、国内の国道では二番目に高い場所とのこ と。因みに一番高いのは志賀と草津を結ぶ渋峠、若かりし頃、GW近くになるとここで良くスキーをしたものです。こちら八ヶ岳 の峠道を辿る国道299号は、地図や標識にはメルヘン街道としてありますが、これは麦草峠という風情のある名前には相応 しくないミーハーの権現のような名称は、かねてより残念に思っています。それはいいとして(よくはな
いのですが)、高度を上げるにつれてカラマツ林の足元をレンゲツツジの朱色が彩っています。植層はカラマツからコメツガな どの針葉樹ばかりとなってきて、その中をつたう峠道はワインディングの連続です。やがて白駒池の駐車場を過ぎて下りにか かると、時折陽射しが雲に隠れるようになってきました。すれ違うクルマの数も減ってきましたが、レンゲツツジだけは相変わ らず森の袂を所々朱に染めています。
 松原湖に向かう途中で八千穂レイクをちょっと覗いてみることに。こちらは釣り人の数も少なく、湖畔をわたる風のみが肌に 心地よく、広々感が倍増された感じでした。ここは絵にするにば殺風景に過ぎる所ですが、周辺のレンゲツツジが彩った白樺 林は印象的でした。分岐点に戻って最終目的地である松原湖へ。今度はいつもの国道から逸れて稲子湯温泉方面に下り、 温泉を右手に見て通過、そのまま山間の展望の利かない山道を左手の大月川沿いに走り続けました。やがて小さな集落に 出てきて、ここは地図で見ると新開という地名。その名の通り、比較的新しく開かれた山間
の集落と見受けます。ここまで下りてくると、それまで隠れ家くれ見えていた赤茶色の崖が切り立つ山が、はっきりとその姿を 現してきます。地図で調べると天狗岳の北東斜面のようで、かつての噴火による山体崩落の跡をおどろおどろ
しく晒しています。やがて道が平たんになると、人家も増えて間もなく松原湖周辺に差し掛かりました。この間すれ違ったクル マはゼロ、小海リエックスのスキー場があったり、八ヶ岳ビューロードと銘打った国道とは打って違って、静かで
鄙びた道のりでした。


八千穂レイクは釣り人のメッカ。その釣り人
も少なかったこの日、出迎えてくれたのは
湖面をつたう風だけでした。


白樺林と林床のレンゲツツジ


稲子湯温泉方面に下ると、正面に山体
崩壊の爪痕を残した天狗岳が。
深まる緑に囲まれ静かに水を湛えた松原湖。
背後のピークは、左から赤岳、横岳、硫黄岳。
この日巡ってきた中では唯一の自然湖です。

・松原湖はいま・・
 松原湖はいつもの通り、深い緑に囲まれてゆるやかに湖面を揺らせていました。もう時計も正午を大分回った頃だったの で、一旦141号に下りてコンビニで弁当を買い、すでに蒸し暑くなっていた陽射しを避けて再び松原湖の湖畔に引き返し、木陰 で遅い昼食をとりました。
 松原湖は古くから有名な割には訪れる観光客が少なく、私らにとってはいつ行っても静かなのが美質と言えるのですが、地 元の人にとっては、それでは困るというのが本音でしょうか。先の御射鹿池がある時から突然脚光を浴びて訪れる人の多い 観光スポットとなったのと対照的です。湖畔には樹々が茂っていて木陰が多く、涼を取れるのも、落ち着いてスケッチできるの も、訪れる人にとっては利点と言えるものです。その松原湖、今日見て回った湖の中では唯一自然湖で、そもそもは887年の 仁和地震により、先の天狗岳が崩壊、そのときの岩屑雪崩が、これも先ほど出てきた大月川をせき止めて造られた湖である とのことです。
 湖畔で見た魅力的な樹形をした2本の大きな樹が何の木だったのか。気にはなっていたものの近くに行って確かめ
ずに帰ってきてしまったのですが、それと似たような近くの木の写真を目いっぱい拡大してみると、どうも葉っぱがハー
ト形をしているように見えます。帰ってからこの辺りの植生を検索してみると、ブナとかシナノキという記述があったので、問題 の樹はシナノキの公算大・・・でも、ブナも生えている!というのは予想外でした。今度訪れたら忘れずに調べてこようと思って います。それで関連してもう一点、実は御射鹿池でも対岸の樹々の中で一番目を引く樹形の木立がありました。これが中心 のモチーフとなる構図が多くなるのですが、以前からこれも何の木なのか気になっていました。どうもこれまたシナノキではな いのか?? 知っている人がいたら教えて欲しいものです。

 最後に松原湖畔でスケッチも一点描き、一息入れてから帰路についたのでした→2019年夏の作品




○ いろいろとあって喜寿を歩む(6月14日記)

 もうひと月余りが過ぎてしまいました。何がって、元号が変わってからですが、私の場合はちょうど喜寿を迎えてから、という 意味があります。それとは関係なくても、今年ももう半分近くが過ぎ去ったことになります。そして春が殆ど不用意のうちに夏と なっているという、年々常態化しつつあるような束の間の春という感覚は、世に言う五月病とか、六月病と関係があるのかも 知れません。私は別に不安を覚えたり、落ち込んでいるわけではないのですが、何だか疲れる・・という心身の状況がこのと ころ顕著です。それがたまたまこの時期だからなのか、個人的な体験を重ねてつらつら考えてみると、改めて自分の置かれ ている年代というか年頃感覚を新たにしたりするわけです。

・ 何だか疲れるこの頃
 かねてから予定されていたことですが、妻が一昨年の左膝に続き今年は右膝の方も4月中旬に人工関節を入れる手術を 受け、一月ほどの入院を経て目下家でリハビリ中です。この間、私はひと月のチョンガ―生活を送り、その後のひと月ほど、 半人前の妻の杖がわりをしているところです。そしてこの間私は喜寿を迎えました。古希を迎えてから77と
いう7並びの年齢に達するまでは、何やら滑るようにして月日が経ったという実感です。それはまた、それなりの身体的劣化 もいろいろ顕在化してきた年月でもあります。かつて聞いていた七十代とはこんなものだという話を、いまは身につまされて感 じているわけで、先の疲れも基本的にはこの年齢と無縁ではありません。
 あるTV番組で、俳優の妻夫木某がCM出演の話をしていて、共演者との問答で、"大人とは?"と問うたら、そのとき
の相手方リリー・フランキーから、それは"子供の時に抱いていたイルージョンだ" という答が返ってきたそうで、いたく感じ入 ったという話をしていました。実際自分が大人と言われる年代になってみると、子供のころ抱いていた大人は随分違うという わけです。同じ問答を"七十代とは"と置き換えてみると、かつて聞いたいた話以上のものだ、という答えとなるのでしょうか。 周りを見ても大同小異、みんなそうした実感を共有していそうです。多少疲れを感じても仕方ないとも言えそうです。とまあ、何 だか一般論地味てきましたが、中には同じ年代とは信じられないほど元気でエネルギッシュな御仁もいます。そういう輩はま るで世界遺産だと、私などはつい例外扱いをして、さもこちらの方が自然なのだと自らを納得させたりするわけですが、人生 百歳時代が迫っているとなると、世界遺産などと括って納得してはいられなくなるのかも知れません。いや確かに、そういう時 代の足音が近づいていそうな気配であるのも事実です。

・ 高齢化社会
 もうか十数年ほど以前のことだったと思いますが、ある地方の山間部の人口構成を取り上げて、65歳以上の高齢
者が全体の25%を占めるという現実から、高齢化社会への警鐘を鳴らした記事がありました。1/4が高齢者とは!
と思ったものですが、直近の統計では、日本全体に占める高齢者の比率ですら、27.7%になっているそうです。周りを見て いても、それはそうでしょうと頷ける一方で、この比率の変わりようの早さは何だ!と改めて驚きもします。まあ、退職年齢と か年金支給年齢などが随分と後退している世の中ですから、さもありなん。でも65歳以上を以て高齢者とする基準も、既に 現実離れをしているでしょう。個人的体験ですが、私が八ヶ岳山麓に移住した当初、地区の敬老の日に呼ばれて簡単なふる まいを受ける年齢が、まさにこの65歳以上でした。それが、確か数年後には70歳以上に引き上げられたと記憶しており、そ れまで見栄を張ってご招待には応じていなかった私は、古希を機に一度だけ会に参加したことがありました。その後私が喜 寿に至る現在まで、相変わらず私は見栄の張りっぱなしで、いわゆる老人会なるものに背を向けたままです。
 高齢者の年齢が社会的にはどこに置かれているのか、調べてみると、公的年金の受給資格を有するようになる「高齢者」 ば「65歳」、道路交通法の「高齢運転者」の定義は「70歳以上」、また「高齢者の医療の確保に関する法律」では、「前期高 齢者」が「65歳から74歳」、「後期高齢者」が「75歳以上」としてあります。会社の定年制についても、か
つての60才という時代は、いまは夢のようですらあります。何歳を以て老人となるのかは、或は自分でその歳になったと感じ たのはいくつの頃なのか、これは誠に以て個人的な感覚による処大と言えるでしょう。一律に何歳とは言い難いのが現状で あり、多くの人の実感でもあるかと思います。そしてこの個人差は、人生百歳時代の予感からすれば、さらに広がっていくの ではないでしょうか。こういう喜寿もいれば、全然そうでない喜寿もいる。その振れ幅がかなり広がっ
てくるのがこれからの時代なのでしょう。

・ 私という老人
 年齢に関係なく自分がどのように映っているかは、自分には一番分からないことの一つではないでしょうか。いわゆる老人 度に関して、例えば外見については一応のイメージは持っているものの、たまに鏡をのぞき込んではイメージとは違う!と慌 てたり(慌ててもしょうがないのですが)、しかし世間の同年代の顔からすれば、さして愕然とすることもないか・・・と安堵した り。外見からしてこうなのですから、老人度を内面からうかがい知るのは並大抵のことではないと思われます。いずれにして も、自分自身で感じている老人度と、他人が観てとる老人度との間には、常にかなりの格差があると心得るべきでしょう。
 もう十数年前(年齢は還暦になりたてぐらい)の小田急線で、子供たちから席を譲られたことがありました。そのときは、同 情を寄せられたことに違和感を覚え、丁重にお断りしたことを覚えています。それが数年前に上京して電車に乗ったときは、 席を譲られて少し気恥しい思いをしたものの、ご好意を甘んじて受けました。私は元来白髪頭のために歳以上の老人と見え ていたきらいがあったので、車内ではなるべく座席の前には立たないようにしていたくらいですが、最近はこうしたご好意には 素直に応じようとおもう心境になりました。心境というよりも、席に座るのを自然に欲しているフィジカルな状況になっているか らであります。
 同じような経験は、最近市役所に行ってよくすることです。後期高齢者となった時から、諸々の申請だとか手続きをする際 に、窓口の人たちの親切心が増しているのを感じるのです。まあよくもここまで足を運んでいただいて・・・と言った塩梅で、こ れなどは、見かけ云々に拘わらず、実際の年齢からくる社会通念がまかり通っているわけで、それはそれで素直にありがた いと思う反面、どこかに自分はまだそんな扱いを受けるほどではないのに・・・といった強がりというか
面はゆい想いもまた禁じ得ません。こんな体験をしながら、当事者としてはいつの間にかそうした行為を自然なものと
受け止めるようになっていくのでしょう。
 もう一つ、これは誰しも感じるエピソードだと思いますが、毎日飲んでいる薬の種類とか、分厚くなったお薬手帳から、わが 身が年相応というか、これを以て人並みというか、そのように感じられることは確かです。私自身は、ここ数年で急にその人 並みとなってきた感が否めません。それまでは、他人と較べて自分はまだそこまでは・・といったちょっとだけ優越感を覚えて いた節もあったのですが、ここ数年来、軽度の肺疾患だとか、心臓疾患、Drヘリ騒ぎからペースメーカー装着、さらには白内 障や緑内障と言った眼の障害などなど、身体的修繕が重なるに連れて、いつの間にかどっぷりと人並みにまみれてきたよう に思えます。また、周囲の知人、友人や同年輩の著名人の死に接したりしつつ、こうした歳相応感はそれなりの説得力を増し ているのも事実なのでしょう。

 歳相応の老人と言ってしまえばその通りと言えるのでしょうが、最後の砦となるところにはやはり気持ちの問題があるはず です。年齢とか老人度というのは、その半分以上は気持ちの持ちようによる処が大きいでしょう。その点からすると、実年齢と 老人度という関係は、人それぞれで簡単な相関関数では表せないのだと思います。さらに言えば、老人度とはむしろ人間の 味を計る目安であるというポジティヴな見方だってあるはずです。ましてや人生百年時代、実年齢というモノサシだけでは計り 知れない個々人の老人度があって、その多様さこそが自然な時代が来ているのだと言えそうです。
 さて、ここまで書いてきて、“私ごとき年齢で何をほざいているか” という声もたくさん聞こえてきそうです。
 自分自身を図り知る・・・そんな時がくるとすれば、それはもっと先のことになるのでしょう。先の気持ちのもちようについて自 問してみるに、今現在唯一出てくる確かな答えは、"もっといい絵が描きたい" という欲望だけは変わらずにある、ということ でしょうか。実際この欲望は、私の暮らしのメインエンジンとなっていますし、当HP上でもそのことを証明してゆきたいものとだ と改めて思う次第です。



○令和の春(5月14日記)

 令和の春とはややこじつけの感もありますが、今年は元号が変わってからまだ続いた長い連休の中、たけなわの春はあっ という間に通り越していった面持ちでありました。この山麓にも人々がどっと押し寄せ、何時にないクルマの数に恐れをなし て、我々住民は観光スポットを避けてひっそりと時を送ったのでありました。それでも春たけなわ、じっとしているだけでは気が すまず、静かさを保っている場所に出かけては、今年の春を感じ取らんともしました。我が家の庭もあっという間に春が通過し つつあるようで、もうこれはここ十年来くらいの体感なのですが、この春という季節が年々短くなっているように思えて仕方あり ません。そんな中で撮った写真を何点か載せます。



5月3日 我が家の餌台を求め
て飛来したシジュウカラ。背景の
ピンクは満開のミツバツツジ。


5月7日 清里の丘の公園近くにて。
新緑が輝くばかり!



5月7日 こちらは300bほど高い
標高の川上村。季節は半月ほど
遅れて今頃でもコブシが満開!


5月8日 小淵沢の田園地帯。
残雪の南アルプスを背景に
もう代掻きが。


5月8日 長坂町の酪農学校の土手
ケヤキやサワグルミの新緑が滴るよう。



5月13日 我が家の餌台の大常連
シジュウカラ。最初の写真から10日
たって、背景は緑一色です。



 ところでこの「令和」という元号、「平成」に引き続き、と言うよりももっと古くは「昭和」以来ずっと、私の名前との縁が続いて いるのです。私の名前は「成和」(・・・これを「マサカズ」と読むのですが)で、三代にわたって名前のどちらかの漢字が元号に 入っています。この分で行くと、仮に私が生きている間に再び新元号が登場するとしたら(・・などと書くと大変不謹慎なのは承 知の上で)、今度はまさに「成和」と書いて「せいわ」となるのではないか。な〜んてギャグを言いたくもなります。
  ところで(・・その2です)、私の誕生日は5月2日ですが、年齢が決まるのは誕生日の前日だそうで、ですから私の場合は、5 月1日を以て満一歳として社会的に登録されるというわけです。年金支給の計算などの年齢もこの数え方に寄るのだそうで す。それでもって(・・さらに続きます)、私は今年で喜寿をむかえますから、令和元年の初日に喜寿となるという、大変めでた い巡り合わせという次第です。だからなに? と問われると、なんでもないのですが、これだけ目出度いことが重なるのだか ら、金一封が出てもよさそうなものだと、独り思うわけです。まあそういう因縁で迎えた今年の5月でした。長々とどうでもいいこ とにお付き合いいただいてありがとうございました。



○ 毎年のことながら・・春です!(4月22日記)

 本当に毎年のことながら、こうして絵以外にも春の素描を掲載させてもらう次第です。雪国のそれほど劇的ではありません が、八ケ岳山麓でも春の表情は様々で、そのどれもが輝いて見えます。今年はしかし、季節の進行が早いものと思っていた のですが、花の開花を見ていると、どうもそうでもないのです。いっときの寒さのぶり返しとか、4月に入ってからの降雪などが あったせいでしょうか、当地の状況を見ると、昨年と較べてサクラの開花が1週間ほど遅く、コブシに至っては、もう今年は全 滅かと思っていたら、2週間も遅く咲き出しました。ですから、現在はサクラもコブシもほぼ同時期に満開という様相を呈してい るのです。同じように寒暖の中に身を晒しながら、開花の遅れるタイミングがこれほど違うというわけで、不思議といえば不思 議です。でも人間も人それぞれ違うわけわけなので、植物もまた然りと言えば然り・・・という話ではあります。足元ではユキヤ ナギうあレンギョウが咲きそろって、所々濃いピンクのカンヒザクラ系の花も交じって、春爛漫の彩が山麓のあちこちで見られ ます。尤もコブシはやはり不作の年のようで、同じ株で昨年と較べても花付きが劣るし、あの白い清々しさも乏しいという感じ であります。

・ 富士川町の病院通いもまた・・・
  さて、今春は我が家にとって夫婦とも手術と縁が切れない巡り合わせとなっておりまして、私は眼の手術から二か月が経過 して、ほぼ通常の状態となってはいるのですが、妻の方は16日に右膝の人工関節手術を受けて目下入院中であります。術後 の経過は順調のようなのですが、入院している病院が富士川町にある富士川病院です。前身は鰍沢病院と称してあの有名 な落語の鰍沢にあった病院で、現在はこの鰍沢町が平成の合併の一環で増穂町と合併し、富士川町となったという背景があ ります。小淵沢からだと約50キロで、高速を使って45分ほど。通うのは結構大変ですが、中部横断道を南下すると季節は一 段と進んでいて、甲府盆地の際から立ち上がる山々は新緑で盛り上がるかのようです。そこではヤマザクラがちらほらと混じ っていて、河原も土手もすっかり春の装いです。一帯に広がる果樹園ではサクランボが白い花がこぼれるように咲かせてい る一方、モモはあのピンクの花が殆ど散ってしまって、桃源郷はすっかり影を潜めてしまいました。それにしても、高速道の高 架の上から眺めるこの果樹園の広がりは、それを取り囲む山並みとともにまさに山梨ならではの光景! 加えて御坂山塊の 上から顔を出している残雪の富士山や、南アルプスの青い山並みの切れ目から南下に伴って一つひとつその姿を覗かせる 真っ白な白根三山、更に振り返ればこれまた残雪の八ヶ岳と、この病院通いは贅沢な山梨の風景を楽しめるドライブでもあり ます。
例によって写真を何点か載せます。



畑中のサクラ満開!(小淵沢)


サクラ、コブシ、ヒカンザクラ そして菜の花も
一つ風景の中に同居してます(長坂)。


サクラのトンネルは帝京高校の境内(小淵沢)


道を挟んで左コブシと右サクラ(小淵沢)


富士川流域と山々は新緑の季節。ヤマザクラも点々と
見られます(富士川町)


富士川の土手から姿を見せる残雪の八ヶ岳(富士川町)



○サクラなのに雪(4月10日記)

 桜前線いよいよわが山麓にもせり上がってきたというのに今日は朝から雪が積もっています! "なんてこった" とうそぶい てみたところで、こういう事態は珍しいことではなく、これまで何度も経験してきたことではあります。しかしまあ、この時期で今 冬一番の積雪、しかも4月も半ばにかかるという時期とは、花ならずともちょいと戸惑いを禁じ得ません。大体クルマもノーマ ルタイヤに履き替えてしまっているし、もう雪かきはないだろうと、それ用のシャベルは物置にしまってしまったし・・・。明日は 今季初の水彩教室だというのに、外でスケッチができるのか、室内の教室に切り替えて教材を準備しておくべきか、これまた 悩ましいところです。いずれにしても、これで開花が少し遅れるとか、咲いた株は花の寿命が少し伸びるということになるでし ょう。よせばいいのに、雪降る中を外出して写真を撮ってきました。一応ご披露しておきます。

     

 我が家の窓からは今年一番の雪景色。         ちょっと外出して、小淵沢の道の駅に。観光客の人影もなく、
 これが4月10日、もうサクラ咲く季節なのに。      開花寸前のサクラも雪の枝を重そうに広げています。

              ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

○春の兆し 素描(4月4日記)    収穫したフキノトウ

 山麓の遅い春、 ここ2、3日の冷え込みで少し足踏みしたものの、あちこちにそのサインを刻み始めています。言葉よりも 画像の方が手っ取り早いので、何点かここ数日に撮った写真を載せます。サクラに関しては、大雑把に言えば中央線から上 ではまだ開花に至っていないようです。ずっと下って釜無川の辺りでは既に開花しているようで、有名な実相寺(武川)の神代 桜はもう満開の様子をニュースで見ました。あそこはエドヒガンが主だと思うので、ソメイヨシノとはまた違うペースなのかと思 われます。 いずれにしても、今が一番待ちわびて開花への日数を数える頃ですが、今年はサクラの前に森を彩るコブシの 白が余り見当たりません。コブシは1年おきに花付が良かったり悪かったりを繰り返すようで、昨年はこの白い姿が見事だっ たので、今年は春を告げる役割を他に譲った様です。


ここは標高700bほどの釜無川河岸丘の斜面。
サクラの蕾がほころび始め、背景には残雪の
南アルプスが。当地ならではの春の光景です。
(白州町花水)


釜無川の岸辺に下りるとヤナギが黄緑色の
新緑をまとい、まだ冬色の周囲の森に先んじて
一足早い春到来を歌い上げているかのようです。
(小淵沢と白州町の境)

谷戸野道を伝うと、残雪の鳳凰三山が快晴
の空を背景にくっきりと横たわっています。
木々の梢と畦の斜面にはかすかな春が宿り
始め、あ2週間もするとすっかり新緑が一帯
を覆うようになるでしょう。  (長坂町渋沢)


我が家の野鳥の餌台には、真冬には姿を
見せなかったアトリやスズメまでがやってきて、
賑々しく場所の奪い合いを演じています。
(小淵沢町上笹尾)



〇 入院記〜眼の手術(3月3日記)

・ 2月は入院月?
 三日前に山梨医大から退院し、我が家で落ち着いたところでこれを書いています。入院は白内障と緑内障の手術を受ける ためで,両目ともいっときに済ませたかったので、2月13日から27日までの2週間を要しました。手術と言えば、ペースメイカ ーの移植手術を受けたのがちょうど1年前のことでしたから、何と2年連続しての手術ということで、まあそれだけ後期高齢者 のガタが身体のあちこちに溜まっていたということです。我が家では、妻が昨年の左膝に続いて今年も右膝の人工関節手術 を受ける予定ですので、夫婦揃ってかわりばんこ大々的な修復を施しているわけで、これらが一件落着して漸く人心地とい う、そんな年頃と言えるのでしょうか。
 それで眼の方ですが、この手術日程は半年前から決まっていたので、元々は遠くも近くもとみに見えにくくなって眼鏡ではこ れ以上度が出ないところまできていたのです。白内障の手術は時間の問題だったのですが、実は私、それ以前の数年前か ら緑内障の点眼をずっと続けてきましたので、紹介された眼科の先生からは、白内障の手術はいい機会なので一緒に緑内 障の手術も受けてはどうかと勧められたのでした。正確に言うと緑内障の進行防止のための手術で、眼球内を一定の圧力に 保つ役割をしている房水の流れを良くするべく、その排水溝に当たる部分を広げて、眼圧を低いレベルに保つというのが手 術の骨子となるものです。細かな話は割愛させてもらうとして、どんな手術にしてもそれを受けるのはかなりのストレスとなるも のなので、どうせならそういうストレスは一度で終わらせたいと、今回の入院となった次第です。

・ 同室の県人達
 この2週間、横になって看護を受ける病人というわけでもないので、2度の手術ではそれなりの緊張と忍耐を強いられたも のの、術後は次の日から歩行ができますし、眼帯着用でもモノも見られるので、時間を費やすのがなかなか大変でした。幸い というか、同室の人たちは陽気で人懐っこい地元民ばかりだったので、多少うるさかった節があったとは言え、かなり退屈凌 ぎにもなりました。昨年の入院の時も感じましたが、山梨県人同士となると、それは看護師も含めて自ずと仲間意識が芽生 え、四六時中話が弾むようです。県人は案外お喋りなのでしょうか? 4人部屋の中で私は、今は県人とは言え、彼らからす るといわゆる"来たり者"、彼らの話にはすんなりとは入れないし、第一それなりにプライバシーも保っていたい部分もあった ので、ある時はカーテンを閉め、時々は顔を出して会話う交わしつつ一定の距離感を保って過ごしてきました。隣の人は、私 が入室してすぐに言葉遣いから他県からやってきた人だと分かったそうで、それはほんの一言二言だけ(おそらくは"よろしく お願いします"といった程度のこと)でピンときたらしく、そんなものかと、その後は意識的に彼らの口調を聴いていました。す ると、結構頻繁に山梨なまりというものがあることに改めて気付かされました。例えばこんな具合です。
・・・「雨は降らんよ」「○○しちゃいれんな〜」「夜寝れん」・・・これらは否定の言葉がしばしば「ん」を伴う省略形になるケース。 「俺のはねえだか」「ものはかんげえよう(考えよう)」「けえる(帰る)」「へえる(入る)」といったえ行変換を多用すること。
「行ってみろし」「寝てろし」といった命令形。他にも「怖いだよ」とか「○○になっちもう」「それはいいんだけんど・・・」などなど。
・・・暇に任せてメモしてみると、なかなか馴染み易く愛嬌たっぷりとも思えてきます。
 そういう同室の人たちといつの間にか垣根も外せて、いつも出歩いてばかりいる隣の御仁に誘われて、ある時は4人連れ 立って院内の散歩もし、時間外出入り口から外に出てシャバの空気も吸ったりと、この部屋は病棟には似つかわしくないほど 賑やかで陽気な部屋という様相を呈してきしました。考えてみると、こういう体験は私が暮らす地区では、数からすれば移入 者の方がずっと多くなっているし、集会では自ずと言葉遣いが標準化される方向となるので、日頃は滅多に感じられないこと なのです。だから山梨弁は貴重な体験だったし、少なからず次の手術への緊張を和らげてくれるものでした。

・ 暇つぶしのTV
 時間を弄ぶとついついイヤホーンを耳にしてTVをつけてしまうのは人情というもので、あのかしましい人達にしても、静かだ なと思ったら、TVがついているのが常でした。他にやることもないとなると、またまたTVのあら探しが始まるのもまた人情とい うものです。その一つが、これはいつも思うことなのですが、どの局もまるで金太郎飴のごとく(この比喩は若い人には分から ないかも?)、同じ話題、同じ切り口、同じようなコメントで氾濫しているということです。話題の良し悪しは別として、一つの例 が池江選手の白血病、続いて堀ちえみの舌癌・・・この種の話題は近年SNSでの告白に端を発してTVが飛びつき、世に広 がっていくという図式が常です。それが例えば脊髄ドナーの増加といった好ましい社会的現象に結びつくならいいのです。しか しながら、最近殆ど毎日目にするイタズラ動画とか目を覆うばかりの忌まわしい動画となると、報じる局の方はあれだけ繰り 返し露出するひつようがあるのか、もっと自制してはどうなのかと、いつも疑問に思います。あれでは類は友を呼ぶといった社 会の悪循環を創り出すのではないのか、だとすると野放図な報道姿勢にも罪があるのではないのか。・・・とまあ、あの金太 郎飴の如き報道の現状からすると、いくつもの局が存在すること自体、日本社会の無駄と矛盾の現れではないか、などな ど・・・。
 尤も、悪い話ばかりではありません。あの「はやぶさ2」は喝采ものでした。あれは、今や少なくなった世界に誇れる日本の 技術の査証でもあり、現代社会における一つのロマンとも言える快挙でしょう。この件で一つ付け加えると、「はやぶさ2」に喝 采のメッセージを発信したあのQUEENのメンバー、ブライアン・メイは、なんと天文学者というではありませんか! イイデス ネ〜こういう話。私は"この人が!"と驚くような意外性が大好きで、例えばアメリカのNFLとかNBAといったプロの選手の中 には、弁護士だとかピアニストだとか、実に意外な顔をもつ選手も大勢いるようで、これは西欧と日本の文化の違いと関係が あるのか、日本人も画一から脱してもっと個性的であるべき、だなんて思ってしまうわけであります。TVの報道の姿勢然りで す。

 さて、手術を終えて、視力の方はそれなりに改善したのですが、元来強度の近眼で長い年月を送ってきたことや、自身の老 齢化という関係上、私の眼に適ったレンズはある程度限定的なものだったので、多くの方が経験するような遠くまでスッキリと 明るく見えるところまでは行かないものでした。しかし、退院後すぐにあつらえた眼鏡は視力1.0まで見えて、私としてはかつ てこれほど見えたときはなかったのではないか、と思われるほどです。通常は安定した視力になるまで2,3か月はメガネは つくらないものだそうですが、私の場合は何しろゴミを捨てに行くのもクルマというクルマ社会ですから、一時しのぎを承知の 上でメガネをつくったのです。 そのメガネで見て一番印象的だったのは、皮肉なことに家に帰って観たTVでした。あの画面 がここまでクリアーなものだったのかと、これは小さな驚きでした。この上4Kだ8Kだなんて無用なことと思えてきます。
 という次第で、今後の外来での診察を経て、目の見え方や眼圧が定まった時点で、日常的なケアーや、メガネの作り直しを やらねばなりません。しかし、懸案だった目の問題で取りあえずは関門を突破でき、今は安堵して春を迎えられるのは嬉しい ことです。しばらく途絶えていた絵の制作もま始めねば、と思っているところです。



〇 何を描いてきたか?(2月5日記)

 このように切り出すと、何か意味深な内容に聞こえますが、決してそのようななものではありません。

 来週半ばに、私は手術入院をする予定です。白内障の手術と同時に緑内障の進行防止手術を受けるためで、これが両目 で2週間の入院が必要です。現在は従って、インフルエンザなどにかからぬよう自重が必要ですし、落ち着いて作品制作にか かれる雰囲気でもありません。それで、時間つぶしも兼ねて、自分がこれまでどんな絵を描いてきたのか、ちょっと調べてみ ることにしました。元々は、最近描いている途中、モチーフがどうも甲斐駒の絵に偏っていないか、気になったことに端を発し ています。それで、同じモチーフでも八ヶ岳とどちらが多いのか、山の風景にばかり偏っていないか、それは絵のフィールドが 八ヶ岳山麓周辺なのだから自然なことなのか? などなど、日頃は気になっても振り返ってチェックしてみる機会もなかったの で、この際併せて確かめてみた次第でもあります。

 対象となる絵は、2005年当地へ移住後の14年間にわたって描いたもので、私のHPに載せている作品に限定することにし ました。私が描いているのは水彩による風景画ですが、ごく最近までは個人的な嗜好によって"おわら風の盆"の絵も描いて きました。それらのうちから、代表的なものを折々の個展で披露してきたのですが、出展の機会がなかった絵とか、ごく日常 的に描いているスケッチもJPには相当入っています。数えあげてみると、その数は466点ほどで、これにおわらの絵(28点) を加えると、この14年間でおよそ500点の絵を描いてきたことになります。この数自体は、年間にすると35、6点くらいなので、 30号、50号と言った大きなサイズの制作は手がけてこなかった私とすれば、大した数字とは言えないでしょう。この際数が問 題ではないので、取り上げてきたモチーフについてはどうだったのか、以下はそれを探った結果です。

 先ず、最初に気になっていた甲斐駒の絵への偏重に関しては、必ずしもそんなことはなく、むしろ八ヶ岳の絵の方が点数と してはかなり上回っていました。八ヶ岳に関しては、特に移住当初、漸く八ヶ岳山麓、それも南麓と称する地にやってきたとい う感慨が大きかったせいか、スケッチでこれを描く機会が多かったので、この点を考慮すれば両者の差はさほどはないという 結果です。
 次に、八ケ岳山麓という環境下とは言え、山の風景が多すぎはしないか?といった懸念についてです。これには本人も意外 と思うほどの結果が出ました。山を主体とする風景画は、当地で描いた風景画全体の40%と、半分にも届かない数字だった のです。それでは、過半の60%を占めていた風景画は何かというと、このうち森や木々、中でも花木、そして水など、自然に 宿る四季の風景を描いたもの約6割を占め、集落などの人気が感じられる風景が約4割を占めるといった結果でした。特に 後者については、移住当初は余り目が行かなかったモチーフだったのですが、山麓生活の後半部分に至って、そこに注目の 度が高まってきたという感じです。

 以上を数字で示すと次の通りです。

 ○山を主とする風景画 ・・・ 163点                   
   うち、・八ヶ岳主体        72点
      ・甲斐駒主体        57点
      ・鳳凰山など        17点
      ・その他の山が主体    17点 (うち富士山 8.秩父方面 9)

 ○それ以外の風景画 ・・・・ 236点
   うち@、樹々や水、花などをモチーフとした風景画 ・・・ 150点
        その内訳は、・川や湖など水が主体   48点
                ・森や林、樹木主体    43点
                ・サクラなどの花木や花主体 53点
                ・その他雑草など       6点
   うちA、集落など人の気配のある風景画 ・・・ 86点

 ○その他(野鳥など) ・・・7点

 もちろん、こうした風景画は複数のモチーフから成り立っているケースが多いので、必ずしも以上のような単純な仕分けに 収まるわけではありません。例えば、山を背景にしたサクラの絵とか、流れを縁取る樹々の表情とか、或いは集落と背後の 山といった当地に特有の自然風土を描いたものなど、夫々のモチーフの組み合わせで風景を捉えるのはごくごく日常的なこ とです。従って、今回の仕分けは、夫々の作品について描いた本人の主観で、中でも一番のモチーフであったか、というスタ ンスで振り分けをした結果といえるものですが、一つの傾を示す数値とは言えるでしょう。

 いずれにしても、人の数値的な記憶とか感覚とは随分と曖昧なもので、こうして調べ直してみると、我ながら興味深い結果と なりました。特に、決して山の風景ばかりではなく、それ以上に木々や水の織り成す風景や、自然と人の織り成す風土といっ たものを描いていた点数が多かったことが数字として表れたのは、小さな驚きと同時に、ちょっとした喜びがないまぜになった 気持ちでした。これを以て自然なバランス感覚で風景と接していると言えるのか、或は視点があちこちに分散されて浮気気味 と言うべきなのか・・・なかなか判定のし難いところです。画家の中には例えば富士山を生涯のモチーフとしたり、かつて東北 で観た画家のように、最上川を終生追い求めて描いたり、或は一つの心象的なイメージを追求して描き続けるような画家もい ます。しかし、自分はそのようなタイプではないし、そのような真似のできる絵描きでもないことはよく分かっています。その意 味からは、今回の調べ事は、至極く自分らしいところを再確認できたという結果ではありました。

 "So what?" (だから何なの?)と訊かれると答えに窮します。確かに"だからこうだ"という殊更伝えたい中身もなかった次第 で、ここまでお付き合いいただき、ただただ感謝、恐縮するのみです。ありがとうございました。



○ 野鳥のスナップです(1月24日記)

 久しぶりに小雪がぱらついた日曜日(20日)、こういう日は山で餌にありつくのが大変と見えて、我が家の餌台と水飲み場 は大繁盛! 群がる野鳥たちを部屋の中から撮りまくりました。
余りにも可愛く、また餌場や水飲み場で展開するいろいろな仕草やそこから伝わってくる必至さは、観ていると野鳥たちの世 界に引きずり込まれる想いで、時間が経つのを忘れるくらい。連写して撮ったうちから何点かをご紹介します。
シジュウカラが一人気持ちよさげに
水浴びを。

そこにやってきたヤマガラ、「早く場所を譲れよ」
と言わんばかりに待機。
しばし動きを止めて「さてどうするか」と
シジュウカラ

やがて水飲み場を独占したヤマガラの
この「気持ちい〜〜〜」という仕草!
これがカワラヒワとなると、近寄ってくる者
には「出て行け〜」との激しい威嚇に。
こちらは餌台に群がるイカル。餌場争いは休まる
ことなく、常に何羽かが飛来しては何羽かが
はじき出されます。



〇 冬の徒然に(1月19日記)

・乾燥
ずっと雨が降っていないので、大地はカラカラ状態の冬です。クルマも埃がこびりついてちょっとやそっとでは取れないし、外 で作業すると砂ぼこりが舞います。お湿りが欲しいところですが、そんなことを言っていて大雪に見舞われたのは5年前の2月 のことでした。あの時は二週連続で南岸低気圧に襲われて都度雪が降り、特に二度目の降雪がドカ雪となって当家周辺で1. 2メートル位の積雪になったでしょうか。普段ほとんど雪の積もらない甲府でも1メートルを超える積雪で、こうした経験の少な い山梨県では、他県からの応援を得て何日もかけて除雪取り組んだのでした。不足している除雪器具を手当てしようにも、店 まで出られない、店に行っても商品は入らないで、大混乱を来したのですから油断は大敵。願わくば、穏やかな冬が続いて欲 しいものです。

・フラストレーション解消!
 先日このFノートでも書いた当HPの移転問題・・暫くはこれが私のフラストレーションの元でした。とにかく、こうしてHPを更新 してはいるものの、HPの骨格だとかデータ処理のやり方といった基礎知識には皆目音痴状態の私のことです。そもそもサー バーとかドメインとかURLとかデータの転送等々を正しく理解できていないので、何をどうやればいいの暗闇状態でした。ジオ シティーズからのサービス停止通告には、サーバーの移転に関する手引きが添えられていたのですが、これが何度読んでも ピンとこない。新しいサーバーへの申し込みの段階からして、判断できないことが続出、何を選択すればいいのか、間違うと 修復のつかない事態にならないか、などなど、戸惑いは拭えません。それで、こうした苦境をこのFノートに記したのですが、そ れが期せずして幸運を呼んでくれました。これを読んだ絵の関係の知り合いの方が、親切にも助け舟を出してくれたのです。 山麓に出向く機会があるのでお宅に行ってヘルプしてもいいという申し出! 大袈裟に言えば地獄に仏、二つ返事で協力を 要請したのでした。その結果、漸く当HPの移転が相成りました。そのお方には感謝、感謝! HP地獄を救う手がかりとなった のもこのHPだったという思わぬ展開でした。
 新しいURLは http://kuri-watercolor.staba.jp/ このFノートをお読みいただいているということは、既に新しい居所にアクセ スいだいているということなのでしょうが、ブックマークをしていただいている方には、念のためこちらのURLに切り替えておい てください。かくしてフラストレーションを拭い去ることができ、冬の青い空が心から青く映るこの頃。新作も間もなく登場の予 定です。

・ 我が家周辺は目下こんな具合
 
 百聞は一見に如かず・・・で、写真を何点か載せます。

    

   我が家の西側、広い畑地を挟んだ対岸の中央が我が家           当家北側の小径から。妻と散歩中に撮影
          

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

      八ヶ岳を背景に燃え上がるどんど焼き

〇 今年のどんど焼き(1月14日記)

 私の住む小淵沢町の篠原区では、新年を迎えて第2日曜日(のあたり)にどんど焼きを行います。因みに、これは本来小正 月の行事だそうで、小正月とは1月15日ということです。元々は道祖神を祭る行事に端を発したらしいのですが、現在は神事 としての側面は薄れ、お正月飾りなどを燃やして残り火で"まゆ玉"と称する団子を焼いて食べ、迎えた年の無病息災を祈願 する祭事というのが一般的になっています。日本の各地で同様の行事があると思いますが、私はこのどんど焼き、当地に移 住して初めて体験しました。
 このどんど焼きについては、以前このFノートでも写真を交えて書きましたが、前の週にやぐらを組み、カヤとか竹を集めて 組み込み、当日はそこに点火するだけで高く燃え上がるという段取りを済ませておきます。すべては当該年度の担当役員の 手でお膳立てされるのですが、私も3年前にはその一員として立ち働いたことがありました。
 今年の特徴は、何と言っても連日のカラカラ天気のせいで、点火するとすぐに勢いよく炎が立ち上がり、晴れ渡った青空に 向かってメラメラと突き上がっていったことでした。そしてこれまた乾燥した大気に煽られるようにして火勢は強かったものの、 長持ちせずに例年よりはずっと早く燃え尽きてしまった感もありました。集まった人々は炎を仰ぎ、談笑し、用意された甘酒と おでんを食し、残り火子供たちが中心にまゆ玉を焼いて頬張り、どんど焼きの時間はどんどんと過ぎ去ってゆくのでした。ダ ジャレなどは別にして、そう言えば…と感じたことは、しめ縄とか松飾といったお正月飾りを燃やす光景はついぞ目にしなかっ たことです。何年か前には多少そんな光景もあったと思うのですが、今年は皆無状態、どんど焼きも年とともにその姿を変え ていくようですが、この火を囲んでのひとときは、ずっと残って続けられて欲しいものです。火を見る、火を囲むという行為は、 人間どうしの垣根を
低くするようで、これからの時代にこそ乞われる祭事ではないかと、この日もまた思ったのでありました。



集まった区民達の前で点火


直後に燃え上がった炎はあっという間に勢いを
増し、消防団員が人の輪を遠ざけるほどに、→




からから天気のお陰で火勢強く、人々は遠巻きに
燃えさかる炎を見つめます。



〇 2019年、年が明けての雑感(1月6日記)

・平成
 世の中、平成最後の年が暮れて、平成最後の年が明けたことで、何時にない年末年始であったかのように言われていま す。平成最後・・・確かにそういうことなのですが、私個人の記憶はどちらかと言うと西暦を以てあの年はこうだったとか記憶に とどめている口であります。それで、昭和の頃は昭和の年数に25を加えれば西暦となっていたので、この両者はよく結びつい ていました。それが平成に入ると、そのような換算式が私の頭の中ではついに確立されないままでした。それで今年はどうな るかと言うと、新年号の元年が2019年と、これまたちょいと区切りの悪いことになりそうではあります。それにしても、なぜ新元 号がぎりぎりまで公表されないのでしょうか?昭和からの元号入れ替わりの折は昭和天皇の崩御という節目で(これが普通 の節目なのですが)、崩御を見越して新元号を発表するなど、あってはならないことでした。しかし今度は、事態は全く違って いて、誰もが承知した上で年号の切り替わる日がやってくるわけです。ですから、そうそう伏せておく理由があるのか、そこの ところがよく分かりません。私は天皇制とか元号の問題にはごくごく無頓着な口なので、実はこの種のことを書くのは珍しいケ ースと言えます。しかし、無意識のうちにも平成といういわば万人が共有してきた括りの中で過ごしてきた年月とは、それなり の個人の記憶として括られるようなところもあり、私は何の総括もしてはいませんが、筆のおもむくままに書き出してしまいま した。

・旗日
 お正月に関連して思ったことの一つに、旗日ということがありました。それは、お正月の市内を走っていて、ついぞ旗を掲げ ている家を見かけないことから、ふと思い及んだことです。旗日・・・こういう単語を今の人たちは知っているのだろうか? そ れ以前に、かつては各所帯にあった日の丸を、今はどれほどの所帯が保有しているのだろうか。そう言えば当家にも日の丸 はないし、旗日と言っても国旗を掲揚することなど、かつて親元を離れて結婚して以降は一度もありませんでした。結婚したの が50年前のことなので、この間実家に帰る時を除いて日の丸の掲揚は身近にしていないことになるのです。私のごとき後期 高齢者にしてそうなのですから、今の若い者は・・・となると、言うまでもない問題でしょう。国旗に対する尊厳とか誇りといった 感情となると、日本のそれはおそらく世界でもかなり低いレベルであるのが現状でしょう。アメリカでは何かというと星条旗が 誇らしげに掲揚されるのが常です。合衆国法で星条旗の取り扱いについて決められているといいますし、現実にこれを見か ける機会は日本とは比べものにならないほど多いし、別に特定の日ではなくてもその光景はよく見かけるものです。日本では ‥となると、来年はオリンピックの年なので通常よりは日の丸の露出が多くなるのでしょうが、そういう折に日の丸=愛国心= 戦争の記憶連鎖は、どのようにして健全なものに改められるものか、こういう機会に一度考えてみてもいい問題かもしれませ ん。これまた、普段私の頭の中にあるテーマとはいえない一件でありました。

・50年
さて、ずっと私個人に立ち返っての新年のことであります。いまこれを書いてきて、実は大変なことを再認識することになりまし た。それは先に書いた「結婚したのが50年前のことなので・・・」という下りです。そうなのでした!今年は我々夫婦にとっては 金婚式という節目に当たる歳なのでした。世間的に言えば、還暦とか古希とか、○○式という節目には祝い事が欠かせな い・・・のだと思います。しかしどうも、これまた我が家の習慣としては定着していないので、金婚式と言われてもピンとこない所 はあるのです。ピントは来ないのですが、50年という年月は凄い、放置していてはいけないと、そのように一方では思います。 お互い子の年月を経て今があるわけですし、たまにはこうして永らえて来られた事実に対して、素直に喜び合ってもいいのだ と思います。私は1年前には心臓発作からの再起という道を辿ったわけですし、妻はこれまた1年前に意を決して受けた左膝 の人工関節手術からの復帰という道を辿ってきました。そういう節目が最後にあった訳ですから、50年はめでたい、何かしな くては・・となるのは自然の成り行きと言えるのでしょう。それでは何をしようかとなるのですが、実はその何かをする前に、こ れまたやっておかなくてはならない問題が横たわっているのです。その一つが私の眼の問題で、この2月に白内障の手術を 受けるのを機に、医師の勧めもあって長年治療してきた緑内障の方も手術によってその進行を止めることになり、これは両 眼共ですので、2週間ほどの入院を余儀なくされます。そしてもう一件が妻の方で、手術を受けていなかった右足の方も膝が 限界にきているので、こちらの方もまた人工関節の手術を受けることとなっていて、それが暖かくなるタイミングでのこととなる 予定なのです。つまりは、祝い事の前にやっておかなくてはならない身体の大修理がまだ残っているという次第です。医療技 術の進歩している昨今のこととはいえ、手術を受けるという一事はそれなりに精神的にも一つの関門となるものです。それら が終わって、漸く50年、半世紀か〜と、改めてその年月を振り返ることになるのでしょう。

〇最後に当HPのこと
 急に次元が変わりますが、このHPにつき、これまでのいわば寝倉であったgeosities が急にサービスを廃止するという、当 方にしてみれば理不尽な通告を受けて、3月末までに新たな寝倉と新たな住所を設定しなければなりません。このサーバーと ドメインの変更(こういう表現でいいのだろうか?)という、私には暗闇状態にある手続きをやらねばならず、それに取り掛かっ て直ぐにトラブルに見舞われて、現在とてもナーヴァスになっているところです。しかしそうも言っておられないので、何とか入 院前の近日中に、これだけはしておきたい、とそのように思っています。そんなこんなで、新作の制作は複数手に付けてはい るのですが、これをアップするまでには多少のお時間をいただきたく、これを読まれた皆様にはなにとぞご理解のほど、よろし くお願いします。




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<↑ここから上が2019年の記述です>

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